「露助」
差別表現と、ややショッキングな描写があります。
ご注意ください。
また、差別表現は、筆者の考えを表したものではございません。
——それは、富武中学校撃剣部が三回戦第二試合を戦っている最中に起こった。
(なんとか、三回戦も勝ち抜けたな……)
ミーチャは、勝利の余韻と安堵感に浸りながら、帝都武道館一階の廊下を歩いていた。
三回戦第一試合を、赤坂東中学校撃剣部はどうにか勝ち抜くことができた。
勝ち方はいつもの通り。
ミーチャが『径剣流』の神速の剣によって確実に一勝をもぎ取った上で、残りの次鋒大将のどちらかが勝つ。
とはいえ、対戦相手もどんどん強くなっているようで、次鋒の富井が負けてしまった。
でも大将である有本が勝ってくれたおかげで、午後から始まるという準決勝へと進むことができた。
防具一式を外し、それを入れた防具袋と竹刀袋を持って廊下を一人歩くミーチャ。ついさっき試合をしたばかりだというのに、着ている稽古着の下には汗ひとつかいていなかった。ミーチャの試合はいつも一瞬で終わってしまうため、大して動かないからだ。
いつもなら有本と富井に付き従う形で控え室へ向かうところだが、今はトイレに行きたかったので先に行ってもらった。
そうして赤坂東中学の控え室を見つけて——
「……ん?」
その控え室の扉の前に、人だかりが出来ていた。
赤坂東中学校の制服を着た男女と、稽古着姿の二人の男女。有本と富井だった。
開け放たれた扉の中に釘付けとなって、呆然と立ち尽くしていた。
只事ではない気配を感じ、ミーチャは駆け寄る。
「……っ!?」
控え室の中を見たミーチャは、凍りついた。
——ひどく荒らされていた。
「露助のバイ菌に汚染された部屋」「帝の御目を汚すな」「鬼畜露寇に天誅を」「露助に剣を握る資格無し」「夷狄は出ていけ」「ボルシチ野郎」……油性マジックペンで書かれた悪罵誹謗と、乱暴にこじ開けられたロッカー。
そのロッカーの中からまろび出た鞄などの荷物は、中をぶちまけられてぐちゃぐちゃにされていた。
「ひどい……!」
目を覆いたくなるような惨状だった。
ミーチャはよろよろと控え室へ入り、床にぶちまけられた自分の荷物を確認した。
踏みつけられたであろう痕跡がそこかしこに見られる。その中に自分の財布を発見。開いて確かめてみると、中からは何も盗られていなかった。
物取り目的ではない。
ロッカーにされた落書きからも察するに、単なる嫌がらせのためであるということの雄弁な現れといえた。
そう——ロシア人をメンバーに持つ、不届きな学校への。
「有本部長、これは一体……!?」
いったい誰がこんな事をしたのか。
そういう意図を持って、ミーチャは有本に尋ねた。
だが、有本は全く別の捉え方をしたようだった。
「…………これは一体、だぁ?」
有本はいつもより低まった声で言うと、控え室の中までおもむろに入ってくる。
次の瞬間——ミーチャの長身が派手にぶっ飛んだ。
有本に左頬を殴られたのだ。
防具袋と竹刀袋を落とし、床に仰向けに倒された。
「——テメェには目ん玉が付いてねぇのか!! それとも読み書きが出来ねぇのか!! コレだよコレ!! 読めねぇの!? コレが原因に決まってんだろうがよぉ!!」
有本ががなり立てて、「鬼畜露寇」という落書きを思い切り殴った。
「テメェのせいなんだよ!! こうなったのは全部!! テメェの存在が原因なんだよ!! そんなことも分からねえのか、このドカスが!!」
鬼のように真っ赤な憤怒の形相と化し、重厚な怒号と罵声を吐き出してくる。
……いくらなんでも、その言いぐさは理不尽だと思った。
確かに自分は、この惨状のキッカケにはなっただろう。
だけど、この手で直接控え室を荒らしたわけじゃない。邪な心を持った別の人間の犯行だ。
それなのに、さも自分が実行犯のように言われ、あまつさえ殴り倒されるのは、納得がいかなかった。
——なんか酷い事言われたら言い返してよし。相手が部長で、自分がロシア人だからって、小さくなる必要な無い。そもそも本音で言い合えないようじゃ仲良くなんて出来ないよ。
光一郎の言葉が、脳裏で蘇る。
そのおかげだろうか。
萎縮していた全身に、わずかに力が宿った。
硬直していた口元と喉が、動いた。
「……ちがい、ます」
「あぁ!?」
「それをやったのは……ボクじゃありません」
赤く怒気を表している有本の顔を真っ直ぐ見つめながら、ミーチャは言った。
「悪いのは、この部屋を荒らした人です。ボクは悪くない」
「んだと……?」
「ボクはやってない。だから、ボクがやった風に言われるのは心外で————がっ!?」
踏みつけられた。
何度も、何度も。
「————っざけんなぁぁっ!! テメェ何人だ、あぁ!? 露助だろぉが!! だからこうなった!! テメェがこの有り様を作り出したんだよ!! 直接手ぇ出してなくても、テメェがやったんだよ!! この疫病神がぁっ!!」
執拗に。
「舐めてんじゃねぇぞ夷狄野郎が!! 天覧比剣を勝ち抜けるっつぅスゲェ剣術持ってるでもなきゃ、誰がテメェなんか入部させるか!! 部に置いてもらってるだけでもありがたいと思いやがれやぁぁっ!!」
ひとしきり踏んづけられると、気が済んだのか、蹴り転がした。
転がって、ロッカーに当たるミーチャ。そこには「露寇は出ていけ」という落書き。
そして、ミーチャは目の当たりにする。
「——っ」
自分を見つめる、部員達の目。
全員同じ目。
軽蔑と、嫌悪と、辟易の目。
おまえのせいだと訴える目。
それ以外の異論を許さない目。
「……………………あ」
ミーチャの反駁の意思は、それらの眼差しによって簡単に押しつぶされてしまった。
「…………失せろ」
「え……」
「失せろって言ってんだよ!! 次の試合まで、その銀蝿みてぇな汚ねぇツラ見せるんじゃねぇ!! それができねぇならとっとと死んで生まれ直せ!! ボケが!!」
有本の罵声を浴びたミーチャは、幽霊のように控え室から去ったのだった。
どこにも根を張れない浮き草になった気分だった。
この身に流れる血に由来するこの金髪碧眼と白皙は、日本人の群れの中では嫌でも目を引く。
まして自分は参加選手だ。なおのこと注目を浴びるだろう。悪い意味で。
なので、どこへ行っても、落ち着ける場所が無かった。
目的地も定まらぬまま、ミーチャは帝都武道館をさまよい続ける。
その末に現在、武道館の外を歩いているところだ。
曇り一つ無い晴天で、太陽が今までよりいっそう強く光り、大地を熱している。
これほど強い日光の下では、ミーチャの肌と瞳と髪は否が応でも目立つ。
武道館内部と違って、人が三々五々に立つ敷地内を、浮き草のように徘徊ミーチャ。
ちょうどその時だった。
目の前を歩いていた小学校低学年くらいの女の子が、石敷きの出っ張りにつまづいて転んでしまった。
ミーチャは助け起こそうと思わず駆け寄るが、それよりも早く若い女性が飛び出してきて、女の子を助け起こした。二人の顔はどことなく似ていた。きっと親子だろう。
その母親は、女の子の姿をミーチャから隠すように抱きしめ、何も言わずに視線のみを向けてきた。——手元に刀があれば今にも刺してきそうな、鋭利な敵意と憎悪を孕んだ眼差し。
「……っ」
ミーチャはその視線に戦慄し、思わず一歩後ずさる。
娘の手を引いてさっさと歩み去っていく母親を、呆然と見送った。
多くの日本人に忌み嫌われてきたミーチャだから判る。
さっきの母親のあの目は、ロシア人だからと訳もなく後ろ指をさしてくる連中に出来るソレではない。
……「実害」を受けた者の目だ。
日本において最大人口を誇る帝都東京では、従軍していた家族をソ連軍に殺された者を見つける事はそう難しくない。
戦火を実際に肌で経験した北海道に至ってはもっと悲惨と聞く。
ロシア人であるとバレると地元住民に袋叩きにされる危険もあるというし、今なお戦時中に受けた心の傷が原因でカウンセリングや精神安定剤の処方を受け続けている者も多い。
旅行者のイギリス人をロシア人だと勘違いして射殺したマタギの話や、白人男性を見ただけでトラウマに起因する重篤なショック症状を引き起こした女性の話は有名だ。
——本当に、なんということを、自分の同胞はしたのだろう。
光一郎は「嫌なことを言われたら、言い返してもいい」と言ってくれた。
先ほど、その通りに言い返した。
しかし駄目だった。
問答無用の「お前が悪い」で押し切られてしまった。
さすがのミーチャも、今回ばかりは諦念を禁じ得なかった。
どんなに古い日本語の勉強を頑張っても、
どんなに古文書を解読できても、
どんなに日本剣術で強くなっても、
自分は、どこまでいっても「露助」なのだ。
侵略を受けたことが記憶に新しい今の日本において、敵国人であるロシア人は忌み嫌われても仕方がない存在だ。
大学のロシア語の授業は、どこも一般学生には人気が無い。逆に官僚や軍人には人気が高い。しかし彼らは学術的興味があるわけではなく、隣国ロシアへの警戒心ゆえに学びに来ている。
BGMとしてチャイコフスキーを流しただけで、その喫茶店に石が飛んでくる。
さらには、子供達の間で人気の「ヴォロト討ち」——露寇討滅、朝敵退散、尽忠報国などと叫びながら、ソ連最後の指導者であるヴォロトニコフの写真を木刀で打ちまくるという、この見るからに教育に悪い遊びを大人達が黙認しているのも「そういうこと」である。
自分達を優しく迎え入れてくれた、かつての日本はもういないのだ。
——これが、今の大日本帝国なのだ。
おそらく、自分が生きてこの国にい続けている間は、この光景がずっとついて回ることになるだろう。
(…………でも)
それでも、ミーチャは諦めたくなかった。
確かに自分は、周りの日本人に忌まれ嫌われ、爪弾きにされている。
だけど、両親がこの異国の地で自分という子をもうけられ、育てられたのも、この国に住む人たちが助けてくれたおかげなのだ。
自分が今生きているということが、日本人の「光の面」の存在の裏付けなのだと、亡くなった母は確かに言ったのだ。
それに——誰とも仲良くなれなかったわけじゃない。
秋津光一郎。
初めて彼に会ったのは、去年の十二月。
『径剣流』の伝書を解読するための資料を探すべく、初めて『秋津書肆』に来店した自分を、その時店番をしていた彼は笑顔で迎え入れてくれた。
——いらっしゃいませ! あら、外国人のお客さんなんて珍しいですね。どこの人なんですか?
——ロシア人? そうなんだ! 僕の学校にもロシア人の友達がいるんですよ。めっちゃ可愛い女の子でして。たまにおっかないけど……
——僕と同い年なんだ。あ、僕は秋津光一郎っていうんだ。良かったら、友達にならない?
——え? ナニ人かなんて別にどうでもいいよ。僕は懐が広いのさ。侍の子孫だからね。
彼の存在こそが、自分に暗い面を向け続けてくる人々の中に輝く、たった一つの光だったのだ。
光一郎がいるから、この国でうまくやっていこうという難題を今なお諦めずに済んでいるのかもしれない。
(そうだよ、捨て鉢になっちゃ駄目だ。難しいなんて最初から分かりきってることじゃないか。これからも頑張ろう。頑張って、光一郎みたいな友達をたくさん作————)
————————ちくっ。
「痛っ……!?」
突然右腕をかすめた鋭く冷たい感触に、ミーチャは思わず目をすがめる。
見ると、稽古着の右上腕部に、ぱっくりと綺麗な切れ目が開いていた。
そこから覗く上腕の素肌には、定規で線を引いたような細く浅い傷ができていて、小さな血の粒を浮かべていた。
そういえば、さっき誰かがすれ違ったような……ミーチャは振り返るが、もう背後には誰もいなかった。
(——痛い)
右腕の傷跡が疼く。
ちょっと何かに引っかけた程度の本当に浅い傷のはずなのに、まるで蜂に刺されて腫れているように妙に痛む。
痛い。
腕が。
——腕だけか?
違う。
心も痛い。
痛くてたまらない。
どうして?
いじめられたから。
悪くないのに、悪いって言われたから。
ボクだって被害者のはずなのに、お前がいるからこうなったんだからお前が悪いと、まるで犯人のように言われたから。
あの、図体も声も態度も無駄にでかい、あの部長に。
——ひどいやつだよなぁ。
そうだ。ひどいやつだ。有本は。
ボクが一生懸命撃剣部を勝たせようと、天覧比剣という剣士の誉れといえる舞台へ上がらせようと努力しているのに、褒めるどころか粗末に扱う。さっきだって殴られて蹴られた。
まさしく、自分をいじめてくる日本人の子供の典型だ。
あんなやつ、上階の窓から落っこちて死ねばいいんだ。
——富井のやつも、ひどいよなぁ。
そうだ。富井だって最悪だ。
有本の彼女だかなんだか知らないけど、その立場を利用して、ボクをいびってくるんだ。
部活の稽古を終えた後、稽古場の掃除をボク一人にやらせて、埃一つでも取りそこねてたらネチネチと文句を言ってくる。まるで姑のように。
ああいう女は、男に媚びることしか取り柄の無いクズだ。
猟銃に撃たれて死んじまえ。
(もうやめろ。いったい何を考えてるんだ)
いつになく過激化していく自分の考えに、ミーチャはそら恐ろしいものを感じる。
しかし、毒々しい心の独白は止まらない。
いつのまにか心に根付いた「黒いモノ」は、さらに思考を過激に、邪悪にさせる。
——有本と富井だけじゃないだろ? もっとたくさんいるだろう?
いる。いっぱいいる。
撃剣部の奴ら全員だ。
みんな、ボクを嫌う。ボクを憎む。ボクを蔑む。ボクを扱き使う。
全員まとめてボクの敵だ。
学校の連中も、同じような感じだ。
周りの大人も、助けてくれない。
あんな連中と仲良くなるなんて、地球が逆回転するくらいあり得ない話だ。
群れて露助露助と貧相な語彙で悪口を言いながら後ろ指をさすことしか取り柄の無い、黄色い猿ども。
全員死んじゃえばいい。
いっそ十一年前の日ソ戦で大負けして、まるごと植民地にされて、奴隷にでもなればよかったんだ。
「違う! 違う! ちがう! そんなことかんがえてない!!」
ミーチャは頭を抱えて、とうとう我慢できずに口に出してしまう。
そんな己自身の言葉を、己自身の心に宿った「黒いモノ」が否定する。
——違わない。
——本当は、ボクは日本人なんか大嫌いなんだ。
「ちがう!!」
——それこそ違う。
——ボクは、ただ、我慢してただけだ。
——死んだお母さんが「日本人と仲良くして」と言ったから、その遺言に従ってただけだ。
——だから、気持ちを押し殺して頑張った。日本人と同化しようとした。
——剣術も頑張った。語学も頑張った。古文書の解読も頑張った。
——でもさぁ、もうそろそろ「無駄な努力」だって気づいてもいい頃なんじゃないの?
「うるさい!! うるさいっ!!」
——どんなに頑張ったって、あの猿どもはボクの頑張りを認めやしないんだ。
——むしろ、下手に出ればつけあがるだけだ。
——ボクの今までやってきたことは、何の意味も無かったんだよ。
——だから、もう、猿を調子づかせるようなことはやめてもいいと思うよ。
——天国のお母さんだって、きっとボクが無理することなんか、望まないと思うよ?
——日本人と仲良くするなんて、無理なんだよ。
「そんなことない!! ボクには光一郎がいるんだ!! たった一人の友達が!!」
——友達っていったって、どれくらい大切な友達なの?
——きっと光一郎には、他にもたくさん友達がいるよ。あんな性格だもん。
——その中で、ボクはいったいどれくらいのランクなんだろうね?
——ボク一人のために、他の友達全員を切り捨ててくれるくらい?
——そんなわけないよねぇ。
——ボクなんか、その他大勢の一人でしかないんだよ。
——他の友達全員を切り捨てるくらいなら、きっとボク一人を切るだけだよ。
——多くの日本人の友達のために、ロシア人のボクを切り捨てるよ。
——光一郎だって、所詮は日本人なんだから。
「……ボク、は」
——ほらみろ。
——ボクはひとりぼっちなんだよ。
——誰ともなかよくできないんだよ。
——ボクが今までやってきた努力は、全部無駄だった。
——日本人なんかと、仲良くできない。
——あんな低脳な猿どもは、ただ蔑めばいい。
——だけど、そのまえに。
もうやめろ。
これ以上考えるな。
誰か、だれかたすけて。
光一郎。
ミーチャに宿った「黒いモノ」は、まるでティッシュに落ちたインクのように急速に心を侵食していき、
————今までつらく当たられた恨みを、奴らの身で清算させてやろうよ。
やがて、黒く染め上げた。