天覧比剣——綺麗な満月
北海道一の強豪校にして、天覧比剣「三大強豪」の一つである玄堀中学校を、僕らは辛くも打倒することができた。
もうこの時点で、富武中撃剣部一同は、まるで優勝を勝ち取ったかのような喜びようを見せた。
しかし、僕らレギュラー三人はまだ気が抜けなかった。
目指しているのは「参加」ではなく「優勝」だ。そこまでには、あと準決勝と決勝を勝たないといけないのだから。
勝って兜の緒を締めよ、である。
……特に峰子は、またしても負けてしまったことを気にしている様子。
相手が強かったから仕方ないよ、と言っても駄目だ。峰子は良くも悪くも向上心が強い。「相手が強かったから」という形で自分の負けを正当化するのを好まない。励ましにはならない。
であれば、どう元気付けてあげるか?
こう言ってやるといい。
「なら、他の人にレギュラー任せる?」
天覧比剣では、予選でも本戦でも、参加選手を自由に入れ替え可能だ。
そしてどこの学校も、レギュラーではない他の部員まで会場に来ているのは、ひとえに、補欠としてである。
怪我をした、あるいは精神的事情で戦いたくない、そういう場合はすぐにでも換えがきく。
「——絶対嫌よ」
案の定、峰子は敗北の落胆が嘘のように奮起した。……これでよし。
そうしてホテルでしっかり体を休めて、次の日——八月五日の準決勝を迎えた。
現在勝ち残っている学校は、僕ら富武中を含めて四校。
今日の準決勝では、その四校で二試合行う。
僕らは準決勝第二試合を戦う。
対戦相手は——群馬県代表の高崎中央中学校。
その名から察せるように、群馬県高崎市にある中学校だ。
高崎市の南西数十キロ先には、吉井町馬庭という村がある。
そこは昔から、念流の盛んな土地だった。
剣にとって冬の時代であった明治期においてもなお、念流の伝承は絶えることなく続いた。
時代は流れ、経済発展とともに交通インフラが整備されると、隣の高崎市にまで念流の伝承は流れていき、そこでも盛んに行われるようになった。
それを裏付けるように、高崎中央中学のレギュラーは、三人中二人が念流の使い手であった。
「自衛の剣」という穏健な触れ込みで有名な念流だが、それを振るう二人は決して弱くなかった。
しかし、僕達はそんな彼らと戦い——そして見事勝利した。
峰子も、今回は負け分を取り戻せて満足の様子。
そして。
僕ら富武中学校撃剣部は————天覧比剣決勝戦という、最高の舞台に立つこととなった。
†
富武中学校撃剣部が宿泊しているホテルは、半蔵門の近くにある。
決勝戦前夜。そのホテルにおける氷山部長の部屋にて部員一同が集まり、明日へ向けての集会が行われていた。
「——みんな、とうとう「この時」がやってきた」
氷山部長の発言に、部員一同、揃って頷いた。
「今年の五月末、私達富武中撃剣部の戦いは始まった。しかしそれも明日で最後となる。——天覧比剣、決勝戦だ。棒より願いて針ほど得る、という言葉があるが、私達は棒を願って剣を振るった結果、棒を得んとする所まで辿り着いた」
おおっ、と一同歓喜で唸った。
「これは運か? 確かにそれも無くはないだろう。だがこの結果の大部分は、個々人の努力によって掴み取ったものだと私は疑っていない。あの望月螢さんまで引っ張り込んで稽古に励んだ、我々の努力の」
誇らしげに頷く一同。
無論、試合に参加できたのは僕らレギュラー三人だけだ。それでも、有名な至剣流皆伝者に直々に稽古をつけてもらえるという得難い機会を得たのだ。その時の経験は、彼らにとって大きな自信となったことだろう。
……余談だが、螢さんはその時に「『石火』『旋風』『波濤』『綿中針』の四つさえ徹底的に磨いておけば、大抵のことは出来る」と部員達に教えている。
そう、『四宝剣』のことだ。これをやるのとやらないとでは、至剣流の上達速度は大きく異なるのだ。
そういう意味でも、螢さんとの稽古は素敵な後学となるだろう。
「ゆえに、明日始まる我々の最後の戦いも、勝利で幕を下ろしたいと強く思う。——みんなはどうだ? 準優勝で満足できるか? もういいやとここで腰を降ろしたいか?」
ざけんな! 優勝! 勝つしかないでしょ! 打倒薩摩! ……部長のやや煽るような言説に、部員達が次々と抗議の声を上げる。その声にはどこか楽しげな響きがあった。
部長は唇を力強く微笑させ、頷いた。
「そう。私達は優勝を目指すのみ。たとえ相手が薩摩隼人であろうとな」
——鹿児島県代表、拝山学院郷士会。
それが、僕らが明日の決勝戦で戦う相手だ。
「知っての通り、鹿児島は天覧比剣少年部における「三大強豪」の一つと名高い。特にこの鹿児島は学校単位ではなく、県単位で剣が達者な連中だ。毎年ごとに県代表校がコロコロと変わる。だがそれでも三位外から落ちることがほとんどない。ある意味、北海道よりも恐ろしい相手かもしれない」
僕は息を呑む。他のみんなも同様だろう。
「拝山学院は、開聞岳の北東部に位置する小中一貫校だ。郷士会というのはその名の通り、旧薩摩藩の郷士の末裔が集まる部だ。地元の史跡研究会という側面と、剣術研究会という二つの側面を併せ持つ。ちなみに拝山学院にはすでに撃剣部が存在し、毎年天覧比剣の出場権を巡って郷士会と勝負しているらしい。今年は郷士会が勝ったようだな」
天覧比剣に参加できるのは、一校につき一団体のみだ。学校の時点で勝負が始まるというのはなかなかに面倒くさい。富武中に撃剣部が一つだけで本当に良かったと思った。
「この帝国において最大規模の剣術流派は至剣流だ。しかし鹿児島は旧藩の郷中教育の名残りゆえか、至剣流門下よりも野太刀自顕流の修行者の方が多い。帝国民が必修科目として至剣流を学ぶのは小学校からだが、彼らは幼稚園の段階から横木をひたすら打ちまくっている。我々よりも早く剣を触っているんだ。そんな風土が、彼らのあの強さを支えている」
拝山学院郷士会の使う剣は、主に薬丸自顕流と示現流兵法、それから直心影流であるそう。
彼らの試合は僕も見たが、確かにあの腕前は普通ではなかった。
その剣は雪崩のような勢いだが、力任せだったり大雑把では決してない。豪然と振り回される太刀筋の中にも精緻さがあった。猛獣の野蛮さと、仏僧の思慮深さを併せ持ったような剣。
「強敵だ。まさに決勝で戦う相手に相応しい。——だが、それでも我々にだって勝機はある。なぜなら我々は、薩摩と同じく優勝候補である玄堀中学校を下しているのだから」
百の稽古より、一の勝利によって、劇的に強くなれる時がある。
昨日の玄堀中学校との試合での勝利は、それを僕らにもたらした。
僕らの剣は、三大強豪にすら届き得るという、自信を。
だから明日の相手が鹿児島であろうと、きっと臆することなく戦える。
勝つことだって、十分に可能だ。
「明日は絶対に勝とう。帝から優勝の証である短刀を賜り、それを富武中の校長室に飾ってやろう。天覧比剣の歴史に、富武中の名を刻んでやろうじゃないか」
おおおおっ、と全員が声を上げた。
——いよいよ明日、決勝戦だ。
確かに「天覧比剣を目指す」とは言ったし、その天覧比剣に来てからも「優勝を狙う」と宣言した。
だけど、まさか本当に優勝を目前にするとは思わなかった。
ここまで来たら、今度こそ勝利で幕を下ろす以外の展開はあり得ない。
明日は、頑張ろう。
集会を終えて、自分の部屋へ帰ろうとした僕を、峰子が引き留めた。
彼女はそのまま僕を、ホテルの外、正面ゲート前まで連れてきた。
雲一つ無い夜空に、煌々と輝く綺麗な満月。敷き詰められた花崗岩のタイルの地面に、僕ら二人の影が伸びている。
真夏でも、やっぱり夜は涼しい。遠くで車が絶えず行き交う音とともに、ぬるい風が僕らへ届き、髪を揺らす。
「どうしたの、峰子?」
僕は目の前の峰子にそう問いかける。
学校指定のジャージズボンにTシャツという、おおよそ着飾っているとは言いがたい装い。
しかし、今は髪飾りを取って降ろされたミディアムの髪は、シャワーを浴びた時の湿り気がまだ少し残っており、さらに程よく体にくっつく服装がそこはかとなく彼女の体のラインを浮かび上がらせていて……いつもより色っぽく見えた。
加えて、どこか憂いを帯びたような表情。
まだ要件を伺っていない段階で、僕は早くも居心地の悪さを覚えた。
「……峰子?」
僕はいま一度問いかける。
すると、峰子はしばらくうつむいてから、やがて意を決したように顔を上げて僕を見つめた。
「明日は、決勝戦よね?」
「う、うん」
「勝ったとしても、負けたとしても……私達の夏は、明日で終わりよね?」
「そ、そうだね」
まるで前置きをするかのような峰子の問いに、僕はうんうん頷くのみ。
峰子はそこでまたうつむき、先細った声で続ける。
「だから、その…………出来る限りの備えを、しておこうと、おもって」
「備え?」
ん、と峰子は小さく頷く。
うつむいていて、前髪で目元がよく見えない。しかしわずかに覗ける頬は、月明かりだけで見ても赤いことが判る。
お風呂上がりで顔が上気してるから?
夏の熱気?
それとも……それ以外の理由?
「光一郎」
僕が考えていると、峰子は勢いよく顔を上げた。
緊張した真っ赤な顔。
熱っぽい憂いを帯びた瞳。
彼女は、言った。
「私、あなたが好き」
そう、言った。
確かに、言った。
間違いなく、言った。
僕のことが好きと……確かに言った。聞こえた。
その意味を、僕は脳内で考察する。
しかし、あまりに衝撃に、思考が痺れてうまく働かない。
「…………好きって、どういう意味で?」
「蹴るわよ」
「ごめん」
だから、馬鹿な質問をしてしまう馬鹿な僕。
白い月光でも分かるほど、彼女の顔は赤い。
人目を忍んだ場所でこの事を告げた理由。
すぐには言わず、散々躊躇った末にようやく口にした彼女の態度。
——彼女がどういう意味で「好き」と言ったかなんて、分かりきったことじゃないか。
「光一郎のことが好き。友達としてじゃない、一人の男の人として」
赤く、泣きそうな顔で告げられる僕への想い。
「散々辛辣に当たったのに、私を見つめ続けてくれたあなたが好き。
弱いくせに強いフリしてた私を、本当に強くしてくれたあなたが好き。
私が弱気になるたびに、励ましたりからかったりして奮起させてくれるあなたが好き。
……壊されたお父さんの形見とよく似た髪留めを私にくれた、あなたが好き」
だが、緊張気味だった彼女の表情筋は、言葉を重ねるたびに、和らいでいく。甘みのある微笑みに変わっていく。
……そうなる気持ちは僕にも分かる。
「強いところも、優しいところも、単純なところも、少しスケベなところも……良いところも悪いところも全部込みで、光一郎のことが好き」
僕も最初、螢さんに一目惚れして、思い切って告白するまで、いくらか躊躇った。緊張した。
しかし、ひとたび「好き」と言ってしまえば、あとは躊躇いが無くなる。
いくらでも、多様な愛の言葉を口に出来る。
「大好き。……あなたが望むなら、学校を卒業した後も一緒にいて、所帯を持ったって良いって思えるくらい、愛してるわ」
まごうことなき、峰子の真心である。
人を好きになったことのある僕だから、それを疑わなかった。疑う必要などなかった。
——嬉しい、と素直に思った。
だがそれは、人に嫌われるより、好かれていた方が嬉しいという、そんな程度の「嬉しい」だ。……峰子には最初、あんなに嫌われまくっていたから、余計に。
僕は、この子の真心に、応えられない。
だって、僕は。
「ありがとう、峰子。でも…………ごめんね。僕は——」
「知ってるわ。望月さんが好きなんでしょう?」
答えを先んじられて、僕は「う、うん……」と少し照れ臭く頷いた。
……まあ、そりゃ分かるか。僕が前に自分で言ったわけだし。
「あーあ。やっぱり振られちゃったわね」
そんな僕の答えに対し、峰子は落ち込んだり、泣いたりすることなく……とてもすっきりした笑顔を見せた。
「ごめんなさい。結果が分かりきってる告白なのに、私の自己満足にわざわざ付き合わせてしまって」
「別に、大丈夫だけど…………嫌では、なかったし」
ただ、分からない。
結果が分かりきっているのに、なぜ言った?
それも今を選んだ理由は?
そんな僕の気持ちを読んだように、峰子はまっすぐこちらを向いて告げた。……その顔は、さっきまでの赤みがすっかり抜けて、真剣そのものだった。
「あなたに好きって言いたかったのは——私が、あなたの事を嫌っていないって事を、はっきりさせておきたかったからなの」
……言っている意味が、よく分からない。
峰子が、僕を嫌っていない? それをはっきりさせるため?
まるで僕が「峰子に嫌われている」と認識している事を前提としたような物言いだった。
「ほら、私達って、お互いに最初の印象が最悪だったじゃない。私ははっきり「あなたが嫌い」って光一郎に言ってたし。光一郎もそんな私にビビってたし」
「まぁ……確かに。あの頃は正直「この子とは永遠に仲良くできないんじゃないか」って内心思ってた」
クスリと一笑しながら「私も」と同意する峰子。
「光一郎のこと、最初は本当に大嫌いだった。お父さんを殺したロシア人なんかと仲良くするような奴に深入りしたくないしされたくない、撃剣部以外で絶対関わってやるもんかって。…………あの頃の私が、あなたの事をこんなに好きになってる今の私を見たら、卒倒しそうかもね」
峰子はおもむろに手を出し、僕のTシャツをそっとつまんだ。
「でも私、あなたに「大嫌い」以外のはっきりした気持ちをぶつけたことが無かった。こうして今日まで同じ部員として一緒に戦ってこれたけれど、あなたへの気持ちがどういうものかを、「大嫌い」に固定させたままだった。
それが嫌だったの。だから、ちゃんと「大好き」っていう気持ちをあなたに告げて、私があなたに抱く感情が「大嫌い」じゃなくて「大好き」に変わったって、はっきり知っておいて欲しかったの。
——そうやってはっきりさせて、明日の決勝に備えたかったの」
「僕への告白が、明日のための備え……?」
いったい、どういう意味だろう。
峰子は、Tシャツをつまんだまま、愛おしそうな上目遣いを僕に向けて、言った。
「大事なことよ。私があなたを好きだってはっきり知ってもらうことで、私の事を心から信じて欲しかったの。——あなたのために、頑張れる女だって」
「峰子……」
「明日は私、頑張るわ。自分のため、富武中のため、部員のため、部長のため……そして、私を強くしてくれた、大好きなあなたのために」
峰子の両手が、僕の顔を包み込むように優しく掴む。……細くて滑らかだが、少し硬さのある指だ。
彼女が爪先立ちになると同時に、シャンプーの匂いが漂ってきて。
「んっ……」
峰子の息遣いとともに——僕の左頬に、柔らかい潤いが軽く接触した。
頬にキスをされたのだと気づいた頃には、すでに彼女の唇は離れ、目の前に恥じらうようなはにかみ笑顔があった。
「本当は唇にしたかったけど、光一郎、困っちゃいそうだから」
「え……あ……」
「光栄に思いなさいよ。たとえ頬でも、誰かにキスなんかしたことなかったんだから。——おやすみ、光一郎」
そう言って、峰子は背を向けてそそくさと去っていった。
明るい入口ゲートへ入った彼女の後ろ姿が小さくなっていくのを、僕は見るともなく見ていた。
我知らず、僕の指先が左頬へ触れる。
……峰子の唇の湿っぽさが、まだ残っていた。
しばらくの間、僕はその湿っぽさを感じ取る以外、思考がうまく働かなかった。