木崎圭介《上》
七月二十六日。金曜日。正午。
千代田区日比谷公園近くにある喫茶店「羽柴屋」のカフェテラスの一角に、箕輪澄江は沈むように座っていた。
日避けのパラソルがもたらす陰影に包まれた丸いテーブル。その上に乗っかったプラ容器の中のアイスコーヒーは、しかしほとんど減っていない。中の氷が溶けてコーヒーが薄まり、容器周囲の無数の結露が流れ落ちて周囲に水溜まりを形成している。
「面倒なことになったわね……」
澄江は背中を丸めて大きなため息をつき、目頭を揉んだ。
そう。本当に面倒な事態が起こってしまった。
——全てのきっかけは、一昨日、警察にもたらされた情報だ。
二十四日の昼頃。
池袋の平和通りにて、牧瀬電機の社長令嬢が「空洞コイン」を発見したとのこと。……東側諸国の諜報員が好んで使っていたという、秘密道具の一つである。
さらに、それを拾おうとしたロシア人の男と交戦。義手に仕込んだ銃まで使ってきたその男を見事に拘束し、「空洞コイン」ごと警察に突き出したのだ。
警察経由でその「空洞コイン」を手に入れた内務省は、その中にあった小型のマイクロフィルムの中身を解析し、そこに記録されていた驚くべき計画を知る事となった。
曰く——『玩具』の次のターゲットは、八月から始まる天覧比剣少年部であること。
曰く——天覧比剣の観客を「狂乱状態」に変え、それによって暴徒化した観客に、帝と、国賓として来日しているバークリー大統領を襲わせることが、計画のあらましであること。
曰く——観客を「狂乱状態」に変える方法として用いられるのは、鴨井村正という人物の用いる『至剣』であること。
それらの情報を一挙に手に入れた内務官僚らは、みな一様に驚愕と動揺を隠せなかった。
日本に限らず、世界中にその活動拠点を持つロシア系巨大犯罪組織『玩具』。元チェキストを多数抱えており、現ロシア政府高官とも黒い繋がりがあるとの噂だ。
なかなか尻尾が掴めず難儀していたその組織の足跡をようやく掴めたは良いが、今回の暗躍の目的が、よりにもよって天覧比剣を狙うことによる不安定化工作とは。
もしもバークリー大統領が日本において何者かに殺害されれば、重大な国際問題になることは避けられない。下手をすると、日本の安全保障を盤石にしている日米同盟の一方的破棄も大いにあり得る。
大統領への被害が軽微か、あるいは無傷であったとしても、安心はできない。
バークリー大統領の支持者には、反日感情の強い白人が多い。大統領が軽傷であったとしても、「日本人の手によって大統領が怪我をさせられた」という事実が出来上がってしまえば、アメリカ国民の反日感情がさらに高まりかねない。
そうなれば、両国関係の大きな瑕疵に繋がる。
さらに職員を驚かせたのは、その作戦のための「手段」だった。
『至剣』の力を用いて、観客の精神を暴走させて暴徒に仕立て上げ、帝と大統領を襲撃させる——
よもや『至剣』を、国家規模の犯罪のために用いようとは。
その着眼点は無かった。
『至剣』は現代科学においても解析が難しい、不可思議な剣技だ。
科学で証明出来ない事は、現行法では裁けない。
裁けるとするなら、刀で人を切りつけた傷害罪くらい。しかしそれでも殺人を犯していなければ罪は軽い。そして「暴徒化」させることが目的ならば殺す必要性は皆無。
これからどうするのか天覧比剣少年部はもう目前だぞ帝と大統領をどう守るのかと慌てて議論しだす他の官僚と違い——たった一人、樺山歩だけは冷静だった。
「確かに『至剣』は法で裁けません。しかしその使い手である鴨井村正という男が、特高がかねてより追い続けていた『玩具』の連中と繋がっていることは疑いようの無い事実。であるなら、内乱罪で裁く余地は十分にあります」
淡々と言ってから、歩は一枚の顔写真を出してきた。枯れ木のように痩せこけた、細面の男だった。
それは、鴨井村正の写真だった。
曰く、歩は嘉戸宗家の次期家元と学友であったそうで、そのツテを利用して鴨井村正の事を知ったとのこと。
鴨井村正は『至剣』を開眼させるほどの剣才と熱意の持ち主であったが、その人格を宗家から危険視され、破門を言い渡された。
だが、宗家に出来るのは破門まで。そこから先の事を心配した次期家元から依頼を受け、歩は出来る範囲で独自に村正の捜査を進めていたという。
「なぜそれをもっと早く教えなかったんだ!!」という上司の苛立ち任せの怒号に対し「言ったところで真剣に取り合いましたか?」と歩はただただ落ち着いた口調で返した。
文句の数々を理路整然と遣り込めた後、歩はそこから先の議論の主導権を独占することとなった。
次に論じた課題は、帝と大統領の安全確保だ。
当然ながら、両名には安全のため、天覧比剣観戦をやめてもらう必要があった。
その事を警保局長から内務大臣経由で帝に奏上した結果、すぐに内務省にも返事が届いた。
帝とアメリカ大統領は、どちらも天覧比剣の観戦を予定通り行う——
それを今朝聞かされた内務官僚らは、揃って耳を疑った。
天覧比剣は、帝が観るからこそ「天覧」である。それを破れば「天覧」の二文字が虚飾となってしまう——それが帝の言い分であった。
ここまではまだいい。
問題はバークリー大統領だ。
世界に冠たる合衆国の大統領である自分が、ロシアのやくざ者風情を恐れて鼠のごとくコソコソするなど、支持者に対して示しがつかないではないか——そう言って、天覧比剣から逃げることを良しとしなかったそうだ。
帝も「お考え直しいただきたい」と説得したそうだが、聞き入れられなかった。
……結局、会場である帝国神武閣の警備をこれまで以上に厳重にするという方策で妥協することとなった。
つまりすべての責任は、内務省と警察に委ねられたというわけだ。
これが頭を抱えずにいられようか。
「辞職しようかしら……」
澄江はため息と一緒に弱音をこぼした。
とりあえずストローでプラ容器のアイスコーヒーを飲んだ。味が薄い。氷がほとんど暑気で溶けてしまったようだ。
「圭介さんに会いたい……」
テーブルに突っ伏し、もう一度弱音を吐く。
だが、そうも言ってられない。圭介だって、この暑い中で転職活動を頑張っているのだ。
自分も頑張らなければ。
気合を入れて、薄まったアイスコーヒーを一気飲みしようとした時だった。
「——誰か! 捕まえてぇっ!! ひったくりよぉっ!!」
女性の切迫した叫びが、澄江の耳を衝いた。
カフェテラスのウッドデッキの前を横切る歩道。その中でまばらになって歩いている人通りの中を、場違いな必死さで駆け抜けている一人の男の姿。その遥か後方には、手を伸ばして懸命に追いかけている若い女性の姿。
考えるよりも先に体が動いていた。
ウッドデッキの木柵に片手を付いて軽く飛び越え、歩道へ出る。女物の鞄を抱えて逃走し続けている男に狙いを定めるや、全力疾走。
学生時代では同学年女子の中で常に一番であったその俊足は、今なお健在である。大きく開いていた距離をあっという間に潰しきって、ひったくり犯の行く手へ回り込んだ。
「どけっ!!」
突き飛ばそうとした男の腕を滑らかに取るや、激流のような体捌きの中に男の全身を巻き込み、背中から地面に叩きつけた。帝国制定柔術の一手である。
ぐえっ、という潰れた呻き声。
「女性から力づくで物を奪うなんて、男の風上にも置けないわね!! 恥を知りなさい!!」
凛とした喝破が、通り全体の外壁へ響き渡った。
衝撃で怯んだ様子のひったくり犯から、女物の鞄を奪還する。
「はい、これ。貴女のでしょう?」
息を切らせて駆け寄ってきた若い女性に、盗品を返した。
「え、あ、はい……ありがとう、ございます」
彼女がおずおずと鞄を受け取った途端、周囲で見ていた人々から割れんばかりの拍手が響いたのだった。
近くの警官を呼び出してひったくり犯を連行させた後。
「——先ほどは、本当にありがとうございました」
先ほど座っていたカフェテラスの一席にて、澄江は助けた女性から再び感謝を受けた。
「いいんです。職務上、当然の事をしたまでですから」
「いえ、そんな……何か、お礼ができましたら」
「あ、私、役人ですから、民間人から供与を受けるのはちょっと。気持ちだけ受け取っておきますね」
やんわりと応対しながら、澄江は向かい合う形で座るその女性を見た。
落ち着いた感じがする若い女性だった。優しげな顔立ちと、白を基調とした夏物のワンピースという組み合わせが、清楚な感じを演出していた。首から下には、ロケットペンダントのようなモノをぶら下げている。
やっぱり、男の人って、こういう柔らかそうな雰囲気の女性の方が好きなのかしら…………内心でそんな感想を抱く澄江。
「あ、申し遅れました。私、日下部と申します。あなたは?」
「箕輪澄江です。よろしくお願いしますね」
「よろしくお願いします。……箕輪さん、ずいぶんとお強かったですし、警官への対応も随分と慣れていたようなので、やっぱり警察の方ですか?」
「いえ。内務省に勤めています」
「内務省! 官庁の中の官庁じゃありませんか。すごいです、女の人なのに」
「そんな大層なモノじゃありませんよ。ほとんど使いっ走りみたいなものですしね」
これから行う天覧比剣の警備の事を思い出し、また暗澹たる気分が蘇りかける。
「日下部さんは、帝都にはあまり慣れていないみたいですね?」
「あ、はい。分かりますか。今日はその……お買い物に来ただけなので」
「そうなんですか。……この千代田区は帝の膝下なだけあって、比較的治安の良い地域だけど、最近は物騒な事件が多いから、くれぐれも用心して」
物騒な事件。そんな己の発言とともに連想したのは、今年の四月からたびたび発生していた、不可解な事件の数々である。
胸の内の「黒いモノ」に突き動かされた——そんな意味不明な理由で行われた、無差別な他害行為や、自殺未遂の数々。
一件や二件ならば偶然だと思うだろうが、全く同じ供述をする犯人が二十人を越えれば、誰だって共通した原因を疑う。しかし、その「共通した原因」が分からなかった。
そこへもたらされたのが、鴨井村正なる人物の使う、人を狂わせる『至剣』の情報。
さらに歩が密かに気にしていた、少しでも斬られると精神を冒される『呪剣』という都市伝説。
すなわち『呪剣』こそが、鴨井村正の持つ『至剣』なのではないだろうか。
都市伝説などではなく、実在すると。
そう考えれば辻褄が合う——
「それにしても……宮城ってすごく大きいんですね。ここに来る前はテレビでしか見た事なかったですけど、目で捉えきれないくらいです」
仕事モードになりかけていた澄江の思考を、しみじみとした日下部の発言が打ち切った。
澄江はいい気分転換になるかもと思い、帝都についてのいろいろな事を日下部に語って聞かせた。
良い観光地のこと、治安があまり良くない場所のこと、最近流行っている詐欺の手口など。
この帝都に通じた内務官僚だからこそ、そういった話はすらすらと出来た。日下部が興味深げに聞いてくれていたので、余計に。
「ところで、日下部さんはどこに住んでいるの?」
その話の流れで、澄江はそう言及した。その口調はすでにインフォーマルな軽さを帯びていた。
日下部は少し寂しそうに微笑み、
「神奈川県の津久井郡にいました」
「へぇ、津久井郡に」
澄江はその発言に興味を持った。
津久井郡は神奈川県北西部に位置する郡だ。
軍都や宇宙開発拠点として発展を遂げていることで有名な相模原市の隣に位置する。
行財政効率化などのため、近いうちに相模原市との合併が行われるそうだ。
警察機構だけでなく、地方行政も監督する内務省の人間である澄江の耳には、嫌でもそういった情報が入ってくる。
……そして何より、圭介がかつて勤めていた会社が、その津久井郡にあったからだ。
その会社が倒産したことで、圭介は残った貯金を切り崩しながら職を探し、その途中で自分と出会ったのだ。
去年の甘い思い出を連想し、澄江の胸に甘いモノが宿る。
「箕輪さん、どうしたんですか?」
日下部からそう問いかけられ、澄江はハッと我に返り「な、なにかしら」と反応。
「いえ、なんだか……すごく嬉しそうな顔をしていたものですから」
「……やっぱり、分かるのかしら」
はい、と頷いた日下部。
女同士だからだろうか。澄江は思わず口が軽くなり、言う必要の無い事まで言ってしまう。
「私が今同棲してる彼もね、昔、津久井郡に住んでいたらしいから」
「まぁ! そうなんですか。……その恋人の方とは、仲がよろしいんですね」
「ええ……その、次の仕事が見つかったら、結婚しよう、って」
日下部の「素敵!」という褒め言葉に、澄江の口元が思わず綻ぶ。
甘い妄想が、堰を切ったように溢れ出す。
結婚式は神前がいい。圭介は「頑張ってお金を貯めて神宮で挙げてみせる」と意気込んでくれていたが、自分は小さな神社でのささやかな式でも良い。日にちはもちろん大安吉日。
圭介は恥ずかしがって滅多に言及しないが、子供も一人か二人欲しい。彼の血を引く子なら、自分はきっとその子を心底可愛がるだろう。
よし。今夜は彼に「結婚したら、子供は何人欲しい?」と直球で聞いてやろう。そうして顔を赤くして恥ずかしがる彼の可愛らしい姿を楽しんで、疲れを吹き飛ばすのだ——澄江の気分が一気に浮かれてくる。
「日下部さんにも、そういうお相手がいらっしゃる?」
その気分の浮かれ具合が、そんな踏み込んだ質問をさせた。
「……その、彼とは去年からずっと、連絡がつかなくなっていて」
だがしかし、そう告げた日下部の寂しげな微笑を見て、さすがに踏み込みすぎたと確信した。
「ごめんなさい、日下部さん。少し無神経だったわ」
「いいんです。もうそろそろ……諦め時かなって思っているので」
お互い少し沈黙し合ってから、澄江は改まった口調で尋ねた。
「その「彼」とは、お別れしてしまったということなの?」
「……はい。去年の春までには同棲していたんですけど、ある日、書き置きを残して突然いなくなってしまって……」
「書き置き?」
「はい……「もう僕らは一緒にはやっていけない。終わりにしよう。探さないでください」と」
日下部はロケットペンダントを強く握り締めて、悲痛な思いを押し殺したような表情を浮かべた。
「私は、別に気にしなかったのに……! 勤めてた会社が無くなって職を失ったからって、見限るつもりなんか無かったのに……!」
その悲痛さに、澄江は同じ女として心を痛めた。
自分だって、ある日突然圭介がいなくなったら、同じ思いをするだろうから。
だからこそ、出来る範囲でだけでも、力になりたいと思った。
「日下部さん、よかったら、その恋人の事をもう少し詳しく教えてちょうだい」
「え……?」
「言ったでしょ? 私、内務省の人間だって。人脈だって広いんだから。だから、情報さえあれば、その彼の事を何かの拍子で聞けるかもしれない。……出来る範囲でも、力になってあげたいの」
澄江が真っ直ぐ視線を合わせて告げると、日下部は目元を指で拭き、少し嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、ございます」
「いいのよ。……それで? その彼について、教えられる範囲で教えてくれる? そうね…………まず、彼が以前勤めていたっていう会社の名前を教えてもらえるかしら?」
日下部は「あ、はい」と返事してから、思い出すような仕草とともに答えた。
「えっと……「七村電工」っていう、板金工の会社なんですけど」
それを聞いて、澄江は息を呑んだ。
不意打ちを喰らった気分になったのだ。
なぜならその会社は……圭介がかつて勤めていた会社と同じ名前だったからだ。
同じ神奈川県津久井郡にある、同じ名前の、同じ業種の会社。
「……箕輪さん? 大丈夫ですか?」
「え?」
「あの、顔がちょっと青く見えるんですが……」
「……大丈夫。続けてちょうだい」
そう取り繕う澄江。
テーブルの下にある両手は、震えをきたしていた。
同じ会社。
去年の春を境に突如失踪。
関係の終わりを一方的に告げる手紙を書き残して。
——胸騒ぎがする。
内務省に入省してからおよそ十年間、多くの事件や犯罪者と関わってきたことで培った第六感のようなモノが、激しく警鐘を鳴らしている感覚。
これ以上、踏み込んではいけない。
もしも踏み込めば、もう後戻りは出来なくなる。
知る前の無邪気な自分には戻れなくなる。
しかし、職業柄の好奇心が、そのパンドラの箱を開けさせようと澄江の口を動かす。
「それで……その彼のお名前は?」
内なる震えをマスキングした、穏やかな問いかけ。
対し、澄江の内心を窺い知る術を持たない日下部は、屈託無く答えた。
「木崎圭介、という人です。写真もあります」
日下部がロケットを手に取り、蓋を開けたことで見せられた、男女の写真。
写真の中で、日下部の隣に立つ「木崎圭介」は。
——澄江の知る木崎圭介とは、全く違う顔だった。