烏と蜻蛉《二》
2024.8.17 修正完了
喉が渇いたので、何か飲むことにした。
僕らは駄菓子屋さんに戻り、それぞれの飲み物を買うことにした。
ちなみに太郎くんの飲み物代は僕が出す。安いかもだけど、稽古代の代わりだ。
そう申し出ると、太郎くんは恥ずかしそうな口調で「で、では、その……「ラムネ」を、ご馳走になりたく思います……」と言った。
ああラムネね、と納得した僕は、ついでに自分もそれにしようと思いつつラムネを二本買った。
ベンチに戻り、二人一緒にキャップの玉押しをしゅぽん! と押してビー玉栓を内側へ外した。その後すぐじゅわじゅわ泡立ってきたラムネにまごつく太郎くんに「ほら飲んで飲んで」と勧める。
慌てて飲み口へ口を付け、瓶を煽り、数回飲んでから口を離し、丸眼鏡の奥の黒い眼を輝かせて感想を述べた。
「口の中がチクチクしてて不思議な後味がします! 炭酸ガスですね!」
「そっか」
ラムネくらいでそこまで感動できるなんて、これは値段以上の稽古代になったかもしれなかった。
「先ほどビー玉を外した時の「しゅぽん」という子気味良い音も、もう一度聴いてみたいものです。幕末期の武士の方が、それを初めて聞いた時に思わず銃声と勘違いし、腰の刀に手を添えてしまったのだとか」
「えっ? ラムネって幕末からあったの?」
「はい。黒船で有名なマシュー・ペリー提督が船内に積んでいて、それを交渉に来た江戸幕府の役人に振る舞ったことが、この国におけるラムネの始まりであるそうなのです。それから慶応年間、長崎で初めてラムネが製造販売されました」
「へぇー」
「ちなみに「ラムネ」というのは、「レモネード」が訛った呼び名であるそうです。ペリー提督が振る舞った飲み物の正式名称は「炭酸入りレモネード」。国内ではレモネードの直訳である「レモン水」という名称で最初に売り出されたそうですが、その名称は流行らず、日本語的な訛りを持った「ラムネ」の方が定着したそうなのです」
「……レモン水、って割には、レモンの味あんまりしないよねぇ。人工甘味料だよ」
「ふふ。私もそう思いました」
太郎くんが楽しそうに笑う。
そうやって取り留めもない話をしながら、ときどきラムネを煽り、初夏の青空を二人で見上げる。
すっきりとした青い空の端に、綿飴みたいにこんもりと積み上がった雲が漂っている。
ベンチの真上にある軒にぶら下がった風鈴が、ちりりん、と風情良く鳴る。
平和だなぁ、と、僕は稽古の疲労感もあってぼんやり思う。
風鈴の音色とラムネの刺激と甘みを味わいながら、こんなふうに漫然と青空を眺め続ける。
そんなことができる平和な日常が、ずっと続けばいいと、心から思う。
だけど、この平和は、きっと永続などしないのだろう。
学校の先生は言っていた。平和とは「次の戦が始まるまでの準備期間」であると。
一度生まれた平和が永続するというのなら、幕末にペリーがやってきたことの説明がつかない。
狭い島国の中でいくら平和に振る舞おうと、「次の戦」は海を超えて向こうからやってくるのだ。
事実、十一年前に、ソ連はこの帝国に侵略を仕掛けてきた。東アジア有数の軍事力によって盤石に平和を保っていた帝国が、無茶苦茶な軍拡によって急速に力をつけた北の超大国によってその平和を脅かされたのだ。
「次の戦」は、遅かれ早かれ、必ず起こるのだ。
そして、そんな「次の戦」から国を守ってくれた望月先生のような人達がいてくれたからこそ、僕らはこうして「次の平和」を送れている。
そうして勝ち取ったこの平和もまた、「次の戦」の前の準備期間に過ぎないのだろう。
「次の戦」がいつ来るのかは、誰にも分からない。
僕の晩年期、あるいは没後かもしれない。いや、もしかすると明日かもしれない。
でもそれまでは、この今の平和を正しく使っていこう。
僕のやりたいこと、できることに、精一杯取り組むのだ。
「——ではコウ様、そろそろ再開いたしましょうか」
太郎くんがそう言って立ち上がった。
僕らは空になったラムネ瓶をゴミ箱に入れると、再び剣を構え合った。
やはり太郎くんの構えには、何度見ても気負いがいっさい無かった。
僕はすぐには向かって行かず、頭をひねってこれからの攻め方を考えた。一定の隙を作らぬよう、逐一立ち位置と構えを変えながら。
「陰の構え」「稲魂の構え」「陽の構え」「裏剣の構え」——「正眼の構え」となりながら一気に間合いまで滑り入った!
木刀同士が触れた途端、僕は素早く「陽の構え」になり、彼の木刀を横へ払おうとした。そうしてガラ空きにしてから素早く踏み込んで鋭く剣尖を打ち込む『雁翅』の動きだ。
だが、
「うおぁ!?」
太郎くんの剣を払うどころか、逆に僕が「陽の構え」となった太郎くんの剣に引っ張り込まれた。
まるで木刀に紐付けされて思いっきり綱引きされたような引力に、姿勢が前のめりになる。——なんて力だ。螢さんの『颶風』で投げ飛ばされた時を思い出す。
太郎くんに受け止められたおかげで倒れずには済んだが、僕のお腹にはしっかりと切っ尖が突き立てられていた。
「構えを何度も変えて隙を一定にしない、という戦術は見事でした。私の『八咫烏』もほんの少しだけ、動きにくそうでしたよ」
「……ほんの少しだけ、ね」
嫌味なんか無いんだろうなぁ、と思いながら僕は太郎くんから離れた。
さあ、今度はどう攻めるか。
先ほど僕を引き寄せたあの動きは、間違いなく僕が出そうとしたのと同じ『雁翅』だろう。そこに込められた練度は、僕なんかより遥かに高かった。
『八咫烏』の凄さで忘れそうになるが、彼は免許皆伝者なので、普通の剣の腕も抜群に良いのだ。
至剣無しであっても、やはり僕は太郎くんには敵いそうにない。
(でも、せめてほんの少しだけでも、この剣を届かせてみたい)
確かにこの立ち合いの目的は、僕の『蜻蛉剣』をコントロール出来るようになる手がかりを探すという、実験的なものだ。
けれど、もう少し、欲張ってみたいと思った。
免許皆伝者に、ほんのちょっとでも剣が届けば、たとえ『蜻蛉剣』をどうこうできなくても、剣士としては確実に進歩することだろうから。
僕は気合いを入れ直した。この立ち合いを始めてからずっと変わらぬゆったりした構えの太郎くんを中心に、僕はまたも立ち位置と構えを絶えず変えていく。
変えて、変えて、変えて……「裏剣の構え」となりながら前へ進み、『旋風』の型へ移行。
全身に密に糸を巻くような太刀筋を纏いながら、数歩先の太郎くんへ近寄り——間合いへ入る一歩手前でストップすると同時に「稲魂の構え」。そこから間髪入れずに鋭く踏み込みながらの『電光』。
一瞬で虚空に刻まれた逆の「く」の字の太刀筋は、太郎くんが構えた木刀にギリギリで届くくらいの距離だ。本人に当たらずとも、剣を弾くことは出来る。弾かれた勢いに引っ張られている隙を突くのだ。
だが、やはりというべきか、太郎くんはソレよりも一瞬速く剣を引っ込めた。僕の『電光』は虚空を斬り裂く。
太郎くんが進む。
僕は退がる。
やってきた刺突を円く受け流しながら「陰の構え」となり、そこから『石火』を発した。
だが、火花のような速さで発せられた僕の切っ尖は、空振りに終わる。
太郎くんはその横をスッと通過し、僕のお腹に剣尖を突きつけていた。
「も、もう一本お願いします!」
僕はそう告げて、また離れて構えを取った。
太郎くんもまた、当然のように構え直してくれた。
僕らはそれからも、剣を何度も交えた。
そして、僕は何度も負けた。
僕が知る限りの技や駆け引きを惜しみなく出したが、そのことごとくが通用しなかった。
ある時は、刺突を刺突で弾き返されたところへ追い討ちをかける形で寸止め。
ある時は、紙一重で僕の振り下ろしを回避してからすかさず突きを仕掛けて喉元で寸止め。
ある時は、『旋風』の太刀筋の中に片手で剣を突っ込み、僕の木刀に当たることなく喉元で寸止め。
ある時は、『法輪剣』の縦回転の太刀筋を剣尖でビリヤードのごとく衝き返し、そこから流れるように大腿部へ木刀をこすりつけてきた。
神武東征神話の霊鳥をモチーフにした彼の至剣は、めったにお目にかかれないような離れ業を、息をするように連発してきた。
一度休めて蓄えた気力が、あっという間に削ぎ落とされていった。
またも僕は汗だくになり、両足が疲労で笑っていた。
そんな僕を、太郎くんは申し訳なさそうに見つめていた。
「コウ様……大丈夫ですか?」
「う、うん……ちょっと、疲れただけ…………ていうか、ちょっと休ませてほしいかも」
言ってから、僕はその場に尻餅をつくようにどっかり座り込んだ。
アスファルトの地面に体重を預けた瞬間、全身が一気に楽になった。
地面で休むというのは、意外と馬鹿にできないもので、体力の回復に良いのだ。
戦国時代の忍びは、飲まず食わずで何十キロもの道のりを走ることができたそう。そしてそれは体力に優れていたからというだけでなく、素早く体力を回復させることのできる休息の取り方を知っていたからだ。その休息の取り方の中には、地面で横になるという方法も存在する。
……全て望月先生から聞いた話だけど。
「……コウ様、もう、おやめになった方がよろしいのではないでしょうか?」
太郎くんがなおも申し訳なさそうに、そう告げてきた。
僕は顔を上げて「どうして?」と問うた。
「どうして、とおっしゃられましても…………コウ様は、ここまで私と手合わせをして、何か変化のようなものを感じましたか?」
「無い、かなぁ……」
今のところ、『蜻蛉剣』に繋がるような感覚は、何一つ得られていない。
何か感じたか、と聞かれると……強いて挙げるなら、敗北感?
「では……これ以上続けても、あまり意味は無いように思います。私が初めに提案したので、このような事を申し上げるのは後ろめたいのですが……」
最初こそやる気に満ちていた太郎くんも、今や随分後ろ向きな感じになっていた。
確かに、彼の言う通りかもしれない。
これ以上続けたところで、『蜻蛉剣』のコントロールなど、出来っこないのかもしれない。
そんな事を続けるくらいなら、いろんなお菓子を買って二人で食べ合う方が、よほど有意義な時間かもしれない。
僕だって、その方が良いんじゃないかと思う。
太郎くんだって、そっちの方がよほど楽しいに違いない。まだ彼の食べた事のないお菓子は、きっとたくさんあるだろうから。
……けど、一方で思うのだ。
こんな機会は、滅多に無いと。
これほど年若い至剣流皆伝者というだけでも珍しいのに、僕ととても似通った性質の至剣を持っている人に、稽古をつけてもらえる機会など。
ロマンチストかもしれないが、そんな人に出会えたことに、僕はある種の運命のようなモノを感じていた。
立ち合ってみて、分かった。
太郎くんの『八咫烏』は、やはり僕の『蜻蛉剣』とかなり似ていた。
彼の動きを見るたびに、自分が至剣を使っている光景を客観的に見ているような感じがするのだ。
僕に『蜻蛉剣』を使われていた相手の気持ちが、今日、初めて分かったような気がするのだ。
田中太郎という剣士は、まさしく、秋津光一郎という剣士にとっての「鏡」であった。
(…………ん? 待てよ、鏡……?)
そこでふと、僕はある事を思いついた。
——「鏡」。
そう形容するくらいに、僕らの至剣は似ているのだ。
(なら……『八咫烏』を使っている時の太郎くんの動きを完全に真似してみる、というのはどうだろう?)
ならば映すのだ。鏡のごとく。
太郎くんの動きをよく観察し、細部まで把握し、彼の剣を構成する「影響の連鎖」を読む。
さらに、その動きを僕自身の動きに完全にトレースする。
そうすることで、『八咫烏』という至剣を使っている時の身体感覚を体験する。
それが、『蜻蛉剣』の発動を誘発するための、鍵になったりしないだろうか?
だって、僕らの至剣は似ているのだから。
何も特別な事をやるわけじゃない。型稽古の時に、いつもやっていることだ。
望月先生の動きを細部まで観察し、把握し、それを僕の体で細部まで真似して体に覚え込ませる。
僕の体という白紙に、師の動きという被写体を描き写すように。
それと同じ事を、太郎くんを相手にやればいいのだ。
それで『蜻蛉剣』が使えるようになるという保証は無い。
だけど、やってみる価値はありそうだ。
「……ごめん、太郎くん。あともう少しだけで良いから、付き合ってくれないかな」
僕がそう言うと、太郎くんは「ですが……」と心配そうに僕を見つめる。
「僕と稽古するのは、イヤかな?」
我ながらズルい言い方だ。
案の定、太郎くんは首がもげんばかりにかぶりを振った。
「そ、そんなことはありません!」
「なら……本当に、あとちょっとだけでいい。稽古をつけて欲しいんだ。——試してみたいことが、出来たから」
「試してみたいこと、とは……?」
「これから見せるよ。……それで、どうかな? 引き受けてくれるかな?」
僕がそう問うと、太郎くんはやや戸惑いを見せながら「分かりました」と頷いてくれた。