ある男の遺言《上》
これからエピローグとなります。
分割してうpしていきます。
想定より遥かに長引いてしまった呪剣編も、ようやく完結です。
——二〇〇二年、八月二十一日。水曜日。
僕は、実家でもある古書店『秋津書肆』の店内カウンターで、お店番をしていた。
古い紙の匂いに満ちた店の中は、冷房がそれなりに効いていて、今が真夏であることを忘れそうなくらい居心地が良い。しかし外から絶えず聞こえてくる蝉の声が、外の暑さを否応無く連想させ、なんか暑くなってくる。これが共感覚ってやつだろうか。
お客さんは時々来る程度だ。普通の本屋と違って、ウチは新しい書籍は扱わないため、流行りの本というものも仕入れたりしない。ゆえに常に客足は一定。よく言えば安定しており、悪く言えば短期的な大きな実りに欠ける。
お客さんがいないのを確認してから、大きな欠伸をした。
店内に掛けられた時計の針は、十一時を指していた。
……今は夏休み期間中だ。なので土日だけじゃなく、月曜日から金曜日までずっと休みだ。
そして、望月先生はおととい、ハワイから無事帰国してきた。先生は通院などを除けば基本的に家にいるので、今からでも会いに行けば稽古をつけてくれるだろう。
だけど、今の僕には、それが出来なかった。
店番があるから? それもある。
だけどそれだけじゃない。
もっと根本的な理由だ。
それは、
「——謹慎、食らっちゃったからなぁ」
†
それは、昨日——二〇〇二年八月二十日、火曜日のことだ。
望月家の敷地内にある小さな稽古場。熱気がこもるのを防ぐため、高い位置にある窓も、他の戸も全て開いて風通しを良くしている。ここには冷房の類が無いからだ。
開けられた窓から蝉が入ってくる。稽古場の壁にくっつき、ジジージージジー、とやかましく鳴き、その音が狭い稽古場に反響する。
……しかし今の僕は、暑さも、蝉の煩さも、全て些事に思えるほどに緊張していた。
理由は、僕と向かい合う形で大仏のごとく鎮座している、一人の老夫の存在にあった。
口元にたたえたカイゼル髭。鋭い眼差し。古傷めいた深い皺は、厳しい表情を何度も浮かべた跡だった。
およそ二週間ぶりに見る我が剣師、望月源悟郎先生である。
ハワイ州都ホノルルでの旅行から昨日帰ってきた我が師の顔が、ひどく懐かしく感じられた。それほどまでに先生は、今や僕の生活に根強く存在しているのだと再認識する。
この一見いかめしい風貌と、十一年前の日ソ戦でこの国を護った偉大な将官の一人であるという世間的名声ゆえに、最初にこの人と会った時の僕はとんでもなく恐縮していた。
そんな印象も、ひとたびこの人と言葉を交わし、弟子として学び始めて、すぐに改まった。
見た目よりも、はるかに取っ付きやすく、よく笑う人だったから。
だが——今目の前に座っておられる先生は、厳しい顔つき通りの、厳しい気迫をもっていた。
「——螢から、概ねの話は聞いている」
その声も、低く、重い。
「鴨井村正という至剣保有者のこと、その至剣というのが『呪剣』であったこと、現在世間を騒がせている『神武閣事件』を引き起こしたのが『呪剣』であること、そして……螢が鴨井村正を止めるべく戦い、『呪剣』によって生死の境を彷徨ったこと」
まるで、雲衝くほどの仏像が、重々しく念仏を唱えているような。
「そんな螢を救うべく、お前さんが剣を取って鴨井村正に挑み……結果的にそれは功を奏した。螢は『呪剣』の呪縛から解放され、後遺症も見られない」
僕はそれを、黙って聞いていた。
「わしはその話を聞かされた時、己の不甲斐なさを恥じたものだ。わしが盟友と遊んでいる間、お前さん達は命を賭けた戦いと向き合っていたのだから。わしがその時この国にいれば、何かもっと出来る事があったのではないか……昨晩は、そればかりが頭に浮かび、よく眠れなんだ。お前さんがもしも剣を取ってくれなければ…………わしは昨日、螢に会うことは出来なかっただろう」
先生は、僕よりずっと高い位置にある頭を、深く下げてきた。
「あの子の義父として、心より感謝する。——ありがとう、コウ坊。あの子を救ってくれて。あの子とわしを無事に会わせてくれて。あの子のために……剣を取ってくれて」
今、先生は、僕に対する深い感謝の意を告げている。
……だけど、僕はソレに対し、誇らしく笑うことは出来なかった。
それなりに先生と過ごしてきた僕には分かっていた。
感謝だけなら、ここまで厳しい雰囲気ではないと。
そして僕自身、自分のした事を、手放しに褒められることは無いと、分かっていた。
「——だが」
顔を上げた先生は、すでに義父としての顔ではなく、僕の師としての顔になっていた。
「それでも貴殿が、己の剣腕の未熟を顧みず、こともあろうに皆伝者ほどの実力を持った剣士に挑んだことは、揺るぎない事実。——これが自刃と、何の違いがあろうか。貴殿の剣師として、このような蛮勇を手放しに讃えるわけにはいかぬ」
先生の、これほどまでに厳しい口調を、僕は聞いたことがなかった。
「望月派至剣流宗家、望月源悟郎美石の名において命ずる。——秋津光一郎、貴殿を二週間の謹慎とする。それまでの間、貴殿はこの稽古場へ足を踏み入れることは、罷り成らぬ」
……僕は、慎んで頷いた。
†
『——続いては、今月の六日に発生した『神武閣事件』に関する続報です。今月の一日から六日にかけて帝国神武閣にて行われる予定だった天覧比剣少年部、その決勝戦の開始直前に一部観客による暴動が起こった事件について。国賓として帝室の方々と天覧比剣をご覧になっていたアメリカのバークリー大統領は「両国の信頼を深めるべき日に、親愛なる日本国民よりこのような仕打ちを受けてしまった事は極めて残念だ」と遺憾の意を表明しました。その影響か、ワシントンD.C.の在米日本大使館前では、白人層を中心とした市民団体による抗議デモが連日行われており、カリフォルニア州ロサンゼルスでは中国系アメリカ人を狙った暴行事件が相次ぎ——』
AM設定になったラジオから、あまりよろしくないニュースが流れてくる。
『神武閣事件』……誰が考えたのやら、あの日の事件にはいつの間にかそんな名称が付いていた。
あの事件を引き起こしたのは、鴨井村正の持っていた至剣『呪剣』である。
しかしその事実は、公表されていない。
内務省と日本政府は、『神武閣事件』を深く追及しようとはせず、起こってしまった事態に関して、アメリカやその他の諸外国に対してただただ謝罪という姿勢を続けている。
そのためか、今では『神武閣事件』は「フーリガン的事件」として扱われ始めている。
『呪剣』の存在が伏せられていることに、僕は嘉戸宗家の口止めが原因ではないかと疑ったが、螢さんがそれを即座に否定した。
『内務省は強大な官庁。いくら嘉戸宗家でも、そこに箝口を強いるほどの力があるとは考えにくい。——おそらく、『呪剣』のことを伏せて話した方が、海外の印象を無駄に悪化させずに済むから、だと思う』
至剣は、科学的に未解明な点が非常に多い技術だ。
科学的根拠に基づいた物的証拠や状況証拠がモノを言う今の社会において、そんな至剣の証拠能力は薄弱である。……まして、事件を引き起こした『呪剣』の使い手である村正はすでに死亡しているので、なおのこと立証は困難を極める。
そんなモノを提示したところで、証拠にはならない。
いや、それどころか「自分達の失態を迷信で煙に巻こうとしている」と、アメリカを含む各国の心証を悪化させてしまう危険性すらある。
なので内務省は『呪剣』を証拠として用いず、「熱狂した観客による暴動事件」という形で完結させようとしている——というのが、螢さんの推測であった。
ここ最近で聞き飽きた上に暗いニュースだったので、僕はラジオをAMからFMに設定変更。「FM帝都」に切り替わった。
ラジオパーソナリティによる、聴取者ハガキの読み上げである。
『さて、お次はラジオネーム……えー、Gが三つで「GGG」さんからのおハガキになります。——今年の八月六日、渋谷のハチ公像近くで、一人の男の子に話しかけられました。見た感じ中学生くらいで、武道着に鉢巻と襷という、まるで決闘にでも行くかのような装いでした。しかしその男の子が尋ねてきたのは渋谷にある某ライブハウスの所在地でした。所在地を教えてもらうと感謝して去っていったその少年を見て、私はああいう格好でバンドというのもアリだと思ったのですが、どう思いますか? ライブもまた一つの戦の場だと思うのです』
ちょうど今読み上げられたハガキの内容を聴いて、僕はギョッとした。
——これ、僕の話じゃなかろうか。
八月六日、僕は『WEED』への道を何人かに尋ねた。ハチ公像でも、一人に訊いたような。ただしその人は「じいさん」ではなく、若い男の人だったけど。
パーソナリティの人が「そのバンドのコンセプトを崩さないならやってみるのも面白いかも」とかの返答をしばらくしてから、少し話が横道に逸れた。
『ちなみに八月六日というと——最近話題の『神武閣事件』があった日ですねぇ。私は観戦には行けなかったのでその場に居合わせなくて済みましたが、相当に荒れたそうですね。亡くなった方も数人いるとか。あの事件で暴れた観客はみんな逮捕されたそうですが…………不思議なことに、みんなよく分からない供述をしていて、しかもその内容が全員一致しているそうなんですよ。まるで捕まった人達全員で事前に打ち合わせでもしたかのように』
パーソナリティの人の息継ぎが一瞬聞こえた。
『その供述の内容は主に二つで。
一つが、自分の心の中の「黒いモノ」に抗えず、それに従うまま暴れてしまったというもので。
そしてもう一つが、彼らが眠っている最中に見たという「夢」についてで——』
そこで、店の出入り口のドアが開く音が聞こえた。
僕のいるカウンターからまっすぐ向かい合うそのドアから入ってきた来客を目にした瞬間、僕は思わず息を呑んだ。
生え際まで金色な巻き毛。色白な肌。青い瞳が特徴的な、貴公子のように端正な顔立ち。ポロシャツとスラックスを上品に着こなした、線の細い体型。
「——ミーチャ」
たった一ヶ月半ぶりなのに、懐かしさすら感じる異人の友達の突然な来訪に、僕は不意を突かれた気分となった。
何も言えず、考えられずにいる僕の代わりに、ミーチャが口火を切ってくれた。
「…………「夢」を見たんだ」
そう口にしたミーチャの表情は、今にも泣きそうだった。
怖いけど、それでも勇気を振り絞っているかのような。
「何も見えない……何も聞こえない……いくら叫んでも、誰も答えてくれない…………深い、暗闇の中だった。
ボクは……そこで、ひとりぼっちだった。
どんなに歩いても、どこにもたどり着けない。どんなに呼びかけても、誰も呼び返してくれない。
だからボクは、諦めて……暗闇の中で、うずくまって座ってた」
硬く、弱気の宿った、しかしはっきりした口調。
「だけど、そんなボクのところに——金色に光る一匹のトンボが、どこからか飛んできたんだ。
その「金のトンボ」は、うずくまってるボクの膝に止まって、言ったんだ。
「ついてきて」って。
……光一郎と、同じ声だった」
その言葉は、どこかで聞いたことのある内容だった。
「その「金のトンボ」は、ボクの膝から、ゆっくり飛び立った。
ボクは、それを追いかけて、歩いた。
そうして歩いているうちに……光の差す場所が見えてきた。
トンボがそこに入るのと同じように、ボクもその光の中に入った。
ボクの周囲が、完全に闇から光に塗り変わったのと同時に——目が覚めた。
……今まで心の中にあった「黒いモノ」が、綺麗さっぱり無くなってた」
そこで、ミーチャは一度沈黙する。
言うべきことを言い切ったからではない。
むしろ、これから言う事こそが本番で、そのために必死で勇気を振り絞っているような。そんな気持ちが見受けられた。
だから僕は、何も言わずに待った。
やがてミーチャは、口を開いた。
「今更……虫がいい事は分かってる。だけど…………それでも、ボクは……光一郎と、もっと一緒にいたい。だから……」
息を吸い、一番言いたかったのであろう言葉を、思い切って言った。
「だから————ボクと、また、もう一度、友達になってくれますかっ!?」
それを聞いて、僕は。
「————ばかっ!!」
カウンターを飛び越え。
ミーチャの間近まで迫り、胸ぐらを両手で掴んで、その顔をキッと見上げた。
「「また」って何だよ!? 「もう一度」って何だよっ!? ふざけないでよ!! 勝手に縁切らないでよ!! 勝手に自己完結しないでよ!!」
視界が水面のように揺らいでいる。
目から頬を、何かが伝い落ちる感触。
揺らいだ視界の中にいるミーチャも、今にも泣きそうな顔だった。
「だって……ボクは…………光一郎に、いっぱい、ひどい事……」
「男だったらケンカの一つもするだろ!? その中の一つってだけじゃん!! それくらいでクヨクヨしないでよ!!」
「ボクは……ロシア人で」
「怒るって言っただろそういう事言ったら!! 何度言わせるんだよっ!?」
「ボク、は……」
なおも言おうとするミーチャだが、もう、何も言葉が出ないようだ。
だけど、僕にはまだ、ある。
あと一つ、今最も言うべき事が。
「僕達は…………友達のまんまだろ……!?」
途中から、涙声になった。
僕も、そしてミーチャも、同時に決壊した。
両腕が、僕の背中に強く回される。
僕より大きいミーチャの体が、もたれかかってくる。
「ごめんねっ……ごめんねこういちろぉっ……!! ごめぇぇんっ……!!」
僕の耳元で、幼子のようにわんわん泣き出す。
「僕も……ぼくもごめんっ……!! いっぱい、殴ってごめんね…………!!」
ミーチャをしっかり受け止めている僕もまた、同じように泣いていた。
ずっと我慢していたモノを、一気に吐き出すように。
店番のことも、すっかり忘れて。
しばらく泣き合い、多少落ち着いてから、ミーチャは僕を固く抱きしめて、すすり泣く声で言った。
「大好きだよ、光一郎。君に会えて…………ほんとうによかった」