「エカっぺ」という証《六》
翌日、五月二日。水曜日。
入学からひと月経ち、すでに見飽きつつある富武中学校の校門をくぐり、あたしは教室を目指す。
階段を登って五階までたどり着き、自分の教室へ入る。
途端、歓迎されていない視線をイヤってほど頂戴した。
幼い頃から見飽きた視線。どいつもこいつも同じ顔。
そんな視線の中、唯一自分に懐っこく寄って来る男子が一人。
「おはよう、伊藤さん」
秋津光一郎。
あたしはそいつに一瞥送るだけで、何も言わずに素通りして席に着く。
秋津はあたしに無視されたことに一瞬唖然としながら、負けじと食い下がってくる。
「あ、あのさ……昨日のことなんだけど……」
「なに」
あたしは秋津をちろりと横目で睨み、言葉少なに応じる。
秋津はそんなあたしにたじろぎつつも、なおもおずおずと話しかけてきた。
「えっと、伊藤さん……今日、なんか機嫌悪い?」
「別に」
「いや、でも、明らかに昨日から様子がおかしいというか……」
「生理なのよ」
あたしのおざなりな嘘に、周囲の生徒がざわついた。まるでキワモノを見るような目だ。
秋津はうっすら顔を赤くし、何と言えばいいか分からない様子でもじもじしだす。
「そういうことだから、あたしに構わないでよ」
「いや、でもさ……」
ばんっ! と、あたしは机を叩き、秋津をまっすぐ睨み据えた。
秋津は、怯えた様子だった。
「さっきから何なの? マジで鬱陶しいんだけど。なによ、あたしと仲良くして、あんたに何か得でもあんの? あたしが何者なのか、ツラと名前見て分かんない?」
「得とか、そういうのは別に——」
「それとも、カワイソーな露助のあたしに優しくして、安っぽい自己陶酔に浸りたいわけ? それとも、お礼にいやらしい事でもしてもらおうとか期待しちゃってるわけ?」
あたしは露悪的にそう告げる。
我ながら、言っていて胸糞が悪くなった。
でも、言わないといけない。
秋津を傷つけることになっても。
こうするのが、秋津のためなんだから。
秋津の顔を見ないまま、あたしはさらに毒を吐き続ける。
「悪いんだけどさ、もう金輪際あたしに構うのやめてくれる? 気持ち悪いし迷惑」
「伊藤さ——」
「うるさいっ!」
あたしは勢いよく席を立ち、教室を出て行った。
後ろから、秋津の追いかけてくる足音はしなかった。
——昼休みになる。
いつもならあたしと秋津は一緒に飯を食ってるところだが、今日は一人で食べた。
秋津がなおもあたしに声をかけて来ようものなら女子トイレで弁当を食うのも覚悟の上だったが、そうはならなかった。
あたしは秋津と目が合った。だが秋津はあたしからフイッと視線を逸らし、そのままどこかへ行ってしまった。
その反応に、あたしは安堵を覚えると同時に、胸がかすかにざわつくのを感じた。
——午後となり、体育の授業が始まる。
天気予報が見事に外れて雨が降り出した影響で、屋外で行われるはずだった授業が中止となり、体育館内にて自習となった。
好きな相手と組み、好きな競技に取り組む他の生徒達を、あたしはぼんやりと眺めていた。
秋津の姿は、体育館のどこを探してもいなかった。……無意識にあいつを探している自分に気づき、腹が立った。
なのであたしは外の雨音を聴きながら、他の生徒を見るともなく見ていた。
——放課後となった。
雨はなおも降り続く。
帰りのホームルームが終わり、わらわらと教室から流出していく同級生の群れ。
あたしだけが残される。
秋津の姿はすでに無い。先に帰ったのだろう。
あたしもまた教室を出た。
外はなおも雨が降っていた。傘は持っていない。だけどあたしはそのまま外へ出た。
あたしの体が、セーラー服が、シャワーのような雨水に晒される。
冷たいが、心地良い。
あたしの雑念や無念が、水とともに足元から、指先から、顎や髪の先端から、地面に流れ出ていくような感じがする。
頭が冷え、思考が明瞭になる。
——愛着が湧く前に縁を切れて、本当に良かった。
ティーンエイジャーの人間関係なんて、砂の城みたいなものだ。
ふとしたきっかけで簡単に形が歪み、崩れる。
そうなってしまうだけの最低なことを、あたしは秋津に言ったのだ。
秋津はきっと、あたしを見限ったに違いない。
「……これで、良かったのよ」
あたしと一緒にいたって、あいつは碌な目に遭わない。
昨日はスケッチブック一冊で済んでいるが、次は鞄か。あるいは秋津自身か。
そうなる前に、あたしからあいつと絶交した。
あいつに対して愛着が湧いていたら、これを実行するのにかなり苦しい思いをしたことだろう。……もう少し付き合いが延びていたら、絶対にそうなっていたに違いない。
だけど、あたしは秋津に愛着なんか抱いていない。
だから容易に切り捨てられた。
そうして、秋津を救うことができた。
——本当に?
心の奥底から、そんな声が聞こえた気がした。
……本当よ。
だって、あいつは良い奴だから。
あいつがいじめられる理由なんて、あたしと一緒にいることしか考えられないじゃない。
だからあたしが離れてあいつを助けたのよ。
あたしはそんな心の奥からの声に、言い訳がましくそう念じる。
その言い訳の下にある本音に、必死で蓋をするように。
あたしは自分の心中から逃げるように、現実へと意識を移した。
今なお雨が降りしきる、曇天で薄暗い神田の街中。
「……気持ち悪い」
体が重い。セーラー服が雨水を吸って重くなっている。最初は心地良かった雨水も、今は下着の中までぐしゃぐしゃに濡れて気持ちが悪い。
通りがかる人がみんな、あたしを訝しげに見る。雨の日に傘も差さずに歩いているのが異様なのか、あるいはこの生まれ持った金髪碧眼に対する物珍しさか。
その視線に居心地が悪くなったあたしは、ビルの間の路地裏へ入る。薄暗い表よりもさらに濃い薄闇。
あたし同様ずぶ濡れな鞄を置き、一目が無いのを確認してから、セーラー服やスカートの裾を絞って水を出した。
地面が乾いている。ビルの上部の庇のせいか、この場所に落ちてくる雨粒は少ないようだ。雨宿りにはもってこいだ。
だが目の前の壁を見て、あたしの気分はさらに落ち込んだ。
……そこには、ソ連のプロパガンダポスターの白黒コピーが貼られていた。
共産圏のプロパガンダにありがちな濃い画風で描かれているのは、ソ連最後の指導者ヴィークトル・エフレモヴィチ・ヴォロトニコフと、その下に集うソ連兵達。背後にはロケット兵器や戦車の数々。
指導者も兵も、同じ小銃と軍服を身につけて同一性を表現しており、ポスターの下部にはキリル文字でこう書かれている。——平和の準備をせよ。
ぎりっ、と、強く噛み合わされたあたしの歯が軋みをあげる。
衝動の赴くまま、ポスターのヴォロトニコフに拳を叩き込んだ。……よく見るとヴォロトニコフの絵だけが擦れが酷い。おおかた、木刀で打ちまくられた痕だろう。日本の少年少女の間で流行っている「ヴォロト討ち」という遊びだ。「露寇討滅」とか言いながら、示現流の立木打ちみたいに打ちまくるのだ。
「……くそったれ」
何が平和の準備だ、クソが。
お前はスターリンにも劣る最悪の害虫野郎だ。
お前がクソみたいな軍事侵攻をしなければ、こんな事にはならなかったんだ。
日本どころか、守るべきロシア人民までも苦境に放り込んだんだ。
戦後になっても、日露双方に消えない爪痕を残し続けている。
これのどこが平和だ。
お前さえ、お前さえいなければ、あたしはもっと秋津と——
「……っ」
さらにあたしは息を呑む。
ポスターの周囲に日本語で書き殴られた、おびただしい呪詛の数々。
「露寇討滅」「露助は人に非ず」「ソ連崩壊万歳」「禽獣露寇」「帝国に仇なす北狄どもに死の神罰を」「ロシア人は全員豊島拘置所へ放り込め」……とかく表現に富んだ日本語という言語を最大限に活かして、ロシア人を呪っていた。
その呪力を、いっせいにぶつけられた気分になり、あたしは思わず退く。
壁に背中が当たる感触を得た瞬間、立つ気すら失せ、背中を壁に引きずりながら座り込んだ。
「……はは、はははは」
乾いた笑声が、あたしの口から溢れる。
「あっははははははは……!」
大嫌い。
クソみたいな侵略で、この国に消えない憎しみを植えつけたロシアも。
ロシア人というだけで、あたしだけじゃなく、あたしと一緒にいる奴までも攻撃してくる日本も。
——そのどちらにもなりきれていない、あたし自身も。
「大っ嫌い」
とぼとぼと家に帰るや、ママに小言を言われた。制服をずぶ濡れにしてしまったからだ。
もう一着予備の制服があるからいいでしょとあたしが言うと、とりあえずまずはお風呂に入りなさいと半ば強引に脱衣所へ押し込まれた。なのであたしは水浸しな服と下着を全部脱いでお風呂場へ入った。
熱いシャワーを念入りに浴びて体を温めた後、パジャマに着替えたあたしは自室のベッドへうつぶせに身を投げた。体重を預けた途端、全身が一気に重みを増した気がした。ママにご飯で呼ばれるまでこうしていよう。
「最悪……」
今の自分の気分をそのまま言葉として吐露する。気が乗らなかったため、いつもみたいに髪を手入れする気にもならず、乱暴に髪を拭いた。そのためパパ譲りの金髪はバサバサに荒れていた。
「なんで最悪な気分になってんのよ……ばかじゃないの……」
そして、そんな気分になっている自分そのものにも嫌気が差す。
今までと同じに戻っただけではないか。
また、独りに戻っただけではないか。
むしろ、秋津と過ごしたここ一ヶ月が、あたしにとっては奇跡みたいなものだったのだ。
奇跡はずっとは起きない。だからこそ奇跡なのだ。
おもむろに体を起こし、ベッドから降り、机に向かう。
引き出しを開け、中から一枚の紙——オニヤンマのリアルな鉛筆画を取り出す。
秋津に貰ったものだ。
あたしはその紙の上端を両手で摘み、それを上下に裂こうとした。
「……なんでよ」
しかし、出来なかった。
両手が動いてくれない。
震えてすらいる。
あたしの心の奥底から「嫌だ」という声が聞こえる。
うるさい。黙れ。もうあいつとは縁が切れたんだ。こんなモノもう必要無い。ただの紙屑だ。
「——カチューシャ、ご飯出来たわよー!」
そこで、ママの声が聞こえた。
もうご飯? そう思って時計を見てみると、すでに六時半になっていた。そんなに長くベッドに突っ伏してたのか、あたしは。
「……ご飯、食べなきゃ」
あたしは言い訳のように独りごちると、その絵を引き出しに戻し、部屋を出たのだった。




