黒と黒の喰い合い《上》
長いので分けてUPします
鴻翠剣の祖先は、近代中国の裏社会にて秘密結社として活動していた。
列強国によって領土や権益をクリスマスケーキのように切り分けられていた近代は、中国にとって「国恥」の時代であった。
危機的状況に陥った当時の中国では、列強の食指から祖国を護ろうと、多くの中国人が組織を結成していた。その中には武術家の割合が多かった。
翠剣の一族である『鴻氏』も、そんな地下組織を結成していた中国人達の一人であった。
そんな鴻氏の中で伝承されている武術『鴻家拳』は、暗殺や諜報といった、地下工作において役立つ技術が数多く盛り込まれた、剥き出しの戦闘術であった。
秘伝の気功にて肉体を強靭に鍛え上げ、それを基盤として数多くの技術を身につける。
一撃で人を殺せる強大な拳法、羽毛のごとく身軽に動ける軽身功、目立たず敵を暗殺できる暗器術……その他もろもろ。
『鴻氏』に名を連ねる者は、皆この秘伝の武術を幼少期から叩き込まれ、手足が伸びきる頃には優秀な武術家と化す。
その武をもって、当時の政府が秘密裏に依頼してきた様々な地下工作に従事してきた。
任務の過程で殺した人間の数も十や二十ではない。
時代が過ぎ、この二〇〇〇年代に入った今なお、鴻氏の伝承は一族にて生き続けている。
「国恥」の近代以降、中国は少しずつ状況の回復を積み重ねてきた。
荒れていた国内を平定し、悪しき外国勢力の暗躍にも対処し、富国強兵を地道に続けてきた。
ホワイトハウスの分析では、近い将来アメリカに並ぶ超大国の一つになるという計算だ。
祖国の安定に伴い、『鴻氏』も昔のような地下工作はしなくなり、今では表社会で普通に暮らしている。
その一方で、『鴻家拳』という伝統は、今なお一族にて墨守し続けている。
——そんな一族の系譜の果てに、翠剣は存在している。
飯店を営む一方で、翠剣は日本陸軍の研究所である『帝国陸軍特異科学技能研究所(通称「特研」)』に協力していた。……自ら引き受けたのではなく、軍からスカウトされて。
研究内容が「超能力」であるため、軍関連の研究施設の中では末端も末端。小遣い稼ぎ程度の報酬である。
とはいえ、たった数回気功をやってみせるだけで金が入ってくるため、楽な割に実入りの良い仕事といえた。
——この大日本帝国も、近代では列強の一国として、中国に関する利権を他の列強国と奪い合っていた。
そんな因縁ある国の軍隊に、対列強国の地下組織の末裔である翠剣がどうして協力するのか?
それは、中華の秘法である武術や気功に関する真奥に踏み込ませず、上澄みで満足させておくためである。
日本人は好戦的だが、海外文化に対する知的好奇心の強い民族だ。
その好奇心が戦国時代に銃火器保有数を世界一にしたり、横暴な西洋列強に対抗するべく富国強兵をいち早く成しとげさせたのだ。
技術の真奥や、そこへ続くモノを少しでも教えてしまえば、学び取ってしまいかねない。
ゆえに、その道の「浅い部分」を、さも真奥のごとく勿体ぶって見せて満足させる必要がある。
これは今まで誰にも見せていない、一族秘伝の技術です——
翠剣は毎度その決まり文句で、鴻家拳とは全く関係の無い、一般的な武術や気功法を見せて、研究材料として提供している。
それをさも「中華武術の真奥見たり!」という顔で研究に没頭している『特研』の室長——酒井篤彦の顔を見て心中でほくそ笑んでいた。
これは外国人を中華武術の真髄に踏み込ませない予防線であり、近代に祖国を食いちぎった因縁の相手の一人に対する意趣返しの意味もあった。さらにそれで金がもらえるのだから三重に得である。
研究に協力しているフリをしばらく続けていたある日、酒井は次のような依頼を自分と、その高弟達に依頼してきた。
——帝都で暗躍する『呪剣』を、観察してほしい。
この帝国にて最も隆盛を誇っている剣術、至剣流。
五十ある型を練り上げた果てに、己だけの奥義である『至剣』の体得を目指す剣術。
しかし『至剣』の境地に達する人間は、この国全体で見ても数えるくらいしかいない。
その数少ない者が、最近になって現れたという。
鴨井村正という名の。
しかし村正の開眼させた『至剣』は、少しでも斬りつけた人間の心を狂わせ、凶行に走らせるという邪悪極まる力を持っていた。悪用すれば、一国すらも揺るがす力。
至剣流の伝承と免状授与を一手に司っている宗家の嘉戸一族は、これを『呪剣』と呼称し、村正がそれを用いて悪事を働く前に破門を言い渡した。
しかし嘉戸宗家では、流派から破門にするまでしかできない。
司法のもとに村正の身柄とその人生を裁くことはできない。
その司法ですら、科学的根拠が証明不可な『呪剣』という不能犯を裁くことはできない。
だからこそ嘉戸宗家の次期家元は、学生時代の友人であった内務省官僚の樺山歩に『呪剣』の監視を頼んだ。
さらにその内務官僚が『特研』へ、「超能力の研究」という名目での監視を依頼してきた。
さらに『特研』の室長である酒井篤彦が、自分達『鴻氏』へ監視を依頼した。いつもより高い報酬を正式に約束した上で。
そうして村正の捜索兼監視を開始した翠剣とその一門であった。
樺山とかいう内務官僚が、ギリギリ情報漏洩にならない程度の情報量と速さで「『呪剣』が関与したと思わしき事件現場」を『特研』へ伝達。……その事件現場における加害者ないし自殺未遂者の証言はいずれも「「黒いモノ」に突き動かされた」という意味不明なモノ。しかし嘉戸宗家の者が言うには、それこそが『呪剣』を受けた者の症状なのだという。
その事件現場の位置と、渡された顔写真を手掛かりとして(提供元は嘉戸宗家であるという)、翠剣らが村正の潜伏先を探る。
だが、村正も馬鹿ではないらしい。
毎度起こる事件が、その前の事件現場からかなり遠い場所で起こっている。
これは、点同士を線で繋ぐようにして居場所を特定されるのをなるべく防ぐための手口だろう。
それでも色々と手を尽くしたが、村正の足跡が掴めず、捜索は暗礁に乗り上げていた。
もう諦めて、適当にお茶を濁して金だけ頂こうかと考えていた——その頃だった。村正の『呪剣』が引き起こしたと思わしき暴力事件に遭遇したのは。
翠剣には娘がいた。
身贔屓を差し引いても見目麗しいが、変わった娘だった。今時の少女のような可愛げのある趣味には見向きもせず、ただひたすら武術を好む娘だった。
中華武術だけでなく、日本刀術にも興味を抱いていた。
そんな娘が、帝都武道館へ天覧比剣都予選の観戦に行くと言い出したので、翠剣もついていった。
正直、天覧比剣になど興味は皆無で、ただ可愛い娘の目付役のようなつもりでついて行ったつもりだったが、眼下で行われていた剣戟は子供ながらにレベルが高く、思わず一瞬見入った場面もいくつかあり、そのたびに自分を恨めしく思った。
娘にいたってはかなり楽しんでいて、「お気に入り」まで見つけるくらいだった。名前は忘れたが、三回戦第二試合の大将戦で勝利した小柄な少年だった。
その試合が終わってすぐ、その暴力事件で武道館がざわついた。
事件の内容を聞いて『呪剣』の関与を疑った翠剣は、すぐさま武道館の外へ飛び出し、入口に監視の目を光らせた。
武人を見る目には肥えていた。優れた武人は一挙手一投足ですぐに判る。剣術の皆伝者ならなおのこと。
そして——見つけた。
ボロボロの稽古着に身を包んだ、枯れ枝のように痩せこけた男だった。
しかしそれは栄養不足ではなく、無駄な筋肉や贅肉を極限まで削ぎ落とした末の、鬼気迫る鍛錬による痩せ方だった。
いや、痩せているというより「研ぎ澄まされている」が適当かもしれない。
——酒井のもたらした写真通りの特徴だった。年齢は三十代前半だそうだが、五十代の老人のようにも見える。
翠剣はその男を鴨井村正と断定。見つからぬように追いかけた。
——酒井からの命令は、あくまで「監視」だ。鴨井村正が何かしらの罪を犯すところを目にしたら、その証拠を掴み、正式に法の下で村正を裁くための材料とすること。
その命令とともに、酒井は口酸っぱく、次のように言ってきた。
「遭遇しても決して闘おうなどと思うな」と。
それを聞いた時、翠剣の心中には——怒りが生じた。
日本刀術を前に、背中を見せろと?
悠久の歴史を誇る中華民族の秘法たる中華武術が、辺境の刀術ごときに後れを取ると?
——ふざけるな。
貴様らが「中華武術の真髄」だと思って研究していたものは、上澄みも上澄み。健康法や護身術程度のモノだ。
本物の中華武術は、そんなものではない。
軽んじるな。見くびるな。侮るな。
そんなことは、列強の魔の手を阻止すべく裏社会で戦ってきた祖先を持つ自分が、絶対に許さない。
そうだ。そんなに『呪剣』が目障りだというのなら、いっそ自分が殺してやる。
そうすれば全て丸くおさまる。死体は剣を振るえない。
中華武術の秘技を用いれば、殺人の証拠も残らない。
そもそも『鴻家拳』はそのために作られた武術なのだから。
ゆえに、翠剣は村正の前に現れ、勝負を挑んだ。命懸けの戦いを。
——そうして、現在に至るというわけだ。
今作世界線では満州事変と日中戦争は経ていませんが、日清戦争とかは普通にやっちゃってます。