穢れる覚悟《起》
まだ文字数がそんなに溜まっていませんが、クライマックスへの布石として連投しておきます。
全四話。
八月六日、午後二時。
東京都千代田区富士見。
某病院の入院棟にて。
夏の天気は急変しやすい。
先ほどまで晴れ渡っていたはずの空は、すっかり鉛色の分厚い雲に覆い尽くされていた。
おかげで窓から入る自然光も乏しく、この個室は薄暗かった。
その中にある清潔なベッドに、その少女は長く艶やかな黒髪を広げながら眠っていた。
思わず見入ってしまいそうになるほどの美貌。
だが、その寝顔には苦痛が浮かんでいる。呼吸が乱れ、額にびっしり汗がにじんでいる。
まるで体の中で、何かが暴れているように。
彼女の眠るベッドの名札には「望月螢 殿」とあった。
ベッドの傍らに——その人物は立っていた。
眠る少女とはまた別種の、静かな可憐さを誇る端正な目鼻立ちだが、彼はれっきとした少年である。
彼女と同じく長い黒髪を、一束の三つ編みにしている。その目には度の入っていない丸眼鏡。
ハーフパンツを除き、キャップ帽、Tシャツは全て国民的特撮ヒーローシリーズ「ベクターシリーズ」のアパレル品。
足底が付く床から頭頂部までしっかり筋が通っている、まるで一本の竹のような整った佇まい。
浮世離れした風貌を世俗的にマスキングしているような、そんな装いであった。
そしてその右肩には、少年にしか視えない「三本足の烏」が留まっていた。
少年は、右手に抜き身の短刀を持っていた。短刀の中でも特に短い、懐剣と呼ばれる種類。主に守り刀として、良家の子女に贈られるものだ。
懐剣を振り上げ、そして弧を描いて斬り下ろした。
あらかじめ虚空に描かれた線を寸分違わずなぞったような、美しく整った振り方。
懐剣の刃は少女には少しも届いてはいないが、その短い刀身からさらに伸長した「刃」があった。その存在は、少年と、その血族にしか判らない。
その「刃」が、少女を斬った。
より正確には、彼女の中で暴れる「呪力」を。
途端、彼女の苦悩した寝顔は落ち着き、安らかに寝息を立て始めた。まるで悪夢から解放されたように。
だが、少年の黒く綺麗な瞳は、痛ましく同情するように細められた。
「——やはり、解呪はかないませんか」
ため息のようにひとりごちる。
「非常に特殊かつ、強力な感染呪術です。この方にかかった呪力はいわば末端。大本が存続する限り、呪いもまた持続します。末端へいくら解呪を試みようと、それはその場しのぎにしかなりません。もう何分か経てば、苦しみは再発することでしょう」
呪いにかけられた人間をいくら治しても、それは応急処置にしかならない。
これは、そういうモノだ。
「そしてこの方には、他の同種の呪力を宿す方々の中でも、特に強力な呪いがかかっています。その呪いの強いるまま、彼女は自らで自らを殺めようとしている」
想像妊娠という言葉がある。
たとえその胎が空っぽでも、孕んだという勘違いや思い込みの力によって、月経を止めたり、悪阻を起こしたり、初乳を分泌させたりすることがある。
強烈な意念は、体に強い影響を与える。
……それと同じ理屈で、目の前の少女は己を殺そうとしている。
顕在意識ではなく、潜在意識に呪いが根を降ろしている。
いくら彼女が「生」を望もうと、無意識に己を殺そうとするだろう。
手元にある刃ではなく、己自身に宿る身体機能で。
「このままでは——遠からず、彼女は息を引き取るでしょう」
少年は、残酷な真実を告げた。
自分が慕う彼が聞けば、絶望で崩れ落ちてしまいかねない、そんな事実を。
「止める方法は、二つ」
だが、少年は手を尽くそうと即座に動き出す。
「この呪力の「大本」へ、私が直接この剣を施すこと。その「大本」の感染呪術の能力自体が消えることはありませんが、「大本」との呪力の繋がりは全て断ち切られ、解呪は叶うことでしょう」
そして、もう一つは。
「呪力の「大本」を、殺害すること」
†
——狂騒状態となっていた神武閣が完全に沈静化されたのは、午前十時ごろだった。
呪いの暴徒により、神武閣内部の警官も少なからず被害を受けて負傷していた。そのため緊急要請によって人員がすぐに増やされ、武装した警官隊が大量に神武閣へ投入された。
だが、入った時にはすでに、神武閣内部は大半が静まっていた。地下階に数少ない暴徒が暴れている程度だった。
なのでまずは地下の暴徒を拘束し、それから警官隊は役割ごとに人員をいくつかに分けた。
——要人の身柄の確保。
VIPルームに籠城していた帝とバークリー大統領はともに無傷。
皇宮警官とシークレットサービスも、発砲はせずに済んだという。
彼らの身柄を、安全な場所まで運んだ。
……大統領が何事かまくし立てていたが、英語の分からない警官隊には騒音にしか聞こえなかった。帝の残念そうな表情からして、良い内容でないのは確かなようだが。
——負傷者の救出と保護。
警官隊が駆けつけた時にはすでに、はっきりと暴れている暴徒よりも、怪我人の方がずっと多かった。
顔面に殴られた痣が少しある程度の軽傷者から、散々殴打された末に意識を失っている者や、骨折をしている者もいた。
さらに少数ながら、死亡している者もいた。観客席から大武道場へ転落したり、暴れる大量の観客に押し潰されたり。当然ながら遺体の回収も行った。
——暴徒の探索と連行。
何度も述べるが、警官隊が入った時にはすでに暴れている者はほとんどおらず、誰が暴徒であるのか見分けがつかない状況だった。なので意識のある警官や観客から話を聞き、誰が暴れていたのかを教えてもらった。
そうすることで、可能な限り実行犯を拘束するよう努めた。
……暴徒とされた者のほとんどは、とても直前まで暴れていたとは思えないほど、深く安らかな眠りに落ちていた。
以上のように、神武閣の沈静化はあっという間に完了した。
逮捕者数、三〇〇人超。
重軽傷者数、七十八人。
死傷者数、九人。
二〇〇二年度天覧比剣少年部は、決勝戦を残して中止となった。
学生剣士にとっての晴れ舞台は、見るも無惨なありさまと化した。
しかし、この咎をどこの誰に見出し、非難を浴びせればいいのか、誰にもはっきりと分からなかった。
何もかもが、不可解な事件だった。
——こうして『神武閣事件』は、幕を下ろした。
……そして。
その混沌の中で、望月螢もまた病院に運び込まれていた。