田中太郎《上》
「ごちそうさまでした!」
その後、僕の奢りで買ったゴリゴリ君ソーダ味をあっという間に食べ尽くした黒髪三つ編み少女は、その雅な美貌を輝かせてそう告げた。
駄菓子屋前にあるベンチ。そこにちょこんと座る彼女の隣に腰を下ろし、バニラ味のカップアイスを木スプーンで食べている最中の僕は、苦笑しながら尋ねた。
「どうだった? 初めての「ゴリゴリ君」の味は?」
「頭がこう……きぃん、って感じがしました! おまけに「当たり棒」なるものが出てくれば、もう一本食べられるだなんて……この国の子供達は、面白いモノを食べているのですね。得難い経験をありがとうございます、秋津様」
「得難いかなぁ」
なおも苦笑いで僕は言った。
ちなみに彼女が食べたアイスの数は二本である。僕が買ってあげた最初の一本で当たり棒を引き当て、さらにもう一本いったのである。初めての棒アイスで当たりを引き当てるとは、なかなかの強運の持ち主である。
僕はカップアイスの最後の一掬いを口に納める。その冷たい刺激によって、僕がこれまで保留にしていた疑問が思い起こされた。
隣の女の子の方へ向く。特撮ヒーローシリーズ「ベクターシリーズ」のアパレルもののキャップとTシャツ、丸眼鏡という風貌だが、彼女の持つ気品というか、浮世離れした不思議な雰囲気というか、そういうものは隠せていない。
年齢は……おそらく、僕とさほど違わないだろう。あるいは一歳くらい下か。
身長は同じくらいか。
「ところで……えっと、君」
「はい、なんでしょうかっ?」
女の子は嬉しそうな笑みを見せた。……その笑顔をとても可愛いと思ってしまったのは、螢さんへの裏切りでは決してない。綺麗な景色を「綺麗な景色だ」と評するのと同じである。
「どうして君は……僕のことを知っているの? 呼んだよね? 秋津光一郎、って。僕の名前を」
それを尋ねると、女の子はその白い頬をほんのり赤く染め、恥ずかしそうにはにかんだ。
「……その、私は以前、天覧比剣の千代田区予選で、貴方の試合を拝見させていただいておりました」
「ああっ、なるほど。見てたんだ僕の試合」
「はい…………あの、その頃から私は、その……貴方のファン、というものでありまして」
「ファンぅ?」
予想外の返答に、僕は素っ頓狂な声を出してしまうが、すぐに思い直す。この返しは彼女に対して失礼だ。
意識を整えてから、僕はことさらに笑みを浮かべながら訊いた。
「えっと……まずは名前を伺ってもいいかな?」
「……私の名前、ですか?」
訊かれると、女の子は意外そうに目を何度かしばたたかせた。
かと思えばキョロキョロとあちこちを見て、アイス棒を口に咥えてむにょむにょ唸る。その仕草も妙に華やかであった。
十数秒してから、彼女はまるで思いついたようにハッと顔を上げて、勢いよく答えた。
「——た、太郎です! 田中太郎! 私は田中太郎と申します! 以後、お見知り置きをっ」
それを耳にした時、僕が思ったことは主に二つ。
一つは、どことなく匿名希望感に溢れた名前だな、という事。自分の名前ならすぐに答えられるだろうに、彼女は即答せずに答えに窮するような仕草を見せ、答えたのはあまりにもありふれたフルネーム。まるで、本名を知られるのを嫌がっているみたいだ。……僕の無粋な想像かもしれないが。
そして、もう一つは——
「太郎、ってことは、もしかして…………男の子なの?」
「はい。私は男ですよ」
……こんなにお淑やかで可愛らしい子が、男だと?
信じられなかった。
だって、普通の女の子よりも可愛いじゃないか。
「……からかってる?」
「う、嘘ではありませんっ…………!」
その白い頬をはっきり赤くして俯いている彼女……いや彼の姿は、やはりめちゃくちゃ可愛かった。
でも、男なんだよね……
「な、納得出来ないとおっしゃるのなら、その……しょ、「証拠」を、お見せましょう、か……?」
「い、いやいや。いいって。納得。納得したからっ。君は男の子。うん、受け入れたっ」
すでに湯気でも出かねないくらいに真っ赤っかな彼に、僕はそう無理やり納得を示した。これ以上恥をかかせるのは気が引けた。
……気を取り直して。
「僕も改めて自己紹介しておこうかな。知ってるだろうけど、僕は秋津光一郎。富武中学校の二年生だよ。よろしくね、田中くん」
「はいっ。よろしくお願いします……!」
僕が差し出した手を、田中くんはその白い両手で包み込んで握手に応じてくれた。その様子は内心から溢れそうな嬉しさをこらえているような感じだ。ここまで想ってもらえると、悪い気はしない。
「どうか私の事はお気軽に「太郎」と呼んでください」
「分かった。太郎くん。僕の事も「光一郎」でいいよ。あ、でも、何人かからは「コウ」って縮めて呼ばれてるから、そっちでもいいけど」
「で、では…………コウ様、と」
様、は必須なのか。まあ、別にいいんだけど。
太郎くんはというと、俯いて口元を緩めながら、足をぶらぶらさせていた。
「太郎くん?」
「申し訳ありません。その……嬉しくて」
「嬉しい?」
「はい。私は……年の近い誰かを、渾名でお呼びするのは初めてなので。そんな初めてのことを、憧れのコウ様と、なんて…………その……とても新鮮で、嬉しくて」
その男子らしからぬ、上品に奥ゆかしく恥じらうような可憐な笑みを見た途端、僕の心臓が跳ね上がった。
(ま、まてまてまて。ドキドキするな。男。男だから。どんなに可愛くても、綺麗でも、彼は男の子だから。僕にそういう趣味はございません。僕は螢さん一筋なんだから)
可愛いというだけで、少年相手に馬鹿みたいにそわそわしてしまう自分が恨めしい。いつから僕はこんな浮気者になったんだ。武士の子孫としての誇りを思い出せ。
「と、ところでさっ、太郎くんは『ベクターシリーズ』が好きなのっ?」
内心の後ろめたい恥ずかしさを誤魔化すように、僕は太郎くんの服装に言及する。
彼のキャップ帽子とTシャツは、国民的人気特撮ヒーローシリーズ『ベクターシリーズ』のアパレルものである。
尚武と侠気を重んじる宇宙最強の戦闘民族『ベクター族』のヒーロー達が、地球侵略を目論む怪獣や敵性宇宙人から地球と人類を守るために戦う、というのが主な内容だ。
記念すべき第一作目『宇宙遊侠伝ライトベクター』が爆発的人気を博して以降シリーズ化され、三十年以上経った今なお帝国の子供達から根強い人気を誇っている。
閑話休題。
照れ隠しで訊いたというのもあるが、彼の雅やかな感じとは不釣り合いな普通の子供っぽいその服装にチグハグさを感じ、何となく気になっていた。
太郎くんはその心臓に良くない可憐な笑みを引っ込め、普通の明るい笑顔へと変えて楽しげに言った。
「あ、はいっ。私は幼い頃より、『ベクターシリーズ』愛好しております。第一作目の『宇宙遊侠伝ライトベクター』から、現在放送中の『ベクター・シャドー』まで、全て把握済みです」
なんと。それはかなりのマニアではないか。確か『ベクターシリーズ』って、十五作品くらいなかったか? いや十六? 忘れちゃった。だけど多いのは確かだ。
「そうなんだ。僕も小さい頃は見てたなぁ、ベクター」
「本当ですかっ!? コウ様はどのベクターがお好きなのですかっ?」
「そうだなぁ……あんまり覚えてないけど、二作目の『ベクター・エッジ』かなぁ」
「『ベクター・エッジ』ですか! 分かります! あれは「忠義と友情の葛藤」がテーマですね! 特に最終章が素敵でした! 「地球はもう滅びる。手遅れだ」と匙を投げて帰還を命じてきたベクター星の命令に背き、友達になった地球人の子供達のために最後まで宇宙人と戦い抜き、命と引き換えに不可逆であったはずの地球の滅亡を阻止した!」
「そうそう、そんな感じ! あれは本当に感動したよ。エッジの死を見届けた地球の子供達が、その意思を受け継いで地球防衛軍に入隊したラストシーンとかね。……でも、確かベクター・エッジって、放送終了間も無い頃に内務省から発禁されそうになったって噂だけど、あれって本当なのかな?」
「本当ですよ。ベクター星への忠義に背いて地球を守り抜いた、という最終章が「この帝国の国体に疑問を抱かせかねない」として、内務省警保局の一部の方々が発禁を進言してきたと聞き及んでおります。……少し、国民を信じていないように思います。その程度で揺らぐ国ならば、とうの昔に崩壊していることでしょう。それこそ、帝国が多額の借金にあえいでいた日露戦終結直後や、農家のご息女の身売りが相次いだ世界恐慌のあたりで」
急に子供らしからぬ厳かな感じで語りだした太郎くんに、僕はぽかんとしていた。
「えっと……よく知ってるね?」
「へ? …………ああ、いえっ! その、私の知り合いの方が教えてくださったのでっ! 内務省に縁のある方でしてっ!」
かと思えば、慌てて弁解するような態度と口調でそう訴えてきた。
なるほど。そういう省庁の裏事情に通じているとは、やっぱりイイトコの子なのだろうか。
「太郎くんは、どのベクターが好きなの?」
「私ですか? 私は……『ベクター・マンダム』でしょうか」
「おおっ。マンダムを選ぶとは、なかなか通だね太郎くん」
『ベクター・マンダム』。
ベクターシリーズの第三作にして、シリーズ中で一二を争う問題作だ。
今作ベクターであるマンダムは、他のベクターのように率先して怪獣や宇宙人とは戦わないのだ。
それどころか、逃げ惑う地球人のありさまを、空飛びながらゲラゲラ笑って俯瞰しているという、ヒーローにあるまじき姿をたびたび見せている。
最後の最後ではきっちり敵を倒すものの、そんなヒーローらしからぬ振る舞いが、放送当時はかなり不評だったらしい。視聴率もベクターシリーズ中で最低値であるとのこと。
「初めてマンダムをレンタルビデオで観た時は、子供心に「なんてやつだ!」って思ったなぁ。僕」
「やはりそうなのですね。実は私もです。ですが、三話まで視聴して、そこでマンダムの持つ思想を理解したので、それ以降は一番好むようになりました」
「オトナだなぁ、太郎くん。僕は二話でギブアップしちゃったよ。小学五年生になったところで、やっとマンダムも言いたかったことを理解できたなぁ」
そう。成長するにつれて、僕は分かってきたのだ。『ベクター・マンダム』という、型破りなヒーローの持つ思想が。
マンダムは意地悪なやつかもしれないが、別にいじめっ子とかではない。
むしろ、そのいじめっ子に立ち向かわない人を嫌うタイプなのだ。
地球を我が物顔で荒らしてくる宇宙人や怪獣に嘆きつつも抗おうとせず、ただただベクター族の助けを待ち続けるという作中の地球人の他力本願ぶりを、マンダムは嫌っていたのだ。
マンダムがゲラゲラと嘲笑していたのは、その他力本願ぶりである。
そんな他力本願な地球人の中に、一部だが現れる勇敢な人の存在を確認した時、マンダムは必ず助けてくれる。
天は自らを助くる者を助く——西洋の諺だ。マンダムは、まさしくこの諺を体現していたのだ。
あまりの視聴率の低さに放送時は打ち切りも検討されていたというマンダムだが、放送終了からしばらく経った後では再評価され、成人層から多くの支持を集めているという。「あれは大人のためのベクターだ」と。
とはいえ、このベクター・マンダム以降、ベクターシリーズは堅実に人気を獲得するという方向へ舵を切ったようで、子供向けのベクターが生まれていった。
良くも悪くも、ベクターシリーズの方向性を決定づけた問題作といえる。
「ところで、コウ様は今日、稽古へ向かわれる予定だったのですか?」
不意に話題を変えてきた太郎くん。彼の視線は、ベンチの横に立て掛けてある僕の木刀に向いていた。
「いや、今日は休みだよ。ここ最近毎日稽古漬けだったから、たまにはこうやってゆっくりしたいなって。この木刀は、そうだな……癖みたいなものだよ。無いと落ち着かないっていうか」
「常在戦場ということでしょうか。流石です、コウ様」
太郎くんがそう称賛してくる。……そんな大層な事じゃないんだけどなぁ。ほんとに、ただクセってだけで。
さらに目と表情を輝かせて、太郎くんが熱を帯びた声で続ける。
「千代田区予選でのコウ様の試合は全て拝見させていただきました。どれも素晴らしい試合でしたが、私が特に手に汗握ったのは葦野女学院の方との試合です。両者ともに非常に優れた技巧による攻防でした」
「はは……ありがとう」
僕はなんだか照れ臭くなる。
「特に、二本目の後半です。天沢様に打たれそうになった途端、コウ様の動きが突然変わりました。直前までとはまるで別人のような、自然体でかつ無駄の一切無い太刀筋と身のこなし。目の前の勝負ではなく、その先にある「何か」を見ているような…………そう、勝負をしているのではなく、勝利への道筋をあらかじめ知っていて、そこを迷いの無い足取りで進んでいるような。そのような不思議な印象を受けました。あのような試合は、初めてです」
なかなか鋭い。僕は思った。
彼が言及しているのは、土壇場で『蜻蛉剣』を偶然発動させていた時だろう。
「必勝の軌道」を教えてくれる、僕にしか見えない金の蜻蛉。そこへ自分の剣を走らせるだけで、「必勝」をその剣に付与することができる、僕の内に眠る至剣。
太郎くんの言う通り、僕には勝利への道筋が見えていたのである。
それを指摘した彼の観察眼に、僕は少し驚いた。もしかして、太郎くんも剣の心得があるのだろうか。
……だが、本当に驚くのは、これからだった。
「あの時のコウ様からは————私の至剣と全く同じ「気」を、感じました」
だが男だ。