「エカっぺ」という証《三》
さて、撃剣が終わったら、昼休みだ。
剣術授業は好きだが、競技撃剣に関しては後始末が面倒で仕方がない。
対人戦だから活発に動き回るし、おまけに防具という名の重りを身につけるもんだから、型稽古に比べるとすごい汗をかく。おまけに面のせいで髪が崩れる。
まず防具一式を外した後、シャワー室で汗をよ————く流してから、体を拭いて髪も丁寧に拭いて整え、その他の処理をしてから新しい下着を着用して制服に着替えてようやく昼休みに入れる。
そのため、撃剣後の女子の昼休みは男子より少し短い。
身綺麗にしたってあたしへの世間の評価は一ミクロンも良化したりはしないが、それとこれとは話が別だ。
学校には購買があるが、あたしはママからもらった弁当を持参している。さらにそれを盗まれないように、ロッカーに鍵付きでしまってある。
あたしはそのお弁当を取りに、教室へ戻ってきた。……ここでは食べない。別の人気のない場所へ移動して食べるつもりだ。異物を見るような周囲の目を頂戴しながら食ったら、ママの料理が不味くなる。
「あ、伊藤さん!」
ただ一人、秋津だけはあたしを見るなり、懐っこい黒犬みたいに寄ってきた。……その手元には、購買で買ったパン二つ。コッペパンと甘食だ。よく売れ残るらしいそれらの品揃えを見るに、どうやら遅れて購買の列に並んだみたいだ。ようやく手に入ったその昼食を食べようとした瞬間にあたしが入ってきた、といったところか。
「伊藤さん、お昼ご飯食べた?」
「いや、まだだけど」
「僕もまだなんだ。よかったら一緒に食べない?」
自分のパン二個を強調して、秋津はそう誘ってくる。
……その瞳からは、邪念の類がいっさい感じられない。
「……まぁ、いいけど」
断る理由も無かったので、とりあえず頷いた。
あたしら二人は教室を出て、一階の非常口の短い階段に隣り合わせで座って食べ始めた。
秋津があまりにコッペパンをわびしそうにもふもふ頬張るので、あたしは同情してだし巻き玉子とアスパラの肉巻きを一つずつ恵んでやった。秋津はそれをコッペパンに挟んで食べて「おいしい!」って目を輝かせた。そんな秋津にピコピコ左右に振られる尻尾を幻視したあたしは可笑しくなって一笑した。思わず唐揚げも一個餌付けした。
あっという間にご飯を食べ終えたあたしらは、揃って「ごちそうさま」した。
一息ついて、快晴の空を眺める。その空はいつもより晴れやかに見えた。
しばらく二人して無言で座っていると、不意に秋津がしみじみ口にした。
「それにしても……さっきの伊藤さん、凄かったねぇ」
さっきの、というのは、撃剣の授業の時のことだろう。
——あの試合モドキは、これから先、あたしの身を守るための示威行動だ。
人間の行動を制限するのに最も役に立つモノは何か?
個人によって異なるだろうが、あたしは「恐怖」だと思っている。
ナニカが原因で酷い目に遭えば、その二度とそんな目に遭うまいとナニカを遠ざけようとするのが人の性だ。
だからあたしは、小島とかいう奴を無抵抗な状態で打ちまくった。側から見て異常に思える勢いで。
そうやって狂犬ぶりを見せつけてやることで、「あのロシア人に手を出すのはマズイ」と周囲に印象付ける。
あたしの悪印象はさらに強まるだろうが、安全は以前より保証される。そもそもこれ以上あたしの評判など下がりようがないし、下がったところで興味は無い。
「Собака лает, ветер носит, а караван идет」というやつだ。
女にしては大きな体を与えてくれたママとパパには感謝である。
「引いた?」
あたしが試すような笑みを浮かべて問うと、秋津は慌てた様子でかぶりを振って、
「う、ううん。そんなことないよ。そりゃ、公正に審判してくれなかったら、腹も立つよね。伊藤さんの気持ちは分かるよ」
「本当に?」
あたしのその問いかけに、秋津は面食らったように目をしばたたかせた。……今の言葉の意味がよく分からないのか、あるいは分かるけどそこから意図的に目を逸らしているのか。
あたしはさらに追求するように言った。
「あたしがどうして、あんな事されるのか、分かる? 明らかなルール違反なのに、それをみんなが黙認してたのは、どうしてかあんたには分かる?」
「え、えっと……」
「言っていいよ。秋津。何言われても、あたしはあんたを軽蔑しない。……愚問だってことは、あたしが一番よく知ってるから」
そう。あたしが問うているのは愚問だ。
あたしが、みんなから嫌われ、忌まれている理由。
幼少期から今に至るまで、あたしがずっと向き合い続けることを余儀なくされている問題。
まさしく愚問だ。
だけど、その愚問の答えを、こいつの口から聞きたくなった。……あたしに積極的に接してくる、こいつの口から。
そうすることで、あたしは初めてこいつを、現実の世界の住人として見れるような気がするのだ。
あたしに優しくしてくれる日本人の子供なんて、それくらい現実味がないから。
「…………ロシア人、だから」
「うん。そうね。その通りよ」
共通認識を確認した上で、あたしはさらに問うた。
「そこまで分かってて——あたしがロシア人だって分かってて、どうしてそこまで構うの? どうしてそこまで、あんたは優しくしてくれるの?」
……正直、ほんの少し、疑っていた。
こいつが、あたしをロシア人だと知った上で、構ってくる理由。
周りから嫌われているあたしに優しくするのは、裏があるからではないのか。
そういう裏がなければ、日本人の子供があたしに優しくしてくるなんてあり得ないと思っているからだ。……差別しない自分のご立派ぶりに自己陶酔したいがための偽善か、あるいはあたしにいやらしい事でも期待しているのか。
こんな面白い奴が腹に一物抱えているなんて思いたくないが、疑いたくなる気持ちも少しばかりあった。
ソレに対し、秋津は少し考える仕草を見せてから、
「そうだねぇ……確かに日本とソ連は戦争したけど、その時、僕はまだ三歳だったから。あんまり実感が湧かないっていうか」
「でも、あんたくらいの子だって、戦争したからって理由であたしを嫌ってくる。理由になんない」
あたしの口調が、意思に反して責めるように強くなる。責めたいわけじゃないのに。
秋津はため息をつくように言う。
「そっか……でも、現実問題、僕は伊藤さんのこと、別に嫌いじゃないしなぁ」
それから秋津はまた少し考える仕草を見せてから、何か思いついたようにハッと表情を明るくし、得意げにうそぶいた。……あたしと初めて会った時みたいに。
「そうっ、僕は侍だから。侍の子孫だからさ! だからきっと、懐が広いんだと思う」
それを聞いて、あたしは毒気を抜かれ、言葉を失った。
それから、フフッと吹き出した。
「なにそれ、意味分かんない」
思わず笑いが込み上げてくる。
だけど悪い気はしなかった。
むしろ、不自然に良い人ぶられるよりも、ずっと受け入れやすいものだった。
だって、生まれが理由で蔑まれているあたしに、生まれを理由にして接してくれているのだから。
「疑ってない? 本当だよ? 僕んち、もともとは武士だったの。家系図だってあるんだからね?」
「はいはい、信じてるから」
そう言って、あたしは右肩で秋津にぶつかる。男の子とは思えない、密度の薄いぶつかり心地。
……どうしてだろう。
なんか、楽しい。
なんか、嬉しい。
なんか、暖かい。
こんな気分の高まり方は、初めてだ。
「じゃあ、あたしに何かあったら、お侍サマらしく、剣を取って助けてくれる?」
あたしは思わず高揚に任せ、そんなことを秋津に問うていた。含みのある微笑とともに。
秋津はちょっぴり情けない感じに目を逸らしながら、
「え、えっと……頑張る。けど、あんまり期待しないで。僕、めっちゃ弱いし」
「男だろー。もうちょい鍛えろよー」
あたしは再び右肩で寄りかかるようにぶつかった。
——そんなあたしは、やはり笑っていた。
生まれて初めて、学校がすごく楽しい場所に思えた。




