穢れる覚悟《承》
——病院というのは、静か過ぎて、清潔過ぎて、逆に落ち着かない。まるで別の世界に入ったみたいな気分だ。
今日、当事者として入った僕は、なおさらそう思わずにはいられなかった。
ここは、千代田区富士見にある大きな病院だった。
僕はそこのロビーの端で、ベンチに座っていた。
傍らには竹刀と、一纏めにされた面と小手。……防具をつけたままこの病院に来てしまったせいだ。家には帰っていないので、いまだに僕の装いは稽古着と胴と垂だ。
ガラス張りの壁の向こうでは、雨が降っていた。来た時は晴れていたのに。やっぱり夏は天気が変わりやすい。
壁の時計を見る。今ちょうど午後三時に達したことを、針が示していた。……ここへ来てから、随分と時間が経ったようだ。
(……天覧比剣、どうなってるんだろう)
僕はふとそう思うが、考えるまでもないことだ。
あんなことがあったのだから、天覧比剣は中止に決まっている。死人まで出ているのだから。
惜しむことがあるとするなら、部員のみんなに連絡も無くここに来てしまったことか。みんなが携帯電話なるものを持っていれば、すぐにお互いの状況と事情を連絡できたのに。
——僕が螢さんとともに病院を訪れたのは、およそ十時弱。
倒れている螢さんの姿を、僕は地下一階で見つけた。
近くに血痕が残っているのを発見し、まさか螢さんのかと胆を冷やしたが、螢さんの体にはどこにも大きな外傷は無かった。……右腕にごく浅い切り傷がついているのを見つけたが、こんな傷からあんなにたくさん血は出ないだろう。
しかし、螢さんはいくら呼びかけても目を覚さない。
それどころか、何かにうなされているように苦しそうだった。
あと、すごい熱だった。まるでインフルエンザのように。
僕は螢さんを担ぎ、一階へ移動。……さらさらと心地良い髪の感触と、ミルクっぽい良い匂いがしたが、それに夢見心地でいられる余裕はその頃の僕には皆無だった。
入口ゲート近くにいた制服のお巡りさんに声をかけて、病院まで運んでもらえるよう頼んだ。任務上無断でここを離れるのは許されないそうで、少し悩んだ様子だったが、すぐに意を決してパトカーを出してくれた。親切な人だった。
神武閣から一番近い、この病院へ螢さんは運び込まれた。
螢さんはすぐに検査を受けた。
しばらく待って、僕に告げられたのは——原因不明。
体温は四十二度。
白血球の数は三万二〇〇〇。基準値である五〇〇〇〜一万を大幅に超過している。
呼吸の乱れもひどい。
しかし、螢さんの体を検査しても……病原体も毒物も、何も検出されなかったという。
ゆえに、原因不明。
ただ一つ分かるのは、明らかに異常な状態で、容態は良くないということのみ。
螢さんは個室のベッドで寝かされた。
本当なら眠っている螢さんの側にいてあげたかったが、面会謝絶とのこと。
今の僕に出来るのは家に帰ることだけ。
しかし、それを分かっていても、僕はここから離れたくなかった。
螢さんを、置いて行きたくなかった。
「……螢さん…………」
僕は膝に置いていた手でぎゅっと袴を掴んだ。
……大丈夫だ。たぶん、ちょっと調子が悪いだけだ。誰だって具合の悪い時はある。
……螢さんは最強だ。今まで誰にも負けなかった。病気にだって負けない。大丈夫、またすぐに元気になる。
……すぐに体調が良くなって、何事も無かったかのようにまた剣を振り始める。
そうやって必死に自分に言い聞かせ、己の心を守ろうとする。
だけど、自分の中にいる、もう一人の合理的な自分が、その試みを理路整然と打ち砕こうとしてくる。
——あの場にあった血痕は何だ?
——螢さんが持っていたあの刀は、何で抜き身だったんだ?
——螢さんはいったいあそこで何をしていた?
——そもそも、螢さんは何で「開幕演武」なんて引き受けた?
——螢さんは、僕が知らない「何か」と関わっていた。その「何か」は、剣でやり取りをしなければならないほどに恐ろしい存在だ。
——さらに考えるといい。実力的にも、「刀を持っている」という条件的にも、剣でのやり取りが成立する存在なんて、あの時の神武閣には二人しかいなかった。
——嘉戸寂尊と、もう一人……観客席で目が合った、あの男だ。
——僕はあの男を見た時、螢さんが危害を加えられて、刀を奪われたのだと思った。
——だが、問題はそれよりもさらに深刻かもしれない。
——あの男が、観客をその刀で斬りつけることで、凶暴化させていた。
——そんな非常識な芸当が出来る手段は、僕の知る限り『至剣』しかあり得ない。
——であるなら、あの男は間違いなく至剣流の皆伝者だ。螢さんと同格。
螢さんが、あの男と斬り合ったのだとしたら?
その末に、あの男の『至剣』を浴びてしまったのだとしたら?
『至剣』の力が……今の螢さんの、あの状態を作り出しているのだとしたら?
(ばかばかしい……)
何が理路整然だ。不明な点を全て妄想で補ってるじゃないか。脈絡の無さも目立つ。
——でも。
螢さんは今日の決勝戦前でも、「開幕演武」を平然としていた。元気だった。
それなのに、毒物も病原体も体に入っていないのに、あんな死にそうな苦しみ方を見せる。
そんな非常識な現象を起こせるモノなんて、至剣の他にあり得るのか?
「螢さん……」
もう考えるのが嫌になった僕は、お行儀が悪いと分かっていても、ベンチの上で膝を抱えた。
膝小僧越しに病院内ロビーを見るともなく見る。退院おめでとうと抱き合う家族、安心したような顔で会計を済ませて帰っていく女性……みんなが幸せそうに見えてくる。それに比例して、自分の置かれた立場の悪さが際立って感じる。自分と螢さんだけ、幸せな世界から阻害を受けているような錯覚に陥りそうになる。
自分の思考の荒み具合にさらに落ち込んだ。
「会いたい……」
螢さんに会いたい。
面会謝絶なんか無視して、螢さんの傍らにいたい。彼女が治るまで、何日でも。
手を握りたい。髪を触りたい。
螢さんの存在を、感じたい。
だけど、これは螢さんのためではなく、僕のためだ。
僕の荒んだ心を慰めるための、自己中心的な願望。
そんなことをしたって、螢さんの回復が早まるはずは無いのに。
「なら、どうすれば……」
お医者さんにだって分からないなら、僕に出来ることなんて無い。
僕は所詮、剣が少し出来るだけの、ただの子供だ。
剣以外に、僕の持っている強さは無い。
いや、その剣ですら、自分は螢さんを守れない。守れなかった。
「…………ちくしょう」
膝を強く抱え込み、思わず毒づく。
なおも膝小僧から、ぼんやりとロビーを眺めていた時だった。
「——あれは」
腐りかけていた僕の思考と情緒が、急速に蘇る。
ちょうど今、自動ドアから入ってきた、二人組の男。そのうちの一人。
「……嘉戸、寂尊」
墨色の羽織を整然と着こなした、ブレが無く綺麗な姿勢と歩容。見るからに良家の者と分かる無駄の無い振る舞い。……至剣流宗家の次期家元の座を約束された男。
僕はその姿を見て「開幕演武」を思い出し、もやっとした気持ちを連想するが、それ以上にこう思った。
(なんで、あの人がここに?)
どこか悪いのか? いや、とてもそうは見えない。
寂尊の隣を歩く人物に着目。
その細身にセレストブルーの半袖ワイシャツと紺のスラックスを纏った、長身痩躯の若い男の人。眼鏡の似合う、涼しげで頭の良さそうな面長の顔立ち。
二人は病院の受付の人に話しかける。寂尊は何も言わず、隣の男の人だけが喋る。
隣の男の人が受付の人に何かを提示すると、受付の人はやわらかな表情を深刻そうに引き結び、カウンターの受話器を取って誰かと話し始めた。
しばらくすると、白衣を来た男の人が二人の前に現れた。……僕に螢さんの容体を告げた、あのお医者さんだ。
お医者さんの後をついていく形で、二人は病院の奥へ進んでいく。
——気がつくと、僕はそれを追いかけていた。
それを自覚してから、僕は慌てて尾行する姿勢を取った。正直、嘉戸寂尊と関わるのは気が進まないが、彼がどうして今、この病院に現れたのかも気になる。……螢さんが入院し始めた、このタイミングで。
二人の後をこっそり追うまま、僕は入院棟へ移動。
エレベーターが詰まっていたためか、それとも大して高くない階が目当てなのか、階段を使って上へ進む三人。ありがたい、これなら何階に用があるのか分かる。エレベーターだとそれを知るために同乗しないといけないから。
三人は、三階の廊下へ出た。……螢さんの個室がある階だ。
僕は階段の曲がり角に隠れて、まっすぐ廊下を進む三人を見る。
彼らが止まったのは——螢さんの個室の前。
お医者さんを先頭に、寂尊たち二人は螢さんの病室へと入った。
その様子に、僕は場違いながら嫉妬のようなものを覚えた。
僕が螢さんに遠慮して踏み入るのを我慢しているのに、寂尊は平然とそれを超えていったのだ。まるで螢さんの心にずかずか入り込まれていった気分になった。
そんな我ながらみっともない気持ちを引きずりながら、僕は螢さんの個室の前まで来た。個室の扉は引き戸になっている。それをこっそりズラして隙間を作り、中の様子をうかがう。
お医者さんは、僕にしたのと全く同じ説明を二人に聞かせた。非常に高い熱。容体は良くない。しかし体内からは病原体や異物の類は検出されず。原因不明。
ベッドで苦しそうに眠る螢さんを、寂尊はしばらく見つめていたかと思うと、突然毛布をめくり上げ、彼女の病衣の右袖を捲り上げたではないか。
(この——)
僕がその狼藉に腹を立てるのと同時に、寂尊の唇が動く。
その微かな唇の動きから、音も無く発した彼の独白を読んだ。
——この傷が原因か。
原因。
螢さんがああなった、原因ということか?
お医者さんですら匙を投げたその答えを、彼は知っているとでもいうのか?
そのお医者さんは寂尊の行いに叱責する。寂尊は詫びるように一礼すると、再び螢さんの袖を戻し、毛布を掛け直した。
寂尊が「ありがとうございます」と告げたのを最後に、三人は病室を出た。……僕は三人が扉に近づくのを見た途端、慌ててまた階段の曲がり角に隠れていた。
お医者さんと寂尊たちがそこで別れ、別々の方向へ歩み去る。僕は寂尊たち二人の尾行を再会。
二人が立ち寄ったのは、休憩室だった。
寂尊は壁に寄りかかり、もう一人の眼鏡の男の人はベンチに腰を下ろしていた。
眼鏡の人は、表情を曇らせながら寂尊に言った。
「……寂尊、先ほどの彼女が」
「ああ。望月源悟郎閣下の義理の御息女、望月螢だ」
「彼女が…………噂には聞いていたが、聞きしに勝る美しさだったね」
「惚れたか? 歩」
「寂尊らしくないね。こんな時に冗談を言うなんて」
休憩室の曲がり角から、僕は彼らの言葉に聞き耳を立てていた。
眼鏡の人——歩という名前らしい——は、少し間を置いてから、再び深刻そうな低い声色で、
「……神武閣警備の警官の一人が、病院に運んだと聞いて来てみたが、彼女はやはり……」
「ああ。彼女の右腕には、例の浅い刀疵があった。——間違いなく『呪剣』の呪いを受けている」
じゅけん……刀疵……呪い…………『呪剣』。
それが、原因だというのか?
眼鏡の人の、愚痴るような低い声。
「今回の警備計画の大半を修正したのは僕だけどね、その僕がいまだに信じきれていないよ。たかが剣術が、よもやあのような事態を引き起こすなんて。もうオカルトの領域じゃないか、あんなの」
「だが現実だ。会場をあのような惨状に変えたのも、名高い女剣豪を瀕死に追い込んだのも、全て鴨井村正の持つ至剣『呪剣』だ。あれに少しでも肌を斬られれば最後、その人間は心を冒される」
それを聞いて、僕の心臓が嫌な高鳴り方をした。
あの異常事態の原因と、螢さんのあの状態を作り出したのが、至剣。
少しでも斬られれば、その力が発動し、精神をおかしくしてしまうという至剣『呪剣』だと。
だが、驚いたのはそこではない。そこに関しては、ある程度予想はついていた。
……瀕死。
寂尊は、螢さんの今の状態をそう呼んだ。
「『呪剣』に斬られて呪われた人間の行う行為は、主に二種類。他人に危害を加えるか、自害するか。……会場で暴れ回った観客は全て前者で、望月螢は後者だ」
「望月さんのアレは……自害だと?」
「ああ。手元に刃が無くとも、人間は思い込みだけでも自分を害することができる。望月螢は呪いの命じるがまま、自分の意思で自分の肉体を悪化させている」
僕の足が逃げたがっている。
今すぐこの場を去らなければ、残酷な言葉を聞かされてしまう。
けれど、そう思っている時点で、僕は言葉を聞くまでも無く分かっているのだ。
このままだと、螢さんがどうなってしまうのか。
「このままだと——望月螢は死ぬことになる」
僕が膝を屈するのと、休憩室の壁が叩かれるのは、同時だった。その後に聞こえた悔しげな声は、眼鏡の人のものだった。
「なんということだ……ロンドンの毒傘事件のようなことを、証拠も残さずやってのける方法を、『玩具』という危険な組織は手に入れてしまったということか……!」
「歩、その後、警察はどう動いている?」
「すでに港区のロシア大使館へ通じる道に、警官が何人も張っているよ。確たる物証は無いし、ロシアは絶対に認めないだろうが、連中がロシア系組織の『玩具』とグルなのはもはや確定的。神武閣で帝とバークリー大統領が亡くなったり、その事件がきっかけで日米が仲違いして一番喜ぶのは、どう考えてもロシアだからね。あと、大使館から外ナンバーの車が出てきた場合にも尾行をつけるよう命じている。外交特権ってやつがあるから逮捕は出来ないが、繋がりがあるという証拠を掴むことくらいは出来るかもしれないからね」
「流石に迅速だな。網にかかると思うか?」
「正直、難しいだろうね。『玩具』の奴らも馬鹿じゃない。のこのこ罠にかかりに行くとは思えないよ。おそらく、ほとぼりが冷めるまで国内に留まるだろうさ」
『玩具』、ロシア、帝、大統領…………いろんな単語や文脈が耳から頭の中に入り、溜まっていく。
まともに思考できない。
このままだと、望月螢は死ぬことになる——寂尊のその言葉ばかりが、何度も脳裏を去来していた。
「望月螢なら、鴨井村正に勝てると思っていたが……まさか敗れるとは……」
だが、そんな寂尊の呟きを耳にした途端、停止していた思考が蘇った。
今……この男は何て言った?
「あの「開幕演武」とかいう催しをねじ込んだのは君だったね、寂尊。あれは国賓である大統領をもてなすためのパフォーマンス……というのが表向きの理由のようだが」
「そうだ。本当は——刀を天覧比剣に持ち込む大義名分を作ることが目的だった。万が一、鴨井村正が『呪剣』を振りかざした場合、すみやかにそれを討ち取る手段を持つためにな。そうしなければ、『呪剣』の呪いは解けないから」
「その役割を……望月螢さんは引き受けてくださったわけか」
「ああ……失敗してしまったようだがな」
——僕はずっと、気になっていた。
例年には無い「開幕演武」なるモノを、どうして天覧比剣期間中毎日行っていたのか。
その理由が、コレだというのか。
「……どういう、ことだよ」
僕は我知らず、そう呟いていた。
息を呑む声が一人分。曲がり角から音も無く、大きな人影が出てきた。
何を考えているのか分からない寂尊の無表情を、僕は見上げて睨め付ける。