天覧比剣——三回戦第一試合 次鋒戦《下》
次で勝負が決まる。
逆に言うと、まだチャンスは一回残っている。
だというのに、
(勝てない……かもしれない)
一満は、すでに己の勝利を想像出来ずにいた。
——これが、天覧比剣なのだ。
すでに天覧比剣で二回勝ち進んだが、いずれも油断のならない相手ばかりだった。
しかし、目の前の相手は、次元が違う。
もはや凄腕というより、変態の領域。
……思い出すのは、蓮美が嬉々として見せてきた、一本のビデオテープ。
中に記録されていたのは、三年前の天覧比剣少年部の試合映像。
彼女が憧れている、望月螢の試合だった。
小柄な少女が、並み居る剣士を圧倒的な剣腕によって打倒していた。彼女が所属している葦野女学院は準優勝で終わったが、螢個人の戦績は無敗だった。
その映像を見て、一満は思った。——天覧比剣に行ったら、いつかこんな化け物みたいな人と戦わなければいけないのか。と。
……その「化け物みたいな人」と、自分は今まさに戦っている。
自分は所詮、科学知識の片手間で剣を学んだだけの、ただの凡人。
こんなとんでもない相手に、勝てるイメージが思い浮かばない。
ああ。しかし、試合はまだ終わっていない。負け戦になるとしても、続けなければならない。途中で投げ出すことは負けるより見苦しいだろう。
一満は重い足取りで、開始位置へ戻ろうとした。
その時。
第二会場の端からこちらを見つめる、蓮美の姿を見つけた。
面金の奥にある、彼女の瞳。
真摯にこの一戦を見届けようとしっかり開かれ、しかしどこか不安げな、そんな眼。
たとえどんな戦いであっても、彼女は見届け、それを受け入れるだろう。
そんな彼女の前で、負け戦と諦めながら剣を振るう?
(……できるか、そんなこと)
竹刀を握る手が、ぎりっと強まる。
僕が言ったんじゃないか。「天覧比剣に行こう」って。
そんな僕が、ここで折れてどうするんだ。
戦わないで、どうするんだ。
(……やってやる)
最後まで諦めない。
まだ三本目が残っている。
体力もまだある。
剣を握っていられる。
——彼女のために、勝ちたいって思えてる。
沈むように重かった両足が、軽くなった。
開始位置へ戻り、取った構えは、鉄壁の下段構え。
光一郎は、やはり「正眼の構え」。中段からなら、どの方向から剣が来ても、同じタイミングで対応できるからだろう。
「三本目——始めっ!!」
最後の一戦が始まる。
これまで以上の剣気を構えに込め、眼前の強敵を貫くように見据える。
——負けない! 蓮美さんのために!
観測しろ、勝利を。
出来ないなら、出来るように状況と材料を揃えろ。
自分の尊敬する科学者達は、そうやって不可能を可能にしてきたんだ。
持っているモノ、出来ることを総動員して、勝利への方程式を導き出せ。
……二本目は確かに打たれてしまったが、その失態から何も得られなかったわけではない。
あの時の光一郎の『石火』を防ぐために、自分は後方へ退きつつ守った。
わざわざ後ろへ退がったのは、何のためだ?
——衝撃に流され、足元がもたつかないようにするため。
それは、いわば思い通りに動けない状態。
剣術が、最も嫌う状態。
自分もまたそれを剣士として嫌ったからこそ、それを避ける努力をしたのだ。
——そしてそれは、光一郎とて同じ事だ。
錯覚するな。
いくら凄くても、光一郎は自分と同じ中学生で、剣士で、そして人間だ。
人間に対して通じる手段が、通じない道理は無い。
科学的に物事を考えろ。
一満は下段構えのまま、動かない。
——下手に攻めるのはやめよう。
場当たり的な攻撃は、かえって隙を与えかねない。まして、今の光一郎はこちらの先の動きが読めるのだ。……そんな役割は、なおのこと相手に任せればいい。
光一郎が「正眼の構え」のまま、ゆっくりと寄ってくる。
一満は下段を維持したまま、それから逃れようと後退。
あらゆる角度から迫ってくるが、一定の距離で向かい合った状態を維持。
そのような追いかけっこを、気が遠くなりそうな時間続ける。……実際には、長くても一分くらいしか経っていないだろうが。
だが、やがてそれも終わりを迎える。
光一郎が前へ進み出ようと足を出した瞬間、一満も前へ進み出た。
互いが互いへ向かったことで、一気に距離が縮まった。
中段にある光一郎の竹刀は、一満の胴の目算十センチ先に達したところで、止まっていた。
一満が少しでも動く「前兆」を見せようものなら、即座に刺せる距離。拳銃を突きつけられている状態に等しい。
だが……目の前の光一郎の顔は「しまった」と言わんばかりの表情だった。
——「前兆」を見せれば即座に斬れるのは、一満も同じだ。
一満の竹刀は、いまだに下段にある。
中段にある光一郎の竹刀より、低い位置。
そして今は……光一郎の小手の真下にある。
光一郎が少しでも剣を動かせば、一満もその瞬間に小手を下から斬れる。
互いが互いに拳銃を突きつけた状態。
——なるほど。先が読めるというのは、確かに脅威だ。
しかしながら、「先」が読めたとしても、その時に自分が自由に動けなければ、その情報は無意味である。
なればこそ、「そういう状況」に追い込んでやればいい。
自分が致命の引き金を引いたら、同じように致命の引き金を引かれる。
逆もまた然り。
そんな状況に引き込むことで、「先読み」を無意味にしたのだ。
……だが、これはあくまでも布石。
光一郎の行動を制限するための。
そうすることで、わずかでもこちらの考える余裕を生み出すための。
(考えろ、これからどう動くのかを。どうすれば一太刀浴びせられるのかを——!)
一満は思考をフル回転させて考えた。
脳みそが汗をかくくらい考えた。
考えて、考えて、考えた末に——右前へ動いた。
動く素振りを少しでも見せれば、即座に刺されるという状況にもかかわらず。
だが、光一郎は——剣を上段に持ち上げながら退歩した。
なぜか?
……確かに一満は右へ動いたが、その剣尖は、光一郎の小手の真下に置いたままだったからだ。
まるでコンパスで円弧を描くように、己の剣尖という中心を動かさぬまま右へ進んだ。……つまり「光一郎が少しでも刺す素振りを見せたら小手を斬れる」という条件を維持したまま移動したのだ。
そして、移動すれば、光一郎の剣尖の脅威から一満は解放される。——その一方で、一満の剣はいつでも光一郎の小手を瞬時に斬れる状態。
ゆえに、光一郎は上段に振りかぶって後退せずにはいられなかった。そうしなければ小手を斬られて負けてしまうから。
(そして——そう動いたのが君の敗因だ)
一満は全力で床を蹴り、光一郎へ一気に飛び込んだ。
光一郎はすぐに反応して剣を構え、一満の剣を防ぐ。
だが——一満が飛び込んでぶつかった勢いは受けきれなかった。
「……!」
一瞬の鍔迫り合いの後、同じくらいの体格である光一郎の体が弾かれ、宙を舞った。
足が床から離れ、仰ぐように倒れようとしている。
……バランスを崩して、満足に動けない今の状態では、先読みが出来ても意味が無い。
(勝機——!)
一満は光一郎の小手めがけて、袈裟懸けに斬りかかった。
その剣はあっという間に小手へ肉薄し……惜しい。当たる寸前、光一郎の竹刀の鍔付近で防がれた。
そこから剣同士を滑らせながら面を突こうとして……惜しい。光一郎は竹刀を手前へ引っ込めながら一満の突きをさばき、軌道を横へズラす。
迅速に剣を引いてまた小手を狙おうとして……惜しい。光一郎の竹刀がまたも邪魔をした。
(なんだ、これは)
タキサイキア現象といったか。集中力と緊張感で脳のクロック数が増え、それによって緩慢となった体感時間の中で、一満はその「異変」を観測した。
ことごとく、防がれる。受け流される。
体勢的に非常に不利な状態であるにもかかわらず、恐ろしいほど正確に、緻密に剣を操り、こちらの追い討ちをいなしていく。
明らかに「先読み」だけでは、これは出来ない。相手の「次の動き」は読めても、「その場その場で最も適切な対処法」まで分かるわけではないからだ。
そう。適切なのだ。
適切すぎるのだ。
不利な状況で相手の攻撃を防ぎきるための「最適解」を、何度も選んでくる。
まるで、この世界そのものが、彼の振るう剣に対し忖度し、勝たせようとしているような——
その時。
(————トンボ?)
一満の面金と触れそうな位置に、「金の蜻蛉」がホバリングしているのが、一瞬見えた気がした。
その幻視した「金の蜻蛉」がいた位置を、
「面あり!! 一本!! ——勝負あり!!」
光一郎の剣尖が、正確に突いた。
天覧比剣第二会場、三回戦第一試合、勝者————富武中学校撃剣部。