雑草のケジメ《二》
日本の最高学府である帝都大学には、附属高校がいくつか存在する。
その中で代表的なのが、葦野女学院と、功隆学院である。
葦野女学院は、東京都千代田区にある小中高一貫の女子校だ。
名家や富裕層が娘を早い段階から入学させ、手足が伸びきるまで純粋培養的に「令嬢」に仕上げ、やがて最高学府で質の高い男を当てがって結婚させるための、いわば「お嬢様学校」としての性質が強い。中学、高校からの入学者ももちろんいるが、それほど多くはない。
対して、東京都台東区浅草橋にある功隆学院は、男女共学の高校だ。
富裕層の子もいれば、普通の家の子もいる。
偏差値は全国的にも首位。入るのは至難。
だが一度入って、順調に学業を修めていけば、卒業後に帝都大への入学は約束されている。
さらに奨学金制度もあり、成績優秀者は金銭的な援助も受けられる。ここで苦学生から進学し、中央官庁に入庁して活躍している者も少なくない。
万人に門戸が開かれたエリート校。それが世間の認識であった。
十二月三日、月曜日——伊織はそんな功隆学院の校舎四階にある自分の教室で、一人読書をして時間を潰していた。
エリート校とは言っても、奥の大きな黒板から前方に机がズラリと並んでいる光景は、中学校と変わらない。……この朝のホームルーム前の余暇に、三々五々に散って友達とくっついて雑談している光景も。
ちなみに伊織には友達がいない。
伊織が他の生徒に比べて、理解しがたい異質な存在であることは、ここにいる全員が分かっているからだ。
実際、喧嘩に興じていたことも、薄々気づいているだろう。それゆえの孤独。
だが、伊織は少しも苦とは思わなかった。それが普通の反応だと思うからだ。
十年前、この国はソビエト連邦という超大国の軍事侵攻にからくも打ち勝った。「戦争」という強大な暴力の存在を身近に感じていた日本人は、戦前に比べて街角のちっぽけな喧嘩や暴力に対してかなり寛容になっているきらいがある。警官が剣の勝負の立会人を普通に引き受けるような世の中だ。
でもだからといって、こんなエリート校に来てまで喧嘩に夢中になるなど、普通はあり得ない。というかアホ。そんなことをするくらいなら、難しい授業についていけるよう勉強に時間を費やす。
そんなアホである伊織は、まぎれもなくこのクラスの、否、学校そのものにとっての異分子だった。級友どころか、教師さえも煙たがっている節がある。
しかし、誰も文句も咎めも言わない。
学校の中にまで、その暴力沙汰を持ち込んでいるわけではないからだ。
何より、伊織の期末試験の点数も、成績も、ともに入学から現在二年生に至るまで学年首位を維持し続けている。学生として文句のつけようの無い結果を出している。
だからこそ一切構わず、伊織は堂々と独り、自分の席でふんぞり返って読書にふけり続ける。
その文庫本の題名は「老荘」。
つまり老子と荘子の思想……老荘思想について書かれた本だ。
老荘思想は儒教と並び、二千年以上も中国で生き続けてきた思想だ。
秩序や道徳を重んじる儒教とは正反対に、老荘思想はあるがままの自然な人の在り方を重んじる。
儒教思想で社会秩序を保ち、その「秩序」という枠組みの中を老荘思想で自分の思うまま振る舞う——古代から現王朝に至るまで、中国人はこの水と油のような相反する思想を上手に調和させてきた。
老子と荘子は厳密にはところどころ異なる点がある。が、根本的にはほとんど同じだ。
共に、あらゆる物事の「根源」と、それを掴むことを重んじている。
その「根源」を、「道」と呼んでいる。
「道」を掴むことができれば、この世のあらゆる物事と調和し、うまく対応できる。
その「道」の中核にあるものを「道枢」と呼ぶ。
「道枢、ねぇ……」
紙面にあるその単語を見て、伊織は思わずそれをそらんじる。
「——あなたも「道枢」でも掴んで、もうすこしクラスのみんなと上手く馴染んだら?」
伊織の独白に、そんな声が返ってきた。
気の強そうな女の声。しかも良く知っている声。……この学校において陸の孤島状態な伊織に対し、唯一物怖じすることなく突っかかってくる、変わり者の女子の声だ。
伊織は文庫本を机に置くと、歩み寄ってくるその女子の顔へ目を向け、朝の挨拶を軽く投げた。
「よぉ委員長。はよ」
この学校の冬制服は、男女ともにブレザー着用だ。その学校指定の紺のブレザーとスカートに身を包む、平均より高めな背丈を誇る女子である。
まっすぐに伸びた背筋の頂点には、ショートな髪型と清涼感のある顔立ち。美人な方だとは思うが、鋭い目つきを表現するような楕円形の銀縁眼鏡と、前髪をヘアピンで持ち上げて広げられた綺麗なオデコが、堅苦しそうな印象を演出している。
韮山喜恵。このクラスの学級委員長を務める女子である。
「おはよう香坂君。ところで、進路希望調査票の提出、明日までなんだけど。いい加減渡してくれるかしら?」
ややキツめに引き締められた口調で、喜恵は告げる。
伊織は机の中に用意しておいた紙を一枚出し「ん」と差し出した。
「今度からもう少し早く渡してよね」
伊織はボリュームのあるささくれ立った己の髪を撫でながら、
「俺、文学部史学科志望だってセンセに何度も言ってんだけど。わざわざ何度も書かんと駄目なの?」
「当たり前でしょう? それが決まりなの」
「そうかい……まあ、気を付けるよ。今度から」
「そうしてよね」
終始そっけなく応じる喜恵に、伊織は内心で苦笑する。
この女がこんな風に堂々と、しかも人によっては腹を立たせかねない無愛想さで話しかけてくる理由は、ひとえに、学校の成績だろう。
彼女はその堅苦しそうな見た目と、委員長という堅苦しい立場に違わず、非常に勤勉だ。
その成果もしっかり現れていて、試験の点数も成績もともに学年二位だ。この全国屈指のエリート校においてそれは至難である。
だが、上には上がいる。伊織という上が。
しかもそんな伊織は、学校でも不良として有名で、学校生活もきっちりしているとは言いがたい。
そんな伊織への対抗心と反感が、このキツいながらも物怖じしない態度の源になっているのだろう。……伊織はそう推論していた。
その推論が外れていても、彼女には不良な伊織に物申すことのできる「裏付け」がある。
姿勢や何気ない立ち振る舞いなどから分かる。この女は素人ではない。何かしらの武芸の心得がある。おそらくは剣か。
「……何じろじろ見てるのよ?」
喜恵は少し気味悪そうに伊織を見ながら問う。
伊織は気にせず答えた。
「いや、そういや委員長って、なんかやってんのかなって。剣とか」
「え? ……そうね、まぁ、至剣流を少しばかり」
「目録はよ」
「……この間、切紙をもらったばかりだけど」
「ふーん。すげぇじゃん」
言いながら、伊織は思った。……「雑草連合」として暴れてた頃に、この事を聞かないでいて良かったと。
至剣流剣士と偉ぶってる奴を見るや構わず剣で噛み付く狂犬めいた日々を送っていた頃の自分なら、流石に学校で殴りかかりはしないが、大きな舌打ちの一つもしていただろうから。
前よりも、至剣流に対する嫌悪感が薄れているような気がする。
それは——あの神田の古本屋の息子が、今年の十月に見せてくれた「奇跡」ゆえだろうか?
「……香坂君、あなた、少し変わった?」
伊織が考察していると、不意に喜恵がそう訊いてきた。
「変わったって、何がよ?」
「えっと…………そう、前は私が話しかけても「おう」とか「はいはい」とか、そんな風に軽くあしらうだけだったのに」
「そうかね……いや、そうかもな」
そういえば、伊織はこの学校へ入ってから、一度も積極的に誰かと仲良くしようとしたことは無かった。関心すら大して示さなかった。
この高校を、帝都大学文学部史学科という目標の通過点としか思っていなかった。それ以外には背景か何かとしか考えていなかった。
唯一自分に積極的に絡んでくる喜恵に対しても、例外ではなかった。
だが今、彼女のことを深く知ろうと、質問を投げかけたのだ。
それゆえだろう。喜恵のいつもの刺々しい態度が、当惑で和らいでいた。
それでいて、気遣いめいた言葉まで投げかけてきた。
「ところで……もう怪我は大丈夫なの?」
「え? ああ。もう大丈夫だ」
天狗男の正体見たり嘉戸輝秀に、徹底的に叩きのめされた時の怪我のことだろう。伊織は右腕左腕と交互にぐるぐる回して完治をアピールした。
「とりあえず、いい加減荒っぽいことからは卒業しなさいよね。あなた、勉強は出来るんだから」
「あんたよりもな、委員長」
「なんですって!」
案の定、熱くなった喜恵。そんな彼女に伊織はからかうような笑いを浮かべながら、やはり気にしていたかと心中で確信する。
「もう……! 心配してあげて損した! まったく!」
「悪かったって。ちょっとからかっただけだっての」
「ふんっ……!」
喜恵は勢いよくそっぽを向き、怒りが宿った歩容で伊織の席から歩み去った。
怒らせちまったな……伊織が少しだけ失言を後悔していると、
「——なぁ、知ってるか? 岩本町のあたりで、また乱闘があったらしいぞ」
そんな噂話が、教室の片隅のグループから聞こえてきた。
「乱闘って?」
「不良グループ同士の抗争だってさ。グループ名は忘れたけど、片方のグループは結構悪名高いらしいぞ」
「悪名って、何やったの? 殺しとか?」
「コロシは流石に無いけど、それ以外の悪いことは大体やってるって。恐喝とか、強盗まがいのこととか」
「うえぇ、まじかよ。とんでもない悪党じゃんか。早く捕まえてくれないかねぇ」
思わず聞き入っていたのを自覚した伊織は、心中でいやいやとかぶりを振った。
——もう、俺には関係の無い話だろうが。食いつくな。