咆哮
——僕が天覧比剣を目指し始めたのは、今年の四月下旬からだった。
そこから今に至るまでを数えると、三ヶ月とちょっと。長いとはいえない期間だ。
だけど、今の僕には、随分と昔のことのように感じる。
……きっと、今まで過ごした三ヶ月弱の密度が、非常に濃厚だったからだろう。
本当に色々あった。
峰子との軋轢と和解。
清葦隊との出会いと試合。
ミーチャが見せた『径剣流』。
北海道の剣豪『玄堀の首斬り小天狗』との出会い。
螢さんとの特訓。
太郎くんとの出会いと、『劣化・蜻蛉剣』の体得。
ミーチャによる暴力事件と、それによる都予選の不戦優勝。
螢さんとの初デート。
短い間にこれほど多くの経験をしたからこそ、長く感じたのだ。
大変だったし、悲しかったし、喜ばしかった。
——でも、そんな日々も、今日でおしまいだ。
天覧比剣決勝戦。
勝っても負けても、これで最後だ。
そして、当然ながら、その最後は勝利として迎えたい。
それだけの実力が、今の僕らにはあると信じている。
帝国神武閣地下二階。地上一階から三階まである観客席が八卦の形で囲って見下ろす大武道場——僕らはそこに向かい合って立ち、これから戦う相手を見つめていた。
僕ら富武中学校撃剣部と、鹿児島県代表校の拝山学院郷士会。
「——お互いに、礼」
すでに防具一式を着用した双方三人は、審判の声に従い、一礼を交わす。
それから、先鋒以外は後退し、大武道場の壁近くまで寄る。……僕らの先鋒は峰子だ。
残された両先鋒は、大きく離れて向かい合い、「お願いします」と再び一礼。
双方開始位置へと来たところで、竹刀を両手持ちにして構えた。
峰子は右足を引いてやや腰を落とし、右耳隣に立てた竹刀をやや後傾させた構えを取る。
確か「引の構え」だったか。至剣流の「陰の構え」に名前も剣の構え方も似ていたので覚えている。
二年生で最初の撃剣授業で、僕が一番最初に見た峰子の構え方。……三ヶ月ちょっと程度前のことなのに、まるで遠い記憶のような懐かしさを感じた。
思えば、峰子とも本当にいろいろあった。
最悪だった関係から、紆余曲折を経て剣士として手を取り合い、今日まで一緒に戦い……昨夜、僕に「好き」だと告白してくれた。
正直、彼女の気持ちに応えてあげられないことを、申し訳なく思う。
だけど、それ以上に、僕は今まで以上に峰子の事を信頼できている。
——彼女が僕のことを、好きだと言ってくれたから。
好きな人のためなら、頑張れる。
その気持ちは、僕にはとてもよく分かる。……そもそも、その気持ちが無かったら、僕が剣を取ることは無かったのだから。
そんな僕が相手だからこそ、峰子は想いを告げたのだ。
叶わないと分かりきった想いを。
——峰子、頑張れ。
やるからには、絶対に勝ってほしい。
だけど、たとえ負けたとしても、僕が峰子を責めたり、本気を疑ったりすることは無い。
よく頑張ったね、と、健闘を褒め称えることができると確信している。
だって彼女は、僕の事が好きなのだから。
それに、彼女が負けたとしても、次鋒の僕が取り返せばいい。
たとえ優勝候補の一校だとしても、僕達なら勝つことが出来る。
勝とう。絶対に。
天覧比剣決勝は、富武中撃剣部にとっては、終着点なのかもしれない。
だけど、秋津光一郎にとっては、単なる通過点に過ぎない。
この戦いを乗り越えて、僕はまた一歩、螢さんの境地へと近づくのだ。
「一本目——」
審判が、厳かに声を発する。
「始——」
め、と発しきるよりも早く。
——観客席から、獣の咆哮じみた叫びが聞こえた。
鴨井村正は、三階北の観客席の後方に立っていた。
ポロシャツにコンバットパンツ、坊主頭にキャップを被った風貌。痩せこけた細面には、老けて見えるようなメイクを少し施してある。
……先ほどまでかけていた邪魔くさい老眼鏡はすでに捨てている。村正の視力は2.0。眼鏡など不要であった。
入口の検問をくぐり、この二階へ上がるまでの間ずっと丸まっていた背中は、嘘のように真っ直ぐさを取り戻している。
——警察の検問をくぐるために、トーシャの知恵を借りた。
村正の顔と、その『呪剣』の存在が警察側に割れているであろう事態を想定すると、そのまま堂々と検問をくぐることはあまりにも危険だった。別人に化けて侵入する必要があった。
……案の定、警官には村正の顔写真が配られていたようだ。嘉戸宗家あたりが入れ知恵したのかもしれない。連中は内務省の官僚とも繋がりがあるようだから。
顔を偽るくらいなら、少しメイクを工夫すればどうにかなった。
しかし、村正の枯れ枝のような痩せ細った容貌はあまりに特徴的で、そこだけはメイクでも誤魔化しきれなかった。
食って太るにしても、一ヶ月では容姿を変えるに間に合わない。何より村正自身が剣の邪魔になるからと贅肉をつけるのを嫌がった。
だからこそ……その痩せ細った容貌を上手く利用する必要があった。
そこでトーシャが考えたのが「老人のフリ」であった。
村正の見た目を、腰をひん曲げた今にも死にそうな痩せ老人に似せ、別人に化けさせた。
そこへさらにトーシャが「弱った親を甲斐甲斐しくいたわる息子役」となり、その変装を補強する。日本人と違わぬ姿かたちをしたトーシャだからこそ出来た技だ。
官僚が相手ならば簡単にはいかないかもしれないが、末端の警察官が相手ならば容易い。どんな組織であれ、末端の人間は一時の情に流されやすい者が非常に多い。
こうしてまんまと警官を欺き、神武閣へ入りおおせた村正。
そうして現在に至った村正の左手には——日本刀が握られていた。
天覧であるこの大会では、帝の暗殺を防止する意味を込めて、武器の類の持ち込みが厳しく制限されている。許可された一部の人間を除き、銃砲類や刀剣類の持ち込みが不可能。……今年は大統領も来ているため、なおのこと厳重である。
しかし、現に村正の手には、刀がある。
「……ふん、あの男も、随分と面白いことを考えつくものだな」
この世で一番好きな握り心地を味わいながら、村正は老人風にメイクアップした顔をニヤリを破顔させた。
——確かに、警察による神武閣の水際対策は非常に厳重だった。
神武閣に入るための出入り口には、必ず金属探知機の通過とボディーチェックが厳しく行われる。観客だろうと、参加する学生だろうと、例外は無い。
この状況で刀をバレずに会場へ持ち込むことは、ほぼ不可能である。
そして至剣のほとんどは、ごく一部の例外を除き、日本刀かそれに酷似した形状のモノでしか使うことが出来ない。『呪剣』も同様であった。
別に日本刀でなくとも、竹刀や木刀であっても至剣は使える。しかし『呪剣』は斬り傷を負わせないと発動しないため、それでは意味が無い。
唯一、この天覧比剣会場内において刀を持っている、憎き嘉戸宗家次期家元を含む二人の剣士。彼らから刀を奪い取ることもほぼ不可能。二人とも免許皆伝の凄腕だ。素手で挑むのは自殺行為。
しつこいようだが、天覧比剣が始まったその時から、神武閣に刀を持ち込むことは、不可能に近かった。
——だが、水際対策が敷かれる前ならどうだろうか?
天覧比剣が始まる前の段階から、すでに神武閣の中に刀が隠されていたとしたら?
たとえば……今年の七月八日、月曜日。
その日の夜、神武閣内部に何者かが忍び込んだという事件。
犯人が館内の展示物を盗もうとしたところを、駆けつけた警備員に見つかった。犯人逃走によって未遂に終わったという事件。
しかし——その忍び込んだ人物の目的が、本当は「窃盗」ではないのだとしたら?
展示物を盗もうという行為が、警察側に「窃盗目的」と印象付けて完結させるためのミスリードだとしたら?
犯人の本来の目的が「窃盗」ではなく、「配置」だとしたら?
その「配置」するモノが、日本刀だとしたら?
——天覧比剣当日、警察が厳しい検問を神武閣前で行うことを想定してあらかじめ仕掛けておいた、トーシャの作戦だとしたら?
無論、警察も天覧比剣の開催前に神武閣内部を入念にチェックしたことであろう。
しかしその場合、警察が特に警戒を厳とするのは、刀剣類よりも銃器や爆薬の類だろう。
刀剣類の有無もチェックするだろうが、それでもやはり爆発物より注力されることは普通あり得ない。
常識的に考えれば、刀と爆発物のどちらが危険かなどというのは愚問である。
——現場の人間にそんな常識的心理が働いたのか、「隠し場所」の刀は見つかっていなかった。
そうして手に入れた刀だ。
その鞘を腰のベルトに差し、おもむろに刀身を抜く村正。
——見下ろす限り、観客の密度は随分高いようだ。
今日は、天覧比剣最終日。
決勝戦、表彰式、そして閉会式がある。いずれも眼が離せないイベントである。
それゆえに、今日が最も神武閣内部の人口密度が高いとトーシャは読んだ。
神武閣の観客だけではない。
天覧比剣をテレビで観ている層も、最終日に最も注目していることだろう。
今回はアメリカ大統領も来ているため、日本だけでなく世界からの注目度も例年より高めだ。
——最も人と視線が集まるこの日を、『呪剣』で斬る。
そうして起こる出来事は、確実に、この世界を変えるだろう。
お偉い嘉戸宗家ですら成し得ない巨大な変化を、この剣はもたらすだろう。
何もかもを供物に捧げて手に入れたこの至剣は、世界そのものを斬る最高峰の刃となるだろう。
(——さぁ、始めようか)
村正は、妖しく輝く刀身を『呪剣』へと変える。
出力は——最大に。
害意は——他者へ。
客席を貫く階段の一つを、一番下まで降りる。
その途中で、一人、また一人、そのまた一人と、目についた人間の体に刃を素早く走らせていく。
素肌を少し斬る程度の浅い斬撃。
しかし、その浅い傷を得た者はみな、
「————ガァァァァ!!」
気が違った獣のような形相を見せ、近くにいる観客へ飛びかかった。
一人、また一人、そのまた一人と、狂気に陥り暴れ出す。
決勝戦前の緊迫した静寂に包まれていた三階北の観客席が、あっという間に阿鼻叫喚の有り様と化した。
絹を裂くような悲鳴。
獣のような雄叫び。
罵詈雑言の数々。
村正はその混沌の中を散歩のように歩きながら、次々と人を斬る。
次々と人を狂わせる。
狂った暴徒の密度が、あっという間に膨れ上がる。
手元に武器のようなモノがあれば、応戦する者も少なからず現れただろう。
だがこの天覧比剣では武器の持ち込みが厳しく制限されているため、村正の刃に誰一人抗えなかった。
ただ斬られ、呪われ、暴徒の仲間入りをするのみ。
三階北の観客席は、あっという間に『呪剣』の呪いで塗りつぶされた。
その呪われし暴徒の群れは、他の観客席へと流れていき、襲いかかった。
————後に『神武閣事件』と呼ばれる一大事件が、この時、幕を開けた。
「青春」が終わり、「死闘」が始まる。