神武閣事件——黒いモノ
螢さんを探すべく飛び出した僕は、全力で走り、まずは地下二階を探した。
ドーナツ状の廊下の壁にある部屋を片っ端から開き、思いっきり螢さんの名前を叫んで呼びかけた。
あっという間に地下二階を全部探し切ったようで、最初に探し始めた位置まで戻ってきた。
神武閣は広い。一階層をぐるりと廻るだけでもそれなりの距離があった。
おまけにまだ面を含む防具一式を装備したままだったので、それが重みとなっていた。
それでもなお息切れがほとんどないのは、ひとえに撃剣部での竹刀稽古の成果といえよう。
ここはもう用は無い。
次は地下一階だ。ここにはVIPルームもあるが……構わない。帝に粗相を働かなければいいだけの話だ。そこにもいなければ今度は地上の階をしらみつぶしに当たる。
……僕にだって分かっている。今の自分の行いがいかに無策なものであるのかは。
だけど、僕はこの天覧比剣が始まってからというもの、螢さんと言葉を交わす機会が無かった。だから、なぜ螢さんが「開幕演武」などというものを引き受けたのかも、普段はどこで控えているのかも分からない。手がかりが何も無い。だから手当たり次第で探す他無い。
何より……螢さんに何かあったかもしれないと考えた以上、策が無いから放っておくなんて、僕には出来ない。
だから僕は、再び走り出すのだ。
ドーナツ状の廊下。その内側の壁に背を預けて、呼吸を整え、気持ちを落ち着け、コンクリートの床を蹴り出した瞬間。
——壁の輪郭から出てきた男の人と、すれ違った。
思わず僕は立ち止まり、振り返る。
歩くのが速いようで、すでにその男の人は遠くで背中を見せて歩いていた。
一見すると細身だけど、よく見ると無駄の無い筋肉で引き締まった体格。背は僕より頭一つ分以上は高い。
その身長差のせいか、すれ違いざまに顔がよく見えなかった。口元に微笑を浮かべていたことしか分からなかった。
だけど、どういうわけだろう。
あの人とすれ違った時、僕は確かに感じたのだ。
——懐かしさ、のようなものを。
口元しか見れていないが、きっと僕はあの人とは初対面だと思う。まだ十四年しか積み重ねていない記憶を振り返っても、彼のあの背格好はどこにも登場していない。
しかし、記憶には無くても、僕の体は……確かに「懐かしい」という感覚を作り出していた。
さらに、それと同じくらい、気になることがもう一つ。
(なんであの人…………竹刀なんて持ってるんだ?)
選手でもないというのに。
†
——まさしく、少しの誇張も無い「一瞬」の出来事であった。
「裏剣の構え」をした螢の姿が消失したと思ったその時には、全てが終わっていた。
村正の前から後ろへ「一瞬」にして移動した螢は、その「一瞬」の流れで横一文字の一太刀を発していた。
そんな螢の至剣は、その太刀筋の途中にあるモノを、例外無く「通過」する。
そう。例外無く。
刀身の材質と硬度、刃の表面積とそこにかかる重量、衝突する物質の硬度や弾力——そういった物質界の範疇にある条件の何もかもを無視し、問答無用で「両断」を強いる一太刀。
否。もはやそれは、剣技という表現すら適当ではない。
極限まで純粋化された「両断」という現象そのものを、刀という物質に宿らせて叩き込んだような。
善も悪も、強きも弱きも、希望も絶望も、新たも古きも、硬きも軟きも——何もかもを平等に断つ、最強の一太刀。
神殺しの剣と同じ名を持つ至剣。
村正は、右膝を屈した。
「ぬぐぅぅっ……!!」
高音で赤熱した鉄塊を腹に押し付けられるような激痛で、表情を歪めていた。
ポロシャツの腹部からは急速に血の赤が広がっていて、屈した右膝のズボンにも染み始めていた。
激痛の中でも、しかし村正は冷静に今の己の状態を確認した。……やや深い傷だが、腑には達していない。動けないほどの傷ではない。しかしこの痛みは、これから戦う上で大きな足枷になるだろう。
そしてなにより、己の刀身が……半ばから綺麗に両断されていた。
「——少し、手元が狂った」
後方に立つ螢は、そうこともなげに呟く。
——他人の至剣を目にするのは、トーシャに続いて二度目だ。
だが、これからいくら至剣を見ようとも、「望月螢の至剣が最も恐ろしい」と記憶に残り続けるだろう。
両断された刀身を見ながら、振り返る。……折られたという感触すら、無かった。
村正は、脂汗まみれでこわばった顔に、痩せ我慢の笑みを浮かべ、問うた。
「…………その至剣、名はあるのか」
「伊都之尾羽張」
燃え盛る神を殺し、その返り血からたくさんの神を新たに生み出した神話の宝剣と、同じ名。
大袈裟な名前であると感じられない、掛け値無しの『至剣』。
「これほどの、至剣を、持ちながら……」
これを手にするまで、彼女は、いったいどれほどのモノを剣に捧げてきたのだろう。
「なぜ、貴様は……俺の邪魔をする? 俺を阻む?」
彼女は言った。
お前は自分と同類だと。
己のあらゆるモノを、剣の供物にした者だと。
その末に、至剣という徒花を咲かせた者だと。
であるならば、彼女は、村正の思いを理解できるはずだ。
全てを捧げて得た至剣を収蔵させ腐らせることを良しとしない、そんな気持ちを。
「——わたしは、自分の剣以外にも、大切な人達が出来た」
螢は淡々と、しかし確固たる意思のこもった答えを返した。
「だから、そんな人達をあらゆる意味で危険に晒しかねないあなたを、許すわけにはいかない」
……言っている意味がよく分からない。
大切な人達?
そんなもの、村正にはいないし、必要も無い。
自分以外の人間に入れ込むなど、非常にリスクの高い危険な感情だ。
心から自分を愛してくれた肉親でさえ、ささいなキッカケで変貌し、愛していたはずの自分に牙を剝く。
愛というものがいかに理不尽に弱く、失われやすいものなのかを、村正は経験則で知っている。
人は所詮、自己保存の本能には勝てぬ畜生だ。他人も、そして自分も。
反面、己の剣は違う。
修練を積めば、必ず答えてくれる。
どう育もうかと頭を悩ませれば、いつか必ず成長してくれる。
事実、村正はそうやって至剣を得たのだ。
……自分と違い才能に溢れているこの女だって、至剣まで通った道は同じだったはずだ。
それなのに、この女は、無視して然るべき他人のために剣を取った。
無傷で、自分に勝ってみせた。
「今度は外さない。確実にあなたを——」
そして、自分以外の愛する誰かのために、こちらの首を刎ねようとしている。
「殺す」
その時。
「悪いが、そいつを殺させるわけにはいかねぇんだわ」
人を食ったような口調が、二人の会話に割って入ってきた。
村正は、その声を知っていた。
「貴様か……!」
顔を上げると、やはりトーシャだった。
つい今階段を降りてきたばかりのようだ。階段からこちらへ向かって、悠々と歩いてきている。……その手にはなぜか竹刀。
「流石は現代の中澤琴と名高い女剣豪。大した腕じゃねぇの」
敵を讃えるような台詞を吐かすトーシャに、村正が睨みをきかせる。
その睥睨を一笑に伏し、トーシャは手短に尋ねた。
「走れるかよ?」
村正は癪だったが、黙って首肯した。
「よし。んじゃ、とっととずらかるぞ。そろそろサツ共の動きが活発になってきそうだ。このままとどまってたらパクられて終いだぜ」
そのやり取りを聞いて迅速に事情を察した螢は、村正の首めがけて刃を振り放った。逃げられる前に止めを刺すべく。
だが、螢の放った一太刀は、村正に到達する前に——虚空で弾かれた。
「——!?」
さすがの螢も驚愕を禁じ得ない。
だって、刀は何にもぶつかっていないのに、まるで何かに打ち返されたような衝撃を刀に受けたのだから。
螢の思考は瞬時に、その謎の現象との因果関係を持つ事象を、直前の記憶の中から探り当てた。
村正が剣で打ち返したのではない。
銃を構えていた者もいない。
突然現れたあの男が——竹刀を振ったのが見えた。
そして、先ほど刀越しに手へ伝わった衝撃は、あの竹刀が振られた軌道と同じ向きの力であった。
さらに男は、竹刀を横一文字に振る。
「っ……」
螢はほぼ本能的に、自分の前に剣を垂直に構えた。瞬間、横一文字の一太刀を受けたのと同じ衝撃が剣に衝突した。数歩後ろへたたらを踏んだ。
その瞬間、村正が立ち上がり、右手で腹部の傷を押さえながら謎の男へ向かって駆け出した。
追おうとする螢だが、またしても謎の衝撃が進行の邪魔をする。
仕組みは分からないが、この不可視の衝撃をあの竹刀の振りが作っていることはもはや明白だった。
竹刀のリーチ外遠くまで届く剣技……極めて非現実的だが、現実だった。
男は、村正が自分を通り過ぎるのを確認すると、村正とともに走り出した。
当然ながら螢は追いかける。
男が放ってくる不可視を、右手を切っ尖後方の峰に添えた中取りの持ち方で防ぎつつ、追跡を続ける。
二人が階段の曲がり角へ入ったことで、男からの攻撃が必然的に止む。
邪魔が無くなった螢は、心置きなく疾走して——
「————っぐ!?」
どくん、という強烈な脈動感を覚えた螢は、思わず片膝をついた。
思考が黒いモノで急速に満たされていく。
凄く寒い。
全身から力が抜けていく。
体が鉛のように重くて怠い。
思考が急激に鈍るのを感じる。
目の前が、暗くなってくる。
(まさか——)
心当たりを覚えた螢が、急速に萎んでいく気力を振り絞り、自分の全身を見回す。
そして見つけた。
右腕の袖に、ぱっくりと開いた切れ目。
その切れ目の下の素肌に走る、薄い切り傷を。
——もしも、である。
先ほど放った『伊都之尾羽張』。
螢は確かに、村正の胴を割るつもりで放った。
しかし結果は知っての通り。そこそこ深く斬ることはできたものの、あのように動き回れる程度の傷しか負わせられなかった。
それが、螢の失敗ではなく……村正の『呪剣』のせいだとしたら?
螢の至剣は、前に構えられた村正の刀を確かに両断した。
だが、その両断され切り離された刀の片割れに、まだ『呪剣』の力が残留していたとしたら?
切り離されて虚空を舞った片割れの刃が、螢の右腕を微かにでも傷つけたとしたら?
その時に受けた『呪剣』の呪いの影響で、直前で太刀筋が狂い、致命傷を負わせられなかったのだとしたら?
「だ、だめ……まだ、たおれられ、な」
螢は力無く床に倒れ伏す。
意思も、思考も、黒いモノによって蝕まれていく。
「————螢さんっ!?」
その時。
切迫した光一郎の声が、耳に響いた気がした。
「…………こう、く……ん…………」
——螢の意識は、そこで完全に途絶えた。
今回の連投はこれにて終了。
そして、次か、その次の連投で今章は完結予定。