下校、そして男子の野望
数時間経過して放課後。
今日は火曜日だ。
つまり、螢さんが富武中学撃剣部に稽古をつけてくれる曜日であった。
僕らは今日も螢さんを相手に打ち込み稽古を行い、そしてやはり一度もかすりもしなかった。
彼女は淡々とダメ出しをし、決して褒めることはない。
けれど、それに不満を漏らす者は、今の僕らの中にはいなかった。
不戦勝が混じっているとはいえ、無名校であった富武中がめでたく天覧比剣までのし上がれたのは、螢さんとの稽古のおかげでもあったからだ。
……あと、僕個人的には、土日以外でも螢さんと一緒にいられる時間が増えるのは、嬉しくもあった。
螢さんとの稽古の日、僕が彼女から眼を離す時はほとんど無かった。終始見惚れっぱなしだった。
愛らしくも神々しくもある美貌、常に濁りの無い深い清泉のような黒い瞳、どれほど大きく動いても乱れることなく一律を保ち続ける輝かしい黒髪、神殿の石柱を連想させる慎ましい光沢を持った首筋、稽古着の襟元からかすかに覗く鎖骨、竹刀の柄を見事な技巧で操る白魚のような指、爪先の方向転換に追随して柔らかく迅速に踊る柳腰…………良き。
「光一郎、鼻の下伸びてるわよ」
しょーもないモノを見る眼をした峰子に指摘されてようやく我に返るほど、僕は螢さんの立ち振る舞いを堪能していた。
そうして稽古に打ち込んでいるうちに、あっという間に夕方となった。
すでに七月で夏真っ盛り。暑気も強くなり、日照時間も長くなっている。
運動と暑さでいつも以上に発汗した体をシャワー室で洗い流し、夏制服に着替えた。
竹刀袋と防具袋を持って、部員一同は下校となった。……ちなみに学校鞄と一緒に持つと荷物が増えて面倒なので、僕はもう教科書や筆入れを置き勉状態にしている。お昼ご飯は購買かエカっぺのお弁当で食べられる。
僕は螢さん、峰子、氷山部長、エカっぺとともに校門を出て、帰路を歩き出した。
「……どうして、貴女がいるのかしら」
当たり前のごとく一緒にいるエカっぺに、峰子は怪訝な眼を向ける。……エカっぺは撃剣部ではない。
エカっぺはにんまり得意げに笑いながら言った。
「だってあたし、コウのお弁当係だもーん。あんたらのエース剣士のね」
「いつからそんなものになったのよ」
「あんたとコウが知り合うずっと前からだけど? あ、今日もあたしの作っただし巻き玉子、美味しい美味しいって食べてくれたわよ」
峰子の目が細められる。その視線を受けるエカっぺはにんまり笑顔を崩さない。
……なんか触れるべからざる妙な雰囲気を感じたので、僕は螢さんへ視線を移した。
螢さんが今着ているのは、象牙色の半袖セーラー服。ヨシ女の高等部の夏制服である。
半袖から伸びた細腕のきめ細やかな素肌が、夕日の朱を慎ましく反射していて、その朱い反射光は僕の顔に当たっている。
稽古時間中ずっと動きっぱなしだったはずなのに、螢さんは汗一つかいていなかった。なので制服に着替える必要は無かったと思うのだが、制服は他校生であることの身分証明なので外せないとのこと。
……ちなみに螢さんは制服姿で富武中の敷地内を歩くたびに、生徒達から注目を浴びていた。本人の美しさもそうだが、内親王殿下も通っている天下のヨシ女の学生が来ているという理由も大きい。
僕は、そんな螢さんの隣に来て、並んで歩いてみる。
「……なに、コウ君?」
「いいえ、なんでもないです」
こうしてお互い制服姿で並んで歩いていると、まるで同じ学校に通っているみたいだ。もしそうならどれだけ幸せか。
いやね、ほんとね、螢さんの同級生になりたいです。
頑張って勉強して、女子のフリして、飛び級で葦野女学院に編入しようかな……なんてお馬鹿なことを考える。
「ところでコウ君、稽古のときに結構強く投げちゃったけど、大丈夫?」
螢さんがそう問うてくる。銀の鈴みたいな綺麗で淡々とした声音だが、ほんのかすかだが気遣うような響きがあるのが分かる。
稽古中、僕は螢さんとの打ち込み稽古の時、柔術の技で綺麗に投げられて背中を打ったのである。その話だ。
「はい、大丈夫ですっ。あれくらいでへこたれる僕じゃありませんから」
むしろ螢さんになら投げられたい。制圧されたい。特に後者。取り押さえられた時に彼女の綺麗な髪の毛が面金の隙間からさらりと中に入ってきて顔に当たって、信じられないくらいいいにおいがしました。疲れるどころか元気になれました。是非またやってほしいです。
「ところで、螢さんのあの柔術って、確か帝国制定柔術ですよね。あれも望月先生から習ったんですか?」
「そう」
僕の問いに、螢さんは言葉少なに頷く。
帝国制定柔術。
明治時代に柔術諸流の皆伝者が意見を出し合って完成させた、安全に学べて、かつ速習性の高い近代柔術だ。
実用を最重要視しており、既存の柔術流派と違って目録制度や段位制度が存在しない。気軽に学べて、そして伝承制度によるしがらみ無く教え広めることの出来るこの柔術は、すぐに警察や軍隊に広まった。さらには世界中の軍や警察機関、果てには傭兵や反政府ゲリラにも伝わり、各々で独自の発展を遂げているという。
螢さんは剣の腕も凄いが、柔術も普通に達者だ。
去年の嘉戸宗家との「三本勝負」の直前、目にも留まらぬ速さで僕に掴みかかろうとした嘉戸輝秀を、螢さんは同じく目にも留まらぬ速さで制圧してみせたのである。
さっきの稽古でも、彼女の柔和な手によって空き箱同然に転がされている体格自慢の部員を何度か見た。
「よろしければ、僕にも教えていただけませんか? 帝国制定柔術」
もしも僕が剣だけでなく、柔術も使えるようになれば、戦術の幅が広がるだろう。天覧比剣を勝ち抜く助けにもなるはずだ。……決して螢さんに制圧されて密着したいからではない。断じて。誓って。
螢さんは、二秒ほど間を置いてから答えた。
「確かに、柔術を学べば体の使い方の枠が広がるから、大いに剣術の滋養になると思う。でも、それは天覧比剣が終わった後にするべき。今から制定柔術を学んでも、天覧比剣までに実用できる水準には達しない。付け焼き刃になる。だから今のコウ君は、剣だけに集中した方がいい」
「そうですか……分かりました。じゃあ、天覧比剣が終わったあとに」
「ん」
螢さんが小さく可愛らしく頷く。
よし、約束にこぎつけた。僕が心の中でガッツポーズしていると、
「ねぇ、みんな毎日稽古ばっかりで、うんざりしないの?」
エカっぺが、そんなことを言い出した。
峰子が何を言わんやとばかりに、
「はぁ? 天覧比剣で勝ち抜くためなんだから、稽古を怠らないのは当たり前でしょ?」
「まぁ、うん、確かにそうなんだけどさ……その、息抜きとか、しないのかなーって思ったのよ」
そんなエカっぺの言葉に、氷山部長が明るい調子で乗っかった。
「なるほど、一理あるな。稽古も大事だが、たまには目いっぱい遊んで英気を養うのもまた肝要といえよう」
「本気ですか、部長?」
「ああ峰子。そうだな…………今週の休日、つまり日曜日、部員全員でどこかへ遊びに行くというのはどうだろうか?」
僕がその提案に反応した。「遊びに、ですか?」
「ああ。あまりお金をかけずに済む遊び場といえば…………そうだ、プールだ。岩本町に大きな区民プールがあったはず。そこへ行くというのはどうだ? かかるのは安い運賃と入場費くらいだし、部員全員が足を運びやすいはずだ」
「いいですねそれ、賛成! あたしも行くー!」
「……まあ、たまには悪くありませんね」
エカっぺはノリノリで、峰子はやや戸惑い気味に部長の提案に乗っかる。
「……という感じなのだが、いかがだろうか、螢さん?」
氷山部長に話を振られた螢さんがキョトンと小首をかしげる。可愛い。
「わたし?」
「そうさ。貴女も一緒にどうだろうか?」
「……いいの?」
「いいとも。学校が違えど、貴女は富武中撃剣部の仲間であり師だ。是非ご一緒していただけると嬉しい。どうだろう?」
「そうですよ、螢さん! 螢さんももう僕らの一員なんですから! ね? 僕らと一緒に行きましょう? ね? お願いしますよ。ねぇ? 螢さんが一緒だともっと楽しいですからっ」
部長の提案と、僕の懇願を同時に受けて、螢さんはその黒い瞳をぱちぱちさせてやや困った様子を見せたが、
「…………それじゃあ、わたしもいっしょで、いい?」
「ああ。歓迎しますよ」
螢さんがようやく折れる。部長も快く頷いて了承する。
っしゃぁっ————!!
勝利の鐘の音が聞こえる。
プールで遊ぶ。それは水着に着替えるということ。
螢さんがそれに参加する——それは螢さんも水着になるということだ!
(見られる! 螢さんの! 水着! 姿!)
いつか絶対見てみたいと思っていた秘めたる野望が、今週末、ついに叶う。
レオタード? ワンピース? ビキニ? セパレート? それとも学校指定水着?
なんでも来い。どれも螢さんにはきっと似合う。
やばい。想像だけで鼻血が出そう。失血死しかねない。血液製剤が要る。衛生兵、衛生兵。
「…………こいつ絶対「螢さんの水着姿が見られる!」って思ってるわよね」
「違いないわ。光一郎、スケベだから」
僕の魂胆は、エカっぺと峰子にはバレバレだった。