友達は味方じゃない
「いやー、なかなかきつかったぁ……」
どうにかこうにか、北千駄ヶ谷中学校に勝利した僕ら富武中学レギュラー三人は、防具袋と竹刀袋を持ちながら武道館内の廊下を歩いていた。
疲れを吐露した僕に、峰子が言った。
「そうなの? 随分と楽勝そうに見えたけれど」
「楽勝なんかじゃないよぉ……相手が二刀流ってだけでかなり神経使うんだから」
北千駄ヶ谷の大将の彼——叶大樹氏の二刀流は、なかなかに良い腕だった。少しでも油断すると負けていたくらいに。
もしも香坂さんみたいな「気攻め」まで習得していたとしたら、さらに危なかった。
氷山部長が、気遣わしそうに峰子へ問うた。
「ところで峰子、君は大丈夫なのか?」
「何がでしょうか?」
「先鋒戦の相手の初太刀を受けて、派手にぶっ倒れたじゃないか。頭とか痛くはないか?」
「ええ。平気です。あの初太刀が当たったのは面金で、頭に大した衝撃はありませんでした。むしろ、相手も威力の高さを配慮して、頭ではなく面金を打ったのだと思います。……それくらいの余裕と技量が、あの水嶋という選手にはあったのでしょう」
最後の方を、やや悔しげに言う峰子。
負けず嫌いな峰子だ。団体単位で勝ちはしたものの、初戦で負けて僕ら二人に苦労をかけたことを悔しく思っているのだろう。
うつむいて、黙ってしまう峰子。
……僕はそんな峰子の後頭部のポニーテールを留めている、大きなラメ入りビーズの髪留めを指でピンッと弾いた。
「ひゃんっ!? ……ちょっと何するのよ光一郎!?」
「あ、元気になった」
「何を言っているのよこの変態! 女の髪に断り無く触るなんて!」
「触ったのは髪じゃなくて髪留めだよ。それにコレ、僕が買ってあげたやつじゃん」
「そ、それはそうだけど……でもっ、今の所有者は私だからっ。今のは断じてセクハラよ、セクハラ」
「ごめんごめん」
峰子はつーんと済ました顔になった。
うんうん。峰子は変に落ち込むより、こうしてる方がいい。
そんなふうにして、控え室を目指して廊下を歩き続けていると、
「……ん? なんか騒がしいな?」
氷山部長がそう呟く。
同感だった。
僕らの行く先から、何か聞こえてくる。
大声。叫び声。そして破裂音みたいな音……これは、竹刀の音だ。
(練習してるのか? こんなところで?)
そんなわけはない。
それに、聞こえてくる声は、近づくにつれて、その性質が分かってくる。
強い敵意と憎悪を帯びた、聞いていて耳を塞ぎたくなる声。
さらに近づくと、言葉の内容も分かってくる。
「ぶちのめす」「露助」「クソ野郎」「ボルショフ、てめぇ」——
僕は勢いよく走り出した。
「うおっ?」「あ、ちょっと!?」という二人の声を置き去りにして、僕は音源へ向けて突き進む。
いくつかある控え室の扉。
その中に、開け放たれた扉が一つ。
僕が目の当たりにしたものは——酷い有り様だった。
ロシア人に対する罵詈雑言が油性ペンで書き殴られ(考えるまでもなくミーチャに対するものだ)、無理やりこじ開けられた形跡が見られるロッカーの数々。
ロッカーの根本や、そこらへんの床にて苦悶の表情で雑魚寝している赤坂東中学の生徒の数々。
そして——その雑魚寝の中に立つ、有本とかいう部長と、ミーチャの姿。
ミーチャの手には、所々に血痕の付いた竹刀が握られていた。
——あっけない。
あまりのあっけなさに、ミーチャは拍子抜けすらしていた。
控え室に戻り、自分の竹刀を取り出した瞬間に、ミーチャの「清算」は始まった。
手近な部員に『径剣流』の神速の一撃を叩き込み、派手に吹っ飛ばした。
続いて、二人目、三人目、四人目、五人目、六人目と、一回閃くように動くたびに叩き伏せた。
七人目になってようやく敵意と戦意を生じさせ、各々の竹刀を慌てて取り出しそうとする。その間に八人目、九人目、十人目、十一人目。
ようやく竹刀を取り出してかかってこれた相手も即座に沈めて、十二人目。
そして最後の一人である十三人目——有本だけが残った。
己の竹刀にこびり付いた汚い血痕を見て、ミーチャは鼻白んだ。
あまりにも骨が無さすぎる。
こんな脆弱で心構えのできていない連中に、今まで偉そうにされていたのか。
なら、もっと早くにこうしてやればよかった。
今まで遠慮していた時間を返して欲しい。
——その分は、目の前の男から取り立てよう。
「て、めぇ…………何の真似だ、こりゃぁ!?」
有本が胴間声で怒鳴ってくる。しかしその声にはいつもの強さが無い。狼狽えと、ミーチャに対する恐れが明らかに含まれていた。
この男が、自分を恐れている。
それだけでたまらなく快感だった。
しかしそれだけでは足りない。
もっともっと、この男からは取り立てなければ、ミーチャの気が済まない。
「何の真似だ、だって? むしろどうして今までこうなる事を想定していなかったのか、ボクは不思議で仕方ないよ。有本」
震えた手で竹刀を構える有本に、ミーチャは虫を見るような目を向けて冷笑する。
「自分のやってきた事を考えてみろよ。……よくもボクの立場の弱さにつけこんで、色々いびってくれたな。今から、その分を清算してもらうよ」
「……この、ボルシチ野郎がぁっ……!!」
有本が震えた怒号を発する。
「……くくくくっ…………は————はははははははは」
それを聞いて、ミーチャは哄笑した。
ボルシチ野郎。
なんと、考えた者の無知さ無学さがにじみ出た蔑称なのだろう。
この程度の知識しか無い奴に、露助だなんだと馬鹿にされてきただと思うと、笑わずにはいられない。
ミーチャは、まるで敵などこの場に存在していないかのような悠々さで「裏剣の構え」を取った。
「来なよ、有本。部長でレギュラーなんだろ? 他の奴らよりは根性見せてくれるよね?」
「っ…………ああああああっ!!」
捨て鉢になったような雄叫びを上げて、有本が斬りかかってきた。全身に渦を纏うように剣を振る攻防一体の型『旋風』。
——遅い。遅すぎる。
「がっっ!?」
ミーチャの「裏剣の構え」より放たれた神速の薙ぎ払いが、瞬きよりも疾く虚空へ太刀筋を刻み、有本の左腕をしたたかに打った。——『土雷』。
痛みと衝撃で後方へよろけた有本へ、今度は左から稲妻の剣速で薙ぎ払う『若雷』を頬骨に叩き込む。
『若雷』の薙ぎ払いの過程で、半ば自動的に「裏剣の構え」になる。そこから今度は右下から斬り上げる『伏雷』。有本の顎を打ち上げる。
最後に「正眼の構え」となり、その剣尖を先んじてミーチャは雷閃と化した。
『火雷』。
「ご——」
神速の刺突を胸に打ち込まれた有本は、その大柄な五体を軽々と吹っ飛ばされ、勢い余ってロッカーに磔となった。
ロッカーの磔状態から崩れ落ち、うつ伏せに倒れる有本。
そこから立ちあがろうと体を震わせながら、四つん這いの状態まで持ち直す。……鼻腔から流れる血が床にぼたぼたと落ちる。
そんな有本の顔面を、ミーチャは蹴っ飛ばす。
ゴロゴロと無様に転がるでかい図体。
仰向けになった有本に、ミーチャは竹刀を突きつける。
残心であり、敗北の宣告。
「どうだい? 黄色猿。お前らが誇りと帰属意識の対象として寄りすがってる日本剣術で、お前らが害虫のように蔑む「露助」に負ける気分は? 黄色猿の代表として感想を聞かせてよ。ねぇ?」
竹刀で顔を殴る。
「あとさ、さっきの「ボルシチ野郎」って何? ひょっとしてボルシチをロシア料理だと思ってる? 馬鹿じゃないの。あれはウクライナ料理なんだよ。ボクはユダヤ系のロシア人だ。お前のさっきの蔑称は掠りもしてないんだよ。猿」
竹刀で顔を殴る。
「いいか猿。お前にはこれから部長として、部員を代表して今までの清算をしてもらうよ。ボクを散々扱き使って、冷遇して、スケープゴートのように扱ってきた事に対する清算を。死んじゃったり、不具者になっちゃったりしても、ボクは悪くない。悪いのはお前らだ。お前らを代表する有本だ」
竹刀で顔を殴る。血痕が舞う。
竹刀で顔を殴る。血痕が舞う。
竹刀で顔を殴る。血痕が舞う。
「死ね————死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね————————!!」
心中を支配する「黒いモノ」に突き動かされるまま、狂ったように有本を打ちまくるミーチャ。
意識の薄らいだ目でそんなミーチャの破顔を見た有本は、かつてないほどの恐怖を覚えた。
やる。
今のこいつは、本当に自分を殺しかねない——
「——やめてぇ」
静止を訴えてきた弱々しい女子の声に、ミーチャは思わず手を止める。
知っている声。憎い声の一つ。
富井。
レギュラーの一人にして、有本の恋人だ。
長い黒髪に、高身長で、シャープな顔立ちの美人。
キツそうな第一印象通りのキツい威丈高な性格で、ミーチャにもよく重箱の隅をほじくるようにネチネチと毒付いていた。
「もうやめてよぉ……これ以上やったら、ほんとに死んじゃうよぉっ…………!!」
そんな女が、こんなふうに弱々しく哀願してくる様は、そそるものがある。
有本よりも先に、まずはこの女で楽しむのも、悪くない。
ミーチャの興味が、富井に移った。
「じゃあ先にお前が死ねよ。雌猿」
もはやズタボロな有本から離れ、ゆっくりと富井へ近づいていく。
後退し、途中で足がもたついて尻餅を付き、後ずさり、ロッカーの背中を打つ富井。
「嫌ぁっ……!」
恐怖で潤むその眼には、ミーチャの歪な笑みがはっきり映っていた。
まずはその自慢の美貌を、見るに堪えないくらいグチャグチャにしてやる——ミーチャは竹刀を振り上げ、力を込めて袈裟懸けに振り下ろし、
光一郎の竹刀が、それを防いだ。
「————何をやっているんだ!! ミーチャぁっ!!」
突然割り込んで早々の叱責に、ミーチャも流石に面食らう。
その心理的な隙を突く形で、光一郎は切り結んだミーチャの竹刀を払いのけた。
剣士としての癖で、数歩後退して遠間を取るミーチャ。
「……こう、いちろう」
呆然とした声で、友達の名前を呟く。
自分のたった一人の友達は、今、自分に剣を向けて立っている。
後ろにいる富井を庇う形で。
その図式を認識したミーチャは、キッと光一郎を睨む。
「邪魔だよ光一郎。どいて」
「嫌だ。絶対にどかない」
頑なに剣を納めない光一郎に、ミーチャはますます苛立ちを募らせ、火を吹くように言った。
「君はボクの味方じゃないのかよっ!? ボクをいじめたこいつらに、あんなに怒ってくれてたじゃないか! あれは嘘だったのかよっ!?」
「嘘じゃない。だけど……コレは駄目だ」
光一郎は痛ましそうに周囲の惨状を視線でたどり、そう厳しく告げた。
ミーチャは、歪んだ、諦めたような笑みを浮かべた。
「——ああ、やっぱりそうなのか。所詮、光一郎も日本人なんだ。黄色い猿は黄色い猿の味方をするんだ。結局、お前も「そっち側」なんだろ? 秋津光一郎」
「……本気で言ってるの?」
「当たり前だろ」
光一郎はしばらく瞑目してから、やがて決意したように目を開き、宣言した。
「ミーチャ。僕はどっちの味方でもない。——君の友達だ」
「友達ならボクの味方だろっ!!」
「違うよ。友達は味方じゃない。片方が間違ったら、もう片方がそれをぶん殴ってでも止める。横道逸れないように互いを支え合う……それが友達だと、僕は思う」
光一郎の「正眼の構え」が、はっきりと引き締まり、重みを帯びた。
「これから、僕は君をぶん殴る。たとえこれから先、友達でいられなくなるのだとしても。……だって、僕達は友達だから」
ミーチャはショックを受けて、息を呑む。
——なら、こいつも敵だ。
心中を支配する「黒いモノ」が、光一郎を明確な「敵」と認定する。
「じゃあ、まずはお前からだ。秋津光一郎」