神武閣事件——呪いの暴徒
「いったい、何が……!?」
そう言ったのは、僕ではなく、氷山部長だった。
部長だけじゃない。僕も同じ気持ちだった。
他の人も、みんな同じことを言いたいに違いない。
僕らのいる地下二階の大武道場。それを八卦状に囲う段々畑のような観客席は、地上一階から三階まで存在している。
そのうちの、三階北の観客席が、急に物々しい騒ぎに包まれた。
そこにいる観客の半分以上が、聞くにおぞましい獣じみた奇声を上げながら、隣の三階北東の観客席へと流れ、いっせいに襲いかかった。
密度の高い多数で一気に襲われたことで、押し潰されるように屈していく北東の観客。
唐突に始まった乱闘。
大武道場の僕らは、その様子をただただ唖然と見上げていたが、
「あ——」
一箇所に人が一気に集中したせいで、三階北東の観客席最前のスロープから、三人が溢れた。
三階の高さから、地下二階にある大武道場へ、重力の赴くままに真っ逆様。
合計五階分の高さから落下したその三人は、
べちゃ。
バウンド一つせず、あまりにも素っ気ない音を立てた。
それっきり、うつ伏せのまま動かない三人。
彼らの体から、ゆっくりと、赤い水溜りが広がっていく。
しかし、水のような軽い広がり方ではない。
溢れた水飴のような、緩慢で、粘り気のある広がり方だった。
黒っぽい赤色をした——血溜まりである。
「き——」
峰子が出そうとした声を、
「きゃああぁぁ————————!!」
観客席にいる、別の誰かが代わりに叫んだ。
それが引き金となり、会場のどこもかしこも、大騒ぎとなった。
困惑と恐慌と動揺でどよもす観客席の悲鳴の中で、またしても獣の咆哮めいた絶叫がワッと膨らんだ。
……今度は、三階東の観客席からだった。
そこの観客のほとんどが、隣の三階南東の観客席へ流れるか、隣同士で狂ったように取っ組み合いを始めるか、最後方のドアから観客席を飛び出した。
†
『呪剣』によって狂わされた呪いの暴徒の一部は、観客席三階を飛び出した。
——ある者は、観客席の外に控えている警官に踊りかかり、気が触れたようにめちゃくちゃに殴りかかった。
ある程度鍛えているはずの警官が、丸腰の暴徒にいいようにやられているのは、最大出力の『呪剣』の影響で痛覚が鈍化し、本能的に備わっている筋肉のリミッターが外れているからである。痛みと恐怖を感じない怪力の兵士ほど恐ろしい存在は無い。
——ある者は、三階外周廊下を走り回った末に、違う方角の観客席に入って、暴れ回った。
そこにも恐慌が伝染し、正常な判断力を観客から奪い去る。
混乱して統率の取れない人の群れは、呪いの暴徒の群れと変わらない。倒れた人間に構う余裕も無く逃げ惑い、将棋倒しで圧死に至らしめる。
——ある者は、三階から二階へ流れ、その階を襲った。
村正はその暴徒の流れに便乗し、二階南東の観客席へ入った。
二階へ流出した暴徒は、少ないながらもすでに観客を襲っており、注目はそちらへ釘付けであった。
その隙に二階南東の観客席へ出て、観客へ次々と素早く刀疵を刻み込み、呪いにかける。
新たに生み出された呪いの暴徒が、狂気のまま二階の観客へ牙を向いた。
†
——二階南の観客席にて。
「あなた、これは一体……!?」
藤林千鶴が、困惑しつつも抑制された声で尋ねてくる。一才の娘の木芽を己の懐に隠しながら、観客席最前のコンクリートの欄干にしゃがみ込んでいた。
「分からない……だが、異常事態であることは確かだね」
そんな妻子を背後に庇って立つ静馬が、目の前の事象を見ながらそう言葉を返す。
狐に取り憑かれたような狂い方を見せて襲いかかる暴徒。
それから逃げたり応戦したりしようとして、いずれも上手くいくことなく圧迫されていく他の観客。
十一年前の「玄堀村の戦い」であらゆる地獄と惨劇を見てきた静馬であっても、現在目の前で起こっている意味不明な事象には、内心での戸惑いを禁じ得ない。
しかし、この狂乱の理由は分からずとも、これからどうすべきであるのかは分かる。
家族三人で……いや、せめて千鶴と木芽だけでもこの場から離脱させること。
「この状況だと、どちらも難しいな……」
暴徒も観客も入り乱れていて、しっかり握った鮨飯のように人垣の密度が高い。
この人垣の中に入ることを考えると、いくら静馬であっても妻子を守りながらの通過は厳しい。
それでも打開策をと思考を素早く巡らせていたところで——静馬にも数人の暴徒が飛びかかってきた。
「——エィィッ!!」
気合とともに瞬時に左右交互に放った拳打は、暴徒二人の鳩尾を的確に、かつ死なない程度の力加減で打つ。二人はスイッチを切られた玩具のようにその場へ昏倒した。
「ィエエ!!」
そこから間断を作らず、見もせずに真後ろへ左拳を振るう。ソレは暴徒の頬を的確に打撃し、体ごと弾き飛ばした。
腰を落として前へ進み、飛びかかってきた別の暴徒の胸を肘で撞いて意識を奪う。
瞬く間に、静馬の周囲には四人の雑魚寝が出来上がった。
柳生心眼流は、拳法が武器術の基礎となった総合武術だ。剣豪として名高い静馬の拳法の腕前は、推して知るべしである。
「仕方がないね……状況が良くなるまで、ここで粘るしかないか」
最悪、自分がここで死んでも、その死体を盾にして妻子だけは生かせるように。
——二階西の観客席にて。
(こんなことなら、前寄りの座席なんて取るんじゃなかったわよ……!)
エカテリーナは当惑しながらも、入り乱れる人混みの中をゆっくりながら必死に掘り進み、最後方の出入り口を目指していた。
二階南西の客席に座っていた観客達から獣じみた絶叫が上がったかと思えば、その中から一塊の集団が隣であるこの西の客席へ流れ込んできたのだ。
正気を失ったように血走った眼。口角が泡立った口から発せられるおぞましい咆哮——顔の造作も性別も違うはずなのに、みんな異様に同じ顔に見えるその狂った暴徒は、こちらの席にいる観客達へと飛びかかった。
南西の観客の総数よりも少ない暴徒に、しかしみんな圧倒され、混乱をきたしていた。
いかにも体力自慢といった成人男性が、華奢な若い女性の細腕に組み伏せられ、何度も殴られ続けている……そんな異常な怪力を全員が見せつけているものだから。
みんな我先にと観客席を出ようと最後方の出口を目指す。しかし統率ある行動など望むべくも無いため、人混みが詰まってなかなか進めずにいる。自分もその一人だ。
それでもエカテリーナは少しずつおしくらまんじゅうの中を掘り進み……ようやく客席の集まりから飛び出すことができた。
息を切らせながらも、足を止めず、出口まで進もうとしたエカテリーナを、
「どけ邪魔だっ!!」
後ろから来ていた観客が、乱暴に払い除けた。
「っ……!?」
尻餅をついたエカテリーナは、舌打ちと呻きが混じった音を立てる。
殴られた苛立ちは、すぐに危機感へと一変した。
「あ——」
飢えた亡者のようなめちゃくちゃな走り方で近づいてくる暴徒の一人。狂気でギラついたその眼は、明らかにエカテリーナを定めていた。
逃げるべく立ち上がるよりも、近づかれて組み伏せられる方が速い。それがすぐに解る距離感。
やられる——そんな予想は、次の瞬間、自分と暴徒の間に割って入った人影によって裏切られる。
「ィヤァ!!」
重厚な気合を反映したような重い殴打を叩き込まれた暴徒の一人は、大きく吹っ飛ばされた。
エカテリーナの前に山のごとく立ったその大男は、振り向いて、見覚えのある顔を見せた。
「怪我は無——ぬ? 君は確か……」
対する向こうもまた、エカテリーナの顔を見るなり、既視感を覚えたように目を丸くしていた。
「あなたは、確か……首藤さん?」
屈強さと威厳を兼備した岩めいた顔つき。獅子のように繋がった髪と顎髭。ワイシャツとスラックスに包まれた威容は、どこも丸太のごとく太く屈強だ。
首藤泰樹。今年の四月半ば、螢と求婚の手合わせを行い、敗北した陸軍中尉。直心影流の免許皆伝。
「君は、望月閣下の御自宅の稽古場にいた……」
二人の立ち合いの場にエカテリーナも居合わせていたため、当然ながら泰樹の方もエカテリーナの顔を知っていた。……日本人には無いこんな金髪碧眼ならばなおのこと印象深いだろう。
自己紹介をしたいところだったが、それは状況が許さなかった。
「——ガァァァァ!!」
この狂騒の中で落ち着きを得ていたのが逆に目立ったのか、狂った暴徒がエカテリーナと泰樹へ向かって近づいた。しかも五人。
「ウオォッ!!」
今なお尻餅をついたエカテリーナの背後から迫った一人を、泰樹の撞木のごとき一蹴りが打ち飛ばす。
それから近づいてきた四人の首を、骨太の両腕で一気に抱え込み、動きを封じる。
取り押えた暴徒に腹をドカドカ殴られながらも、泰樹は歯を食いしばって堪え、エカテリーナに声高に告げた。
「逃げなさい!! 神武閣の外を目指せ!! ここは俺が食い止める!!」
「で、でも——」
「俺は軍人だ!! 非力な者の盾になってこそ!! それに君に何かあれば望月閣下とその娘さんに合わせる顔が無い!! 早くっ!!」
エカテリーナが逡巡したのは、一瞬だけだった。
「——ありがとうございます」
心からの敬意と感謝を込めてそう告げ、出入り口から観客席を後にした。
残された首藤は、ほぼ虚勢に等しい破顔を見せた。
「さぁ来るといい!! たっぷり稽古をつけてやるぞっ!!」
†
観客席二階も、三階同様のありさまと化した。
村正の足と刃はなおも止まらない。
今度は一階へ降りる。
観客席一階でも、『呪剣』を振るった。
一階北の観客の多くが呪いの暴徒へ変貌し、衝動の赴くまま剛腕を振るう。
——観客席一階から中継をしていた外国人のテレビマンが、暴徒に寄ってたかって殴られて血塗れとなっていた。
——観客席最前の欄干でうずくまりながら、暴徒の仲間入りをした母親の姿を見まいとする幼い子供。
——顔面の形が変わるくらい殴られて横たわった、若い女性。
そのどれもが、村正にとっては他人事だった。
己の剣。
己の剣の間合いに立ち塞がる者。
己の剣によって変わった世界の大まかな様相。
村正はそれらしか眼中に無かった。
観客席一階のスロープからも人が溢れ落ちる。
三階ほどの高さではなかったため、怪我無く着地。
大武道場へと降り立った暴徒は、そこにいる少年達にその害意を向けた。