天覧比剣——鴻鵠
『……悪いが、そういうわけにはいかん。私にだって……私なりの意思があって、藤林先生に師事したんだ。トキ……君という友達と、もう一度会って、私が体得した玄堀の剣を見せたいと思って』
京のこの言葉を聞いた瞬間、激昂して見苦しく踊りかからなかった自分の自制心を誰か褒めて欲しいと、雪柳トキは心底思った。
——君という「友達」。
友達?
誰と誰が?
自分と、京が?
いつ殺されるか分からない恐怖と戦っていた自分と、それを厭うて村を捨てた京が?
————ふざけるな。
(私が、私が十一年前、どんな思いであの戦場と向き合ってきたのか、知りもしないくせに——!)
「玄堀村の戦い」が起こる前、村の女全員に配られた懐剣。
大人達は言った。
それは己の命を断つためのモノだと。
露寇の欲と穢れから、己の魂を守るための刃だと。
夷狄の汚辱を受けるにあらず、と。
老いも若きも、この懐剣に込められた意味に納得し、頷いた。
トキもまた、頷いた。
——頷いただけだった。
本当は納得なんかしてなかった。
死にたくなかった。
他人を殺すのも嫌だったが、自分を殺すのはもっと嫌だった。
どうしてそんな理不尽を、周りの大人達は納得し、受け入れられるのか、分からなかった。
ただただ、怖かった。
人が人を殺さないといけない、戦争というモノが。
自分で自分を殺さないといけない、戦争というモノが。
そんな異常をまかり通らせ、みんなに納得させてしまう、戦争というモノが。
——自分に勝ったら京に譲る、と宣言した「玄堀の守り刀」。
あれが、先の戦場を生き抜いた、玄堀の女としての誇りの証であることは間違いない。
しかし、トキにとっては厳密には違う。
トキにとってあの守り刀は、ソ連軍とではなく、臆病な自分と戦った証であった。
——姉のように慕っていた大好きな親友がいなくなり、自分一人で恐怖と戦わなければいけなかったのだ。
大好きだったのに。
お姉ちゃんみたいに思ってたのに。
戦争が起こっても、二人一緒なら頑張れると思ってたのに。
それなのに、私を一人置いて、安全な場所に逃げたんだ。
——私を捨てたくせに。
——いて欲しい時に、一緒にいてくれなかったくせに。
——今更、友達面、しないでよ。
立ち上がり、開始位置へ戻る京を見ながら、二本目はもっと痛い目にあわせてやると心に決める。
——あなたがいなかったから、私は一人で強くなるしかなかった。
——あなたがいてくれなかったのがどれだけ辛かったか、私が培った「強さ」で、骨の髄まで教えてやる。
——私を捨てたことを、後悔させてやる。
トキもまた開始位置へ戻り、向かい合う京へ向けて構えを取った。
京もまた、構えた。
(……なに、あの構え)
見たことの無い構えだった。
左足左掌顔面を前にした、真半身の構え。真後ろへ剣尖を向けて平行にした剣を、その構えの裏側に隠している。
心眼流の「露構え」に似ているが、違った。
左膝と垂直線上の関係で一致した左掌と、顔面と、京の一対の瞳。
「————っ!?」
その瞳と視線を合わせた途端、勝手に心臓が高鳴った。
本能が生命の危険の予感を訴える、嫌な高鳴り方。十一年前の戦争で常に感じていたものだった。
気のせいだと最初は思った。
しかし、先ほどに比べて、観客のざわめきが静まっている。緊張した静寂。
審判もまた、いつもの冷厳な眼差しではなく、息を呑んだような目で京の構えを凝視していた。
——何かが起こる。
そして、これからその「何か」を起こすのは、他ならぬ京であること。
それが、この会場全員の共通認識になっているのを、トキは本能的に確信する。
だが、何かに慄くだけなら、山の獣にだって出来る。どうすべきかを考えてこその人間だ。
トキは構えを変えた。右足を引き、右上段で剣尖を前へ向けて並行に構える。多くの剣術にて採用されている「霞の構え」と呼ばれるものだ。攻撃にも防御にも優れた構え。
審判も、京に気を取られるのを自制し、努めていつもの冷厳な眼差しに戻って両剣士を見る。
息が詰まるような静寂が、一瞬、極限にまで達してから。
「二本目——始めっ!!」
審判の宣言とともに、
「————ェェェェェイィ!!」
京が、場の空気を両断するような気合とともに飛び出した。
大きく進み出ながら発せられる、電光石火の右袈裟。
鋭い——だけど、受けられない程ではない!
「トォォッ!!」
トキもまた「霞の構え」から、鋭く太刀筋を刻んだ。
両者の竹刀が切り結ぶ。
トキはそこで止まらない。そこからさらに動き出そうと——
(————動けない)
手足どころか、指一本すら動かせない。
呼吸すら、出来ない。
一太刀に込められた重みで全身が硬直した、という感じではない。むしろ、斬撃の重み自体はさほどでもなかった。
京の一太刀を受けた途端、まるで金縛りにあったかのように、全身が動くのをやめた。
京は返す刀で、左太刀に変えながら踏み込み、面を横一文字に斬ろうとしてくる。
反応できない速さではない。
だというのに、なおも体は動かなかった。
まるで断頭台にて己の沙汰を待つ罪人のごとく、身じろぎ一つせず、出来ず、京の一太刀の到来を待ち続け、
打たれると同時に、全身を蝕んでいた謎の呪縛が解けた。
竹刀の打つ音が響いた途端、水を打ったように場が静まり返り、
「……………………い、一本。面あり」
しばらくして、審判が忘れていた己の役割を思い出したように、宣言。
「……………………なん、ですの。いまのは」
観客席に座る天沢紫は、うわごとのように呟く。
いつもの硬そうな美貌が、大きく驚愕で崩れていた。
篠も、同じような表情で、一言も発せずにいた。
それほどまでに、京が見せた剣技は、神力じみた何かを感じさせるものだった。
周囲に座る他の観客も、二人と同じように唖然としていた。
「————きゃはっ」
ただ一人、ギーゼラを除いて。
「ああやばいわ。想像以上だったわよ」
まるで、初めて義父から日本刀の輝きを見せられた時と同じくらいの、感動とときめき。
「氷山さんの嘘つき。やっぱり持ってんじゃないのよ。——とびきりのモンを」
審判がトキの一敗を宣言した瞬間、まるで現実世界に引き戻されたように、会場のざわめきが戻った。
客席の大部分を埋めるほどの衆人環視を黙らせるほどの、京の剣技。
——打たれて呆然としていたトキも、また。
(……今のは、いったい)
自分の後方に立っている京の姿へ、恐る恐る振り向くトキ。
京はこちらを横目に見ながら、佇んでいた。トキが今打ち込みに行っても、問題なく対応できる残心ぶり。
その姿が——小さい頃に見た、静馬おにいちゃんと重なった。
「……まさか」
トキは、目を見開いた。
京は、玄堀村の英雄である剣豪『玄堀の首斬り小天狗』から、直接剣を学んでいる。
その「首斬り小天狗」は、本当に、心眼流だけで、銃で武装した数多の敵兵を斬り殺したのか?
否。
もう一つある。
「首斬り小天狗」にしか使えず、伝承も彼にしか出来ない、玄堀最強の神技が。
「玄堀の秘剣」と呼ばれている技が。
「京ちゃんが、受け継いだっていうの? ——『鴻鵠ノ太刀』を」
『鴻鵠ノ太刀』。
「玄堀の秘剣」と呼ばれているその技の正体は——必中必殺の剣。
相手を金縛りのように身動き一つ出来ない麻痺状態にし、そこへ一太刀を放ち確実に敵を斬殺する技。
麻痺するのはほんの数秒程度だが、流動性が尊ばれる日本剣術において、そのたった数秒の硬直は「死」を意味する。
もともとは、明治時代に玄堀村へ移住してきた仙台士族「藤林氏」の家伝の剣であった。
あまりにも強力な剣技であるがゆえに、みだりに伝え広めずに唯授一人——伝承する人物を一人に絞る伝承形態——という形で現在まで継承されてきた。
千鶴の父から、静馬へ。
そして静馬から、京へ。
(——見事な『鴻鵠ノ太刀』だったよ。京ちゃん)
師範としての厳しい表情の下で、静馬はそう称賛した。
『鴻鵠ノ太刀』は、心眼流の基礎がそれなりに出来上がっていなければ使えないし身につかない。
文章だけでは表現できない部分も多々あるため、伝書の類も存在せず、教伝法は口伝のみ。
京はその口伝をあっという間に呑み込んでいき、あそこまで技を練り上げた。
(けど……京ちゃんが使ったのは、まだ第一段階だ)
『鴻鵠ノ太刀』には、習熟度が二段階存在する。
第一段階は、初太刀を相手に叩き込むことで麻痺状態にしてから、二太刀目で止めを刺すというもの。……そう。先ほどトキに使ったものだ。あの初太刀には特殊な要訣が存在し、触れただけでその者の体は動かなくなる。
第二段階は、剣気を発して相手を麻痺させ、初太刀だけで斬るというもの。
その第二段階が成ったところで、『鴻鵠ノ太刀』は完成となる。
だが今の京は、まだ第一段階しか成っていない。
先ほど「鴻鵠の構え」を見せた瞬間に周囲の人々が気圧されて静まり返っていたが、あれは「剣気で相手を麻痺させる」という第二段階に入り始めている証だ。しかしまだ爪先を突っ込んだ程度の習熟度。
使うには「鴻鵠の構え」が前提として必要なレベル。
そしてトキは、それが「前提条件」であることを、すでに見破っているはずだ。
であれば、もうあの構えを取らせまいとしてくるだろう。
(——本当の勝負はここからだよ。京ちゃん)
三本目が、始まろうとしていた。




