木崎圭介《下》
トーシャはその日の夜も、澄江の住むマンションの一室で夕食を作っていた。
ひき肉、みじん切りにした玉ねぎ、玉子、小麦粉。
それらを混ぜて捏ねて作ったタネを二つの大きな塊に分け、それらをお手玉のように左右の手に叩きつけて空気を抜いてから、熱したフライパンに入れて焼く。
焼きながら、内側への火の通りを逐一確認。
そうしてしばらく焼き続け、火が通り切ったのを確認し——ハンバーグは完成。
出来上がった二つのハンバーグは、ひどく不恰好で、焦げ目が多く、おまけに片方が崩れていた。明らかな失敗作。
だが、これでいい。
このハンバーグは、「木崎圭介」が初めて作る料理である。
さらに「木崎圭介」は料理が苦手という設定だ。
しかし「苦手なりに頑張って作った不恰好な料理」というものに、あの澄江は弱い。
料理の失敗に申し訳なさそうにしていると、あの女はこちらの懸命な姿勢そのものに感動を覚え、愛玩犬のように懐いてくる。
そのようにして、あの女の「MICE」のうちの「E」を定期的に満たしてやる。
そうして、何も考えずに内務省の情報を咥えて帰ってくる、忠実な飼い犬にし続ける。
異性を使った諜報活動は、KGBの十八番である。
——その一方で、絶対的な方法でない事は百も承知。
どういう形であれ、正体がバレる可能性は常に付いて回る。
……だからこそ、そうなった時の対策もきちんと考えてある。
玄関のドアが開く音がした。鍵をしているので、開けて入って来れる人物は澄江を置いて他にいない。
「ただいま澄江さん。今夜はハンバーグ、作ってみたんだ。ちょっと失敗しちゃったけど……」
すぐに「木崎圭介」の浮かべる陽気な笑みで澄江を出迎えるが、澄江は無言で鞄をテーブルに置き、居間の奥まで行ってしまう。……いつもと様子がおかしいと、すぐに分かった。
日本刀が飾られた床の間の前で立ち止まると、
「圭介さん……」
縋るような、責めるような、恐れるような、そんな目をこちらへ向けてきた。
「どうしたの、澄江さん……? 仕事で何か、あった?」
そ知らぬ顔で問いつつも、トーシャの胸にはすでに確信が宿っていた。
——バレたみてぇだな。
今の澄江の表情を見て、長年の勘がそう告げていた。
そして予想通り、澄江は少し震えた声で問うてきた。
「圭介さん——貴方、何者なの?」
「え……何言ってるんだい? 俺は俺だよ。無一文の居候で、だけどいつか仕事見つけて澄江さんと結婚しようって考えてる、木崎圭介だよ」
「今日、知ったのよ。…………貴方と同じ名前で、同じ津久井郡の「七村電工」という会社に勤めていた人も、去年の春に行方をくらましたそうよ。私と貴方が出会ったのも……去年の春だった」
それ以上、言葉は不要だった。
どういう経緯でかは分からないが、澄江は気づいたのだ。こちらの正体に。
——去年、本物の木崎圭介に無理やり恋人への別れの手紙を書かせた上で殺し、入れ替わったという事実に。「会社を失って求職中の、無一文だが清貧な青年」を演じるために、成り代わった事実に。
トーシャにとって少し予想外だったのは、澄江がその事実を知りながら、見ないフリをしなかったことだ。
澄江はこちらに心を許している。そんな関係を崩したくないがゆえに知らないフリをし、ズルズルと情愛に耽溺し続ける可能性が高いと、トーシャは考えていたからだ。
……思っていた以上に聡明で、自制心の強い女だったようだ。
「答えて。……貴方は何者なの? どうして木崎圭介のフリなんかしているの? どうして私に近づいたの? …………私に何度も囁いてくれた「愛してる」って言葉は、全部嘘だったのっ!?」
最後の部分をいっそう悲痛な響きにし、澄江は問うてきた。
呼吸が浅く、手元が震えている。今にも感情が爆発しそうなのを抑え込んでいるのだろう。
もはや、誤魔化しはきかない。
甘やかな恋人ゴッコはもう終わりにして……次のステップへ進む必要がありそうだ。
そう判断したトーシャは、一年以上かぶり続けてきた「木崎圭介」という仮面を、外した。
「————年中盛りのついた愛玩犬だと思ってたんだがなぁ。正直みくびってたぜ、お前のこと。腐っても官僚様じゃねぇか」
澄江は大きく目を見開いて息を呑み、絶望で顔面を蒼白にした。
その開かれた瞳に潤みが生じるが、涙がこぼれるよりも先にキッと眼光を鋭くし、床の間に飾ってあった刀を取った。
鞘を抜いて捨て、剥き出しの刀身を構える。
「よくもっ……騙したわね…………!!」
「おぉ、怖ぇ怖ぇ。で、何だ? その刀は? ひょっとして俺を殺す気なの?」
煽るようなトーシャの物言いに、澄江はさらに睨みを強める。涙の浮かんだその瞳には、瞋恚が炯々と輝いていた。
だが、澄江は呼吸を整え、殺気を無理やり抑え込む。
「…………殺してやりたいけど、私は役人だわ。私怨に走らず、然るべき司法の場へ貴方を引きずり込む義務がある」
憎しみと怒りで震えていた剣尖が、無風の稲穂のように静まる。
抑制された語気で、澄江は語る。
「聞いたことがあるわ。……十一年前の日ソ戦争は、日米間で秘密裏に進められていた同盟計画をソ連側に知られたから起きた。そして、その同盟計画の情報を盗み出し、モスクワに伝達させたのは、日系人のKGBマンだって。その日系人は同盟計画の他にも、この帝国であらゆる立場の人間になりすまして、軍機、先端技術、政治家の隠している性癖など、様々な情報を盗み出してきたって。……それが、貴方なんじゃないの?」
トーシャは何も言わず、冷笑を浮かべ続けている。
澄江は再び恥辱と憤怒で顔を赤くし、それをまた自分で鎮めてから続けた。
「貴方は私から、『呪剣』という都市伝説のことや、ここ最近帝都で多発している不可解な事件の数々を聞き出していた。……鴨井村正の持つ『至剣』こそが『呪剣』であり、謎の事件も『呪剣』が原因で起こった。そんな力を持った『呪剣』を見つけた貴方は、天覧比剣でテロを起こすための道具として使おうとしている。違うっ?」
「——хорошо!」
大袈裟に拍手をしてから、トーシャは澄江の言葉を全て肯定した。
「日本の役人なんぞ、法律の上でしか動けない木偶の坊かと思っていたが、まさか『呪剣』にまで辿り着いていたとはなぁ! 大したもんだぜ。見直したよ。……んで? そこまで分かった上で、お前は何をしようっての?」
「言ったはずよ。貴方には、司法で裁かれてもらうわ」
「できんの?」
トーシャが語気強めに問うと、澄江は息を呑んだ。
結構早く気づいたようである。
自分の立ち位置の悪さに。
「仮に俺の事を内務省にチクったり、あるいは逮捕したとする。そうしたら、俺を一年も匿い続けて、おまけに情報の漏洩までしでかしたお前の身柄もタダでは済むまい。良くて懲役、最悪は死刑だ。いずれにせよ、今までお前の積み上げてきたキャリアは水泡に帰するだろう。そうまでして俺の事を告発する度胸や根性がお前にあるのか?」
トーシャはさらに畳み掛ける。
「分かるか? 俺とお前の関係は、超特大の爆弾なんだよ。しかもそれによって爆死するのはお前一人。俺はいくらでも逃げられるが、この国に縛られているお前は罪から逃げようが無い」
澄江の「MICE」のうち、「C」と「E」を同時に引き出すために。
「だったら、これからお前がすべき事は、分かるだろ? たった一つ——「この関係」をズルズル続けることだけだ。これからも俺と『玩具』のために、内務省の情報を口に咥えて走り帰ってくるお利口な雌犬を続けることだけだ。無論、ご褒美も用意してやる。安くない額の金と、女の幸せだ。毎晩、お前の気が済むまで、耳元で囁き続けてやるぜ? 「愛してる」ってよ」
こちらの正体がバレたのなら、その正体をネタにして脅せばいい。
相手がその国において地位のある人間であればあるほど、それは効果を発揮する。
誰だって、我が身が可愛い。
苦労して得た地位を捨てるのが怖い。無自覚に敵と内通していた罪に問われるのが怖い。
澄江も、今まで見てきた連中と同じように、我が身可愛さに「妥協」する。
そう思っていたが、
「——ふざけないでちょうだい」
予想外の言葉が返ってきた。
トーシャも流石にこれには驚き、澄江を注視した。
澄江と目が合う。変わらず殺意を宿してはいるが、それ以上に覚悟を決めたような瞳。
「……んだと?」
「ふざけないで、と言ったの。祖国を売るつもりは一切無いわ。貴方の身柄を拘束する。私の意思は変わらない」
思わずトーシャは舌打ちした。苛立ちを帯びた口調で、
「綺麗事吐かしてんじゃねぇぞ雌犬。今更愛国者ぶるな。どんなにご立派に振る舞おうが、てめぇが『玩具』の男とねんごろになって、その口から情報をポロポロ漏洩させた薄汚い裏切り者だって事実は変わらねぇんだよ」
「だったら、貴方と一緒に私も裁かれるわ」
澄江は構えを整えた。しっかりとした、至剣流「正眼の構え」。
「貴方の言いなりになり続けるくらいなら、貴方を道連れに懲役か死刑にでもなった方がマシよ。…………心だけでなく、生き方まで、貴方の好き勝手に弄ばれてたまるものですかっ……!」
剣尖の奥に光る双眸には、今にも飛びかかって来そうな強い気迫がある。
しかし、上等。その猛火のような怒気を、御している。
感情による浮つきが見られない、据わった構え。
伝承が捻じ曲げられた至剣流とはいえ、初伝目録を得るだけのことはあるようだ。
両者の距離は、五メートル弱。
澄江の腕前なら、おそらく一瞬で刺突を届かせられるだろう。
だが、この遠間で最も早く到達させることのできる攻撃は、やはり刺突のみ。ゆえに、刺突さえ警戒していれば対応は難しくない。
ナイフを取り出すべく、トーシャが右ポケットに手を伸ばした瞬間、
「——トゥッ!!」
鋭い踏み込みと気合を伴い、澄江の剣尖が光線のごとく迫った。両足揃えで発するその刺突は至剣流の『鎧透』であった。
並の人間ならば反応が間に合わず左肩を抉られるほどの速度を誇るその刺突を、トーシャは最小限の動きだけで回避。
澄江の刀身はトーシャの真横を素通りし——バラバラに崩れ落ちた。
「……え」
まるでぶつ切りにされた野菜のごとく何等分にも切り崩された己の刀身に、澄江は唖然とする。
トーシャの右手に握られていたのは、一本のバタフライナイフ。
何も持っていない左手が拳となって、澄江の胸の中心へ杭のように打ち込まれた。
「かはっ——」
胸尖。人体の急所の一つを強打された澄江は、その瞬間意識を消失させた。
力無く崩れ落ちてもたれかかってきた澄江の体を、トーシャは鬱陶しげに突き飛ばした。
「馬鹿な女だ。結局死に方まで俺の好きにされるんだ」
そう言ってせせら笑う。
今のは意識を奪っただけに過ぎない。下手な殺し方をすれば、検死の時に足が付く。
この女は、証拠の残らない「別の方法」で処分する。
死んだという形跡すら残さず、「行方不明」として扱わせる。
トーシャはそのために、淡々と、まるで日常生活のような気楽さで動き続けるのだった。