神武閣事件——眼
何もかもが分からない事だらけな異常事態だ。
騒ぎの渦中である観客席ではなく、大武道場にとどまっているからといって、安全であるとは限らない。
それが証明されるまで、さして時間がかからなかった。
「ガアアア!!」
暴徒化した観客のうち四人が、観客席一階からこの大武道場へ溢れ落ち、着地し、僕らへ狙いを定めて走ってきた。
異様な走り方で近づいてくる彼らの形相に、僕は内心で戦慄を覚える。尋常じゃない乾きと飢えを露わにした、痩せた獣めいた形相。
全員違う顔なのに、同じ顔に見えるのが不気味だった。まるで一つの怨霊が四つに分離して四人に取り憑いたような。
最初の一人が、峰子へ迫った。
峰子は退がりながら、近寄らせまいと竹刀を振り回す。竹刀が暴徒の側頭部を打つが、その暴徒は全く怯む様子も無くさらに加速し、峰子にタックルするように勢いよく押し倒した。
「峰子っ!!」
僕は彼女を助けようと駆け出すが、別の暴徒が目の前へ飛び出してきた。
「っ……ごめんなさい!」
躊躇いを押し殺し、僕は『鎧透』を放った。両足を揃えると同時に体の中心から発した竹刀の剣尖が、目の前の暴徒の右胸を鋭く撞いた。肋骨の隙間に当たるのを柄から感じると同時に、僕より大柄な成人男性である暴徒の体が大きく体勢を崩した。
僕は峰子への走行を続けるが、僕がたどり着くより先に、これから峰子と戦うはずだった鹿児島の先鋒が強引に暴徒を峰子から引っぺがしていた。
「——ェェェェェ!!」
化鳥のごとき一声とともに、鹿児島の先鋒の竹刀が瞬いたと思った瞬間、その暴徒の両側頭部へ二撃叩き込まれた。
力無く崩れ落ちた暴徒からはすぐに目を離し、今なお付けたままの面の奥から僕へ言い放つ。
「竹刀じゃこれくれ打たんと意味無か! しっかりせんか東京者!」
お国言葉丸出しのその声は、女の人のものだった。
彼女の言葉の意味は、後ろから僕へ急速に近づいてくる雑な足音で気づいた。……僕が『鎧透』を当てた人だ。さっきのが全く効いていない!
応戦しようとした僕よりも速く、氷山部長が横合いからその暴徒に体当たりを食らわせた。転がったところへさらに近づき、胸の辺りに拳を一撃打ち込んだ途端、その暴徒はぐったりとした。
残った二人も、鹿児島組が叩き伏せ、沈黙させた。
場違いとは思うが、僕は彼らの手際を見て驚嘆した。剣の速さも重さも、太刀筋の冴えも、どれを取っても一級品だった。近くから見てさらに解るその凄さ。……先鋒の女子のあの剣は、察するに示現流だろう。
……すぐに気持ちをこの異常事態へ引き戻し、僕は考えた。
観客席に行かなければ大丈夫という根拠の無い安全神話は、今、あっさりと破られた。
であれば、ここにとどまるのも危険ではないだろうか?
しかし、かといって上階へ行くのも得策か怪しいものだ。上に行ったら、遭遇するであろう暴徒の数も一人や二人では済まない。
審判の人も渋面を浮かべている。これからどうすべきか考えているのだろう。こんな事態、大人にだってきっと予想なんかつかない。
僕もどうしていいか分からないが、それでも少しでも状況を確認しようと、狂騒渦巻く周囲の観客席へ視線を巡らせる。
まず一階。手のつけられない獣みたいに猛り狂う暴徒と、それらを避けようと右往左往している正気の観客。……見回すが、どこもそんなふうに同じに見える。
僕はさらに注意深く見つめてみた。
暴徒と観客、暴徒と観客、暴徒と観客……まるで模様みたいに同一な風景の中に「異物」が無いかどうかを注視した。
そして、僕は一つ「異物」を見つけた。
——刀を持った、キャップ帽子の男を。
(どういうことだ……? 天覧比剣には、刀は持ち込めないはずじゃ……)
考えている間に、その男がその刀を観客の一人に振るう。
危ない! と叫ぶ間も無く、刃は観客に届いてしまった。
しかし、真っ赤な血飛沫は出ない。どうやら浅く斬られた程度のようだ。
代わりに、
「——ガァァァ!!」
今、観客席のあちこちにいる暴徒と同じになった。
そして、近くにいる暴徒の一人と取っ組み合いを始めた。まるで犬同士の喧嘩のような、人間らしさが欠如した取っ組み合いであった。
さらにその男は観客席を巡り、また別の正気の観客に刃を滑らせる。——その観客もまた、暴徒の仲間入りをする。
同じようなことが、何回も起こる。
それを僕の目は確かに捉えていた。
(まさか……あの人が、やっているのか……?)
……天覧比剣は刀剣類の持ち込み不可、というのが破られている前提で、僕は考える。
少し斬るだけで、たちまちその人を狂わせる剣。
そんなものがあるとするなら、その原理は何だ?
毒物の類? ——いや、だったらわざわざ、日本刀なんて目立つ武器で使う必要は無い。ナイフとか、そういう取り回しが簡単でかつ目立たない物を使う方が合理的だ。
であれば、わざわざ日本刀を使っている理由は何だ?
日本刀でしか、使えない技術。
(まさか——『至剣』)
至剣流の修練の果てに開眼する奥義『至剣』。
その内容は個人によって完全に異なり、しかしいずれも強力である。
刃の無いはずの木刀にも鋭い斬れ味を持たせたり、触れもせず剣気だけで相手を死に至らしめたりと、モノによっては剣術を通り越して妖術の類を連想させる奥義である。
……斬りつけた人間から正気を奪い去る『至剣』があっても、何ら不思議ではない。
僕に『劣化・蜻蛉剣』を会得させてくれた謎の美少年、田中太郎くんは言っていた。「ほとんどの至剣は、日本刀かそれに酷似した武器でなければ使用できない」と。
——あの男が日本刀を使っている理由も、そう考えれば辻褄が合う。
そう考えた時だった。
刀を持った男が、人を斬るのを止めたかと思えば——勢いよく僕の方を振り向いた。視線同士がピッタリ合う。
「ひっ——」
身も凍るような戦慄を覚え、僕は思わず喉奥に息を引っ込ませた。
仔細に容貌を確認するにはかなり遠い距離。にもかかわらず、僕はその男がどういう眼をしているのか、細かく視認出来てしまった。
痩せて、落ち窪んだ眼窩。その奥にギラつく眼差し。
まるで深淵から虎視眈々とこちらを狙っている、飢えた霊鬼の眼光のような。
そんな底知れない眼。
見ていられなくなった僕はうつむき、浅い呼吸を繰り返しながら、先ほど思考の隅に置いておいた疑問と再度向き合った。
——彼の手にある刀は、どこで手に入れた?
この天覧比剣では、来場者の刀剣類の持ち込みが厳しく制限されている。僕ら参加選手でさえボディーチェックをされたくらい、水際対策は厳重だった。
だが、刀を持っていた「例外」が、二人だけいた。
——この決勝戦を始める前も「開幕演武」を行った、二人の剣士。
嘉戸寂尊と、もう一人。
「————螢さんっ!!」
気がつくと、僕は走り出していた。
螢さんほどの剣豪が、簡単に遅れを取るとは考えにくい。
だけど、もしも、あの刀が螢さんから奪い取ったモノであったとしたら。
そう考えた途端、全身が動いた。
まだ防具一式を付けたままで、走るには少し体が重い。だけどこんな異常事態だ。殴られる事を想定したらちょうど良い守りとなる。まさしく防具だ。
「ちょ、ちょっと光一郎っ!?」「秋津君!? 待て、どこへ行く!?」
峰子と部長の静止も無視し、僕は大武道場を後にした。
†
——気に入らん眼だったな。
先ほど目が合った大武道場の参加選手の目つきを思い出し、村正は直感的にそう感じた。
面金のせいで顔は見えなかったが、目は特徴的。
まるでこちらを見透かそうとする、照魔鏡のような目。
視線を感じて思わず振り向き、目が合った途端、その子供はうつむいて視線を逸らし、かと思えばどこかへ走り去っていった。
(見られたか……まあいい。あんな子供に見られたところで、何が起こっているのか判断などつかんだろうからな)
村正は思考の中からその子供の存在を捨て置き、己の剣へ意識を戻す。
もうだいぶ人を斬って呪った。
神武閣は見るも無惨なありさまだ。酷い暴行に遭って倒れている者を見つけようと思えば難しくない。大武道場にいたっては転落死体もある。
そのうち、呪われた暴徒の何割かは、地下にも流れ込む。
地下一階には、帝とバークリー大統領のいるVIPルームがある。そこも他人事では済まされないはずだ。
無論、帝には皇宮警官が、大統領にはシークレットサービスが付いている。彼らは警護という任務上、例外的に銃器等の携帯が許されているだろう。武器無しの暴徒が向かっていったとて、どうということはない。
しかし、トーシャ曰く「そういう状況になるだけでも、この計画の成果としては上等だ」とのこと。
今回の計画の狙いは、日米関係に亀裂を生じさせる「離間の計」だ。
東アジア人に対して隠れた差別意識を持っているバークリー大統領を日本人に襲わせることで、彼を支持するアメリカ国民の反日感情を増幅させ、日米離間の要因にする。大統領制であるアメリカは、国民が正気を失えば容易く狂う——
(政のことなど、よく分からん。俺はこの『呪剣』を存分に振るうのみだ)
全てを捨てて手に入れた、この『呪剣』を。
鴨井村正という人間の人生にしか咲き得ない、一代限りの徒花。
それを盛大に輝かせることで、村正の人生は初めて意味を持つ。
(だが、この場を用意してくれたあの胡散臭い男に少しばかり協力してやるのも、やぶさかではない)
要は——帝と米大統領さえ、いなくなれば良いのだろう?
村正は踵を返し、一階観客席最後方の出入り口へ足を進める。……地下一階へ向かうためだ。
その途中で、気づく。
「……三階の観客席が、静かになっている」
目が合ったコウ君と村正の距離はそれなりにあるので、使っている刀の詳細な特徴までは視認出来ませんでした。