昆虫のような人間
『バザロフ事件』という言葉がある。
冷戦期、元KGBマンであるアレクサンドル・バザロフが、ソ連から日本へ亡命してきたという事件である。
ソ連から日本への亡命者はこれまでも何人かいたため、亡命程度ならば「事件」という大袈裟な表現はしなかった。
『バザロフ事件』が「事件」扱いされているのは、ひとえに、そのバザロフの亡命によって日本にもたらされたモノがあまりにも衝撃的だったからだ。
『バザロフ文書』——亡命を受け入れる取引の材料として日本側に提供されたその文書には、なんと日本国内におけるソ連協力者が所狭しとリスト化されていた。
共産主義、反帝室主義といった強固な政治思想の持ち主から、荒唐無稽な陰謀論に踊らされた者、ハニートラップの餌食となった者、金銭面や個人的利害から知らずのうちにソ連に協力していた者まで、ありとあらゆる人物が載っていた。
この『バザロフ文書』は、日本の各界を大きく激震させた。
リストアップされた協力者は次々と逮捕された。逮捕者の中には、国会議員や官僚、その業界における重鎮的な人物も少数ながらいた。
……この時点では、まだ良かった。
文書をきっかけにした逮捕者の続出は、ソ連による日本侵攻が起こる前だった。なので日本人のソ連協力者に対する嫌悪は戦後ほどではなかった。軽蔑はしても、実際に手を出す者は少数だった。
だが日ソ戦が起こり、日本がどうにかソ連に打ち勝った戦後、ソ連協力者に対する日本人の悪感情は一気に苛烈を極めた。
彼らはみな「朝敵」とされ、厳しいバッシングの嵐に晒された。
悪戯電話、家の窓への投石、学校や職場でのいじめや冷遇、住宅地の中でのシュプレヒコール…………あらゆる方法で嫌がらせを受けた。
協力者本人だけでなく、その家族までもが被害を受けた。
実際に殺害されたり、自殺した者も少なくなかったという。
バッシングに耐えかねた彼らは、元々の名前や住所を変えて別人になりすます以外、この国で生きる方法がなくなった。
——渋谷区道玄坂にある地下ライブハウス『WEED』は、そんなバッシングの被害者遺族が創設した場所だった。
店長である大迫毅一の父親は、マスコミ関係者だった。
知らず知らずのうちにKGBに協力していたことが『バザロフ文書』で明るみとなり、警察に逮捕された。
それが原因で、日ソ戦後に世間から家族もろとも厳しいバッシングの対象となり、果てには家が焼けて母と弟を失った。放火を疑ったが警察はまともに取り合ってくれず、その件は半ば一方的に「火の不始末」として片付けられた。
孤児となった毅一はその後、親戚をたらい回しにされた。その末に引き取られた家でも、名前を無理やり変えられてから奴隷のように扱われた。
我慢できなくなった毅一はその家を飛び出し、その末に流れ着いたライブハウスの店長に拾われ、住み込みで働き始めた。
それから紆余曲折を経て、毅一は自分のライブハウスを持つに至った。
国や社会に構うことなく、勝手に生えて勝手に育つ雑草のような生き方を求めて、そのライブハウスには『WEED』名付けられた。
……そんなライブハウス『WEED』地下二階のスタッフルームで、鴨井村正は自身の応急処置を行っていた。
望月螢の至剣『伊都之尾羽張』によって斬られた腹の傷。
血は出たものの、見た目よりは浅く、なおかつ切り口が非常に綺麗であった。なので痛みを堪えれば縫い閉じるのは容易かった。そして村正は痛みが嫌いではない。
包帯を厚く巻いて応急処置を終えると、村正はコンクリートの壁に背中を預けた。上半身裸な上に肉付きも薄い体なので、ひんやりと冷たかった。
血を多少流したせいか、体が少し怠く、頭が重い。
一つしかないドアが、外側から叩かれる。……そのノック音がするまで、接近に気が付かなかった。
「何だ」
村正が短く応じると、ドアが開き、サングラスとアロハシャツを着たトーシャが入ってきた。
「どうよ、傷の具合は」
「とりあえず縫い終えた」
トーシャの軽い問いかけに、村正もまた軽く応じる。
……ちなみにこの男、店長の毅一には「壊滅した極道組織の元若頭」を名乗り、以前から上手いこと仲良くなっていたようだ。だからこそ今の村正のような手負いの人間を連れてきても、「裏社会の都合」と見て、深く追求はせず隠れ家を提供しているらしい。
皮肉なことに、トーシャが名乗っている「壊滅した組織」というのは実在していた組織で、しかも壊滅させたのはトーシャ本人であるという。以前トーシャの所属する組織と取引をしていたそうだが、隠れて契約違反を犯していたため、「制裁」としてトーシャが単身で組事務所に乗り込んで皆殺しにした。
店長が外出中であることを前置してから、トーシャは説明を始めた。
「とりあえず、これからの予定についてだが…………店長が明日までなら臨時休業にしてくれるそうだから、明日の早朝にここを発って、他の隠れ家に場所を移す。ロシア大使館に入れればこっちのもんだが、どうせ警察のことだ、大使館への道には張ってることだろうよ。だからほとぼりが冷めるまでの間、この帝都各所に存在する「隠れ家」を転々とする。次に行くのは中野区の闇医者んトコだ。この国では法律上許されない手術をこっそりやったせいで免許失ったモグリだが、腕は確かで、金さえ払えば誰でも治療するし守秘義務も守る。お前の本格的な治療もそこで行う」
「俺に金などもう無いぞ」
「話の流れで分からねぇかな? 俺ら持ちに決まってんだろ。お前の『呪剣』にはそれだけの価値があんだよ。……神武閣でその威力を見せてもらったが、いやはや、想像以上だったぜ。おまけにあれだけの騒ぎを起こしておいて科学的な立証が不可能ときた。ある意味、核兵器よりも恐ろしいぜ。これからも贔屓にしてやんよ。協力的な限りはな」
——俺ら。
トーシャがたびたび口にするその代名詞の意味を、村正はこれまで一度も問うたことが無かった。
「……おい、貴様。質問をしていいか」
「なんだい」
「貴様らは…………いったい何者だ?」
こいつがどこの誰であろうと関係ない。己があらゆるモノを捧げて完成させた『呪剣』を存分に、かつ大々的に振るえる機会を提供してくれるのなら、どこの誰であろうと。
だったというのに、今はそれが気になっている。
こいつらの正体。
そして、その目的。
——望月螢との勝負は、村正の負けだった。
もしもトーシャが妨害しなければ、彼女は間違いなくこちらの首を刎ねていただろう。
自分は負けたのだと、村正は認めざるを得なかった。
それと同時に、村正は強烈に自覚したのだ。
……自分の内面にある、広大な空洞を。
望月螢は言った。
自分には剣以外にも大切なモノが出来たと。
その大切なモノのために、剣を取ったと。
そんな剣に、村正は負けたのだ。
彼女の剣は、自分と同じだ。
至剣だけを見つめ、己のあらゆるモノを捧げてそれを掴み取るに至った、剥き出しの至剣流。
しかし、彼女はその後に、そんな己の剣以外の、愛すべきモノを得た。
それこそが、彼女と自分の間にある、ほんの僅かな違い。
しかし、明確な違い。
それを感じた瞬間、己の中に何も残っていないことを、村正は否応無く気付かされた。
剣以外の、何も。
村正はソレを「全てを捨てて剣に生涯を捧げた」と認識していた。
だが、そんな剣で負けたことで「剣以外の何も残っていない」というふうに認識が変化してしまっていた。
それこそが、己の中にある「広大な空洞」。
剣一本以外に何も存在しない、果てしない虚無。
今、トーシャの正体を知りたがったのは、なんでもいい、その内面の虚無を埋めたかったからだ。少しでも、充実に近づけたかったからだ。
それに対し、
「——お前、ようやく訊いてきたな、ソレ」
トーシャは、反吐が出るような口調と表情で、そう言った。
「お前、剣以外に関心向けなさすぎなんだよ。最初は御し易いとしか思ってなかったが、今じゃ見てて不愉快でしかねぇわ」
本当に不快そうに吐き捨てる。
「お前はずっとそうだった。これから自分の生まれた国を傾けようって作戦を教えた時も、お前は何の疑問も持たずに「至剣が振るえるから」とホイホイ乗っかりやがった。あの時、お前が作戦から逃げ出せなくなる方法を、俺がいくつ事前に考えていたと思う? そのどれもが徒労に終わるほど、お前は馬鹿で、自己中で、そして幼児的だった。殺してやりたくなるほどにな」
その口調を崩さぬまま、トーシャは村正に言い放つ。
「鴨井村正、お前は昆虫だ」
容赦無く、そう評する。
「獣には宗教も哲学も無いが、親子という意識は存在する。しかし昆虫にはそれすらも無い。なぜなら雌が産み去った卵から生まれるからな。そんなものは存在し得ないわけだ。……ゆえに、理念も二つだけ。生きて、殖えるだけ。それだけを繰り返し続けるんだよ。世界が終わるか、種が滅ぶまでな」
村正は、それを黙って聞き入れ続ける。
「お前はそんな虫どもにそっくりだ。自分の生まれた国どころか、家族にさえ帰属意識を持たず、生きる理由は剣のみ。その剣のためなら、生まれ故郷や同胞さえも平然と切り捨てる。ヒトという社会性動物として欠落したクソバカだよ、お前は」
全て、事実だったから。
「はっきり言ってやる、鴨井村正。——俺はお前の『呪剣』と、それに至った努力は認めているが、ソレ以外の部分は全て軽蔑し、憐憫を抱いている。てめぇは恥ずべき虫野郎だ」
自分には、剣以外に何も無い。
全く同じ認識を、外側から聞き入れた。
かなり苛烈な語気ではあったが、村正は微塵も腹が立たなかった。
むしろ、ほんの少しだけ、自分の中の虚無が満たされた気分になり、心地が良いとすらいえた。
「言っておくが、もうお前は逃げられねぇぜ。お前はもうすっかり『玩具』とねんごろだってこの国のオマワリには認識されちまってるだろうからな」
「『玩具』……それが、お前たちの名前か」
「そうだ。『玩具』。かつてルビャンカ広場にあったKGB本部の隣の玩具屋に由来した名前だ。これから長い付き合いになるんだから、覚えておきな」
「心得た。では……もう一つ訊きたいのだが」
「あぁ?」
ぞんざいに応じたトーシャに、村正は問うた。
「——貴様の名前を、教えてくれるか」
途端、トーシャはひどく怪訝そうな顔をして、
「気持ち悪ぃな。何なんだいったい? 友達ごっこでもしてぇのか?」
「長い付き合いになると言ったのは貴様だろう。ならば、名前くらい教えてくれても罰は当たらんと思うがな。……トーシャというのは、渾名のようなものなのだろう?」
トーシャは舌打ちすると、調子が狂ったように頭を掻き「一回しか言わねぇぞ」と前置きをしてから。
「俺の名前は——」
ちなみに子育てをする昆虫もそこそこ存在します。
アリやハチや、ハサミムシなどです。
あとGも。