神武閣事件——懐剣の少年
「……随分、減らせたかな」
観客席二階南の最前部にて、静馬は目の前の状況を見てつぶやいた。
観客席最前部の欄干にいる藤林一家三人を中心にして、幾人も横たわっていた。
全員、静馬が降りかかる火の粉を振り払った結果だ。
向かってきた暴徒全員を残らず一撃で昏倒させた。素手で。
死ぬような打法はいっさい使っていないため、全員命に別状は無い。
背後に庇っている妻子はもちろんのこと、静馬自身も無傷で、まだ体力的に余裕がある。
そして、この二階南にいる暴徒は静馬が一人でほとんど倒したため、目の前には道が開けていた。
正気な観客が、ある意味暴徒を見る以上の驚愕の眼差しを静馬に向けてくるが、本人はそれを気にせず妻子に言った。
「チィちゃん、そろそろここを離れよう」
欄干の隅でしゃがんで娘を庇っていた千鶴は黙って頷いた。不気味過ぎる事態であるが、驚いてはいても怯えてはいない。彼女もまた、十一年前の戦場を戦い抜いた一人だ。
立ち上がった千鶴と娘を伴い、観客席を抜け、最後方にある出入り口の扉へ手を付けようとした、その時。
「ガァァァ————!!」
横合いから、狂った暴徒が唾液を散らしながら飛び出してきた。静馬を狙っている。
だが流れ作業だ。いくら怪力であっても、その動きには知性が無い。そして結局ヒトの肉体である以上、どうやれば大人しくなるのかは熟知している。
これまでと同じように迎撃しようと、間合いまで到達するのを待ち——その前に暴徒が力無くうつ伏せに倒れた。まるで動作中に電池の切れたロボットのような倒れ方。
暴徒が倒れたことで、その後ろにいる少女の姿が露わになった。
中学生くらいだろうか。
長い一束の三つ編みと丸眼鏡が特徴の、静謐で上品な感じの美少女だった。
キャップ帽子にTシャツと、ハーフパンツを纏った華奢で色白な体つき。
服のデザインは、ハーフパンツを除いて、人気特撮ヒーローシリーズ「ベクターシリーズ」のアパレル品。
男の子みたいな装いの美少女は、右手に光るモノを持っている。……短刀だ。その中でも特に短い懐剣と呼ばれるモノ。
彼女は先ほどまで静馬のいた観客席の最前部を一瞥すると、その可憐な顔立ちに雅な微笑を浮かべ、涼やかな声色で告げた。
「——流石は「首斬り小天狗」と名高い北方の剣聖。たった一人で、それも無手であそこまでやってのけてしまうとは、感服致しました」
中学生程度のその少女に、静馬はいささか警戒心を覚えた。……なぜ自分が「首斬り小天狗」だと知っている?
「……君はいったい?」
「ただの観客です。少なくとも、貴方の敵ではありません」
少女の後ろから、暴徒が咆哮を上げながら近づく。
だが少女は見もせずに、右手の懐剣を後ろへ振る。
懐剣の刃は、暴徒には全く届いていない。
だというのに、暴徒はまるで深く斬りつけられたように全身をびくんっ、と痙攣したかと思うと、そのまま崩れ落ちた。
——先ほど静馬へ襲いかかった暴徒と、同じような倒れ方だった。
「すでに二階の廊下には敵はいないはずです。貴方がたならば容易に外へ出られることでありましょう。……それではまた、機会がありましたら」
そう言うと、少女は一礼し、他の観客席へと走って行ってしまった。
「あ、ちょっと君っ……!」
呼び止めるが、止まらず走り続ける少女。
それからも彼女は何度も暴徒に襲われるが、少しも触れられる事なく回避する。そして先ほどと同じように、懐剣を一回振るごとに暴徒が一人倒れる。
静馬は、彼女が最初に斬った暴徒の一人を確かめてみる。
「…………眠っている」
「はぁっ……はぁっ…………おのれ……!」
泰樹は息を切らせながら、膝を屈しかけていた。
岩みたいに厳つい顔つきは、殴られたアザや、口や鼻が切れて出た血の跡がついていた。
ワイシャツも散々掴まれて引っ張られたことで、ボタンが弾けて半分開いていた。内に着ている白いインナーシャツが覗く。
それでも泰樹の周囲には、打ち倒されたり投げられたりした暴徒らが少なからず横たわっていた。
——この二階西の観客席の暴徒の半分にも満たない数だが。
「グァァァァ!!」
「っ——ェアアア!!」
咆哮に負けじと掛け声を発し、向かってきた暴徒の一人へ応戦する。
今度の相手は若い女性だった。しかし、女性でも泰樹と同等以上の怪力であることは先ほどすでに経験済みだ。
手加減は出来ないが、かといって過剰に痛めつけるのも武人としての矜持が嫌がった。
先ほどあしらった女性と同じように、必要最小限の一撃で昏倒させよう——そう考えた時だった。
「——」
泰樹の動きが一瞬、鈍った。
病に狂った獣のような形相ではあるが、よく見れば目鼻立ちが整っている。美しい女性なのだろう。
それに、腰まで伸びた綺麗な黒髪。
——自分が一度恋焦がれた、美しい女剣豪と一瞬重なった。
「ガァァ!!」
「ぐぉっ——!?」
その一瞬を見事に突く形で、女性の拳が泰樹の顔面を殴打した。女の細腕なのに、土嚢で殴られたような重みがあった。
ぶっ倒された泰樹へ、女性はさらに馬乗りになり、執拗に顔面を殴打しまくってきた。
(我ながら何と未練がましい……! まだ忘れられていなかったとは……!)
終わった恋慕を今なお潜在的に引きずっていることを思い知らされ、泰樹は強烈な羞恥を覚えた。殴られる痛みを超えるほどの。
——泰樹が螢に出会ったのは、今年、目黒区の駐屯地で行われた演武会だった。
駐屯地に招かれた彼女が、演武の場にて剣を抜いた瞬間、泰樹の胸が激しく高鳴った。
ヒトが振るう剣には見えなかった。
まるで超常的な別の何かが、剣を振るっているかのようだった。
恣に振る舞うヒトの無骨さがいっさい感じられない。自然の理に逆らわず身を委ね、その上で自然の理を最大限に発揮しているかのような——そう、まるで流水や嵐そのもののような剣。
類稀な彼女の美貌は、その神聖さをさらに引き立て、まるで彼女を一柱の精霊のごとく魅せた。
——剣あってこそ輝くその美貌に、泰樹は一目惚れしたのだ。
残念ながら、自分程度の器量では、そんな剣の精を胸に抱くことは叶わなかった。
自分の剣は、しょせんヒトの域を抜けきることは出来なかった。
ヒトは、神霊には勝てぬ——
(とんだ厄日だ……こんな訳の分からん事態に出くわすだけでなく、吹っ切れたと思っていた想いをこのような形で蒸し返されようとは……)
薄れゆく意識の中で、泰樹は自分の不運と不覚を呪った。
だが、源悟郎の関係者と思われるあの金髪の少女は逃せた。
他の観客が少しでも多く逃げられるよう、暴徒の注意を自分に集中させた。
自分は武人として、恥ずかしくない行いをしたのだ。
納得して、意識を手放そうとしたその時——殴打が止んだ。
かと思えば、自分の体に重い何かが覆い被さる感触。
「ん……?」
顔が痛むのを我慢して目を開けると、自分に覆い被さっているのは、ずっと自分を殴っていた女性だった。ケダモノのような形相が、嘘のように安らかな表情で目を閉じている。寝息を立てている。
「——ご無事でしょうか? 首藤中尉」
そう涼しい声で告げてきたのは、一人の美しい少女だった。
丸眼鏡に、一束の長い三つ編み。
ハーフパンツを除いて、Tシャツとキャップ帽子が揃って「ベクターシリーズ」のアパレル品という風貌。
男っぽいのか女の子らしいのか分からない装いだが、そんなチグハグで珍妙な格好では隠し切れない、そこはかとない品の良さを感じさせる。
「……君は、俺を知っているのか」
名前よりもまず、そこが気になって問うた。……初対面なのに、苗字だけでなく階級でも自分を呼んだのだ。
「あ、少々お待ちを」
少女は言うと、飛びかかってきた暴徒数人へ、右手に持っていた懐剣を振り抜いた。
暴徒にはリーチが足りなくて、届かない振り。
だがソレを前にした暴徒は、一瞬立ち止まったかと思えば、まるで体の芯を抜かれたように揃って頽れた。
泰樹が痛みも忘れて唖然とそれを見つめていると、少女は雅に微笑み、保留にしていた泰樹の問いに答えた。
「——もちろん存じております。首藤泰樹陸軍中尉殿。陸軍大学校で恩賜刀を受け取った方でしょう? 有名ではございませんか」
……なるほど、確かに軍内部では有名かもしれない。しかし一般人は少し力を入れて調べないと知り得ない事だ。
おそらく軍人の子か。
いや待て——この顔、どこかで見覚えが。
記憶から心当たりを引いた途端、泰樹は殴られて腫らした瞼を大きく見開いた。
「…………もしや、貴方様は」
かすれた驚愕の声に、少年はにっこりと可憐に笑い、
「では」
短くそう告げ、二階西に残った暴徒へ自ら向かって行った。
どの暴徒も、その懐剣の一振りを前にすると、凶暴さが嘘のように大人しくなり、眠りについた。
二階西の観客席があっという間に静かになるや、そこから離脱し、別の方角へと走り去ったのだった。
†
——呪いの暴徒どもにわざわざ襲わせずとも、直接帝と大統領を狙いに行けば良いだけの話ではないか。
そう考えた村正は、地下一階へと降りていた。
すでにここにも、少ないながら暴徒が侵入していた。観客席と同様、地下フロアも出入りの階段が複数あるため、そこから入ってきたのだろう。
しかしそいつらは敵がいないためか、お互いでお互いを殴り合っていた。
ソレを無視し、静かな歩みで目的の部屋へと進む村正。
トーシャによると、神武閣の地下一階、地下二階も、ともにドーナツ型の回廊となっている。そこを反時計回りに進む。
VIPルームの場所も把握済み。
……皇宮警官も、シークレットサービスも、必ず銃器で武装しているはずだ。
正直、至剣流の免許皆伝である村正でも、銃で武装したプロ数人を一人で相手取るのは危険といえよう。
しかし、その中で一人でも『呪剣』で、それも「他害」の呪いを込めた剣で斬りつければ、そいつは味方を撃つだろう。それが日本人の皇宮警官であればなお良い。そいつが外国人のシークレットサービスを味方撃ちしただけでも、かなりスキャンダラスな事態になるだろう。
気配。
「——誰だ」
村正が問う。
右に広がる、内側へ円く湾曲した壁面。そこにぽっかり空いた自販機コーナー行きの脇道の影から、一人の小さな人影が歩み出てきた。
彼女の姿を見て、村正はその目を見張った。
十代半ば程度の、たいそう美しい少女だった。
どこか非人間的な整い方をした美貌。黒く澄んだ大きな瞳。腰まで伸びた、極上の絹帯のような黒髪。
白い上衣と黒い袴を装う細い体は、一見肉付きが乏しく見えるが、その細い見かけの中に確かな芯の存在を感じさせる。
その場にしっかり根を張った満開の桜の木を連想させる、可憐だが強い存在感。
だが、村正が目を見張ったのは、彼女の絶世の美貌にではない。
「貴様は……」
知っている顔だ。
——「開幕演武」にて、嘉戸寂尊と『生々流転』を披露していた、もう一人の「凄腕」。
「鴨井村正だな」
その美少女——望月螢は、感情の含蓄が薄い銀鈴の声音でこちらの名を呼ぶ。
左腰に佩いた刀を、右手でおもむろに抜き放つ。
露わとなった白刃の剣尖を村正に向け、告げた。
「——お前は、わたしが斬る。そのために、わたしはここにいる」
中学を出て間も無い女性の結婚が割と珍しくない社会なので、首藤中尉殿を(21)扱いするのはよしてあげてくださいな(´・ω・`)