「エカっぺ」という証《二》
明治時代になってから、この国から武士という階級は姿を消した。
しかし、サムライ的な立場の人間が不要になったわけではない。
むしろ近代化以降は徴兵制が生まれ、有事の際に国民が戦に赴くような社会が形成された。民主主義という体で政治的な方向性の選択が国民に委ねられたことも相まって、国民がサムライに取って代わったと言っていいかもしれない。……まあ、徴兵検査の合格率は十パーに満たないみたいだけど。
とにかく、兵員として投入される可能性があるのだとすれば、平和漬けにしておくわけにはいかないわけだ。それはヤンバルクイナをアフリカの平原に蹴り出す行為に等しい。つまりサムライらしく、最低限敵と戦う手段……より酷い言い方をすれば、どこを狙えば人が死ぬのかも、子供の段階から教育しておく必要があった。
同時に、自国にもともとあった文化に対する帰属意識も養う。
——義務教育の必修科目の一つである剣術授業は、それらの意味を内包しているものだと聞いたことがある。
「エエエイ!」
竹刀の音と、掛け声と、足踏みの音が、絶えず体育館の稽古場に響く。そこにいるのは、面・小手・胴・垂の防具一式に身を包む生徒達。
あたしと、そして隣にいる秋津もまた、その中の一人だった。
今日は四月十二日、木曜日。中学校に入って二度目の剣術授業の日であり、中学初の競技撃剣の日である。
稽古着は持参。学校の備品である竹刀と防具を装備し、クラス各自三人一組になり、その一組同士で練習試合をしている。
……日本文化贔屓なパパ曰く、剣は日本という文明の核心であるという。
武器としても、神話上でも、精神的にも、剣はこの国において中核に存在する。
でもだからといって、日本人全員が剣術に前向きというわけではない。誰にだって向き不向きや好みがある。今この稽古場にいる面子を見渡してみれば、やる気のある奴と渋々やっている奴がすぐに見分けられる。
「うへぇー……」
あたしの隣で情けない声を漏らす秋津は、後者だったようだ。
「あんた、撃剣ダメなの?」
「うん……防具重たいし……顔面掻けないし……汗が目に入って痛いし……」
その頼りない様子に、あたしは思わずクスリと笑う。なんか弟が出来た気分になった。
「伊藤さんは、好きなの? 撃剣」
「まぁね。割と好きよ」
「伊藤さん、ガタイ良いから強いだろうしね——いてっ」
「女に「ガタイ良い」って表現はどうなのよ。меньше」
秋津の面を小突いてそう言うあたし。最後のロシア語を、強めに口にして。
……そう。あたしは剣術授業、特に撃剣が好きだった。
剣という日本文化について学べるから? 違う。
もっと単純な……ある意味、この剣術授業の目論みに沿った理由だ。
「——おい、ロシア人」
突然、不遜な声がかかる。「少年」を抜け出しかけている声。幼さが中途半端に残っている分、余計にえぐみがあった。
あたしはその声の主である男子生徒へ目だけをちろりと向けた。
面金の奥にある顔を見る。なんて名前だっけ、こいつ。
「……ロシア人って、あたしのこと?」
「他に誰がいるんだよ。ボケ」
その男子はずんずんと歩み寄ってくる。なるほど、中一にしてはやや大柄だ。背丈があたしと同じくらいある。それを遺憾無く見せつけて挑発するように近づく。
「あたしにはエカテリーナ・ルドルフォヴナ・伊藤って名前があんのよ。知らなかった?」
「知ったことか。お前は野生動物をいちいち名前付けて呼ぶのかよ?」
……うわ。いきなり差別かよ。
「あたしを非人間扱いですか。どっかの美大落ちみたいな考え方ね」
「はぁ? 意味分からねぇよ」
「それはあんたが歴史の授業を真面目に聞いてないからよ。赤点取っても知らないから」
「なんだと……」
男子は雰囲気にわずかに怒気をにじませ、しかしすぐに侮蔑の様子を見せた。
「お前らに、差別がどうとか口にする資格なんかねぇんだよ。それだけの事を、お前らは十年前にやったんだからな」
「それやったの、少なくともあたしじゃないんだよね。あたしその頃帝都にいたし。三歳児が小銃持って人殺せるって?」
「減らず口を……!」
「因縁付けてきたのはそっちだろーが」
互いに睨み合う。
一触即発の雰囲気。ちょっとしたキッカケで、すぐにでも手元の竹刀を振り放ちかねない。
秋津の奴はというと、どうしていいか分からず固まっている。……こういう出来事に弱い類なのね。
しばらく押し黙って睥睨をぶつけ合う。竹刀で打ち合う周囲の音が、体の中を透き通っていくような感じがする。
それから最初に切り出したのは、相手の男子だった。
「——おい、ロシア人。俺達と勝負しろ」
「勝負? それって撃剣で、ってこと?」
「そうだ。これからお前の組と俺達で、練習試合だ。ロシア人の分際で、生意気に剣なんかやりやがって。お前なんかに剣術が相応しいもんかよ。俺らが帝国剣士の何たるかを教えてやる」
「へぇ、男らしいじゃない。初めてあんたに好感を持ったわよ。わずかにだけど」
「抜かせ。さっさと始めるぞ」
その男子は、同じ組の二人を呼び寄せる。……二人はその男子を「小島」と呼んでいた。
——この展開に、あたしは思わず口角を吊り上げていた。
先ほど秋津と話してた時、ロシア語を強めに言ったのは、周囲に聞こえるようにするためだ。
そうすることで、さっきみたいな馬鹿をおびき寄せた。
そうして、剣の勝負に引きずり込んだ。
——もう一度言うが、あたしは剣術授業が好きだ。
だって、こういう連中を、「授業」の名のもとにぶちのめせるのだから。
もう一度繰り返すけど、この練習試合では、三人一組にそれぞれ分かれて行う。
しかし、あたしと組みたがる奴は、このクラスにはいない。……そんな物好きは、秋津くらいだった。
おまけに、クラスの総数は二十九人。どうしたって二人は余る。
だからあたしが二回戦い、秋津が一回戦うという形で、不足分を補う。
なんであたしが二回もやるのかって?
……秋津が弱いからだ。
「ごめーん、伊藤さん……ざんぱーい……」
ずぶ濡れになった犬みたいに、秋津がよれよれと負け帰ってきた。
先鋒戦は、まさしく惨敗だった。あっという間に二本を取られて負けた。開始から終わりまで一分経ったのかも怪しい。
やっぱり秋津は、剣が苦手だったみたいだ。
「まぁ……誰にでも向き不向きがあるからさ。気にしなさんな秋津くん」
あたしは秋津の背中を叩いて労った。
「伊藤さんごめん……二回も戦わせることになっちゃって」
「いいのよ。二人だけから仕方ねーって。それに……」
これから戦う相手を細まった目で見据え、口端を吊り上げた。
「あたし、強いから」
言って、秋津を残して前へ出た。
あたしは「お願いします」、そう言ってから剣を中段に構える。
しかし相手は無言のまま、同じ構えを取る。それに対して、審判役の生徒は何も注意しない。
相手の剣尖の向こう側にあるのは、侮蔑と嫌悪の眼差し。さっきあたしにアヤつけてきた小島とかいう男子とは別の奴だが、眼差しは判を捺したように同じだった。
礼を軽んじる奴に、礼を尽くす必要は無いでしょ——そう思ったあたしは、剣尖越しに、鼻を鳴らして冷笑を浮かべてやった。
すると、相手の目元に侮蔑と嫌悪の他に、憤怒が混じる。
何が帝国剣士か。感情の抑制もできないくせに。あたしはツンドラと同じくらい冷ややかな気分になった。しかしその分思考が円滑に回る。
「——始めっ!!」
審判役の生徒の声とともに、相手の男子が勢いよく前へ出た。
竹刀を真後ろに置いた「裏剣の構え」から、右から左へ振り抜いてそのまま頭上へ持ってきて、そこからまた右袈裟に斬り下げる。全身に反時計回りで太刀を纏うように振るその太刀筋は、至剣流の『旋風』である。攻撃だけでなく、相手の剣を弾いたり、威嚇して遠ざけたりすることの出来る攻防一体の剣。
だが、怒りで力が入っているせいか、その動きはひどく鈍い。相手が右袈裟を発したのと同時に、あたしは左手を竹刀の切っ尖裏に添えた中取りの持ち方のまま突っ込んだ。
相手の右袈裟を受ける。しかしあたしの身に宿った勢いはなおも相手の竹刀を強引に押し込み、やがて十字状に受け合った両の竹刀越しに突進の勢いがぶつかった。
「おぁっ……!?」
背筋をしっかり伸ばし、壁のようにぶつかってきたあたしに、相手は声を上げて重心を崩した。あたしはこの男子より少し背が高いようだ。それを利用した強引な一手。
そいつが尻餅をついたのと同時に、その顔面に竹刀の剣尖で軽く突いた。
「……一本」
審判役が、そう告げる。気に入らないが公正さを重んじて、といった渋々っぽい口調で。
あたしは無言で開始位置へ戻り、竹刀をまた中段で構える。
相手も同じように構える。
「二本目、始めっ!」
号令とともに、再び相手から素早く寄ってきた。
右から素早く竹刀を発してあたしの竹刀を弾き、そこからすぐにあたしの面を横一文字に打とう狙う。至剣流『浦波』だ。すぐに使いやすく、それでいて実用的であるため、競技撃剣では『旋風』と並んで人気の高い型だ。
だが、悲しいかな。焦りで動きが強張っていて、遅い。
あたしはバランスを崩して倒れるギリギリまで体を沈めながら、竹刀を右へ振った。相手の竹刀があたしの頭上スレスレを通過し、あたしの竹刀が相手の胴を打つ。すぱんっ、と良い音が鳴った。
「……一本。勝負あり」
あっさりと勝敗が決した。
開始位置で竹刀を帯刀にして後退し「ありがとうございました」と一礼するあたし。しかし相手はやはり何も言わず、悔しそうに次の相手と入れ替わる。とことん礼法を知らない奴だ。
次の相手は、さっきあたしに因縁つけてきた小島だった。
一人二役なため、あたしは大将戦も出る。なのでもう一度「お願いします」と一礼。
例によって例の如く、相手は挨拶も一礼もしないで竹刀を構えた。……まぁやるとは思ってなかったわよ。
互いに開始位置で構えを取り、一瞬の静寂。
「——始め!」
開始合図とともに、あたしは素早く二歩進んだ。
一歩目で竹刀を右下段後方に置いて「裏剣の構え」となり、二歩目でそれを大きくアーチ状に前へ振り放つ。至剣流『波濤』。
小島はそれを左へ移動して躱しながら、右上段から袈裟懸けに竹刀を発する。
上から迫る剣に、あたしもまた剣を振り上げた。……防御のためではなく、小手を狙って。
だが、あたしの剣が小手に接する直前、小島は後方へ立ち位置をわずかに滑らせた。それによって剣と小手の位置も必然的に少し引っ込む。結果、あたしの剣は、相手の竹刀の柄付近に当たるのみで終わった。
(へぇ。ちょっとは良い動きするじゃない)
かすかな賞賛を抱きつつも、あたしは斜め前へ跳んだ。同時にあたしの切っ尖も兎のように跳ね、相手の面を打ちにかかる。
小島は後ろへ大きく退いてあたしの切っ尖から逃れながら、体の中心に竹刀を構えていく。目標を失って、虚空に円弧を描くあたしの切っ尖。
そこで、あたしは思いっきり身を捻った。
離れながら、全身に働く遠心力で竹刀を振り動かし、一周して戻ってくる形で相手の小手を叩いた。……まごうことなき一本。
だが、あたしの一本は宣言されない。
小島も当然のごとく攻撃を続けてきた。
その剣を竹刀と体捌きでいなしながら、隙を見つけるや今度は面を突く。小手と違って目立つ部位だ。見て分からないとは言わせない。
しかし、やはりあたしの勝ちにはならない。審判役は無言のままだ。
「あ、あの、ちょっと……伊藤さんのあれ、一本じゃないの……?」
秋津だけが、この状況の異常さをおずおず訴えた。……あたしと同じ組だからだろう。
だが誰も聞き入れない。
そういうことだ。
(見て見ぬフリしようってことね……上等じゃない)
あたしをこの一試合に勝たせないようにしている。
嫌いなロシア人であるあたしを勝たせないために、審判役がチンケな仲間意識から審判役であることを放棄している。
周囲もあたしが気に入らないから、それを黙認している。
帝国剣士どころか、人としても終わってる有様。
だが……あたしの口元は、笑っていた。それも嬉しそうに。
勝負になっていない。
それはつまり、勝負を捨てたってことだ。
それはつまり、ただの喧嘩ってことだ。
それはつまり、何をされても文句は言えないってことだ。
——最高の展開ではないか。喜ばしい。
あたしは小島の放った一太刀を竹刀で受け止めると、背後へ素早く回り込み、胴体を抱きしめるように掴む。
そのまま、足腰の力に物を言わせて、ぐるぐると振り回す。
「うわっ……!」
あたしは女だが、背丈は男子並みに大きく、力も女子の中じゃ上だ。小島は足をもたつかせながら、あたしの遠心力に付き合わされていた。
「や、やめろ! 離——せぁぁ!?」
あたしは小島を放り投げた。
床を転がり、両腕を開いて仰向けになった瞬間を狙う。両手首を両足で踏んで床に固定。剣どころか腕も振り回せなくする。
その状態のまま——あたしは真下にある小島の面を、ひたすらに竹刀で殴りまくった。
「ぎゃっ! ぐぁ! いてっ! こっ! このっ……露助がぁっ!!」
何も言わない。
あたしは打ちまくる。
乱暴に。体力が続く限り。
こいつが「降参」を口にするまで。
「わ、わかっ、わかった! こうさ、こうさん、降参するっ! だから、やめ」
あたしは思いっきり竹刀を振り上げ、全力で床を打ち据えた。
ばぁんっ!!
落雷じみた竹刀の撃音が、稽古場へ響き渡った。
それによって、有象無象の声や足踏みが、水を打ったように静まり返った。
有象無象があたしを見つめている。しかしその目はさっきと違って侮蔑ではなく、恐怖のソレだった。
あたしは、冷え切った声で告げた。
「——こういう目に遭いたくなかったら、真面目にあたしと撃剣することね」
誰も、何も言わなかった。
言う勇気も無かった。
あたしは秋津に振り向くと、目一杯の笑みを見せて、ガッツポーズした。
「これ、あたしらの勝ちでいいわよね」
秋津は「え、あ、うん……」とあいまいな返事をしたのだった。
剣道あるある
面のせいで顔掻けない
この頃のコウ君はまだ螢さんに出会っていないため、剣は弱いです。




