ある男の遺言《下》
——九月七日、土曜日。午前九時。
ようやく謹慎期間を終えた僕は、謹慎明け最初の稽古へ訪れていた。
望月家の敷地内にある、小さな稽古場。
およそ二週間ぶりに見る望月先生だ。
だがその手に持っていたのは、木刀ではなく、小さな長方形の桐箱だった。蓋で閉じられたのを、さらに紐で巻いて結んで固定している。
「——秋津光一郎、これを、貴殿に授ける」
螢さん、エカっぺ、香坂さんが側から見つめる中、望月先生は厳かにそう告げて、その桐箱を僕へ手渡した。
受け取り、桐箱の蓋の表面を見る。
『至剣流剣術 初伝目録』
美しくも力強い筆致で、確かにそう書かれていた。
僕はその桐箱……初伝目録と望月先生の顔を何度も交互に見てから、先生に確認するように問うた。
「これを……僕に?」
「うむ。貴殿には、それを受け取れるだけの資格がある。……八月二十八日の決勝戦を見て、それをはっきりと確信したよ」
いまだに実感が湧かず、僕はぼんやりと桐箱を見つめる。
……僕が、初伝目録。
嘉戸派至剣流が伝承を広げている昨今では、至剣流の皆伝者は極めて少ない。そのため、奥伝目録持ちは別格扱いされ、中伝目録持ちが実質的な至剣流最高位みたいな扱いを受けている。
驕りたいわけではないが……つまり、僕は世間的に見れば、至剣流において上から二番目の腕前ということになるのだ。
望月派に入門するまでの僕も、中伝目録が最高位みたいに思っていたきらいがあって、その認識がまだちょっと残っているためか……まだ実感がしにくいというのが正直な感想だ。
「初伝目録の伝授の条件は、『四宝剣』の最も簡単な応用である型を全て一定水準まで練り上げること。
『颶風』『雁翅』『閃爍』『電光』『鴫震』『瑞雲』『法輪剣』『鎧透』——切紙免状を与えてからお前さんに教えたこれらの型は、いずれも『四宝剣』のうちの一つの型の動きを発展させた剣技。これらを練り上げることで、『四宝剣』はその他全ての型と系統樹のように繋がっていて、なおかつ同じ性質の動きをする剣技同士を円滑に繋げることが出来る……それらの事実を体得するのだ」
そのことは、僕は知識としては知っていた。
だが、知識として知ることと、体得することは違うことも、同時に知っていた。
「コウ君の決勝戦での試合を見て、ソレをほぼ完璧に体得出来ていることはすでに分かっていた」
その先を、螢さんが継いだ。
「準決勝の時点で、初伝目録を渡せる水準にほぼ達しつつあったけど、決勝戦になって大きく化けていた。……お義父さんは苦言を呈したけど、コウ君が経験した命懸けの戦いが、結果的にコウ君の剣を大きく昇華させた。竹刀や木刀ではなく、真剣を使って戦った経験が、より剣術を純粋に振るえるようにしたのだと思う」
……そう、なのかもしれない。
真剣を使った戦いなど、できればもう二度とやりたくはない。
だけど、螢さんの言うとおり、その経験は結果的に僕の剣を大きく成長させたのかもしれない。
剣を、剣としてより純粋に扱えるようになった。
木刀は、その形を刀に酷似させているが、やはり刃が無い。
竹刀を使った競技撃剣は、そのルールを限りなく斬り合いに近づけているが、狙える箇所が三箇所しか無いため、やはり刃を使った斬り合いとは違う。……実際、村正との戦いで、そういう失敗をしたから分かる。
やはり、剣術とは、刃のある剣を使った斬り合いの技術なのだ。
面・小手・胴だけでなく、体のどこを狙ってもいいし、致命傷になり得る。
また、わざわざ叩かずとも、刃を肉体に滑らせるだけで、容易に斬れる。
そんな日本刀という最高峰の刃の強さと怖さを、実際の斬り合いを経験したことで改めて実感した。
その実感は、より剣術として相応しい立ち回りをする能力を僕に身に付けさせた。
だからこそ——決勝戦での僕は、あれほど簡単に立ち回れたのだろう。
香坂さんが、労うような笑みで答えた。
「確かに剣ってのは、日々の積み重ねが大切だ。けどな、たった一度の経験や勝利が、そいつを大幅に成長させることがある。これは剣だけじゃなく、どんな分野でも起きる現象だ」
「そう。コウ君は今回、それを体験した。……本当に強くなった。見違えるほどに」
螢さんが、手放しに僕を褒めてくれた。
いつもなら、我ながら気持ち悪い笑みを見せているのだろうけれど……今回は、笑う事ができなかった。
だって、その「大きな経験」のために、僕は——
「……コウ、どうしたの? なんか元気無くない?」
エカっぺは、僕にそう問うてきた。
どう答えようかと考えるよりも早く、螢さんが僕の心を読んだように、
「——鴨井村正のこと、考えてる?」
「っ……はい」
虚を突かれたようにビクリとするが、僕はすぐに首肯する。
「確かに、僕は、目録をもらえるくらいに成長できたのかもしれません…………だけど、僕は、その経験を積むために……」
人を、斬ってしまった。
村正の片手を、斬り落としたのだ。望月先生から頂いた刀と、授かった剣技で。
それは、肉体的な死因にはならなかった。重傷ではあるが、すぐに処置をすれば、助かる見込みはあったに違いない。
だけど……村正にとって、それは人生の終わりを意味していた。
村正には、剣しかなかったのだから。
その剣の命を奪われたことで、村正は「空っぽ」になってしまったのだから。
僕が、村正を殺したも同然だ。
そんな血生臭い経験が、この目録を得させたのだ。
まるで、血肉を養分に咲いた花のように——
「コウ君」
左頬に、ひんやりした感触。
螢さんの右手だった。
「これだけは忘れないでほしい。……あなたは、決して功名心や腕磨きのために、剣を取ったわけではないと。わたしが今生きているのが、その何よりの証」
「螢さん……」
「わたしだけじゃない。コウ君の友達も、その他の人たちも、コウ君が剣を取ったから、『呪剣』の呪縛から解き放たれた。
『呪剣』がよからぬ者の手に渡るのを、防いでくれた。それによって、世界が『呪剣』で弄ばれる未来を、阻止してくれた。
あなたは、確かに人を斬った。だけど、斬った人の数以上の多くの人間を救っている。
——あなたが英雄であると、わたしは知ってる」
さらに、僕の頭を撫でる手。
「……正直、『呪剣』ってのの話をさっき聞いた時は、なに危ない真似してんだって怒ってやろうかと思ってたけど…………」
エカっぺだった。
「あんたが、自分勝手な理由で剣を取ったりしない奴なのは、分かりきってるしね。……あたしも、螢さんと同じ。あんたの剣に、一度救われてるもん」
「エカっぺ……」
「だから、怒らないで、いい子いい子したげる。優しいエカっぺさんに感謝なさい」
困ったように微笑みながら、身長差にモノを言わせて僕を撫でている。
パシッと、背中を叩く手。
香坂さん。
「血や死ってのは、この国の土着宗教である神道において「穢れ」だ。だけど神社には、そんな「穢れ」をもたらす武器であるはずの剣がよく奉納される。なんでか分かるか? ——剣は、死という「穢れ」をもたらすと同時に、多くの人間を死という「穢れ」から守るからだ。
柳生宗矩も「一人の悪に依て万人苦しむ事あり。しかるに一人の悪を殺して万人を生かす。是等誠に、人を殺す刀は、人を生かす剣なるべきにや」と言っている。仏教で言う「一殺多生」の色が濃いな。まぁ「一殺多生」はテロリストが自己正当化の謳い文句にしてたことがあるから評判は微妙だが」
相変わらず、難しめなことを言う。
だけど、僕を励ましてくれているということは、浮かべている笑みからも分かる。
同時に、よく考えて剣を取れ、と言っていることも。
香坂さんは、程よく優しく、程よく厳しい。
「コウ坊」
望月先生。
「お前さんは、鴨井村正の最期に立ち会ったのだろう? 最期の言葉を……「遺言」を聞いたのだろう?」
そうだ。
僕は、村正の「遺言」を聞いた。
剣以外の大切なモノをたくさん作れ、と。
剣だけを求めた末路が自分だ、と。
自分のようにはなるな、と。
「お前さんが、その剣で斬った鴨井村正にしてやれることは……その「遺言」を胸に刻んで、未来へ向かって歩んでいくことだと、わしは思う。
彼が、己の人生と末路で導き出した「遺言」を、お前さんが引き継ぐんだ。
それができるのは、その「遺言」を聞いた、お前さんだけだ。
それこそが……鴨井村正に対する、最大限の供養になると、わしは思うよ」
そうだ。
この世界で、村正の「遺言」を聞いたのは、僕一人だけだ。
僕がその「遺言」を忘れてしまったら、村正は完全にこの世から消えてしまう。
だから、忘れちゃいけない。
穢れた記憶だからと、封印しちゃいけない。
未来に持っていかなくちゃいけない。
——それが、村正を斬り、その最期に立ち会った、僕の義務だ。
僕は視野を広げて、見る。
「大切なモノ」達を。
そして、
「——はい」
短く、しかし決然とした返事をした。
手元にある、目録の入った桐箱を、しっかりと握りしめて。
——鴨井村正、僕はあなたの「遺言」を引き継ぐ。
だからこそ、僕はあなたのようには決してならない。
これからも、剣を学び続ける。
それでいて、剣に溺れず、大切なモノをたくさん作る。
そんな大切なモノのために、剣を取る。
——たとえ、あなたの言っていた「あの男」という存在が、現れたとしても。
コウ君sideはここでおしまい
あと一話だけ、続くんじゃよ