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帝都初恋剣戟譚  作者: 新免ムニムニ斎筆達
帝都初恋剣戟譚 呪剣編
157/237

天覧比剣——幕間「科学オタクの決意」

すんません、長いです……

短編みたいになってます……

 ————二〇〇二年五月十三日。夕方。


 



 神奈川県津久井(つくい)(ぐん)中陸(なかおか)中学校敷地内の体育館。その内部施設の一つである稽古場にて。


「ふぅっ……ふぅっ……!」


 酒井一満(さかいかずみつ)は、胸から競り上がってくるような息苦しさを(こら)えながら、努めて呼吸音を小さくしていた。


 一満が今年四月にこの学校の撃剣部に入ってから、まず最初に教えられたことの一つは、呼吸音を極力小さくすることだ。

 呼吸を読まれることは、それすなわち打ち込む隙を晒すことに繋がる。

 腕のある剣士なら、息を吐ききって緩みきったほんの一瞬を狙ってくるなんてことは普通にやりかねない。


 牢屋の格子を思わせる面金(めんきん)に覆われた視界。

 小手に包まれた両手によって、中段に構えられた竹刀。その剣尖の向こう側に、現在部員全員が行なっている竹刀稽古の相手を捉える。


 自分と同じく、稽古着と防具一色で身を固めた竹刀剣士の姿。

 背丈は自分と同じくらいだが、その骨格と体の線の細さは女子のものだ。

 面金の向こうには、溌剌(はつらつ)さを感じさせる、大きな瞳。


 どくん。


 その綺麗な瞳と視線を合わせた瞬間、一満の心臓が甘酸っぱく高鳴った。


「隙あり、だよっ!」


 だが、そんな自分の態度を場違いだと叱りつけるように、遠間にいたその女子——三田(みた)蓮美(はすみ)が、剣とその身を一気に近づけてきた。


 小さい頃から天然(てんねん)理心流(りしんりゅう)を学んでいるらしい蓮美の太刀筋は、俊敏でありつつもブレが無く、研ぎ澄まされていた。その技巧によって虚空を疾った竹刀が、色ボケした一満の竹刀を打ち払わんとする。


 両剣の間がほんの数センチに達したあたりで、一満の剣はようやく冴え(・・)を取り戻した。


 双方の竹刀の衝突のタイミングを即座に計算し、その上で体が勝手に慣れた動きを刻む。

 両剣が触れ立った瞬間、一満の竹刀が微小な捻りを帯びながらわずかに下がる。

 たったそれだけで、蓮美の竹刀に宿っていた鋭い力の流れが、麻紐(あさひも)のように解かれる(・・・・)


 蓮美の竹刀は力無く下降。

 一方、今なお鋭く芯を秘めた一満の竹刀は、真っ直ぐ蓮美の面を向いており——一満の一歩とともに、ぱしんと面金に軽くぶつかった。


「……やっぱり強いね。酒井くん」

 

 他の部員の竹刀の音がけたたましく響く中でも、感心するような、やや悔しがるような蓮美の声は、一満の耳にははっきりと聞こえた。


「い、いや……そんなことは」


 稽古で動き回った以外の理由で生じた顔の熱を誤魔化すように、一満は曖昧な返事をしたのだった。






 †






 ——なぜ空は青いのか、と問うた。


 「太陽光に含まれる光の中で散乱しやすい青色の光が、大気中を散乱するからだ」と叔父(おじ)さんは言った。


 ——じゃあどうして夕日は赤いのか、と問うた。


 「太陽が遠く西に沈んだことで青色の光が来なくなって、代わりに太陽光に含まれる赤色の光が空を通過するからだ」と叔父さんは言った。


 ——お日様の光は赤色と青色なのか、と問うた。


 「虹色だ。日本では虹を七色と呼ぶが、中国では五色、英米では六色と、国によって捉え方が違う」と叔父さんは言った。


 ——じゃあ、虹が虹色なのは、雨粒の中をお日様の光が通るからなんだね! と言った。


 叔父さんは「よく解ったじゃないか」と、無骨で大きな手で頭を撫でてくれた。





 †






(……篤彦(あつひこ)叔父さん、なんで人は、身の丈に合わない相手を好きになってしまうのかな)


 五月十四日火曜日、昼休み。詰襟(つめえり)の制服がやや暑くなりつつある、快晴の空の下。


 一満は学校屋上の給水タンクにもたれて座り、真っ青な空を見上げながら、そんな事を考えていた。


 中学三年生になり、科学好きとして年季が入ったことで、叔父の言っていた「太陽光の色」というのが、厳密に言うと光の波長であるということもすでに承知済みだ。

 空を青くしたり赤くしたりしている太陽光の散乱現象が、それを最初に説明したイギリスのレイリー男爵にちなんでレイリー散乱と言われていることも。


 科学というのは、大仰(おおぎょう)な表現をすれば、この世界を支配する法則を解き明かす学問だ。


 なぜ太陽は輝くのか——太陽全体の七割を構成している水素が核融合を起こすから。


 なぜ地球より遠くの星の光が視えるのか——光を構成する光子(こうし)は、波と粒子の両方の性質を持っており、それによって従来の波のように拡散して消えることなく、遥か遠くにある地球にも光が届くから。


 なぜ宇宙は真っ暗なのか——宇宙空間は真空で、気体分子が存在せず、太陽光が散乱を起こさないから。


 過去に人類が神話や神の御技(みわざ)と帰結させてきた現象の数々を、科学はことごとく解き明かしてきた。


 特に量子論は、現象の解明だけにとどまらず、元素周期表を作り、半導体を用いたコンピューター技術の発達に大いに貢献した。


 過去、現在、未来を貫く大いなる軸。それが科学だ。


 幼い頃の一満にそんな科学の素晴らしさを教えてくれたのが、一満の父の兄……つまり叔父である酒井篤彦(さかいあつひこ)だ。


 篤彦を一言で言い表すなら、理解不能な天才肌、だろうか。


 帝都大学理工学部を首席で卒業。その卒業論文はゼミナールの教授を卒倒させるほどの完成度だったらしく、研究者としての将来を嘱望(しょくぼう)されたが、あろうことか卒業後は帝国陸軍の技術士官の道へ進む。

 そこでも中佐にまで上り詰めたが、閑職(かんしょく)とも呼べる研究部署への出向を志願し、現在はそこの室長である。


 酒井家親族においても、篤彦は何を考えているか解せない変わり者として認識されており、他の兄弟からは一線を引かれていたという。親族の集まりで篤彦が来ると聞くたび、一満の父はやや気後れした顔を見せる。


 だが一満は、そんな篤彦という叔父にたいそう懐いていた。


 叔父から空の青さの理由を教えられた時の、まるでこの世界を設計した神様の仲間入りをしたような高揚感は、今でも忘れない。


 それからというもの、一満は数週間に一度の頻度で叔父に会いに行き、科学談義や、ちょっとした実験などをした。


 そんな叔父との触れ合いが、今の科学オタクな一満を作り上げた。


 ——しかし、大人に近づくにつれて、一満は科学以外の別のモノにも心を奪われることとなる。


 端的にいうと、恋愛である。


 一満が三田蓮美という美少女に一目惚れをしたのは、去年、中学二年生の頃であった。


 生まれて初めて科学以外のモノに抱いた執心を、一満はどう扱えばいいのか分からなかった。


 どうすればいいのかと篤彦に相談すると「なら想いを明かしてしまうといい」とあっけらかんと言ってのけた。

 ……ちなみに篤彦は大学時代に何人かの女性と交際していたらしく、恋愛経験はそれなりにある。が、そのエキセントリックな人格ゆえに三ヶ月以上続いたことが無かったそう。


 誠に申し訳ないが、一満はその時、生まれて初めて叔父が「頼りにならない」と思ってしまった。


 想いを伝える。確かにそれは正論だ。そしてその行為はそれなりの勇気を持てば可能だろう。


 だが、その後どうなる?


 告白をしたとして、受け入れてもらえるのか?


 一満はそれを想像し、そのたびに暗澹(あんたん)たる気持ちになるのである。


 ——蓮美は、太陽のような美少女だ。


 その容姿の端麗さもそうだが、人当たりが良く気さくな性格も相まって、男女問わずみんなの人気者である。

 撃剣部の所属で、女性ながら剣の腕はなかなかのものらしい。

 男子から告白されたことも、両手指が埋まる程度にはあるらしい。しかし本人は「天覧比剣を目指すのに集中したいから、ごめん」と決まり文句で断っている。

 学校という小宇宙において、まばゆく輝いている恒星。それが三田蓮美という美少女であった。


 ——比べて、自分はどうであろうか。


 顔立ちはまぁ……不細工ではないとは思うけど、美男(イケメン)とも言えないし。髪は酷い癖っ毛で、いくらセットを頑張っても鳥の巣みたいになるし。ド近眼で、眼鏡が無いと何も見えないし。

 身長も男子平均より少し低めで、線も細い。

 自分は男らしいかと問われると、甘めに自己評価しても答えに窮する。「僕は男である」としか言えない。

 プランクの法則に端を発する量子論発達の歴史については熱く語れるし、円周率の暗唱も得意だ。しかし流行りの音楽やドラマなどの芸能とか、女子ウケする会話などは望むべくもない。イオントラップ量子コンピュータの話なんてされても、女の子には「?」だろう。

 学校という小宇宙において、恒星から遠く離れた場所でひっそり公転し続けている小惑星。それが酒井一満であった。


 …………どう考えたって、釣り合わない。受け入れてもらえる未来が観測できそうにない。近づいた瞬間その凄まじい熱量で蒸発するのがオチだ。


 恋愛感情とは、数式のように、気軽に解いてみれば良いという代物ではないのだ。


 理屈や合理性を超えた感情に、行動が支配される。


 気持ちを曝け出すのが恥ずかしい。

 恋が実れば良いけど、実らなかった時の事を想像するだけで怖い。死んじゃいそうなくらい恥ずかしくなる。

 多分学校に行けなくなる。転校するしかない。


 そんな感じで何も出来ずにずるずると時間ばかりが過ぎていき、三年生になった今年——図らずして転機が訪れることとなる。


 なんと、蓮美と同じクラスになれたのである。


 それだけでも超絶幸運なのに、進級して初めての撃剣授業の時に蓮美と試合稽古をした後、彼女から次のように声をかけてくれたのだ。


『酒井くん、だったよね? もしよかったら、撃剣部に入ってくれないかな? 一緒に天覧比剣を目指さない?』


 一満が叔父から教わってきたモノは、科学だけではない。


 田原坂(たばるざか)の戦いを生き延びた抜刀隊隊士の系譜を持つ、北辰(ほくしん)一刀流(いっとうりゅう)の指南も受けている。


 分かりやすく簡略化された目録制度、確実に剣が身に付く合理的稽古法、そして剣術の究極形ともいえる攻防兼備の太刀『切落(きりおとし)』——篤彦をして「最も科学的な剣術」と言わしめた北辰一刀流を、一満は遊びの延長のような感覚で学んできた。


 一満にとって、剣術は競争や闘争の道具ではなく、叔父から教わった科学技術の一つでしかなかった。


 しかしそんな一満の剣は、俊敏かつ研ぎ澄まされた蓮美の太刀筋をあっさりと切り落とし(・・・・・)、そのまま面を軽く突いたのである。


 結果、蓮美は一満の実力を高く評価し、撃剣部に勧誘したというわけだ。


 ——そんな蓮美の誘いに、一満は少し悩んだ。


 好きな人に認められるというのは、何であれ嬉しい。


 というか、存在を認知されて、「酒井くん」と呼んでもらえただけで、天にも昇る心地であった。


 だが、他人と競争するということにあまり慣れていない一満は、競技撃剣という世界に対して二の足を踏んだ。


 ——好きな人から頼られてるんだ。頷かない理由なんてあるのか?


 蓮美は本気で天覧比剣を目指している。そのために、自分を必要としてくれているのだ。であれば、黙って力を貸すのが男というものだろう。


 模擬試験でも、第一志望校である帝都大学付属高校は常にA判定だ。記憶喪失にでもならない限り、撃剣に打ち込んでも受験に差し支えは無い。


 それに、大変不純で申し訳ないが…………これをキッカケに、蓮美とお近づきになれるかもしれない。いや、これはそうなる千載一遇の好機に違いない。


 残された中学校生活はあと一年。それを、無色の青春で終わらせたくない。一歩前へ進みたい。


 ——蓮美の勧誘に頷き、一満は撃剣部に入ることとなった。


 それ以来、放課後、撃剣部員として稽古に打ち込んでいる。


 こうして、長らく憧れていた蓮美との接点は持てた。


 「部員同士」として、堂々と会いに行く理由が出来た。

 

 急接近とはいかなくとも、赤の他人以上には、まぁ、なれたんじゃないかなと思う。


 けれども、「その先」へどう関係性を進めれば良いのか、一満には分からない。


 この問題に関しては、叔父も頼れない。


 はぁぁ、と、大きいため息を漏らす。


「恋愛にも、量子論が使えたらいいのになぁ……」


 理系らしからぬ独り言を口にする。その独り言は空気中の気体分子の中を分散し、溶け消える。


 屋上の空気中の気体分子を、新しい音が揺さぶった。鉄の音。屋上のドアが開いた音である。


「——あ、酒井くん! いたんだ!」


 さらに聞こえてきた、夏の草原の涼風を思わせるような声に、一満は心音を跳ね上げた。


 セーラー服に身を包んだ細くもしなやかな体つきは、女子の平均よりも長身である。恥ずかしながら、男子であるはずの一満と同じくらいの背丈。

 その頂点には、長めのボブカットがよく似合う、可愛らしくも大人っぽい清涼感がある顔立ち。陽に当たってきらめく泉のような綺麗な瞳が一満のことを真っ直ぐ見つめ、唇は笑みの弧を描いていた。


 その姿を視認した一満の顔が、かぁっと急激に熱さを帯びる。


「み、三田さん……」


 一満が絶賛懸想(けそう)中である、三田蓮美、その人である。


 軽やかな足取りで近寄ってくる蓮美。そのたびに綺麗な細い脚の素肌が鮮明に視えてきて、このままではあのスカートの中まで観測してしまいそうだったので、一満は俊敏に立ち上がった。


「こんちわー。酒井くんはもうお昼ご飯食べたの?」


「う、うん……み、三田さんは?」


「私も食べたよっ」


 明るい声で答えながら、蓮美は一満と少し間を開けた隣まで近づき、給水タンクに背中をもたれさせた。


(う、うわぁぁ。近い。あと、すごく良い匂い……)


 心地良さそうに青空を仰ぐ蓮美を隣にして、一満は羞恥の熱をさらに上昇させる。掌中に汗をかく。


「酒井くんも、こういう所(・・・・・)に来たりするんだね」


 びくぅっ! と、尻尾を踏まれた猫のように身を震わす一満。ずれた眼鏡を整えつつ、たどたどしい口調で返答。


「え、あ、ああ、うん。まぁ。ちょっと、物思いに、ふけりたかったと、いうか……」


 この学校の屋上は本来、立ち入り禁止ということになっている。とはいえ、生徒達の間ではあまり守られておらず、そのルールは形骸化して久しい。オバカな男子が機密文書(エロ本)の裏取引現場として利用したり、愛の告白スポットとして使われたり、カップルが人目を忍んでイチャつくために使ったり、木刀による決闘に使ったりと、模範的生徒としての行動から逸脱したような用途の場となっている。


「あははっ、酒井くんもなんだ。私もおんなじ。気が合うね」


(かわっ——)


 湖面の煌めきを思わせる蓮美のまぶしい笑顔に、一満の心臓が甘々しいショックを受ける。


 気が合う。気が合うとおっしゃいましたか。どういう意味なのでしょう。片方のスピンの向きが分かれば遠く離れたもう片方のソレも判るという感じの、量子もつれのような関係という意味でありましょうか。それとも……


 恋愛脳が暴走し続けている一満を余所に、蓮美は体を反らせて、真上の空を仰ぎながら大きく溜め息をつく。反った体の前面がセーラー服にぴったりとくっつき、浮かび上がった胸の膨らみのラインを観測した瞬間に一満は高速で顔を背けた。その拍子に首筋が伸びて痛くなる。


 そこから、沈黙がしばらく続く。


 一満としては、何か彼女が喜ぶ言葉だったり、ウィットに富んだ発言だったり、上手いこと沈黙を破らんと思考する。


 何を言えば良いのだろうか。

 相対性理論……は普通の女の子が聞いても面白くないか。

 シュレディンガー先生がコペンハーゲン解釈を批判するために唱えた箱猫の思考実験……はちょっと残酷だし。

 現在三田さんが見ている空の色について……これだ!


「み、みみ三田さんはっ、なんで空が青いのか、知ってますかっ?」


 一満がどもりながら言うと、蓮美の大きく綺麗な瞳がこちらをきょとんと捉える。


「えっと……お日様が差すから、じゃないの?」


「そ、そうです。ですがより正確にはっ、太陽光の可視光線の中に含まれてる、波長の短い青色の光が、く、空気中の分子に散乱して、それで、そ、空が青く見えるん、です」


「へぇー、そうなんだ。……あれ? じゃあ、夕方に空が赤くなるのはなんでかな? 青じゃないの?」


「た、太陽が西に沈んで、遠く離れるから、だよ。青色の光は波長が短いから、は、離れると遠くで散乱して、もうこっちの空には見えなくなるんだ。代わりに、波長が長くて散乱されにくい、赤色の光が、遠く離れたこっちの空まで届いて、そこの気体分子に散乱して、空が赤くなるんだ」

 

 たどたどしいながらも、一満の口は間違いを起こさず太陽光の散乱現象を説明してみせる。 


「酒井くん、すごーい! よくそんなこと知ってるねぇ! 私今日初めて知ったよ!」


「い、いや、そんな…………それにこれ、中学校の理科の授業にも出てくる話だし……」


「あ…………あははは。実は私、数学とか理科とか苦手なんだ……」


 誤魔化すように苦笑する蓮美。


 一満はそんな顔も可愛くて、そして眩しいと思ってしまう。


「もしかして酒井くんは、進学とかする人?」


「う、うん。一応……帝都大の附属高校、目指してる」


「うそっ? すごいね! あそこすっごく入試難しいんでしょ?」


 蓮美は驚きを示してから、何か察したようにハッと息を呑む。


「……もしかして、私、酒井くんの邪魔しちゃった? 難関校への受験控えてるのに、天覧比剣目指そうなんて」


「い、いやっ、そんなことないよ。模試では問題無くA判定取れるから、撃剣部に顔出す余裕はあるよ」


「そっか……ありがと。酒井くん」


「み、三田さんはっ、進路とか、決めてるのっ?」


 おお、訊いた。訊いちゃったぞ。彼女の事情について尋ねちゃった。これは一歩前進では? 一満は自分の成長を感じた。


「えっと…………私、まだ進路決めてないんだ」


「え、そうなの?」


「うん……恥ずかしながら。将来、何やりたいか全然分かんなくて」


「そ、そのうち、見つかるよ」


 一満がぎこちなく励ましてみると、蓮美は「ありがと」と笑った。可愛い。


「…………でも、その前にまず、天覧比剣に行きたいな」


 だが次に、蓮美は決まりが悪そうな微笑を浮かべた。


 ——天覧比剣。


 競技撃剣における全国大会。


 帝国剣士であれば、そこに立っただけでも誉れだと言われる、最高の舞台。


 老若男女多くの者が目指し、そしてなかなか手の届かない、剣の祭典。


 蓮美は、そこを本気で目指しているのだ。


「その、こんなこと訊くの、失礼かも、しれないけど……三田さんはどうして、天覧比剣に行きたいの?」


 剣士なら、そこを目指したいと思うのは当然だよ——そんなポジティブまっしぐらな意見を一満は予想していたが、蓮美の口から出た言葉は意外なものだった。


「酒井くんは、望月(もちづき)(ほたる)って人、知ってる?」


 既知である固有名詞。一満は記憶をたどりながら答えた。


「えっと……確か、日ソ戦の頃に陸軍大将だった、望月源悟郎(げんごろう)閣下の、義理の娘さんだったよね。わずか十一歳で、至剣流の奥伝目録(おうでんもくろく)を得て皆伝したっていう天才で、すごく強いって話だよね」


 ……余談だが、陸軍技術士官である叔父の篤彦は、源悟郎の使う至剣を観測させて欲しいと本人に直接頼みに行ったらしい。しかし源悟郎は「実験で人を殺したくはない」と言って断ったそう。


「私ね、小学六年生の頃、天覧比剣のテレビ中継で、望月さんが戦ってる所を観たの」


「そうなの?」


「うん。…………凄かった。女の子が、それもあんな小さな体の人が、自分より大きな相手に少しも気負わずに進み出て、ものすごい剣の腕であっという間に勝っちゃうの。至剣流の型の中で最高の実用難易度を持つっていう『浮船(うきぶね)』を、何度も成功させたりして。望月さんの学校の葦野(よしの)女学院(じょがくいん)は決勝で負けて準優勝になるんだけど、望月さん個人はこれまで誰にも負けることはなかったの。全試合で相手を圧倒して勝ってきたの」


 そう語る時の蓮美の笑みは、まるで初恋を思い浮かべるような、瑞々しいものだった。……少し、ジェラシーを覚えたのは秘密だ。


「それを観て、私、すごくときめいた。女の人でも、こんなに強くなれるんだって。自分もこんなふうに強くなりたいって。自分も……中学生になったら、同じ舞台で戦いたいって」


「だから、天覧比剣に?」


 こくっ、と頷く蓮美。


 だが、それから蓮美は、視線を下げてうなだれる。


「…………でもね、一方で、ときどき思うの。私じゃ……無理なんじゃないかって」


 表情も、泣きたいのを我慢して笑みを作っているような、そんなものだった。


「一年生の頃は地区予選の二回戦で負けて、二年生の頃は地区予選の初戦で負けた。…………撃剣部の仲間には申し訳ないと思うけど、こんな調子で、天覧比剣なんか行けるのかなって……そう、思う時もあるんだ」


 言いたかった。


 そんなことはない。頑張れば行けるよ。


 そう、彼女に夢と希望を与える言葉を口にしたかった。


 でも、一満は、何も言えなかった。


 悲しいが、同意見だったからだ。


 ……正直言って、お世辞にも、この学校の撃剣部は強いとは言えなかった。


 酷い言い方をすれば、弱小部。


 トップの実力者は蓮美。同じく三年生である部長はそこそこ強いが、それ以外は実力不足もいいところだ。


 もともと、全国を目指すというスタンスでやっている部ではなかったので、無理からぬ話ではあるのだが。


「——ごめんね、酒井くん。いきなりこんな話しちゃって。ちょっと嫌だったよね。今言った事は全部忘れて?」


「う、ううん。別に、大丈夫」


 むしろ、自分に対してだからこそ、今のような弱音を吐露できたのかもしれない。


 別に自分が蓮美にとっての「特別」だから、なんて自惚れる気は無い。


 一満が、撃剣部における、一番の新参者だからだろう。


 撃剣部員として馴染みきれていない一満に対してだからこそ、部に関する愚痴を言っても、部内の関係悪化に繋がることは無い。


 一満もまた、それを聞いた後に告げ口をするような事はしないと、分かっているから。


 ——僕が三田さんを、天覧比剣に連れて行ってあげるよ。


 そう、言いたかった。


 そう言って、彼女の心のモヤを晴らして、いつもみたいな眩しい笑顔に戻って欲しかった。


 だけど、やっぱり、そう言えるだけの自信も度胸も、一満には無かった。






 †





 そういえば、今日は「月刊ミュー」の発売日だったっけ——帰りのホームルームが終わった瞬間、一満はそのことを思い出した。


 一満は科学も好きだが、同時にオカルトや超常現象の話や、超科学的陰謀論も好きだった。

 ……話半分に聞いて楽しむ必要がある分野ではあるが、読んでいると未来の技術の可能性についての想像力や希望が高められて、あれはあれで面白いのだ。


 その超常現象系情報誌である「ミュー」の今月号は、確か「日本刀と剣技における霊的現象」がテーマだった。「抜刀術を用いた狐落としの儀式」や「少しでも斬られたら死の呪いにかかる呪いの剣技」などについて言及するそうである。……そういえば、叔父さんもそういう話が好きだったなぁ。


 今日の撃剣部の稽古が終わったら買いに行こう。そう思いながら、同じく撃剣部へ行くであろう蓮美の姿を教室に探すが、すでに蓮美はいなかった。


(先に行ったのかな……?)


 まあ、どのみち稽古場へ行くという予定は変わらない。

 

 どうせなら三田さんと隣り合わせに歩いてデート気分に浸りながら行きたかったけど……一満はそんな不純な妄想の実現を諦め、防具袋と竹刀袋を鞄と一緒に持とうとした時だった。


「——ねぇねぇ、蓮美、これから屋上に行くんだって」


 教室から廊下へ流されていく級友達の中から、女子の控えめな話し声が聞こえてきた。「蓮美」という単語を交えて。


「蓮美ってば、三組の向原(むかいはら)くんに呼び出されたらしいよ。「大事な話がある」って」


「大事な話、って…………えー? そういう事ぉ?」


「そうとしか考えられないでしょ。告白よ、告白」


 ハンマーでぶん殴られたようなショックを、一満は心に感じた。


 ——三田さんが、告白される。


「しかも向原くんって、三組の女子の一番人気の彼でしょ? 顔も良いし、運動も出来るし、おまけに頭も良くて、難関国立大学附属高校の合格が確実だって言われてる」


「いやー、やっぱし蓮美ってモテるのねぇ。羨ましいわぁ」


「でも頷くかなぁ蓮美。いつも通り、天覧比剣を目指すから、っていう決まり文句で断りそうじゃない?」


「理想が高いだけじゃないの?」


「いや、だとしたら余計に断る理由が無くない? 将来有望な相手じゃん、どう考えても」


 その雑談を聞けば聞くほど、一満の心身に奇妙な感覚が生じる。


 頭のてっぺんから気力が抜け出るような虚脱感とか。

 それでいて、早く何か行動を起こさなきゃという、居ても立っても居られない凄まじい焦燥感とか。


 ——大丈夫だ。きっと今回も、ちゃんとお断りするはずだ。


 一満はそう自分を励ます。まるで、行動を起こさない言い訳をするように。


 一方で、今日の昼休みに蓮美が言っていた言葉を思い出す。


『私じゃ……無理なんじゃないかって』


 天覧比剣を目指す一方で、その目標に対する諦めの気持ちも、彼女は抱きつつある。


 であるなら、ひょっとすると……もう「天覧比剣を目指したいから」という断り方も、しなくなる可能性だってある。


 そうだとすると、もう蓮美を縛るモノは無い。


 ましてや相手は向原だ。顔が広いというわけではない一満でも知っている、女子に人気の男子生徒である。


 ——頷かない保証が、どこにあるというのか?


 









(……僕、最低かも)


 気がつくと、一満は手ぶらのまま、屋上のドアの前まで来ていた。


 幸いなことに、錆びついたそのドアは完全には閉じきっておらず、開閉音を立てる事なく屋上を覗くことができた。


 レイリー散乱によって長い波長の赤光が青色に混じり始めた夕空。その下にある校舎屋上に、ひと組の制服姿の男女が向かい合って立っていた。


 女子の方は、蓮美。

 男子の方は、すらっとした高身長の、ハンサムな顔立ちの生徒……向原だ。


 その二人の組み合わせを目にした瞬間、一満は強烈な劣等感と敗北感を覚えた。


 ——お似合いだ、と思ってしまったから。


 顔の良さは言うに及ばず。

 小柄な自分と違い、向原は蓮美の髪のつむじも覗けるくらいの高身長。スラッと長い脚。

 抱きしめようと思えば、蓮美の何もかもを懐に納められるくらいの肩幅。

 告白という重要局面であるにもかかわらず、後ろめたそうにせず、背筋を整え、体も視線も堂々と向かい合わせることのできる胆力。


 ……男としての何もかもが、自分よりも優っていた。


 彼に愛をささやかれた女の子は、きっと、さぞ喜ぶことだろう。


 直視に()えず、自分の上履きを見つめる一満。


(そうだよね…………一年間もぐずぐずし続けて、同じ部活に入っても全然進展させられなくて、挙げ句の果てに他人の告白を覗きに来るような……こんな見苦しい僕なんかじゃ、三田さんとは釣り合わないよね……)


 もう諦めよう。

 自分みたいな情けない男より、ああいう男と一緒の方が、蓮美さんだって幸せになれるはずだ。

 そう、これは蓮美さんの幸せのためだ。それを願ってこそ、自分はここで身を引くのだ。


 我ながら格好悪い自己弁護だと思いつつ、それにしがみつかずにはいられなかった。そうでないと……情けなくて、悔しくて、恥ずかしくて、死んじゃいそうだったから。


 一満が(きびす)を返そうとした、その時。


「————ごめんなさい。向原くんとは、お付き合いできません」


 蓮美の、そんな言葉が聞こえてきた。


 一満は思わず足を止める。


 顔を上げ、二人の様子を見直す。


「……なんで? もう付き合ってる男がいるの?」


 向原がそう蓮美に尋ねた。穏やかに抑制されてはいるが、納得がいかないという響きが隠しきれていない。


「そうじゃないけど……私は、今、天覧比剣を目指してるの。剣に集中したいの。だから……ごめんなさい」


 蓮美は、気まずそうな、申し訳なさそうな声で、そう答えた。


 だが、向原はなおも問うた。


「じゃあ、天覧比剣が終わったら、付き合ってくれるの?」


「それは……」


 蓮美は返事に窮する。


 数秒沈黙してから、


「……とにかく、ごめんなさい。……それじゃあ、私、稽古があるから」


 蓮美は強引に告白への返事を終わりにして、屋上のドアへ爪先を向けようとする。


 いけない、気づかれる——そんな一満の焦りは、しかし向原の次の言葉によって打ち消されることになった。


「——行けると思ってんの? 天覧比剣なんて」


 一満も、蓮美も、揃ってその場で固まった。


「俺だって知ってるよ。この学校の撃剣部は弱小も弱小。天覧比剣どころか、地区予選の準決勝にすら勝ち進めたことが無いらしいじゃん。去年も、一昨年(おととし)も、そんな例年通りの結果だったみたいだしさ。天覧比剣に情熱燃やしてる三田さんが(・・・・・)部にいながら(・・・・・・)


 苛立ちを帯びた、説き伏せるような口調で、向原は事実を列挙する。


「それは……!」


 蓮美は言い返そうとする素振りを見せるが、素振りだけだった。


「大体さ、三田さん以外に天覧比剣を真剣に目指してる奴なんて、あの部にいんの? 部長はともかく、他の奴は? 俺、一回あの部活覗いたことあるけど、稽古始まるまでの間、あいつらがやってる事なんて談笑ばっかりだぜ? あんなユルい姿勢で行けるもんなの? 天覧比剣ってさ」


 ただの罵倒であるならば、反論の余地はあっただろう。


 けれど、向原の告げた内容は、全て事実だった。


 残酷なまでに、説得力があった。


「そんな連中の所で、叶わない目標なんか追い求めたって、時間の無駄だろ。だったらもう諦めて、将来の事とか考えようよ。確か三田さん、いまだに進路希望調査票が真っ白なんだろ? なおのこと撃剣部で活動してる暇あんの?」


 蓮美は何も言えず、項垂れてしまう。


「女なんだからさ、もっと現実的にモノ考えようよ。叶いっこない目標も、付き合ってても意味が無い連中なんか切り捨ててさ、とっとと頭を切り替えようよ」


 一満の手が、我知らず拳を固く作る。


「その点、俺と付き合うのは合理的だと思うけどな。俺の成績知ってるだろ? 国立大附属高校への合格はもう確実って言われてるんだ。俺と付き合えば、将来は保証するよ。三田さんに、女としての幸せを与えてやれる。だから、天覧比剣なんてとっとと諦めて俺と——」




 ばぁんっ!! と、鉄板を蹴飛ばすような音が響いた。




 蓮美と向原が、揃って屋上のドアを向く。


「さ、酒井くんっ……?」


 開放されたドアから出てきた人物の名を、蓮美が驚いた顔で言う。


 一満は答えず、迷いの無い足取りでズカズカ進み、二人の間に割って入った。


 蓮美を背中に庇うようにして、向原と対面した。


「……お前、確か今年から撃剣部に入ったっていう、酒井って奴じゃん。なんか用?」


 向原の怪訝そうな顔を見上げ、一満は、やけくそ気味に言い募った。


「——む、向原くんはっ! ヴェルナー・ハイゼンベルクという、ドイツの物理学者を知っていますかっ!?」


「は?」


「は、ハイゼンベルク先生はっ、ミクロの世界とマクロの世界の法則の相違と、ミクロの世界の現象の計算法則を発見し、量子論の基礎を作り上げた、偉大な科学者の一人ですっ!! 彼が「行列(ぎょうれつ)力学(りきがく)」を唱えたのは、若干(じゃっかん)二十三歳の時でした!!」


「いや、それがどうし」


「ハイゼンベルク先生の唱えた理論の中に「不確定性(ふかくていせい)原理(げんり)」というものがあります!! 

 フランスの数学者であるピエール=シモン・ラプラス先生は「世界中の物質の位置と運動量を知ることが出来れば、それらを計算することで、世界に訪れる未来を予知出来る」と主張しました。そして、そのようなことが出来る空想上の生物は「ラプラスの悪魔」と呼ばれています!! 

 ですが、ハイゼンベルク先生の「不確定性原理」は、そんな「ラプラスの悪魔」を打ち倒しました!! ミクロの世界に存在する粒子は、マクロの世界の法則から大きく逸脱した性質と動きをします!! 粒子の動きは完全な予測が不可能で、どんなに位置と運動量を正確に測定しようとしても、必ずその結果には「不確定」な部分が生じます!! つまり、未来の完全な予測は不可能!! 量子論が勝利します!!」


 何を口走っているんだ、と一満は我ながら思った。


 だけど、自分の中には、確固たる主張が存在する。


 それが間違っていようがいまいが関係ない。主張することに意味がある。


 アインシュタインらがコペンハーゲン解釈を批判するために書いた論文が、将来的に「量子もつれ」という現象を見つける手がかりを作ったように。


 何であれ主張することが、何かを生み出すキッカケになることだってある。


「……いきなり出てきて何なの、お前。意味わかんないんだけど。何が言いたいわけ?」


 だからこそ一満は、気味悪そうに見下ろしてくる向原の目を真っ直ぐ見据えて、主張した。




「——天覧比剣が無理かどうかなんて、やってみないと分からないじゃないか。まして人間は、粒子よりもずっと複雑で、不確定なんだから」




 無言で、向原と睨み合う。


 いつ掴みかかられてもおかしくは無い雰囲気だ。


 だが、やがて向原は大きくため息を付いた。


「…………(しら)けたわ。勝手にしろよもう」


 そう吐き捨てて、屋上を後にした。


 向原の気配が完全に消えた瞬間、一満は安堵のため息を付いた。その場に崩れ落ちそうになる。


「……酒井、くん」


 蓮美のかすれた声が、背中に当たる。


 一満は振り返る。


 呆然と、こちらを見つめて立ち尽くす蓮美と、目と目が合う。大好きな、陽光で煌めく泉みたいな眼。


 一満は後ろめたい気持ちで言った。


「ごめん、三田さん……」


「どうして、謝るの?」


「いや、だって…………二人の会話、盗み聞きしちゃってたし、いきなり出てきて訳分かんない事口走っちゃったし……」


 蓮美は目をぱちぱち瞬かせてから、思い出したように吹き出した。


「ふふふっ、あははははっ。ほんとだよぉ! 酒井くん何言ってるのって思った! ドイツの物理学者とか、不確定ナントカとか、ナントカの悪魔とか!」


「ふ、不確定性原理と、ラプラスの悪魔です」


「そうそう、それ! あー、おっかしー! ははははっ! うふふっ、ふふふっ…………!」


 蓮美は目元を指で拭い、ひとしきり大笑いしてから、


「…………でも、ありがとう。酒井くん。すごく……嬉しかったよ」


 本当に、嬉しそうな笑顔を見せた。


 一満の心音が、甘く高鳴る。


「私、向原くんに、言い返せなかった。今日のお昼にも愚痴っちゃったけど……私、天覧比剣には行けないんじゃないかって、自信を失くしかけてたから。向原くんの言ってる事に、納得したくなくても、納得させられちゃいそうだったの」


 蓮美が、一歩近づいてきた。


 木蓮みたいな香りを帯びた空気が、ふわりと漂う。


 綺麗な目に、一満の真っ赤な顔がくっきり映る距離。


「でも、酒井くんが「やってみないと分からない」って言ってくれたから……私、また、勇気出た。あと一回挑戦してみようかなっていう気持ちが、君のお陰でまた生まれたの。だから…………本当にありがとう、酒井くん」


 蓮美はそう再度感謝を告げ、はにかんだ笑みを見せた。笑窪(えくぼ)のできた頬には、桜色がほんのり浮かんでいた。


(……やばい。死んじゃう。胸がインフレーションしそう)


 どっ、どっ、どっ、どっ、どっ…………ここから出せとばかりに、心臓がうるさくビートを刻んで胸郭を内側から叩く。その衝撃が耳へリズミカルに響く。


 血液循環が活発になり、()でられてるみたいに体が熱い。手汗とかやばい。


 今すぐここから走って逃げ去りたい衝動に駆られる。


 だが、思いとどまった。


 ……もうここまで来たら、誤魔化さず、尻込みせず、最後まで言い通してしまえ。


 一満は顔を上げる。


 蓮美の綺麗な目を、恥ずかしくてもまっすぐ見つめながら、宣言した。




「一緒に天覧比剣に行こう、蓮美さん(・・・・)。僕が……撃剣部と、蓮美さんの勝利を、観測してみせるから」




 蓮美の瞳が、大きく見開かれた。


 ただでさえ輝かしい瞳にさらに潤いが宿ったかと思うと、


「——うんっ! 一緒に頑張ろうね、一満くん(・・・・)!」


 空に浮かぶどんな天体の光よりも眩しい、満面の笑顔を見せてくれた。







 †






 それ以来、蓮美はいっそう撃剣部の稽古に取り組んだ。


 部長にも、本気で天覧比剣を目指したいという希望を告げた。一満も一緒に。


 部長は頷いた。


 部員の中には賛同する者もいたが、当然ながら乗り気でない部員も少なくなかった。


 稽古が天覧比剣を見据えた、今までよりも厳しいものになると、当然ながら部内にも変化が生じた。

 辞める部員が続出した。

 稽古が厳しすぎると抗議が来た。

 

 それに対し、部長は頑として「やり方は変えない」として戻さなかった。……今にして思うと、部長は自分から憎まれ役を買って出たのかもしれない。


 レギュラーが決まると、それが原因でさらに部員が減った。


 アットホームであった部は、雰囲気を変えてしまった。


 最初の頃に比べて、部員が半数は減った。


 ……だが、それに見合うだけの成果は現れた。

 

 長年突破出来なかった地区予選を、突破できた。


 これだけでも中陸中学撃剣部始まって以来の快挙だった。校内新聞でデカデカと載るほどだった。


 だが、快挙はそれだけにとどまらなかった。


 県大会でも、優勝を勝ち取った。


 それはすなわち、天覧比剣への切符を手に入れたということだ。


 これには学校中が沸いた。


 撃剣部員、特にレギュラーであった蓮美と一満と部長は、一躍人気者となった。


 蓮美が人気者なのは以前からであったが、学校で目立たなかった一満はその人気の高まりに慣れず、狼狽を禁じ得なかった。……それに、嬉々として話しかけてきた女子達に愛想笑いで対応していると、蓮美がなんだか機嫌悪そうにじっと睨んでくるのが、一満はなんだか怖かった。


 ともかく、こうして蓮美の「天覧比剣に行きたい」という望みは、叶えられたのである。


 行こうと思って頑張ってはきたが、本当に行けてしまったことに、まるで漫画のような展開だと我ながら一満は思った。


 ……だがそんな輝かしい成果を挙げた一方で、一満には気がかりな事が一つ出来ていた。


 七月に入ってからというもの、叔父の篤彦の様子がおかしいのだ。


 叔父の住まいを尋ねても、いつものように生き生きとした態度ではなかった。


 天覧比剣への出場が決まったことに対しては喜んでくれたが、すぐにダウナーな感じに戻った。


 具合でも悪いのかと問うても、何ともないと言う。軍の定期検診の紙まで見せて。見習いたいくらいの健康体であった。


 であるならば、元気の無さが心に起因するものであると考えるのは自明の理。


 それに、篤彦が時折「なんと馬鹿なことを」とか「あれほど「戦うな」と忠告したというのに」とか、微かにこぼしているのを耳にしたから。


 ……きっと、軍の仕事で、何かあったのだ。


 軍の幹部という身の上。一般人には家族であっても明かせない、軍機というモノを抱えているのかもしれない。それが悩みのタネなのかもしれない。


 だとするならば、一般人で、しかも子供の自分に踏み込める領域ではない。踏み込めば篤彦は軍人としてその処罰を受けかねないのだから。


(……なら、天覧比剣で優勝して、元気を出さざるを得ないくらい篤彦叔父さんを驚かせてやろう)


 天覧比剣で優勝する。


 そんな自分の思考に、一満は自分で驚いた。


 今までは「天覧比剣に行く」としか考えていなかったから。


 自分はこんなに欲張りだったのかと、思った。


 だけど、合理的な考え方だとも思った。


 せっかく天覧比剣まで勝ち上がったのだ。


 「参加することに意義がある」などという触れ込みに満足せず、そのさらに上を目指してしかるべきだろう。


 蓮美にもそう言ったら、喜んで賛同してくれた。


 それからいっそう熱を入れて稽古に取り組んだ。




 †




 あっという間に時間は経ち————二〇〇二年八月一日、とうとう天覧比剣が幕を開けた。


 林立する高層ビル、見ているだけでのぼせてくる人口密度、精緻(せいち)かつ複雑な交通インフラ、そして視界には収めきれぬほどの宮城(きゅうじょう)の威容……あらゆるモノの桁違いさで、帝都東京は自分達の五感を殴りつけてきた。


 舞台となる帝国(ていこく)神武閣(しんぶかく)も、写真やテレビで見るよりも遥かに壮観だった。


 極め付けは、開会式にて出てきた(みかど)尊容(そんよう)


 自分達のいる場の空気を、帝の玉音が震わせているのだと考えるだけで、一満は科学的合理性を超えた畏れ多さのようなモノを覚えた。


 こうして始まった天覧比剣。


 あらゆるモノに圧倒されっぱなしの田舎者な自分達が、この大舞台で十全に力を出し切れるのか……一満のそんな懸念を置き去りにして、開幕戦は始まった。


 自分達中陸中学校は、第二会場で開幕戦第一試合を戦うことになった。よりにもよって、一番最初である。


 一満の心配はなおも募った。


 ——だが、いざ試合になってみると、その心配も吹っ飛んだ。


 何の事は無い。

 ただ、これまで培った実力を、そのまま出せばいいのだ。

 それが相手に優れば勝つし、劣れば負けるだけ。

 

 中陸中学校は、第一試合の相手である熊本県代表を、先鋒戦、次鋒戦にて勝利し、下した。


 翌日の二回戦でも、新潟県代表を破り、勝ち進んだ。


 今回も連続二勝で、幸先が非常に良かった。


 以降もこの調子で優勝を目指そうと、全員で意気込んだ。








 そして、八月三日。


 天覧比剣三日目。


 第二会場、三回戦第一試合が始まる。


 相手は——東京都代表、富武(とみたけ)中学校撃剣部。

レイリー散乱といえばアルドノア。


ちなみに作者はド文系です。

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