雑草のケジメ《五》
——十二月八日の午後、韮山喜恵は秋葉原の街中を歩いていた。
東京都千代田区外神田にある秋葉原は、この帝都でも有数の電気街だ。
大正末期まで神田淡路町にあった電機部品卸商が移転してきたことがきっかけで、歴史を歩むごとにこの街は電化製品や電子機器部品の一大マーケットとして進化を遂げた。
家の電球の一つが切れたので、喜恵は今日ここへ買いに来たのだ。
家から歩いて行けるほど近い場所であり、なおかつ電球以外の用事も無い。なので、髪こそいつも通り整えているが、服装はフライトジャケットにジャージズボンという飾り気に欠けたものだった。……母からは「もうちょっと可愛い格好にしたら」と言われたが、別にデートに行くわけではない。そんな相手も、今のところ心当たりが無い。
喜恵の住まいは、岩本町にある団地の一室だった。
そこの管理人は、陸軍の退役軍人である。夫が戦死して未亡人となった母親の家族、または傷痍軍人を持つ家族には割安で部屋を貸してくれる。
——喜恵の父は、『北方帰り』の軍人である。
『北方帰り』とは、十年前の日ソ戦にて出征し、そして生還した帝国軍人の俗称だ。北方帰還兵とも。
侵略者からこの国を護るために戦いぬいた彼らは、世間では英雄として讃えられている。
戦争での負傷で不具者となった者も、国による手厚い保護の対象となっている。
喜恵の父は、十年前に北方でソ連軍と戦い、左手を失った。
世間では英雄扱いされる『北方帰り』だが、その一方で、戦場でのトラウマに由来するPTSDによって戦後も苦しめられ、家庭内暴力や薬物乱用に走ってしまう者もそれなりにいる。
しかし父は、そんな素振りはいっさい見せない。戦場に赴く前と同じ、優しい父のままだ。
「俺達を庇って亡くなった卜部大尉らのことを考えると、腐って生きてなどいられない」というのが、父の口癖である。
喜恵はそんな父が、今も昔も大好きだ。
……だからこそ、良い大学に入って勉強して、官庁勤めになろうと思った。
父を楽させたいと思った。
父が片手を失ってまで守ったこの帝国のために働こうと思った。
傷痍軍人には手厚い経済的保護がされているとはいえ、家計は決して楽とはいえない。まして喜恵には年が大きく離れた弟が二人もいる。
だからこそ、学校では良い成績を勝ち取り、奨学金で大学に通う必要があった。
その努力の甲斐あって、喜恵の試験と成績は学年二位を維持している。このままいけば特待生として大学に進学することも十分に可能だ。
……その上の学年一位に、あの男が居座り続けているというのだけが、かなり癪だが。
嫌な事を思い出したので、喜恵はさっさとお目当ての電球を探し、それを購入した。
品物の入った紙袋を抱えて、秋葉原の細い路地を歩いていると、
「……あの、なんですか?」
見知らぬ男六人に、行く手を塞がれた。
柄の悪そうな外見、こちらを値踏みするような嫌な眼差し、片手に持った木刀……明らかに碌な用件があるようには見えないその連中に、喜恵は声を尖らせて問う。
「——ココ通りたいんだったら、通行税よこしなよ」
ニヤニヤした表情で、男の一人が告げる。
付き合ってられない。喜恵は無言できびすを返して引き返そうとしたら、今度はそこへもう二人が回り込んだ。
「おっと、こっちにも通行税が必要なんだわ。つーわけで、ほら、とっとと寄越せよ」
「金無いんだったら、別のモンで払ってもいいぜ? 体でとか」
ゲラゲラと品無く笑い出す六人を見て、喜恵は明確に「敵」と認定。
近くもなければ遠くもない、そんな距離感にいる一人の男に狙いをつけるや、瞬時に身を詰めて体でぶつかった。
「ぐぁ!?」
男女問わず、人間は重い物体だ。非力な女とて全体重で勢いよくぶつかれば、大の男を転がすくらいは可能である。ぶっ倒れた男にさらに近づき、流れるような手つきで木刀を奪い去る。
木刀はあくまで牽制と防御のために奪ったものだ。そのまま走り去ろうと思っていた喜恵だが、舐めた真似をした女を逃すまいとばかりに、五人はすでにこちらを囲んでいた。
喜恵は電球の入った紙袋を置き、剣を構える。「正眼の構え」。剣を中段中心に置き、いかなる変化にも対応できるようにする。……初伝目録持ちである父から教わった至剣流剣術。その腕は少し前に切紙を受け取った程度だ。大威張りするほどではないにせよ、腕には覚えがある。
爆発寸前の火山のように静まった五人のうち、いったい誰が先に動き出すのかを、鎮まった心で観察する。
動いた——それを目にした瞬間、喜恵は電撃的に身を切った。剣もまたソレに合わせて電撃的に左へ動き、やってきた木刀の一太刀を横からしたたかに弾いた。さらに弾いた瞬間に喜恵の刃が翻り、男の厚い胸板を打ち据える。至剣流『浦波』。
「ぐぉ……!?」
苦痛のうめき声をあげ、空を仰ぐように傾いた男をダメ押しに蹴ってぶっ倒しつつ、その穴から抜け出ようと走るが、すぐに追いつかれ回り込まれ、また行く手を阻まれる。品が無いと思っていても舌打ちを禁じ得なかった。
「舐めやがって!」
上段から放たれた敵の木刀を、喜恵は両手で両端を持った木刀を頭上で構えて一文字受けする。だが己の剣に降りかかった重み全ては受け切らず、すぐに一文字を左斜めに傾けて下へ滑り落とし、同時に木刀の切っ尖で顔面を打とうとする。至剣流『蔓剣』。
だが、喜恵は反撃を入れず、瞬時に横へ向いて木刀を構えた。間髪入れずにその木刀へ敵の一太刀が打ち込まれ、喜恵は後方へ退がる。そこは建物の外壁。
その壁を伝って移動しながら、喜恵は敵の剣を受け続ける。
(数が多いわね……!)
壁際を走って移動しても、また回り込まれて追撃を喰らう。
かといって立ち止まれば、後方180度以外の全方向から剣がひたすら飛んでくるだろう。
壁から離れるのは論外。全方位から殴られる。
「おい、こっちだ!! 手ぇ貸せ!!」
男の一人が高らかにどこかへ呼びかける。それから足音が近づいてくる。
目の前の相手に応じるのに手一杯で目を向ける余裕が無いが、その音で察する。
(嘘でしょ? 増えるのっ?)
仲間を呼ばれた。
冗談では無い。このままやり合っていたら、多勢に無勢で圧壊されかねない。
喜恵は逃げることに全力を注ぐ。
全速力で駆け、ちょうど回り込んできた敵に勢いよく突っ込む。重心を地べたに這わせるような据わった運足とともに、肩口に添えて構えた木刀を先んじての体当たり。男は強引に弾き倒される。そうして開いた道を駆け抜ける。……あと少しで左の曲がり角だ。
だが、
(ちくしょうっ——!)
もう少しのところで、後から駆けつけたのであろう敵の新手が、三人ほど回り込んできた。
右から飛来してきた木刀を、俊敏に振り向くと同時に弾く。
右斜め前から迫ってきた突きを捌く。
左斜め前からやってきた袈裟斬りを飛び退きながら木刀でいなす。
左からの刺突を避けながら身を寄せて体当たり。だが苦し紛れの体当たりだったので威力が大して乗っておらず、敵はそれに倒れず受け止め——喜恵のジャケットを掴んで力任せに引き倒した。
「っ……!!」
巨大な硬い地面に殴られ、全身に鈍い痛みが染みる。だがそれよりも喜恵の中では危機感が勝った。この状況で地面に転がされるのはかなりマズイ。転がっている間に敵は一気に囲ってくる。
素早く体勢を立て直し、膝をついたまま上を見るが——そこには剣を構えた大の男が何人も自分を囲っている最悪の光景。
すぐそこに迫った危機への恐怖を押し殺し、どうにか足掻こうと前方を睨み据える。この連中に女々しい声も姿も見せたくない。
(こうなったら、多少打たれるのを覚悟で押し通るしか——)
喜恵が覚悟を決めた、その時。
周囲を囲む男達のわずかな隙間を縫って——木刀が飛んできた。
喜恵から見て、前方の右端から入ってきた木刀は、ちょうど喜恵の前の地面にぶつかり、かぁーん、という澄んだ音を立てて弾み、宙を回転し、やがて完全に落ちて沈黙した。
周囲の男も、喜恵も、沈黙した。
沈黙のまま、木刀が飛んできた方向へいっせいに振り向く。
そこには。
「こ……香坂君っ?」
伊織が立っていた。
実は初めて見る伊織の私服は、武道の稽古着姿にコートを羽織ったものだった。右手には手提げ鞄、左手には小太刀の木刀。
伊織も男達の間から喜恵の姿を見て、少し驚いた目をした。
「あれ? あんた、ひょっとして委員長か?」
それから、こちらへ歩み寄ってくる。男達は当惑した様子で、思わず道を開けてしまう。
喜恵の姿を見下ろしてから、少し楽しげに笑声をこぼし、
「ははっ、似合ってるぜ。そのカッコ」
「う、うるさいわよ! 悪い!?」
伊織の称賛が皮肉に聞こえた喜恵は思わず反駁してから、学校の教室で話しているのと同じ気分になっていると自覚した。……こんな危機的状況であるというのに。
当惑していた周囲の男達も、ようやく気を取り直したようだ。
「なんだ、テメェはぁ!?」「木刀投げたんはオメェかぁ!?」「何のつもりだ貴様コラァ!?」
突然割って入ってきた伊織に、男達は怒気と怒号をワッと浴びせかける。
だが伊織は少しも怯むことなく、煽るような笑みと言葉を返す。
「何だテメェは、だぁ? そりゃこっちの台詞だっつぅの。おめぇらこそ何だ? こんな可愛い子を数集めて木刀で打ちまくろうとする、腰抜け共の名前はなんてゆうよ?」
可愛い子。伊織に言われたことが無いことを不意にその口から聞かされ、思わず胸が疼く。そうさせたのは意外性か、あるいは。
男の一人が、抗議に怒号を上げる。
「テメェ! 俺らを誰だと思ってやがる!? 『雑草連合』だぞ、俺らは!」
聞かない名前だ。そもそもその界隈の事には興味が無いから知らない。自分だけじゃなく、功隆学院の他の生徒もそうだ。そんな連中に構うだけ、学業の妨げだと。
「…………んだとぉ?」
だが、伊織はそれを聞いて、目を大きく見開いていた。
かと思えば、すぐに次のように言った。
「ちょうど良かった。おいお前ら、俺をお前らの今の溜まり場に案内しろや」
それを聞いた男達は、一瞬顔を見合わせて静まり、そしてドッと笑った。
「——病院になら、すぐにでも連れてってやるよ?」
男達が、片手持ちの木刀をもう片方の手にポンポン当て、武力を誇示する。
すると、伊織は右手の鞄から手を離し、すぐ近くに落ちていたさっきの木刀の柄頭の角を踏んだ。その梃子の原理で木刀は虚空を回転しながら跳ね、空中でその柄を伊織の右手が掴む。
右手に長木刀。左手に短木刀。
それらを、おもむろに下ろした。
否。あれは構えだ。伊織は今、二刀を下段に置いている。
肩を落とし、ゆったりと二刀を下ろし、気負わず自然に立っている。
自然に立っているがゆえに、鋭い立ち方。大地に乗って生まれた反力が、余計な筋力の横槍を受けることなく、足底から頭頂部までまっすぐ垂直に貫いている。
まるでその場に根付いた樹木のよう。硬い芯の通った体幹と、柔らかく緩んだ二刀の梢。
一身に、剛と柔を高度に備えた構え。
そんなふうに、構えていた。
そんなふうに、構えただけだ。
だというのに——それを見た喜恵の心音が、嫌な鳴り方をした。
血の気が下がるのを実感する。
今すぐそこから逃げろと、本能が警鐘を鳴らしている。
喜恵だけではない。
さっきまで数の優位で得意げだった男達も、みな揃って表情を強張らせていた。
伊織がその構えのまま、一歩進む。
そのたびに、男達が揃って一歩退く。
伊織の進歩と、男達の退歩が、完全に同調している。
まるで見えない球状の壁に押し出されるように。
「…………俺ぁ今、虫の居所がすさまじく悪ぃ。闘るんなら、相応以上の目に遭うと覚悟しとけ」
不機嫌さを押し殺したような、伊織の低い声。
男達の一人が、すっかり震えた声で、
「お、お前、一体ナニモンだ……?」
「この二刀を見ても解せねぇってことは、やっぱお前ら新顔か。——俺ぁ香坂伊織だ」
男達が、揃って息を呑んだ。
「もっぺんだけ言うぞ。——お前らの今の集会所に連れてけ。今の親玉とナシ付けに行く」




