鴨井村正の「実験」
今回は幕間的な話なので、単話投稿です。
ずっと触れてこなかった、鴨井村正視点の話となります。
鴨井村正は、己の手にした『至剣』を磨き続けていた。
二〇〇二年四月十日、嘉戸宗家からの一方的かつ理不尽な破門宣告によって、村正は至剣流剣術という流派から永久にその名を消されることとなった。
それは村正にとって、まさしく己の一部を削ぎ落とされたような、それほどのショックだった。
——九歳から三十三歳に至るまで、至剣流は村正にとって「全て」だった。
『至剣』……そんな幻の奥義を己の手で振るうという心踊る未来を目指して、村正は何もかもを捨てて至剣流の修行に打ち込んだ。
家族、友人、自分を懸想してくる女も、何もかも捨てて。
全ては『至剣』という立派な華を咲かせるために。
それだけが、村正にとっての最大のプライオリティであり、生きる理由であり、願いだった。
そして——その願いは叶った。
が、それと同時に、嘉戸宗家から一方的に切り捨てられた。
それは、前述した通り、身を削がれるほどの悲しみだった。
その悲しみは……すぐに嘉戸宗家への憎悪へと転じた。
奴らは、あのお偉い嘉戸宗家は、剣の世界における殿上人でい続けたいのだ。
至剣流の本場であるこの帝国でも、数えられるほどしか存在しない『至剣』の体得者の一族——そのような自分達の立ち位置を保ち、偉ぶり続けたいだけなのだ。
だから連中は、嘉戸でもなんでもないのに至剣を得た村正のことが、疎ましく思ったのだ。そうに違いない。
——自分達の持つ『至剣』という宝刀を、誰に振るうでもなく懐で錆びさせながら。
ならば、俺は貴様らとは違う道を歩む。
至剣という宝刀を、俺は錆びさせない。
貴様ら以上に、己の至剣を理解し、御してみせる。
(そしてこの帝国に、俺の剣の恐ろしさを轟かせてやる。貴様らお偉い宗家の名声以上に)
それが、嘉戸宗家に対する最大の復讐であると同時に、自分の剣の大成への道である。
至剣とは、その者だけの形を持った十人十色の奥義であると同時に、その者一代限りでしか存在できない徒花であった。……「至剣は他人に伝承できない」という噂は以前より聞いていたが、村正は自分で開眼してみて初めてその意味が分かった。教えたくても教えられないのだ。呼吸をするのと同じで、何となく使えてしまうから。呼吸するときの筋肉の厳密な使い方を他人に教えられないのと一緒だ。
だからこそ、至剣という徒花に意味を持たせたい。
どういう形でもいい。この至剣で何かを残してから逝きたかった。
村正はそのために、帝都で「実験」をし始めた。
斬った相手の精神に「呪い」のような負荷を付与する——それが、村正の至剣の持つ能力。至剣に開眼する直前に見た「悪夢」で、それを前もって知っていた。
けれど、詳細な事はまだ分からない。
どれくらい斬れば効果が発生する?
「呪い」とやらは、人の精神をどれほどまで強く突き動かすのか?
「呪い」の強弱は、自分で設定できるのか?
「呪い」の持続時間は?
「呪い」による凶行ではなく、「呪い」そのものに人を殺し得る力はあるのか?
考えるほど、己の至剣に対する疑問は増えていく。
その疑問を解消するための「実験」であった。
帝都の人間を至剣で斬りつけ、その性能を確かめる。
その性能を高められないか、調整出来ないかを研究する。
そうすることで、己の至剣への理解を深め、更なる高みへと進める。
村正は懐を隠せるような裾の長いコートを買い、「実験」の時はそれを羽織った。
コートの中に刀を隠し持ち、斬る対象を見繕ったら、近寄って素早く抜刀して斬りつけ、すぐさま納刀しながら逃げ去る。
村正の抜刀納刀の速さと運足の巧妙さをもってすれば、人混みの中でならば斬ってすぐにその場から離脱し、雲隠れ出来た。
それでも、手当たり次第に斬りまくることは避けた。
警察は間抜けではない。頻繁に被害を出せば、その複数の事件現場という「点」を「線」で結ぶ形で、村正の所業と居場所を突き止めかねない。
それに……嘉戸宗家には、妙な噂があった。
帝国内で約百万人、海外支部全てを合計して約三十万人——至剣流の門人の数だ。
これらの莫大な数を「情報網」として用いることで、嘉戸宗家は国内外のあらゆる情報を一手に集めることが出来るという噂である。現ロシア政権が未だに至剣流を「マーシャルアーツを隠れ蓑にしたカルト教団」呼ばわりして支部を国内に作らせようとしないのは、こういう噂を警戒しているからであると言われている。
真偽は定かではないが、念の為警戒するに越した事は無かった。
……そういう理由から、村正は「実験」を、毎回別々の地域で、不定期で実行していた。
最初に行った「実験」の対象は、千代田区神田で休憩していたトラック運転手だった。
村正の至剣で浅く斬られた運転手は、それからすぐにトラックに積まれた灯油入りのポリタンクと、タバコ用のライターを持って宮城の桜田門前で座り込んだ。灯油を頭からかぶり、ライターで焼身自殺をしようとした。……直前に皇宮警官が止めに入らなければ、確実に己で己を焼いていただろう。
——この「実験」で、村正は「小さな切り傷だけでも強い「呪い」を発生させることができる」ということを知った。
次の「実験」の対象は、明治神宮の演武会に参加予定であったらしい剣士だった。
至剣で浅く斬りつけると、その者は手に持っていた刀を抜き放ち、原宿駅のあたりで無茶苦茶に振り回し始めた。剣術の匂いがいっさい感じられない、粗雑で狂った太刀筋だった。
同じく演武会に参加予定だった他の剣士が素早く止めに入ったお陰で事態は早めに収束したが、それが無かったら何人かが重軽傷か、もしくは死んでいただろう。
——この「実験」で、村正は「「呪い」の出力の調整が次の課題である」と己に課した。
次の「実験」は、赤羽兵器廠の作業員で行った。
今回は出力を下げようと強く念じながら至剣を使った。
その作業員が工廠内で銃乱射事件を起こしたのは、ニュースによれば村正の至剣を浴びた約一時間後であった。斬られてから凶行に走るまでの間としては最長の時間だった。
——この「実験」で、村正は「至剣の調整は可能である」ということを知った。
それ以降も幾度となく「実験」を繰り返し……現在六月下旬に至る。
すでに季節は夏本番に近づいていた。
そうなってくると、「実験」を行う上での問題も発生した。
刀を隠すための長いコートが場違いに見られるであろう、夏という暑い季節の到来であった。
夏らしい軽装を着た人混みの中で冬用じみたコート姿で歩いていたら、流石に目立つし不審に思われるだろう。
どのようにして刀を隠せば良いのか。それが次なる課題だった。
とはいえ、現時点で、すでに己の至剣の理解は最初より遥かに進んでいた。
強弱を自分で調整することで、「呪い」を受けた人間の凶行レベルも調整できるようになった。
また、「呪い」の効果が永続することも分かった。
けれど村正はなおも「足りない」と思った。
もっと、理解と成長の余地があるはずだ。我が至剣には。
こんなものでは、嘉戸宗家の連中を超えるなどまだ不可能だ。
何かしかの策を講じて、これからも「実験」は続ける。
持っていた刀や収蔵品をいくつか売ったため、自分一人を不労で養う資金はまだまだある。贅沢しなければあと一年以上はもつはずだ。
(……そういえば、この至剣の名を、まだ決めていなかったな)
もう少し「実験」が進み、暇ができたら、己の至剣の名を考えてみるのも良いだろう。
——そして、村正は今日も帝都を彷徨う。
村正の至剣は『至剣』である。名前はまだ無い。