煽情的な口車
そう、あれは今年の七月二十八日——光一郎との夏祭りデートから帰宅した後のことだ。
運転手の後藤が回す車で螢が帰宅すると、家の正門前には一人の男が待ち構えていた。
至剣流宗家嘉戸一族次期家元、嘉戸寂尊。
先の嘉戸宗家との悶着ゆえ、警戒を禁じ得ぬ相手を、しかし螢は招き入れた。
大切な話がある、と言われたからだ。
どういう話であれ、「大切な話」というのならば、聞くだけ聞いておく方がそうしないよりも意味がある。……嘉戸宗家が今度は何を考えているのか、知る上でも。
両宗家との間に交わした起請文の契約に触れない範囲でなら——そう条件付けて、螢は話を聞くことにした。
それでもやはり母屋に招くのには抵抗があったため、離れの稽古場を話の場に選んだ。寂尊も「こちらとしても手早く済ませたい用であるゆえ」とそれを了承。
天井の蛍光灯が照らす稽古場にて、座して向かい合う。……ちなみに螢は浴衣姿のままだった。
寂尊の口から語られたのは——『呪剣』の存在。
もう一つの至剣流宗家、望月家の人間である螢もその名は知っている。
江戸初期に興った至剣流が、その後百年間は日の目を見れなかった暗黒期。
そうなる原因となったのは、嘉戸至剣斎の最初の四弟子のうちの一人が開眼させた至剣『呪剣』。
切り傷を負わせた相手を、まるで狐憑きのごとく狂わせる、呪いの至剣。
それがもたらした惨劇と、その後の至剣流剣術への長年の風評被害。
——今年、鴨井村正という嘉戸派の門下生が、その『呪剣』と全く同じ至剣を会得したとのこと。
至剣流初期の暗黒期を再来させぬため、嘉戸宗家は機先を制する形で鴨井村正を一方的に破門とした。……そうすることで「鴨井村正の人格に問題があった」と世間に印象付けるため。
だが、当然ながら破門された鴨井村正はそれを恨んだ。
恨んだ末に——鴨井村正は、今年の天覧比剣を『呪剣』で血に染めようと決めたという。
「秋津光一郎も、今年の天覧比剣に出るそうだな」
「……そうですね」
「たった一年で、よくぞあそこまで……あの少年、いつか本当に君を超えてしまうかもしれないな。長生きできれば」
物騒かつ意味深な寂尊の物言い。
「もう一度言う。——その秋津光一郎が参加する天覧比剣を、鴨井村正は狙っている」
「なぜ」
「自分の至剣の力を、世界に知らしめるためだろう」
螢は耳を疑った。……たったそれだけのために、天覧比剣を血に染めようと?
「あの男は多くのモノが欠落している。己の剣以外の拠り所が存在しない。ゆえに己の剣のためならば、何をするか分からない。人生のあらゆるモノを捧げて得た至剣を輝かせることができるのならば、生まれた国すら傾けかねないだろう」
螢は、これから寂尊が何を言いたいのかを察した。
寂尊もまた、そんな螢の勘付きを察したようだ。
「そうだ。村正には国を傾けようなどという考えは無い。つまるところ、奴はただ『呪剣』を使って暴れたいだけ。……天覧比剣をその場所にと選んだのは、そうするように唆した毒蛇がいるからだ。
『玩具』——数あるロシア系犯罪組織の中でも指折りの規模を誇る巨大組織だ。連中は元KGBマンを多数抱えており、日本を含む世界中に支部を設けて活動している。連中との「黒いつながり」を現ロシア高官や大統領は否定しているが、その高官連中の多くは元KGBだ。本当の所はどうであろうな」
「……KGB」
螢がわずかに眉をひそめる。
「やはり思う所があるようだな。無理もない。KGBはソ連国防省にこそ属していなかったが、軍の一部という扱いだった。君の生まれ故郷を焼き、両親を弄んで殺した連中の片割れということだ」
遠慮の無い物言いで過去を蒸し返され、螢は一瞬、強い殺気を放つ。
言い方が悪かったな、と謝罪してから、寂尊は話を戻した。
「——鴨井村正と接触した『玩具』の連中は、『呪剣』の力を使って天覧比剣でテロを起こそうと企んでいる。目的は帝と、国賓であるアメリカの新大統領だ。『呪剣』によって操られた群衆が、帝だけでなく大統領にまで被害を及ぼせば、帝国内部の混乱だけでなく、アメリカとの同盟関係にも亀裂が入りかねない。下手をすると同盟の一方的な破棄もあり得る。……バークリー大統領の支持者には白人至上主義者や、反日的なアメリカ人が多いと聞くからな」
螢はそのテロ計画の恐ろしさを、冷静に分析していた。
使うのは銃器でも爆弾でもBC兵器でもなく、至剣だ。
至剣は未だ、科学的にその原理が解明されていない。
科学的に証明出来ないから、証拠も残らない。
人は往々にして、非常識な事態に対しても、上手く納得できる理屈を付けたがる。
『呪剣』で狂わされて暴れ回った群衆を、社会は「テロ行為の結果」としては扱わず、単なる「集団ヒステリー」と自分達を納得させかねない。なぜならテロの証拠が無いのだから。
そうなれば、ロシアの犯罪組織ではなく、日本国民そのものに非難の矛先が向く。
結果、この国そのものへの国際的な心証の悪化へと繋がる。
そこへ外国の要人、もしくはその警護役への肉体的被害が重なれば……
「今年の天覧比剣少年部は、帝国の未来を左右するものになってしまったということだ。内務省も警察も、それを知っているがゆえに神経質になっている。だがその分、当日の警戒も厳しくなり、凶徒どもも動きにくくなることだろう。だから君の弟弟子がテロに巻き込まれる心配はあまり無いだろうが、くれぐれも用心しておくことだ。——言っておきたかったのは、これくらいだ。それでは、お暇させていただくとしよう。時間を取らせてすまなかった」
寂尊は言うなり立ち上がって、稽古場を出ようと歩き出した。
「——待って」
そんな彼の後ろ姿を、螢は呼び止めた。
呼び止めてしまった。
——光一郎が選手として関わる、今年の天覧比剣に迫る危機。
——それをしようとしているのが『呪剣』を持つ至剣流皆伝者。
——さらにその背後には、KGBの流れを汲むロシア系犯罪組織。
——極め付けに、螢の悲惨な過去の記憶までも蒸し返された。
螢を煽情させるこれらの情報が上手いこと並んだ時点で、警戒すべきだったのだ。
寂尊の狙いを。
——螢を「戦力」として引きずり出そうとする、寂尊の思惑を。
万が一『呪剣』の力によって大勢の来客が暴走した場合、止める方法は一つしかない。
その方法とはすなわち、『呪剣』を使った人間を、つまり村正を殺害すること。
至剣斎も、『呪剣』を使った自分の弟子を斬殺したことで、呪われて暴れ回っていた多くの人々を正気に戻すことに成功した。
何もかもがその『呪剣』と同一である村正の至剣も、そのようにして止めることが出来る可能性が高い。……たとえそうでなかったとしても、それ以上の『呪剣』の被害を止めることができる。
だがそれは、言うは易しである。
よほど剣に達者な者でなければ、村正を斬ることはできない。
寂尊とて、剣の腕は一流と呼んで差し支えない水準だ。まともに剣を交えれば、村正にだって負けることはないだろう。
だが、負けはせずとも、浅い斬り傷の一つは付けられるに違いない。
そして『呪剣』は、そんな浅い斬り傷を付けただけでも相手を呪うことが出来る。
寂尊が『呪剣』で呪われた時、それによって心に生じる害意の対象が自他どちらであっても、寂尊自身と、そして嘉戸宗家にとっては致命的となる。
特に「他害」の呪いをかけられたら最悪だ。
呪いのもたらす害意のまま、罪の無い人間へ斬りかかってしまえば、それによって傷つくのは嘉戸宗家の名誉だ。なぜなら寂尊は次期家元だからである。
——そういう理由から、寂尊が己の身を『呪剣』の刃の前に晒すわけにはいかないだろう。
だからこそ、寂尊や嘉戸宗家以外の、剣が非常に達者な人物を見つける必要があった。
そうして白羽の矢が立ったのが——螢だったということだ。
望月螢は、言わずと知れた現代における女剣豪。
剣の腕には申し分が無い。
世間から英雄視されている元陸軍大将、望月源悟郎の娘ではあるが、義理だ。両者の間に血の繋がりは無い。
ゆえに螢が『呪剣』に呪われたことで他害を引き起こしても、それは源悟郎の名誉への瑕疵には繋がりにくい。
……拾った犬が狂犬だった、という形で世間はケリをつけるに違いない。大衆は英雄を英雄として見続けたい生き物だ。
実力的にも、出自的にも、望月螢は最もマシといえる人材だった。
——とはいえ。
去年の嘉戸派・望月派間の抗争において望月が勝った結果、嘉戸派は起請文に書かれた約束事に従い「嘉戸による望月への一切の干渉を禁ずる」という戒めを守らなければならなくなった。
たとえ吹けば飛ぶような零細流派との約束事でも、神文を間に挟んだならば順守するのが武人の礼儀。
ゆえに寂尊は、螢にただ話すだけに留めた。
『呪剣』によるテロ計画のことを。
それを、螢に語って聞かせただけだ。
そこに強制力は存在しない。
協力するもしないも自由。
ゆえに干渉ではない。干渉とは己の考えを相手に強要することである。
そうやって選択の自由を保障した上で——自分の望む答えを選ぶように螢の心を誘導したのだ。
そして、その選択は他ならぬ螢自身の意思に由来するもの。寂尊に責任は無い。
——つまるところ、螢は寂尊の巧みな口車にまんまと乗せられたというわけだ。
恥ずべきことに、螢は頷いてからそれに気づいた。
だが、たとえ口車だと分かっていても、螢はそれに乗ったに違いなかった。
——まず、これは純粋な国家の危機だ。
『呪剣』のいかに恐るべきかは、同じく宗家にゆかりのある螢もよく知っている。
それをテロなどに用いれば、まさしく絶望的である。なぜなら科学的根拠な証拠を残す事なく、「暴動」をでっち上げられるのだ。政治工作にこれほど優れた兵器は存在しない。
同じ至剣流皆伝者として、見て見ぬ振りをするわけにはいかなかった。知っていて放置することは、国を揺るがさんとしている賊の思惑に沿うこととなる。
——光一郎にも、危険が及ぶかもしれない。
幸か不幸か、彼は今年の天覧比剣に選手として出場する。
あれだけ懸命に稽古した末に勝ち取った舞台だ。「危ないから出るな」なんて言えない。
『呪剣』や、それがもたらす呪われた人々の凶行から、光一郎を守らなければならない。
……こんなつまらない女を好きだと言い続けてくれる、光一郎を。
螢を求めて剣を取った光一郎。
彼はそれを「不純な動機」と自分でよく言う。
だが、彼の不純な剣は、いろんな人を助けてきた。
喪失の恐怖から自分を守ることばかりに気を取られていた、自分の剣には出来なかったことだ。
——自分も、光一郎のように、誰かを救うために剣を取りたかった。
螢は寂尊に協力を明言した。
すると寂尊は、まるであらかじめ用意していたような手際の良さで、天覧比剣へ根回しをした。
——「開幕演武」という根回しを。
例年には無かったこの儀式を天覧比剣に取り入れたのは、表向きは国賓であるアメリカ大統領に向けた特別なパフォーマンスのため。
だがその真の目的は……刀剣類の持ち込みが禁じられた天覧比剣に、刀を持ち込むための大義名分を作ること。
そして、村正が万が一『呪剣』でテロを起こした場合、速やかに探し出してそれを斬ること。
酷い言い方をすれば、村正の「処刑役」だ。
螢はその事実も受け入れ、天覧比剣当日を迎えた。
「開幕演武」を淡々とこなしているように見える実、螢はひたすらに願っていた。……村正が神武閣に来ないことを。
必要に応じて人を斬ることと、好んで人を斬ることは異なる。
しかし、悪い出来事ほど、予想通り起きてしまいやすいものだ。
村正は天覧比剣決勝戦に現れ、そこで『呪剣』を振るった。
想像を超える狂騒が、神武閣を包み込んだ。
螢は起こってしまった現実に落胆を覚えつつも、その足は軽やかだった。
村正の考えを予想し、最もやってくる確率が高い場所……VIPルームのある地下一階にて待ち伏せた。
案の定、村正は現れた。
そして——斬り合いは始まった。
だ い た い こ い つ ら の せ い