烏と蜻蛉《終》
「————っ」
太郎は思わず息を呑んだ。
(コウ様の動きが、また変わられた……!?)
『八咫烏』を用いたこちらの太刀筋に抗う、光一郎の剣。
その太刀筋に、またしても変化が訪れた。
剣だけではない。
光一郎の、眼。
先程まで怖いくらいにこちらを凝視していた彼の眼は、今はこちらを向いていなかった。
——虚空に浮かぶ「何か」を見ていた。
そこには何も無い。虚空があるだけだ。
しかし光一郎の眼は、そこに確かに「何か」があるように、しっかりと視線を送っていた。
その「何か」がある位置に、己が剣尖を送る。
太郎のことなど全く見ていない。
だのに、今までよりもより鋭く、緻密に、深く、『八咫烏』の太刀筋へ分け入って来ていた。
(これは、まさか——!!)
太郎の心の臓が、高鳴った。
間違いない。
視えている。
「金の蜻蛉」が。
振るっている。
『蜻蛉剣』を。
初めて見た時、自分が目と心を同時に奪われた、勝ち虫の剣を。
(コウ様…………貴方という人は)
嬉しい。
また、目の前に現れてくれて。
その美しい秋津の剣を、顕現させてくれて。
煌びやかで、清らかな「気」。
自分の至剣と似た「気」を持つ至剣。
(——私達も行きましょう。『八咫烏』)
その思いに応えたかのように、太郎にしか視えぬ霊鳥は、その漆黒の翼を力強く開いた。
——視えている。
確かに視えている。今の僕の目には。
「金の蜻蛉」が。
必勝をもたらす、勝ち虫の姿が。
視えているのだ。
ただし————宙を舞ってはいない。
虚空の一点に現れては、また消える。
蛍火の群れのように、僕の視界の中のあちこちで明滅を繰り返す。
ゆえに、そこに「必勝の軌道」は無い。
あるのは「点」だけだ。
「必勝の軌道」という線の途中途中に存在する「点」。
言うなれば「必勝の一点」。
その「必勝の一点」に剣尖を一致させれば、確かにその剣には「必勝」を付与できる。
だが、その「必勝」の効力は、ほんの一瞬。
「必勝の軌道」は常に更新される。
「必勝の一点」が「必勝」たり得るのは一瞬だけだからだ。
次の一瞬には、もう必勝ではなくなる。
空で一瞬だけ輝く打ち上げ花火のように、儚い「必勝」。
ゆえに、虚空に何度も「必勝の一点」を顕現させ、「必勝」を繋いでいく必要がある。
それでも、やはり「必勝の軌道」と違って途切れがあるため、完全な『蜻蛉剣』のような圧倒ぶりは無理だった。
ひどく不完全な『蜻蛉剣』。
名付けるならば——『劣化・蜻蛉剣』とでも呼ぶべきか。
確かに劣化している。
だけど、これまでと大きく違う点が一つある。
————この『劣化・蜻蛉剣』は、僕の意思で自由に使えるという点だ。
「金の蜻蛉」を、視界に出現させる。
それを剣尖で突く。
この手順を何度も繰り返す。
たったそれだけで、難攻不落という言葉すら不適当な『八咫烏』の太刀筋を、少しだが掘り進むことが出来ている。
ぶわっ、と、汗が不自然なほど急速に吹き上がってくる。
体全体が、重い熱と怠さを持ちはじめていた。
それでも僕は振るい続けた。
至剣を中途半端に目覚めさせた半至剣、『劣化・蜻蛉剣』を。
「はっ……!」
虚空に浮かぶ「必勝の一点」を突く——結果的に太郎くんの眉間を狙った僕の剣尖は、垂直に構えたまま振られた彼の木刀によって横へ阻まれる。
少し手前に姿を現した「金の蜻蛉」を、木刀を引っ込めながら進んで突く——剣を握る太郎くんの手元を狙った刺突だ。しかしそんな僕のひと突きを、太郎くんは上段に振り上げながら左へ動いて回避。
僕の視界左上に現れた「金の蜻蛉」を目指して、剣尖を持ち上げる——真下からの斬り上げと化した僕の木刀が狙うのは太郎くんの顎。太郎くんは持ち上げた木刀を素早く降ろし、柄頭で僕の木刀を受け止めた。かぁん、という快音。
僕は剣を下に弾かれ、太郎くんは上段。さらにあちらの剣が届いてしまう間合い。
そんな危機的な状況でも「金の蜻蛉」は現れた。
それを追いかける形で僕は太郎くんへ近づく。
木刀の半ば同士をぶつけ合わせ、そのまま鍔迫り合いへと至った。
間近にある、太郎くんの可憐な美貌。
嬉しさと戦意に満ちた、笑顔だった。
「——成ったようですね、コウ様」
「——おかげさまで」
僕も同じように笑う。
本当に、おかげさまだ。
太郎くんが相手だったからこそ、僕はこの新たな剣を手にすることができた。
ロマンチズムでもなんでも無い。今なら胸を張って言える。
この出会いはまさしく運命。
僕と彼は、出会うべくして出会ったのだ。
この万感の思いと、感謝を、僕はどうやって伝えればいいのか分からない。
(……剣で以外、無いか)
結局、僕の頭で思いつける方法は、それだけだった。
『蜻蛉剣』と『八咫烏』——これら二つがぶつかるのは、言うなれば最強の矛と盾のぶつかり合いだ。
その矛盾を、楽しもう。
僕は蛍火のようにあちこちで現れる「金の蜻蛉」を、剣で追いかける。
太郎くんは『八咫烏』を、剣で追いかける。
そうして、矛盾の剣戟を絶え間なく続ける。
それは、永遠に続くかと思うくらい、心地良く、楽しかった。
だけど。
その途中で、僕の意識はだんだんと薄れていき——やがて闇の中へと沈んでいった。