待ってます
単刀直入に言おう。
僕達富武中学校撃剣部は、今年の天覧比剣都予選で優勝した。
七月一日に起こったミーチャによる暴力事件ののち、彼の所属してる赤坂東中学校は出場停止処分を言い渡された。
これにより富武中は、午後の準決勝第一試合で不戦勝となり、翌日の決勝戦への切符を得た。
さらに翌日の七月二日、僕らは決勝戦を戦い、一敗もすることなく相手校に勝利できた。
こうして僕ら富武中学校は優勝。
帝都東京代表校として、七月末に行われるという天覧比剣本戦への出場権を勝ち取ったのである。
この結果に、部の仲間達はとてつもなく喜んだ。
泣いて抱き合っている者もいた。
無理からぬことだ。都予選だけでなく、本戦にまで手が届いたのだ。僕らはまたも富武中撃剣部史上初の快挙を成し遂げたのだ。
帝室の御前にて剣を披露するという帝国剣士として誉ある舞台に、富武中学校の名を載せられるのだ。
本戦がどういう結果で終わるにしろ、富武の生徒であったことを、みんなは大人になっても誇りに思い続けるだろう。
だけど、峰子と、そして氷山部長は、浮かない顔をしていた。
——僕が、もっと浮かない顔をしていたからだろう。
確かに都予選で優勝し、本戦出場が決まった。大変にめでたい事だ。
けれど、本当に申し訳ないけど、僕はあまり嬉しくなかった。
決勝戦は正々堂々と戦い、勝った。
だけどそれも、ミーチャの事件による不戦勝あっての物種だろう。
それを考えると、手放しに喜ぶことをどうしても憚ってしまう。
それに——あの事件の後、会場の人達が口々に話していた内容に、僕は憤りを覚えた。
——おい、聞いたかよ。
——ああ、知ってる。赤坂東中のロシア人が乱闘騒ぎを起こしたんだってな。
——カッとなって、自分のチームを竹刀でメッタ打ちにしたらしいぞ。
——しかも、それを止めに入った富武中の選手にまで手を出したって話じゃん。やべぇよ。
みんな、勝手な事を言う。
——やっぱ露助は十一年経っても露助のまんまだわ。
——何か気に入らなければすぐ暴力。行動原理が畜生と変わんねぇよ。
——ほんとほんと。やっぱ今でもロシア人は要注意だわ。
——てかさ、内務省はマジで何してんの? ロシア人なんか全員牢屋にぶち込めよ。潜在的朝敵なんだからさ。
何も知らないくせに。
——その露助のいる学校、出場停止になったらしいじゃん。ざまぁ見ろって感じ。
——あんな畜生が天覧比剣に出たら、帝の御目が穢れちまうよ。
——もうロシア人は参加禁止にすべきだろ。帝が暗殺されたら誰が責任取るんだよ。
——ていうかさ、そもそも帝の御膝元である帝都に露助がうごめいてるって時点で穢らわしいっての。一匹残らずロシアに強制送還しろって話だよ、あんな夷狄ども。
息をするように、心無い言葉を口にする。
耳にするたび、言ってやりたかった。
ミーチャはお前らが言うような「露助」じゃない。
暴力を振いたくて振るったんじゃない。
ただ、居場所が欲しかっただけなんだ。
友達が欲しかっただけなんだ。
みんなと仲良くしたかっただけなんだ。
……言えなかった。
だって、それらの言葉に説得力が無いことを一番よく知っているのが、他ならぬ僕自身だったからだ。
ミーチャの暴行を目撃し、それを止めるべく剣を交え、心の中の澱を吐き出すような呪詛をいくつも聞いた、僕だから。
だけど、同時に僕は知っている。見ている。
みんなと仲良くするために、ミーチャがいろいろ頑張り、悩んできた事を。
誰も知らないミーチャを、僕だけは知っている。
凶行に走ったミーチャも、僕と時を過ごしてきたミーチャも、同一人物だ。
どっちか片方じゃない。
どっちもミーチャなのだ。
だったら、いつもの穏やかなミーチャに戻ることだって、できるはずだ。
何より、僕は言ったじゃないか。
「お互いに、横道を逸れないようにするのが友達だ」って。
友達じゃいられなくなるとしても、そうするのが友達だって。
僕はまだ、ミーチャを友達だと思っている。
であるなら——やることは一つだ。
ミーチャともう一度会って、話をしてみることだ。
†
——二〇〇二年、七月五日。金曜日。
ミーチャが中学生で、なおかつ赤坂東中学校に通っているということが分かっていて本当に良かったと思う。
「住んでいる場所は港区」という情報だけでは、あまりに捜索範囲が広すぎるからだ。
赤坂東中学校の場所を地図で調べた僕は、仮病で学校を午前中で早退し、ワイシャツにスラックスに木刀という夏制服+αのまま、そこへ向かった。
他校の中学生と多く接することの出来る時間帯は、下校する放課後だ。
なので僕はその時間帯に校門前に訪れて、校門から次々吐き出される生徒達にミーチャの事を聞きまくった。
ミーチャはどうやらその学校でも有名人だった。無論悪い意味で。
この間の暴力事件の影響もあってその悪名には拍車をかけていた。
なのでみんなミーチャの事を聞かれると、必ず表情筋のどこかしらに大なり小なり不快感やら嫌悪感に由来する動きを見せた。
それでも、情報はいくつか集まった。
曰く、ミーチャは暴力事件が原因で停学処分。現在はその期間内で学校に来ていない。
曰く、撃剣部は一定期間の活動停止処分。
曰く、撃剣部部長の有本は、二週間の入院。
曰く、生徒保護者の一部からは、ミーチャを退学にしろという無茶な要求が来ているとのこと。
ミーチャは今、学校にいない。
であれば、今度はミーチャの住んでいる場所を探さねばなるまい。
だが、ミーチャと仲の良い生徒はいないようで、誰に聞いても「知らない」であった。
その中で唯一有益だと思われる情報は「「アイボリー乃木坂」のある方角から来るのをよく見かける」というものである。
「アイボリー乃木坂」とは、その名の通り、乃木坂にある古いマンションのことだそう。
そこの大まかな場所を教えてもらった僕は、すぐに向かった。
赤坂通りを西へしばらく進んで、左の脇道に入る。
通りがかる人に道を尋ねながら、着実に近づいていく。
そして空が夕陽の色に覆われた頃——僕はようやく件のマンションまで到着した。
「アイボリー乃木坂」という名前通り、かすかに肌色っぽい白で塗られた五階建ての古いマンションだった。外壁のところどころに塗装の剥がれやヒビが見られる。
ちょうどそのマンションから出てきた年配の男の人に「ボルショフさんという人はここにお住まいでしょうか?」と尋ねると、やや不機嫌そうに「三階の五号室にいるよ」と告げてそそくさと横切った。
……達成感と同時に、このマンションにおけるボルショフ一家の認識をなんとなく示唆されてしまって、嫌な気分になった。
そして——僕は今「305号室」のドアの前に立っている。
古びた冷たい鉄のドア。シールとかテープとかを剥がしたような跡がいくつも見られる。
ごくっ、と喉を鳴らす。
来てしまった。我ながらなんという行動力か。
どうしよう。何て言って切り出そうか。
というか、ここはミーチャのご家族の家なわけだから、彼のお父さんも住んでいらっしゃるわけで…………あ、いけない。菓子折り用意するの忘れてた。ミーチャに会うことで頭いっぱいになってて失念していた。
「振りかざす……太刀の下こそ地獄なれ……一と足進め…………そこは極楽!」
以前知った和歌の力を借りて強引に覚悟を決めた僕は、呼び鈴のボタンを勢いよく押した。
きん、こーん、という音がドアの向こうに響き、しばらくすると誰かの足音が近づいてきた。
ミーチャか。僕は思わず緊張を覚えるが、
『……どちらさまかな?』
聞こえてきたのは、太く、年季を帯びた男の人の声であった。
おそらく、ミーチャのお父さんだろう。
「こ、こんにちわっ。僕、ミー……ミトロファン君の友達の秋津光一郎と申します。今日は、その、ミトロファン君のお見舞い、に来ました。あの……ミトロファン君のお父さん、です、よね……?」
たどたどしくもそう告げると、ドアの向こうの声は相好を崩したような声で返してきた。
『——「ミーチャ」で構わないよ。秋津君。君のことは、あの子からよく聞かせてもらってる。……ああ、言い忘れていた。私はダニール・ボルショフ、ミーチャの父親だよ』
かちゃっ、と鍵が開く音。
『入って構わないよ。どうぞいらっしゃい』
「あ、ありがとうございます」
僕は遠慮がちにノブをひねり、ドアを開いて中へ入る。
玄関の三和土の向こうには、大柄な体にスーツをまとった、四十代前半ほどの白人男性が立っていた。
僕が仰ぎ見るほどの位置にある色白の細面。角が取れた細面で、短い金髪を上品に後ろへ流して整えてある。僕を俯瞰する青い瞳には穏やかな光が宿っている。
この人が、ミーチャのお父さんか……確かにどことなく、ミーチャに似ているような気がする。
僕はおずおずと一礼し、もう一度名乗った。
「初めまして。秋津光一郎です。よろしくお願いします」
「うん。よく来てくれたね。息子と仲良くしてくれてありがとう。ところで、この家の場所はあの子から訊いたのかな?」
「いえ。ミーチャの通ってる学校で聞き込みをしまして」
「そうなのか。やれやれ、あの子も教えてあげればいいのに」
ミーチャのお父さん——ダニールさんが少し可笑しそうに笑う。
だがそれから、すぐにその表情を浮かないものに変えた。
「あの子の通う学校に行ったということは…………あの子が停学処分になったことを、君はもう知っているのかな?」
「はい……それで心配になって、会いに来たんです」
「そうか……あの子にも、ちゃんと君みたいな友達がいたんだな。少し安心しているよ」
「……その、ミーチャは今、ここにいますか?」
「いる。でも——もしかすると、会えないかもしれないよ」
それは、どういう意味だろう。
「上がっておくれ。物は試しだ、あの子に会ってみるといいよ」
そう言って、ダニールさんは僕を家へ招いてくれた。
僕は「お邪魔します」と言って靴を脱ぎ、大きな後ろ姿に付き従う。
……失礼かもしれないが、ダニールさんは父親というより、母親に近い柔和な雰囲気を持った人に思えた。
その理由はおそらく、奥さん……つまりミーチャのお母さんが亡くなったからだろう。
トイレとお風呂場に繋がった短い廊下を出て、居間に達する。
モノが少なめで小綺麗に整えられていたが、壁際に置かれた古い和箪笥の上には写真立てが所狭しと置かれていた。
集合写真、ツーショット、金髪の赤ちゃんを抱えた写真(この赤ちゃんはミーチャだろう)など色々あった。
だが、それらの写真全てに共通していたのは「ある女性」が必ず写っていたことだ。
先端に癖っぽいウェーブを帯びた茶色がかった黒髪の、憂いを帯びたような美貌の外国人女性だった。
……そして、その雰囲気は、ダニールさん以上にミーチャにそっくりだった。
——おそらく、この女性がミーチャのお母さんなのだろうと、僕は察した。
居間の左奥には引き戸がある。その向こうは和室なのだろう。
ダニールさんがその引き戸の前で止まるのに合わせて僕も止まる。
数秒を置いてから、ダニールさんが引き戸の奥へ呼びかけた。
「——今日は、友達が来てくれたよ。お前がよく話してくれていた、秋津君だ」
ここがどうやらミーチャの部屋であるようだ。
僕も意を決して、引き戸の向こうにいるミーチャへ語りかけた。
「ミーチャ? いるの? 僕だよ、光一郎だよ。聞こえてる?」
「…………こう、いちろう?」
引き戸越しに聞こえてきたミーチャの声は、ひどく枯れていて、びっくりした。
「ねぇミーチャ、大丈夫? 頬っぺた、まだ痛かったりする?」
ミーチャと戦った時、僕が二回ぶん殴った部位だ。ダニールさんの手前、それをはっきりとは言えないが、ミーチャなら分かるはずである。
「……うん。平気。大したこと、ない」
「ご飯とか、ちゃんと食べてる? 声が元気無さそうだけど……」
「……だいじょうぶ。たべてる」
「それじゃあ——」
「————ごめん光一郎。帰ってくれないかな」
取り繕うように次の問いを持ち出そうとした僕の言葉を、ミーチャがそのように遮った。
掠れていて、しかし強めの語気で。
「……僕達はもう、友達じゃない?」
答えは返ってこない。
「僕が嫌いかい?」
「そんなこと、ない」
今度は返ってきた。少し慌てて否定するように。
「ただ…………怖いんだ」
「怖い?」
「うん……そう、怖い。今、光一郎と、お父さんと、顔を合わせるのが」
僕は鞄を持つ手をぎゅっと握りしめた。
「世界の全部が君の敵じゃない。確かに、この国での君に対する風当たりは強いかもしれない。だけど少なくとも、僕と、君のお父さんは君を無意味に傷つけたりなんかしない」
何も目立たず普通に生きようとしても、周囲に溶け込もうと頑張っても、周りは変わることなくお前は露助だ敵性外国人だ家族の仇だと指差してくる。
まるで、取り巻く世界の全てが、ミーチャを傷つけてくるように。
そんな状況に長年囲まれてきたミーチャのしんどさは、僕なんかでは察するに余り有る。
だからせめて、世界全てが敵ではないということを、僕は言いたかった。
僕という存在で、ダニールさんという存在で、それを証明したかった。
「——違うんだ」
だが、ミーチャはそう否定した。
そうじゃない、と。
泣きそうな声で。
「逆なんだ…………ボクが、またみんなを傷つけたりしないか、不安なんだ……!」
「……大丈夫だよ、ミーチャ。そう言える時点で、君はあの事件のことを反省できてると思う。だからもう、おんなじ事はしないはずだよ。それに、僕言ったろ? いじめられたら代わりに文句言ってやるって——」
「————そういう問題じゃないんだ!」
これまでにない必死な大きな声に、僕もダニールさんも息を呑んだ
それからまたトーンダウンした声量で、ミーチャは言った。
「……ボクの中の「黒いモノ」が…………また暴れ出すかもしれないんだ」
「黒いモノ?」
「そうだよ……誰かを目の前にすると、ささやいてくるんだ。こいつも日本人だ、ボクを蔑んでるんだ、良い顔したり助けたりするフリしてボクを騙そうとしてるんだ、だから罠にはめられる前に叩きのめせ、って…………ボクはそんな風に思ってないのに、その「黒いモノ」がささやいてきて……そのうちその「黒いモノ」のささやきが、ボクの本心みたいに思えてきて…………体が動いてしまうんだ。あの日みたいに」
——正直、言っている意味が分からなかった。
「黒いモノ」に動かされて、暴れてしまった?
抽象的過ぎて、ハッキリ言って反応に困ってしまう。
だけど……思い出してみるといい。
ミーチャと戦って、一発殴った後のことだ。
一時的にだが落ち着いたように見えたミーチャだが、すぐにまた激昂して暴れ出した。
その直前に、
『に、にげ、て……こう、いちろう…………!!』
確かに、そう言ったのだ。
逃げて光一郎、と。
まるで、自分の内なる「何か」と闘っているかのように。
それが演技か何かには見えなかった。
それを起こしていたモノが「黒いモノ」だということなのか?
けれど、やはりそこで考察が止まってしまう。
ミーチャが今なお、何かと闘っていることは確かなのだろう。
だがやはり「黒いモノ」と言われても、あまりに抽象的過ぎる。
悪霊か何かが憑いてる? 神社でお祓いをしてもらえば、消えるモノなのか? ……そんな風に、話が超自然的な方向へいってしまう。
「ボクは今でも……光一郎が大好きだよ。友達だと思ってる。だからこそ…………帰ってほしい。しばらく、会いたくない」
……この引き戸を開けて中に入れば、ミーチャに会える。触れ合える。
だけど、今の僕にはこの引き戸が、超質量と超硬度を持っている岩石のように感じた。
とても近い。しかしそれを阻む壁がものすごく硬くて重い。
まるで天岩戸だ。
そして、それを開けさせるための鏡も勾玉も、今の僕は持っていなかった。
その後、僕はダニールさんとともに家を出て、マンション近くの自販機まで来た。
ボトル茶を奢っていただいたので、それを飲みながら、近くのベンチでダニールさんと隣り合わせに座って話していた。……家で話すとミーチャに聞こえてしまうから、と。
「あの子が……ミーチャが同じ部の部員を竹刀で殴り倒したと聞いた時、私はあの子の頬を叩いてしまった」
そう言って自分の右手を見下ろすダニールさんの横顔は、ひどく複雑そうだった。
「私は、そのことを間違っているとは思っていない。自分の子が悪い事をしたら叱ったり折檻したりするのが親というもの。それに……あの子の犯した行為は、あの子自身にだけでなく、この国にいる他のロシア人にも影響を及ぼす。それを考えると、叱りつけるのは当然のことだ」
「どういう意味ですか……?」
「この帝国で、君達日本人は圧倒的多数派だ。だから日本人が罪を犯しても、ソレはその人個人の罪として見られる。……けれど、帝国において圧倒的少数派で、なおかつ印象が最悪なロシア人は違う。一人のロシア人が犯した罪は、その個人だけでなく、帝国に住まうその他のロシア人全体の罪ととられてしまう。真実がそうでなくても、そう見られてしまうんだよ。世の中はそういうものだ」
「そんな……」
悲しさを覚えた。
世の中の理不尽に。
そんな理不尽を「むべなるかな」と納得してしまえている僕自身に。
まるで僕も、その理不尽に加担しているような気分になる。
ミーチャやエカっぺの良い所を、僕はたくさん知っているはずなのに。
「……でも一方で、あの時の自分の選択を後悔している私もいる。叩くのではなく、抱きしめてあげたほうが良かったのではないか。親としての在り方や同胞への風評を気にするより、傷つけられながらも今まで頑張ってきたあの子のことを何より優先すべきだったのではないか。……そう、思ってしまうんだよ」
「ダニールさん……」
「だからこそ、今日……君がこうして、家を必死に探してまで来てくれたことに、とても救われた気分になれるんだ。光一郎君。君が、私の代わりに、あの子の気持ちに寄り添おうとしてくれているから」
その言葉に、僕はかぶりを振った。
「そんなことないです。僕だって同じですよ。……暴れるミーチャを、言葉だけで止められなかった。殴って止めることしかできなかった」
僕はミーチャに言った。
「片方が横道外れたら、もう片方がそれを殴ってでも止めるのが友達だ」と。
だけどそれは、ただ単にそれしかできなかっただけなんじゃないか。
自分の及ばなさを、もっともらしい理屈や感情論で誤魔化しただけなんじゃないか。
もっと他に方法があって、それをすればミーチャはもっといい感じになってたんじゃないか。
そんな風にも、思ってしまう。
ダニールさんは、そんな僕に何も言い返さず、続けた。
「……停学になって以降、ミーチャはあの部屋からほとんど外に出ていない。あの子の姿を見れるのは、部屋の前に置いた食事を取る時くらいだ。お風呂も私を避けるように夜中に入っているみたいだ」
「そう、なんですか……」
予想していたよりも随分酷い状態のようだ。
なんなら、このまま大人になるまで出てこない可能性まである。
「……父親失格だな、私は。仕事にかまけてばかりで、あの子の面倒をうまく見きれず、あんな風にしてしまった。もしもミローチカ……先立った妻なら、こうはならなかった。うまくやれたかもしれない」
消沈するダニールさん。
大人の、こういう姿を見るのは、心にくるものがある。
見ているのも、そうされているのも、辛い。
「ダニールさんって……確か、大学の先生をされているんですよね? ロシア語の」
なので、別方向に話を持っていった。
「……そうだよ。十一年前の戦争をきっかけに、大学でのロシア語の人気は落ちてしまったが、内務省と国防省でロシア語をよく教えている」
「へぇ、すごいですね。立派に国に貢献してるじゃないですか」
「ありがとう。……でもね、それでも時々、家に嫌がらせの貼り紙が貼られるんだよ。この乃木坂は、日露戦を戦った乃木希典大将を祀る神社がある場所だ。そこにロシア人が住むとは何事か、とね」
そういえばあの家のドアには、シールやテープの跡がたくさんあった。あれってやっぱり……
「……不思議な子だな。君は。こんなことまで話させてしまうなんて。いや、それとも私がそれくらい弱っているのかな…………情けないな、子供にこんな話を」
「そんなことないですよ。大人も子供も人間なんですから」
望月先生だって、十一年前の戦争の話になると、愚痴っぽくなったりするのだから。
英雄と呼ばれている人でさえ、苦悩する。
完全無欠な人間はいない。
不完全同士で手を取り合って生きていくのが、人の世なのだ。
「……光一郎君。君にお願いがある」
ダニールさんは僕をまっすぐ見て、何か大切なモノを託すような強い語気で言う。ミーチャと同じ、明るい青色の瞳。
「あのような事があったが——どうかこれからも、ミーチャと仲良くしてあげて欲しい。嫌わないであげてほしい」
告げられた願いの内容は、まさしく愚問であった。
ひどく簡単で、ありふれていて、言われるまでもないこと。
しかし、とても切実なこと。
「当たり前ですよ。僕たち、まだ子供ですよ? それも男子なんだから、ケンカの一つもします。ちょっとケンカになった程度で、絶交なんかしないです」
ミーチャと同じ明るい青色の瞳をまっすぐ見つめ返し、僕は笑った。
「——だから僕、待ってます。ミーチャがまた、あの部屋から出てきてくれるのを。出てきて……また『秋津書肆』に来てくれるのを」
今回の連投はこれにて終了。
また書き溜めます。
これからどんどん話がキナ臭い感じに進んでいきます。