道玄坂の雑草
御一新とともに侍ともども消えゆくかと思われた日本刀は、しかし滅びることなく、この現代に至るまで強い存在感を持ち続けている。
多くの家庭が最低でも一振りは刀を所有しているし、軍学校でも成績最優秀者には恩賜刀が贈られる。天覧比剣の優勝団体には短刀が授与されるし、帝室で生まれた子には守り刀が授けられる。
ゆえに、その刀を保護するための周辺道具も、時代とともに発達している。
——僕が中身の愛刀もろとも担いでいるこの刀袋も、刀を水や湿気から守る防水防湿素材で出来ている。
現在、僕は渋谷の駅から降りたばかりだった。
今なお雨は強く降り続いており、鈍色の空はしきりにピカピカと稲光を発し、地に響くほどの遠雷を轟かせていた。
だがそのおかげか、多くの人は建物の中や、庇の下に入って雨宿りしていた。いつもは人口密度が高い渋谷が、今では人の数もまばらで進みやすい。
……今の僕の格好に、近寄りがたいモノを感じているのも、理由の一つだったりしてね。
自嘲しながら、僕は傘の下にある己の装いを再確認した。
額にはきつく結んだ白い鉢巻。
新しく着替えた稽古着と、その両肩を締める白い襷。
いかにも「これから何かがある」と思わせるような装いであった。
これは僕なりの「備え」だった。
これから僕は、人を斬りに行く。
実際には逆に斬られる確率の方が高いのだが、それでも斬り合いという「非日常」へ赴く事実は変わらない。
ゆえに、心身ともに「備え」が必要だと思った。
鉢巻とは、戦や神事といった「非日常」の時に締めるものだ。頭を締め付けるこの感触は、僕が今「非日常」にあるのだということを絶えず教えてくれて、気が抜けるのを防いでくれる。
襷は、着物の袖と襟を締め付けることで、服がダブついて邪魔になるのを防いでくれる。あと、神社や神宮の巫女さんは物忌みの意味を込めて締めるらしい。
そして稽古着を選んだのは、単純に、最も剣を振ってきた格好だからだ。「今は剣を振る時だ」という気持ちを、少しでも自分の中に強めたかったからだ。
……それでも、右肩に掛かっている、刀袋の重みは減らなかった。
これからこの中の刀で人を斬りに行くのだと考えるだけで、刀の重みがさらに増しているように感じた。
足取りも、心なしか重い。
それでも気をしっかり持つように自分を激励し、歩みを止めないように努める。一度でも止めてしまうと、刀の重みでそこにしゃがみ込んでしまいそうだから。
僕は、寂尊から聞いた、鴨井村正の潜伏先の名前を、街の人達に聞いて回った。
——『ウィード』とかいうライブハウスだ。
おそらく、僕の英語知識が正しければ、綴りは『WEED』だろう。「雑草」という意味だ。
僕の格好に怪訝な目を向けつつも、街の人達は道と場所を教えてくれた。
教えられた道のりに従い、僕は道玄坂を登った。
望月先生から聞いたことがあるが、道玄坂は陸軍にとって重要な道路であるらしい。なぜなら東京都港区赤坂から神奈川県伊勢原市まで続く大山街道の一部だからだ。
その関係ゆえか、憲兵隊の宿舎や、軍人さんが上客となっている料亭なんかもある。……ちなみに憲兵隊の宿舎は、歌人として有名な与謝野晶子さんがかつてご主人と住んだ場所だという。
そんな軍都としての顔を持つ一方で、この渋谷は「若者の街」としても有名だ。
ある鉄道会社が商業施設やエンターテイメント施設を渋谷に開いたのがきっかけで、最先端の若者文化が次々とこの街で生まれ、さらにそこから日本各地へ発信されるようになった。
そのためか、今では軍人よりも、オシャレな若い人の方が多いくらいだ。
道玄坂をしばらく登ってから、右の脇道へ入る。奥へ進む。一気に人気が減り、寂しい通りが続く。
進むにつれて、軒を連ねる建物が、料亭からアミューズメント施設へと変わっていく。
しばらくして、僕はとうとうその場所に到着した。
「……ここか」
ビルとビルの間を貫く、狭くて薄暗い街路。その端っこに、さらに濃い影が溜まった箇所があった。よく見ると、それは地下へ続く階段だった。その階段を降りた先にあるドアの上には『WEED』というネオンサインが描かれていた。しかし今はそのネオンサインは光っておらず、活動感が全く感じられなかった。
僕は傘を閉じて、階段を降り始めた。
ライブハウスには行ったことがないので、やや緊張しながら僕は階段を一段、一段降りていく。僕の目はすぐに濃い影のもたらす薄闇に慣れ……ドアの前の床にぽつりと付いた、一滴の血痕を視認した。まだ新しい。
僕は思わず生唾を飲み込む。——間違いない。ここに、鴨井村正はいる。
ただでさえ重い足が、さらに重鈍さを増す。
とうとう、僕は来たのだ。来てしまったのだ。
斬り合いの舞台へ。
剣が生死を決する、戦場へ。
頭に巻いた鉢巻をきつく締め直して、怯える心に鞭を打った。
ここまで来たのだ。もう後戻りは出来ない。
寂尊も言っていた通り、これが螢さんを救うための最後の機会なのだ。
ここで逃げれば、螢さんは助からない。
僕はままよと腹を括った。
閉じた傘を壁に立てかけ、刀袋から愛刀を取り出し、左腰に差した。愛刀の重みが己の腰と一体になり、まるで体の一部と化したような感覚に、若干の頼もしさを覚えた。
刀袋を傘の隣に置いて、僕はドアと向き合った。見ると「臨時休業」という掛け札。
だが、それに構わず、僕はドアの把手を掴み、引いてみた。……開いている。
跳ね上がる心音に気づかないフリをして、僕はドアの中へと入る。
途端、知らない匂いを帯びた空気に包まれる。
いくつもの白熱電球で照らされた地下空間は、大まかに見て、先細りした二等辺三角形のような形状をしていた。
僕が入ってきた出入り口がその二等辺三角形の先端の部分にあたる。
出入り口のすぐ左には受付カウンターらしきモノがあり、そこから少し先の左壁にはさらに地下へ続く階段があった。
奥の方まで見て右端には男女用のトイレ。その他は全て余裕のある空間となっており、床から天井を貫く三本の円柱以外に何も無かった。
いつもなら怖そうなロッカーのお兄さん達が往来しているのであろうそのフロアは、しかし人っこ一人の気配すらない。不気味なほど静かだった。
ふと、右側の壁に、来客用の見取り図を記したボードがあった。
それによると、このライブハウスは地下二階まであるらしい。
地下一階がエントランスフロアとなっていて、僕は今そこにいるようだ。
地下二階がステージフロアとなっている。あの降り階段から行けるようだ。
このエントランスフロアには、男女トイレ以外に部屋らしい場所は無いようだ。
それなら、まずはトイレから探そうと考えた。
緊急事態だ。男女どっちも突っ込んで探してやる。
それでいて、警戒を怠るな。
僕の左手親指が、我知らず鍔にかかっていた。
なるべく足音を立てないよう、慎重に奥へ進む。
三本ある太い円柱のうちの一本目へ近づいたところで——その物陰から何かが飛び出してきた!
僕は反射的に剣を抜こうとしたが、その「何か」の正体を視認した瞬間、驚愕で目を見開いた。
「君は——太郎くんっ?」
どう見ても美少女にしか見えない、静かな可憐さをもった顔立ち。そして丸眼鏡。
太い一束の三つ編みにされた、綺麗な長い黒髪。
ハーフパンツを除いて、キャップ帽子とTシャツが、国民的人気特撮ヒーローシリーズ「ベクターシリーズ」アパレルモデル。
清楚な見た目を無理やりボーイッシュにしたようなチグハグな風貌。
——誰あろう、今年の六月十六日に出会った麗しき美少年、田中太郎くんではないか。
「コウ様っ? どうしてここに?」
太郎くんもまた、瞳を驚きで見開いた。その大きく綺麗な黒瞳の中には、鉢巻を締めた僕の顔が映っている。
「それはこっちの台詞だよ! 太郎くんこそ、なんでこんな所にいるの?」
また会えた、という喜びはもちろんあったが、今はそれよりも驚きと戸惑いが勝っていた。
こんなところで、しかも、こんなタイミングで。
「え、ええっと……私は、その……」
そんな思いを乗せた僕の問いかけに、太郎くんはきょろきょろしながら口ごもった。
見ると、彼の左手には、鞘に納まった一振りの刀が握られていた。
——今、僕と同じ場所に来て、僕と同じように剣を持参してきている。
そんな共通点に、僕の気持ちは、戸惑いから懐疑に転じていく。
だが、それ以上の考察は、出来なかった。
「臨時休業って札があったはずだけどなぁ? 無断進入とはいけないボーヤ達だ」
僕と太郎くん以外の声が、割って入ってきたからだ。
その声に僕らは同時に振り向いた。地下二階行きの階段へ。
見知らぬ男の人が、ゆっくりとこちらへ歩みを進めていた。
短くさっぱり切られた髪。精悍でありつつもゴツゴツした感じが少ない、角の取れた顔付き。
線が細いようでいて、よく見ると筋肉の密度の高い体つき。背も僕よりずっと高い。そんな体型にアロハシャツとカーキ色のカーゴパンツ、編み上げの黒いブーツを纏っていた。
陽気な熊を思わせる、日本人としてなんら珍しさの無い成人男性の風貌。
(でも、なんだろう……この懐かしい感じは……)
初めて会う人のはずだ。
にもかかわらず、僕はまるで遠い昔に出会った事があるかのような、そんな人物を再び出会った時のような、そんな切ない感じを覚えていた。
この感じは……郷愁?
(待てよ……この感じ、確かさっき神武閣でも……)
場違いな考察を広げている自分を自覚し、慌てて打ち切った。今はそんな場合じゃないだろ。
「あの……もしかして、このお店の人ですか……?」
僕はまず、無難な問いを投げかけた。
対し、男の人は口元に笑みを作り、どこかゆったりした声で、
「そうだなぁ……違うんだが、この店のオーナーとは良い仲でなぁ、ちょっとここで休ませてもらってんのさぁ」
「そ、そうなんですか。あの……僕、ある人を探してまして……その人がここに来たって聞いて…………」
「あぁ、なるほどぉ。で、どんな人ぉ?」
「えっと、それは——」
言いかけて、僕は黙った。
——鴨井村正は、単独犯ではない。別の誰かと手を組んで、神武閣であんな騒動を引き起こしたんだ。
ここまで逃げてきたのも、鴨井村正単独の力では無いはずだ。
誰の力を借りて?
『玩具』とかいう犯罪組織の——
(まさか——)
見た目が完全に日本人だから、固定観念で油断していた。
見ると、その男は右手を左手へ移動させていた。
さらによく見ると、男の左手には黒い点があった。……それが、刀の柄頭であることに、今更ながら気づいた。平行となった刀を柄頭の方から見ると、刀の存在を視認しにくいのだ。
「——コウ様、危ないっ!!」
切羽詰まった声を上げた太郎くんに押し倒されて尻餅をついたのと同時に、風が吹いた。
太郎くんは手元の刀を抜きながら瞬時に立ち上がり、僕を後ろに庇うように立った。
彼の刀身が、構える位置を何度も変ずる。そのたびに、金属同士が激しくぶつかり合う音が聞こえてくる。——だが、太郎くんの刀身は、何ともぶつかっていない。
僕の先ほどまでの己の立ち位置を見る。……そこの床には、直前まで無かったはずの、鋭く切り裂かれたような傷跡が一筋刻まれていた。
存在が近づく感覚。刀を抜いたあの男が急迫してきていた。
男の放った一太刀を、太郎くんの剣が受け止めた。
そこからさらに数度太刀を打ち合い、位置を目まぐるしく変える二人。
だがそれでも太郎くんは、僕を背後に置くという位置関係を変えることはなかった。
「っ……お逃げください、コウ様!! 早くっ!!」
かつてないほど切迫した彼の声に、僕は言われた通り、立ち上がって逃げそうになる。
だが——目的を思い出し、足を止めた。
僕がここに来たのは、鴨井村正を斬るためだ。
そうすることで、螢さんを『呪剣』の呪縛から解放するためだ。
体を張って僕を庇ってくれている太郎くんには大変心苦しいが……逃げるわけにはいかない。
「——ごめん、太郎くんっ!!」
短くもこれ以上無い謝意を込めた一言を告げ、僕は地下二階へ続く階段へ走った。
「コウ様、何を——くっ!?」
僕を追いかけようとした男を、しかし太郎くんが立ちはだかって止めてくれる。
……本当に、ごめん。
後ろ髪を引かれる気持ちを抱きながらも、僕は階段を降りたのだった。
「……踏み込まれたか。まあいい、あんなガキに野郎が遅れを取るとは思えねぇしな」
太郎が現在鍔迫り合いをしている目の前の男は、舌打ちを前置してそうひとりごちた。
そして、すぐに太郎へと関心を移す。
「さっきのを初見で躱すたぁ……てめぇ、ただのガキじゃねぇな?」
「ご想像にお任せします」
「まあ誰でもいいさ。ここへ来ちまった以上、女子供でも生きては帰さねぇ。お前も、あのチビガキも、まとめてバラバラにしてやんよ」
太郎は、黒く澄んだ瞳で静かに睨み返した。
「——させません」