天覧比剣——幕間「いつか見たような夕暮れで」
神奈川組sideのラストです。
天覧比剣少年部の参加校には、それぞれ宿泊先であるホテルが手配されている。天覧比剣が閉会するまでの間、そのホテルに滞在することになる。
一つの大きなホテルに二校から四校くらいまで収容する計算だ。
神武閣に近い場所もあれば、駅をいくつか跨いだ先の場所もある。
——中陸中学校撃剣部が宿泊するホテルは、新宿区南東端の四谷にあった。
三回戦の全ての試合が終わった後、中陸中学校一同はそのホテルへ帰ってきた。着いた時には昼過ぎであった。
部員らの表情はみな優れない。それが今日の結果を言外に表していた。
……だが、それは同時に、天覧比剣への真剣さの裏付けでもあった。
毎年地区予選落ちの弱小部がここまで這い上がるまで、さまざまな苦労や軋轢を繰り返してきた。
それらを乗り越えて、この天覧比剣まで来た。
誰一人として、それで満足などしていなかった。
行ける所まで、それこそ優勝まで行きたかった。
……だが、今日、その「行ける所」に達してしまった。
富武中学校に敗北してからというもの、部内は必要な会話以外、ほとんど無言に等しかった。
機械的にシャワーを浴びて制服に着替えて身支度を済ませ、送迎バスへ乗った。バスの中でも会話が無かった。
ホテルに帰ってきて、ロビー前にて必要最低限の言葉を交わして解散してから、ようやくすすり泣きが部員達から聞こえだした。
……一満は、泣かなかった。
胸の内には「終わったのだ」という気持ちが強かった。
その気持ちを形作る感情は、安堵と虚無感。
天覧比剣へ向かって無我夢中で走り続けて、ようやく座り込むことを許されたような安堵。
大変でありつつも楽しかった日々が、終わってしまったことへの虚無感。
そう、終わったのだ。
悔しくないわけではない。
だが、やっぱり「終わったのだ」という気持ちの方が大きかった。
——せめて心残りがあるとするなら、蓮美のために優勝できなかったことだ。
もともと一満が撃剣部に入ったのは、蓮美が理由であった。
最初は、ただ蓮美とお近づきになりたいという下心ゆえ。
しかし、いつしか蓮美と「天覧比剣」という目標を同じくして、今日まで頑張った。
その天覧比剣にも行き、今度は優勝を、とさらに頑張った。
優勝した時、蓮美がいったいどんな顔で笑ってくれるのか——それだけが、一満の望みだった。
だけど……それは叶わなかった。
最も悔しがるとするならば、そこかもしれない。
一満はホテルでバイキング形式の昼食をとってからというもの、気を紛らすため、持参してきたSF小説を空調の効いた自室で読んでいた。
いつもより読むペースが早く、百ページ読んだあたりで少し喉が乾いてきたので、栞紐を入れて本を一度閉じてベッドから降りた。時計を見ると、午後三時だった。
部屋を出て、エレベーターで自販機のある一階へ降りてすぐ、一満は蓮美と再会した。
「……一満くん?」
セーラー服姿の蓮美は一満に気がつくと、親しげな笑みを浮かべて話しかけてきた。
「どうしたの? 一階まで来て。部屋で休まないの?」
「あ、うん……ちょっと喉が渇いたから、飲み物を買いに」
「そっか」
納得したように微笑む蓮美。
それから少しの間、無言で見つめ合う。
「一満くん?」
きょとんとした顔でこちらを見る彼女の顔には、曇りの感情は見られない。……あくまで表面上は。
「えっと……」
一満は何と言えばいいか分からなくて、返事に窮する。
だがその時、蓮美は一満の手を掴んだ。
「へぁっ!?」
想い人の手の感触に、一満は思わず変な声を出してしまった。す、すべすべしてる……!!
そんな一満の羞恥と歓喜を知ってか知らずか、蓮美は悪戯小僧のような微笑を浮かべ、次のように提案してきた。
「——ね、これから一緒に観光しない? せっかくの帝都なんだから」
すでに午後三時であるため、そう遠くまでは行けない。なので必然的に近場をうろつくことになった。
二人きりになり、見慣れぬ帝都の街並みを物見遊山。
あちこち指差しながら楽しそうにしている蓮美を眺めながら、一満はデートしている気分を勝手に満喫していた。
恥ずかしいけど……それ以上に楽しくて、嬉しい。
四谷とは言わず、このまま東京二十三区全部踏破出来そうな気分だ。
それに、あまり来る機会の無い帝都を見て回るのは、良い気晴らしにもなる。……蓮美も、そのつもりで「観光」なんて言ったのかもしれない。
(あと一つわがままを言うなら……手を繋ぎたい)
さっきのすべすべした感触の手を、願わくば、もう一度握りたい。
ぶらぶらと何も持たないお互いの手を、一満は歯痒い気持ちで見下ろす。
そのような感じで、楽しくもこそばゆい観光は続く。
だが、日照時間が長い夏といっても、日はいつか沈む。
空が夕焼けとなった頃、蓮美が最後にと訪れた場所は、須賀神社であった。
元々は赤坂の稲荷神社であったのが、江戸城外堀の普請のため寛永十一年(1634年)にこの四谷へ遷座され、須佐之男命などの神と合祀したのが始まりとされている。
「須賀」という社名の由来は、須佐之男命が出雲にて八岐大蛇を倒したのちに発した「吾此地に来たりて、心須賀須賀し」という言葉である。
……以上、蓮美の説明であった。
大鳥居へ一礼してからくぐって奥へ進み、夕日に彩られた拝殿の前まで来た。
蓮美が苦笑気味にこちらを向く。
「えっと……何をお願いする?」
そう問われて、一満は少し考え、思いついた。
「叔父さんが元気になりますように、って」
「一満くんの、叔父様?」
「うん。叔父さん、軍人なんだけど、最近仕事で何かあったみたいで、ちょっと悩んでるみたいなんだ。だから、元気になってくれたらいいなって」
「高校合格祈願、とかじゃないんだ?」
「うん。スサノオ様って厄除けの神様でもあるらしいし、丁度いいかなって。……蓮美さんは、お願い事とかある?」
訊くと、蓮美は少し間を置いてから、答えた。
「——私のお願いは、もう叶ったから」
その声音は、驚くほど穏やかで、かつスッキリとしたものだった。
「天覧比剣に、行くことができたから」
どんな結果でも、それを聞き入れ、納得し、自分の感情と折り合いをつけた大人のような。
「弱小だった部でも、頑張って、頑張って、ここまでこれたんだから」
しかし、大人というのは往々にして嘘が上手だ。
「あの望月さんと、同じ舞台で、戦えたんだから」
納得していなくても、それによって軋轢を起こさず社会を回すため、嘘や建前を使いこなす。
「ほら、もともと「天覧比剣を目指す」ってことしか考えてなかったんだから! 勝ち抜いて、優勝しようなんて、最初はそんな事考えてなかったんだから!」
そんな大人に、蓮美はなろうと、今、努めている。
「運良く二回勝てたけど……でもやっぱり、甘くなかったね。天覧比剣って。強い人達ばっかり。私もあっという間に負けちゃったし、一満くんに勝っちゃうくらい強い人もいたし」
だけど——一満の目から見ると、それはひどく、サマになっていなかった。
「だから、私にお願い事なんて無いの。私のお願いは、天覧比剣に行く事で、それはもう叶ったんだから——」
そんな蓮美を、一満はそっと抱き寄せた。
「…………かずみつ、くん?」
「——いいんだ。蓮美さん」
「いい、って?」
「痛いのに、痛くないって言わなくていいから。……少なくとも、僕の前では」
蓮美は、拒絶しなかった。
一満の背中に腕を回し、痛いくらい締め付けて、
「……かったもん」
左耳に、そう囁くように呟いてから、
「——悔しかったもんっ!!」
思いっきり吐露した。
「お願いが叶ったから負けても気にしないって!? そんなわけないじゃんっ!! 悔しいよ!! 悔しいに決まってるじゃんっ!!」
心の澱を吐き出すように、
「負けたの!! 私!! 一本も取れなかったの!! 頑張ったのに、全然駄目だったのぉっ……!!」
子供が駄駄をこねるように、
「一満くんも、部長も、他のみんなも……私のわがままで頑張ってくれたのに…………私……こんなに弱っちくて……足手まといで…………ああああぁぁぁぁぁっ!!」
蓮美は涙の混じった声で悲嘆する。
「悔しいっ!! 悔しい悔しい悔しい!! 優勝出来なくて悔しいっ!! 悔しくて悔しくて死んじゃいそうだよぉぉぉ…………かずみつくぅぅぅんっ!!」
——自分も、悔しかった。
負けた事が。
それを遥かに超えるくらい、蓮美をこんな風に泣かせてしまった事が。
一満の眼からも、ようやく涙が出てきた。
一満がここまできたのは、全て蓮美のためだった。
だからこそ、蓮美の涙は、自分の涙でもある。
……二人はしばらくの間、そうして抱き合ったまま、泣き合った。
「…………ごめんね。みっともない所、見せちゃって」
「みっともなくなんか、ないよ」
一満は鼻をすする蓮美にそう言いながら、眼鏡を上へズラして涙を指で拭いていた。
お互いの泣き腫らした顔を見つめ、そして思わず笑い合う。
「夕日の下で、二人きり…………なんか、「あの時」みたいだね」
蓮美のその発言に、一満は「え?」と応じる。
「今年の五月十四日の、放課後。……一満くんが、私に「天覧比剣に行こう」って言ってくれた時だよ」
茜色の夕空を見上げ、蓮美は懐かしそうに目を細めた。
「なんか……随分前の事みたい。たった三ヶ月くらいしか経ってないのに」
「……そうだね」
一満は頷く。
「…………私、結局優勝できなかったし、それはまだ悔しいよ。でも……それでもやっぱり、私は天覧比剣に行けたんだ」
「蓮美さん……」
「ううん。違うね。——君が連れてきてくれたんだよ。一満くん」
蓮美は、こちらを振り返る。
「君がいなかったら、私は途中でまた負けてた。君がいなかったら、私はここまで来れなかった。……君がいたから、私は戦い続けられた」
泣き腫らして赤みを帯びた頬に新しい朱を浮かべ、彼女は花のように笑った。
「——ありがとう、一満くん。私と一緒に戦ってくれて。撃剣部に入ってくれて。私と……出会ってくれて」
それを見た瞬間、一満の心音が、大きく跳ね上がった。
顔と、全身が、猛烈に熱を帯びる。
蓮美の笑顔を見るのが恥ずかしい。
だけど、ずっと見ていたい。
そう……ずっと。
——言うなら、今しかない。
「蓮美さんっ!!」
「な、なぁに? 一満くん?」
「もうっ、天覧比剣は終わったよねっ!?」
「う、うん、そうだね。終わっちゃったね……」
「だよねっ! だから、その……もう、遠慮しないから! もう言うねっ! ずっと、蓮美さんに言いたかった事…………今! 言うからっ!!」
一満は、思い切って打ち明けた。
ずっと、胸の内に秘め続けてきた、彼女への想いを。
「————蓮美さんが好きです!!」
蓮美は大きく目を見開く。
「二年生の頃から、ずっと蓮美さんの事が好きでした!! だからっ、えと、そのっ…………ぼ、僕とっ! 結婚を前提にっ、お付き合いしてくれませんでしょうかっ!?」
最後の方で変な日本語になってしまった。
でも、言いたい事を、言うべき時に、はっきりと告げた。
自分に出来ることは、ここまで。
ここから先は、彼女次第だ。
「…………一満、くん……」
蓮美は、驚いたような表情のまま、固まっている。
ダメか、と一満は思いかけた。
だが、蓮美はその頬にさらなる濃い朱を散らし、今までに無いくらい目を輝かせ、
「————はい。不束者ですが、末永くよろしくお願いします」
まぶしく、それでいて艶やかな笑顔で、頷いてくれた。
……夢かと思った。
違う。夢じゃない。全部現実だ。
嬉しい。
すごく嬉しい。
叫びたいくらいに嬉しい。
けれど、成就の喜びを叫ぼうとは、思えなかった。
そんなことよりも……もっと、彼女の存在を感じたい。
「蓮美さん……」
一満は、蓮美に歩み寄り、その両肩へそっと手を置いた。
蓮美の顔が、息がかかるくらい近くなる。熱病に浮かされたような惚けた表情で、こちらを見つめている。
一満の視界の中で、その顔がどんどん大きくなっていき。
夕日の作る二人の影が、一つになった。
「んっ……」
蓮美は拒まなかった。
身じろぎ一つせず、唇を唇で受け止めてくれた。
ついばむような、軽く、一瞬の接吻。
けれど、たったそれだけで、脳が痺れるような多幸感が一満を襲った。
唇同士を離し、嫣然と微笑む蓮美の真っ赤な顔と、再び見つめ合う。
「……一満くん」
「好きだよ、蓮美さん。……愛してる」
「うん。私も……大好きだよ。一満くん」
「蓮美さんっ……!」
「んむ、っ……」
もう一度、唇を合わせた。
今度はお互いの背中と後頭部へ手を回し、押し付け合い、ねじ込み合うように、深く。
蓮美の唇の柔らかさ。眼鏡を湿らせる蓮美の息遣い。木蓮のような蓮美の体臭。高鳴った鼓動の混じった蓮美の体温……
重なり合って一つになった互いの影のように、奥の奥まで一つになりたいと強く願い、濃密に互いを求め合う。
しばらくして、唇を離した。
目と目を合わせ、互いを愛おしむように微笑み合った。
「ねぇ……一満くん」
「なにかな? 蓮美さん」
「子供は何人欲しい?」
「ぶっ」
羞恥で瞬間沸騰した一満の顔を見て、蓮美は可笑しそうにけらけらと笑った。
……きっと自分は、この時の彼女の笑顔を、ずっと忘れない。
何年、何十年経っても。
ずっと。
脇役すらこうだというのに主人公ときたら……
ちなみに中学出てすぐ働く人が少なくない社会ですので、「結婚を前提に」という口説き文句は大袈裟ではなかったりします。