見るべきモノ
トーシャが倒れるや、太郎は全速力で地下二階へ走った。
一秒でも速く、光一郎のもとへ駆けつけたかったから。
トーシャを足止めせずに光一郎を追いかけていたら、村正と挟み撃ちにあうという最悪の状況を作りかねなかった。なのでトーシャをどうにかしてから追いかける必要があった。……思った以上に時間がかかってしまったが。
「コウ様、どうかご無事で……!」
地下二階行きの階段まで十メートルにも満たない距離だというのに、ひどく遠く感じる。
どうにか階段へたどり着くや、数段飛ばしで降りる。
L字状の階段の踊り場へ達した瞬間——金属がぶつかり合う音がきこえてきた。
思わず足を止める。
踊り場から、わずかな照明で照らされた薄暗い下階を俯瞰すると、
「……コウ様」
——剣を振るっている、光一郎の姿が見えた。
その刃の向かう相手は、髪型こそ丸坊主なものの、顔立ちは写真とまるっきり同じである、枯れ枝のように痩せた男……鴨井村正。
『呪剣』という至剣を持っている以上、村正が免許皆伝級の実力者であることは論を俟たない。
だが、そんな村正の剣と……光一郎の剣は互角に渡り合っていた。
否。よく見ると、ところどころで光一郎の刃が村正の身に届きかけていた。
……村正が、押されつつある。
それをしてのける光一郎の剣と、眼の動き。
——明らかに、見えている。
「あ……」
親愛なる彼のために、今すぐにでも加勢しなければならないはずなのに、足が動かない。
不要であると確信したからでもある。
何より。
「——とても、綺麗な剣です、コウ様」
自分自身が、彼と、その剣に、どうしようもなくときめいてしまっていた。
剣を真後ろへ隠した「裏剣の構え」。その状態から薙ぎ払って光一郎の剣を強く弾いてから、間髪入れずに刃の向きを翻して首を斬る『浦波』を使おうとした。
……しかしそう考えた時にはすでに光一郎は剣ごと己の身を引っ込めていた。
なので村正が『旋風』に変更しようと思うや、今度は光一郎は一気に飛び込むように距離を詰めてきた。
村正が後方から刃を振り放つ。だが刀身の鍔付近を押さえる形で防がれた。薙ぎ払いにおいて、刀身にかかる力の強さは、手からの遠さに比例する。手に近ければ近いほど、刀身にかかる力も弱くなる。
(なんだ、これは)
光一郎の切っ尖が、軽やかに跳ねる。狙いは村正の首。
そう来ることを読んでいた村正は、一拍子速く身を霞ませていた。同時に光一郎へ剣を薙ぐ。
だが光一郎の太刀筋が途中で急変。鋭く振り向きざま、左隣から迫る村正の刃を己の刃で受け止めていた。
今度は先ほどよりも、村正の刀身を左外側へ退けていた。つまり胴体がガラ空きの状態。そして胴体は大きな的。
(また、押されているだと……この俺が)
だが光一郎は胴体へ刺突はしなかった。斜め左へ退がっていた。……そうすることで、村正が光一郎の左隣へ回り込みながら斬りつける『颶風』という一手を先んじて潰していた。
同時に、相手の斜め右隣という、自分にとって攻めやすく、相手にとって攻めにくい絶妙な立ち位置をとっていた。
舌打ちしながら、村正は後方へ大きく飛び退く。
光一郎の剣は止まらない。なおも向かってくる。
そうして、また、詰め将棋に等しい剣戟が始まる。
詰められる玉方は、村正であった。
——太郎の見解通り、村正は圧倒されつつあった。
(なんだ、この小僧の動きは……!? 先ほどとは、また別種の動き……!)
光一郎が村正を圧倒するのは、二度目だった。
極めて破壊的で物々しかった一度目の動きに比べて、この二度目は打って変わって優しかった。
剣技というより、子供が網で虫を捕まえようと追いかけているような動きにすら見える。
速さも、重さも無い。ただ動いているだけに等しい、ひどく素朴な剣技。
それなのに、押し返せない。抗えない。
その刃は幾度も村正に届きかけている。
届いた。左上腕に浅い切り傷。
「……っ!」
腹の傷よりもずっと浅いというのに、全身がひどく粟立つ。
確実に、自分は追い詰められていっている——直感的に、村正はそう思った。
この奇妙な太刀筋に対しても、驚愕を禁じ得ない。
だが、それよりも、それ以前に——
「貴様……なぜ動ける!? なぜ剣を振れる!? なぜ貴様には、俺の『呪剣』が効かないのだ!?」
光一郎は、首を傾げたくなる。
『呪剣』が、効いていないだって?
「……安心しなよ。きちんと効いてるから」
そう。村正の呪いは、まだ解けていなかった。
世を儚め、叶わぬ夢を見るな、自刃しろ、自刃しろ、自刃しろ——絶望を煽る呪詛の数々を、光一郎にささやき続けている。
それでも、動けるのは。
「呪いなんかよりも、他に見るべきモノがあるからだ」
——目の前を絶えず飛翔し続ける「金の蜻蛉」を。
——退くことなく勝利へ向かって飛び続ける「勝ち虫」を。
——国をもひっくり返しかねない強大な至剣すらも通過点にして、「あの人」へ向かってまっすぐ進む「必勝の軌道」を!
村正が今の光一郎の剣を見て、不思議に思ったことは、他にもあった。
——光一郎は、村正の方を見ていない。
己の剣しか、見ていない。
確かに剣術は剣が主体だが、剣ばかり注視するというのは、視界を狭めてしまう悪手だ。剣の勝負は、相手の全体像や、周囲の状況や条件を把握した上で戦う必要がある。
今の光一郎の剣は、それに著しく反したモノだった。
(……いや、違う。それよりも、さらに酷いモノだ)
村正はそこでさらに気づく。
よく見ると、光一郎の目が追いかけているのは、剣ですらなかった。
虚空。何も無い、空間。
そこに「何か」があるように見つめ、それを剣尖で追いかけている。
言うなれば、幻を追いかけている状態。
これは剣での悪手以前の問題だ。なぜなら、正常に世界を見れていないという証拠なのだから。禅の修行に執着するあまり見えてしまった仏神の幻を本物だと思い込んだような異常な状態。禅病とも言う。
だが、その幻を追いかけている光一郎の剣は、村正の剣を巧妙にかいくぐり、本体に届いている。
剣に力を与える幻。
「…………そういう、ことか……!」
考えられる可能性は、一つしか無い。
光一郎も、自分と同じ至剣流だ。
「貴様も……『至剣』を持っていたのか……!!」
光一郎は答えない。
沈黙のまま、己にしか見えぬ「何か」を、剣で追いかけている。
その沈黙は、限りなく「是」であった。
それを確信した途端、
「巫山戯るなぁぁ————!!」
猛火のごとき激情が、村正の心を焼き焦がした。