剣以外のモノを
村正の左手が、斬り落とされた。
斬り落としたのは、他ならぬ、僕の剣だ。
「金の蜻蛉」に導かれるまま「必勝の軌道」をなぞった、僕の剣。
「必勝の軌道」をなぞったからなのか、村正の手首に刃を通した時の感覚は、あっけないものだった。するっと、驚くほどすんなり刃が通り抜けた。
ぼとり、と、切り離された人間の一部が落ちる音。
そのひどくそっけない音に、しかし僕は心臓を直接握って鼓動を止められたようなおぞましさを覚えた。
唯一の救いは、その落っこちた右腕の指が僕の方を向いていたこと、そして村正の左腕からすぐに溢れ出した赤黒い血の流れのおかげで、断面を見なくて済んだことだろうか。
しかし、それでもこんこんと断面から溢れ、地面に赤黒い水溜りを作るという光景は、どうしようもなく「日常」から程遠いものだった。
——僕が斬ったのだ。
——僕がこれを、やったのだ。
その事実を突きつけられた僕は、凄まじい不快感を覚える。
膝を付いて、腹の奥から競り上がってきた焼けつくモノを吐き下したい衝動に駆られるが、
(残心、残心、残心、残心————)
そう、必死に自分を律する。
確かに片手は斬ったが、首を斬ったわけではない。村正はまだ生きている。動けるはずだ。であるならば、まだ吐くわけにはいかない。隙を作ってはいけない。残心しなければならない。
剣を構え、村正の出方を伺い続ける。
村正は、無くなった己の手を見つめていた。だがその目に、恐怖の色は微塵も浮かんでいなかった。大きな感情の動きが無い目。……強いて言うなら、諦念めいた感情が浮かんでいるような。
(そういえば……「金の蜻蛉」が、いなくなってる)
確か、村正の左手を斬り飛ばすと同時に、吹き消された火のようにいなくなったのだ。
……それの意味するところは、何であろうか。
「っ!」
村正が動き出したので、僕は反射的に構えを整えた。
村正は、右手だけで持った刀を持ち上げる。
そして、それを——己自身の腹へ突き刺した。
「…………え」
いったい、なにを。
理解を超えた村正の所業に僕が言葉を失っていると、村正は脂汗の浮かんだ、しかし涼しげに緩んだ笑みを浮かべて、
「……片手を失った今、もう俺は、剣を、振れぬ。俺の剣は……今、死んだのだ。であるならば…………それは俺という人間の……死を意味する」
「だからって…………そんな……」
「ふふっ……俺を斬りに来た者の台詞とは、思えんぞ」
可笑しそうな、しかしどこか苦し紛れな笑声を小さくこぼす村正。
「しかし、まぁ…………なるほど。まるで、己の中身が……空っぽになったような感じだ。本当に俺には、剣以外、何も無かったのだな……」
「……むら、まさ」
あまりにも形容しがたい感情に襲われ、僕は言葉を上手く発せなくなる。
村正はそんな僕に、静かに咎めるように言う。
「その情けない顔はやめろ。——貴様は、俺に勝ったのだ。秋津光一郎。見事な、至剣だった…………その至剣、名は、なんという」
いまだに目の前の状況に気持ちが追いつかない。
だけど、あんなふうに己を刺してしまった以上、村正はもう助からないだろう。
だからなのか、冥土の土産を渡そうとでも思ったのか、僕は問われるままに答えていた。
「……『蜻蛉剣』だ。蜻蛉の剣と書く」
「そうか…………望月螢の、至剣よりも、ずいぶんと優しい。同時に……ずっと、抗い難い剣であった。良いモノを、見させてもらったぞ…………」
村正は荒く息継ぎをして、また問うてきた。
「小僧……貴様は、なにゆえ、剣を取り……磨き上げた? 至剣を、得るに至るべく、どのような思いを……その剣に託した?」
「好きな女性のためだ」
「ふふふ…………俺には、縁遠い、思いだったな」
村正はまたも笑った。
血を急速に失っているため、顔色が良くない。
しかし、その表情からは、今までとは打って変わって、険しさが取れていた。
「俺は——剣のために、剣を取った」
「え……?」
「人間を、信頼出来なかった。どれほど、こちらが愛し、尽くしたところで……裏切るときは、簡単に裏切り、関係が壊れるときは、簡単に壊れる…………そんな、脆く不安定な、人間というものを、不要と切り捨てた。だが……剣は、尽くせば、尽くすほど、答えてくれる。だから俺は……そんな剣を愛し、尽くし、至剣を手に入れた」
己の腹に突き刺さった刀を、自嘲気味に見下ろす村正。
「だが……そんな俺の『呪剣』は……お前の『蜻蛉剣』に、こうして、負けた。もしも…………もしも、お前達の、ように、剣以外のモノを、愛することができて、いたら……もっと、違う形の、至剣を、生み出せたのだろう、か……?」
僕もその刺さった刀を見つめながら、自信の無い口調で答えた。
「……そんなの、僕には分からないよ」
至剣というのは、発現する原理も、使う時の体の仕組みも、科学的に未解明な部分が多い奥義であるという。
どうしたらもっとマシな至剣が生まれるかなんて、僕には答えられない。たぶん、嘉戸宗家にも。
だけど。
「だけど、これだけは言える。
もしも、あなたが剣以外のモノを愛することができていたら……僕とあなたがこうして戦うどころか、あなたがあんな事件を起こすことも、無かったと思う」
「……そうかな」
またも自嘲すると、村正は顔を上げ、僕を見つめる。
以前は視線を合わせただけでおぞましく思った目だったが、今は全く怖くなかった。
深淵から覗き込むような目ではない。
厳しく、しかし誠実に、こちらを拒絶するような目。
「秋津光一郎…………お前は、俺のようには……決してなるな。
剣を追い求める、だけでなく……剣以外の、大切なモノを、たくさん作れ。
あの女……望月螢とでも、一緒になって……子供もこさえて、末長く……幸せに、暮らすがいい…………それと……」
もう限界が近いのか、言葉の途切れが激しくなってきた。
しかし、これだけは言わなければならないとばかりに、村正は言い続けた。
「あの男には……気を、つけろ。
奴は…………今回だけじゃ、ない。
また、必ず、この国と、お前の、愛する者達、に……厄災を、もたら、そうと、する、かも、しれん。
お前の、剣は、きっと……それを、防ぎ……止める…………ため、の……」
「あの男……? 「あの男」って、誰のことなんだっ? 村正っ!」
僕の詰問に対し、
「それ……は…………あ、な…………」
村正は答えきることなく、ごぽりと血を吐き出した。
残る全ての力を出し切ったように、力無く横たわった。
目を開いてはいるが、瞳孔が不気味なほど動かない。
胸も、呼吸の動きを見せない。
——もう、亡くなっている。
血溜まりの中で身じろぎ一つせずに倒れた遺体を、どうすればいいかも分からず、ただ見下ろしていると、
「コウ様」
……太郎くんが、歩み寄ってきた。
彼は村正の方を見ると、怖がったり気味悪がったりといった様子はいっさい見せず、悼むように目を閉じた。
血溜まりの中も気にせず遺体へ歩み寄り、その瞼を指でそっと瞑目させた。
彼はそのまま僕の方へ来ると、気遣わしげに、
「コウ様、お怪我は?」
「え……だ、大丈夫。ありがとう。…………太郎くんは?」
静かな気品のある可憐な美少年が装っている特撮ヒーローのアパレル衣装は、傷一つ付いていなかった。
上にいた謎の男はどうなったのか、という意味を含んだ僕の問いに、太郎くんは軽く微笑む。
「心配ありません。——それよりもコウ様、よくお聞きください」
が、すぐに彼の口調が、やや急いたものに変わる。
「じきにここへ、警察の方々がやってきます。どうか後の事は、全て私にお任せください。コウ様はどうか、警察の方々が来る前に、速やかに離脱を」
「え、いや、あの……」
「一刻も早く——大切な方のもとへ、行ってさしあげてください」
大切な方。
それを聞いて、僕が真っ先に思い浮かべたのは……螢さんだ。
『呪剣』の影響で、瀕死の状態にあった、螢さん。
——この状況で「大切な人に会いに行ってください」などと言っている点。
——「そのうちここへ警察がやってくる」という、現時点では僕と寂尊くらいしか知らないことを、知っている点。……彼は、僕より早くここに来ていた。
——そして、刀で武装してここへ来ているという点。……「危険である」という前提すら知っている証左に他ならない。
「その判断」を下すには、まだ証拠が不足しているけど、それでも僕は確信した。
——彼は、全てを知っている。
この事件の、何もかもを。
そして、それ以上の「何か」も。
「太郎くん……君はいったい、何者なんだい?」
僕は、そう問わずにはいられなかった。
彼とまた会えたことは、確かに嬉しい。
だけど、そんな彼に、僕は強い疑惑を抱いてしまっていた。
それを放置したまま、彼との再会を心から喜ぶことなんて、できない。
太郎くんは、その可憐に整った顔立ちにもどかしそうな笑みを浮かべる。
「……コウ様が私を不審に思うのも、無理はありません。ですが、申し訳ありません。今は……私の口からは、何も申せません」
「太郎くん……」
「ですがコウ様、私もこの帝都に、それもコウ様と同じ千代田区に住んでおります。またいつか、必ずお会いできることでしょう。
話すべき時が来れば、必ず全てを話すと約束します。
私がなにゆえこの事件を知っているのか。
私がなにゆえ貴方の事情をよく知っているのか。
私が——いったい何者であるのか。
都合の良い事を申しているのは百も承知です。ですが……どうか私を、何卒、信じてはいただけませんか?」
誠実な、しかしどこか縋るような声で、彼は僕にそう告げる。
……確かに、彼には謎が多い。
だけど、彼が僕の剣を気に入ってくれたというのは、決して嘘ではない。……だからこそ僕は『劣化・蜻蛉剣』を体得できたのだ。
少なくとも、僕を陥れようなんて気持ちは無いことは、信じられる。
「……うん、わかった。信じるよ、太郎くんのこと」
「ありがとうございます……!」
「絶対いつか教えてよね?」
「はい……! 必ず……!」
太郎くんは感極まったようにその大きな黒い瞳を潤ませ、剣を持っていない僕の左手を両手でそっと持ち上げた。
「『蜻蛉剣』、とても美しゅうございました。——いつか、また」