猛特訓、そして圧倒
六月十五日、土曜日。午前十時。
富武中学校体育館一階の稽古場では、竹刀の音がほとんど絶えずに響いていた。
「ッ……ェイイイッ!!」
防具で身を固めた撃剣部員の一人が、気合とともに竹刀を発した。
対し、螢さんはいつも通りの無表情のまま、当たり前のように竹刀を防ぎ、そこから間髪入れずに己の太刀を発した。
防御しようと竹刀を動かしたが間に合わず、その部員はあっけなく面を取られた。
それからも彼は螢さんに打ちかかったが、結果は似たようなものだった。
防がれた、と思った次の瞬間には、面・小手・胴のいずれかに竹刀で触れている。競技撃剣では一本、真剣勝負なら死。
二分間に及ぶ打ち込み稽古の中で、その部員は何度も向かって行き、それと同じ回数だけ斬り殺された。
時間切れになる頃には、すでにその部員は息も絶え絶えだった。
対し、螢さんは息切れどころか、その白い額に汗の滴一つ浮かべていなかった。
「太刀筋の切り替えが遅い。足の動きはそこそこだけど、手の内が硬い。至剣流の『綿中針』の型を稽古すれば、手の内をより滑らかに動かせるようになるはず。——次」
いつも通りの淡々とした口調でそう述べると、彼はとぼとぼと去って行き、そして次の部員と入れ替わった。その部員は意気揚々と螢さんに対する。
そこからまた、二分間の打ち込み稽古が始まった。
その二分間もあっという間に終わる。
最初の意気揚々さが嘘のようにくたくたになった部員に、なおも息切れも発汗もしていない螢さんは変わらず平坦な声で告げる。
「少し足腰の動きと向きが大雑把。だから剣の動きも体捌きも遅い。剣は全身で振るもの。上半身だけでなく、下半身も使わないと駄目。正しいフォームは剣に速さと鋭さをもたらす。どんな型でもいい、全身で剣を振ることに重きを置いて稽古して。——次」
次の相手と交代になり、再び二分間打ち込み。
「『旋風』『波濤』といった大きな動きはよく出来ているけど、小さく細かい技が上手ではない。それら二つを同時に身につけておけば、大きな動きと見せかけて小さく速く剣を発して相手の意表を突いたりといった戦い方が出来るようになる。それを意識して。——次」
「竹刀を竹刀として強く思い過ぎている。競技撃剣は「斬り合いの競技化」。そして竹刀は本物の刀の代わり。だからこそ競技撃剣では「竹刀が防具に当たれば勝ち」という緩い判定が行われている。本物の刀は少しかすっただけで致命傷だから。だから理想的な一本の取り方にこだわらなくて良い。竹刀を本物の刀と仮想すれば、体の動きも変わって、もっと合理的な立ち回りが出来るようになる。——次」
「あまりにも釣られやすい。自分と同等かあるいは格上の敵が明確な隙を見せたら、それは八割が罠であると疑うべき。隙は敵に作ってもらうモノではなく、自分で作らせるモノ。どんな相手でも、戦いが長引けば必ず無意識な隙を大なり小なり作る。そしてそれを可能にするには、堅実に戦いを続けられる手堅い防御と、忍耐が必要。相手を常に疑い、防御を養って。わたしはそのために『綿中針』の型の数稽古を勧める。——次」
二分経つごとに、その部員の欠点を指摘し、それを埋めるための助言を告げる。
何回やっても疲れた様子ひとつ見せない所も凄いが、それでいてさらに相手の分析も行っているのだ。その気力体力は驚嘆に値する。
——ちなみに、螢さんは防具を付けていない。
「……やっぱ、何回見ても美人だよなぁ。望月さん」
現在行われている他の部員の打ち込み稽古を側から眺めている男子部員の一人が、惚けた口調でそう呟く。
「だよなぁ。顔可愛いのは愚問として、髪めっちゃ綺麗だし、肌も真っ白だし」
「あと、横を通り過ぎた時、マジですげー良い匂いしたんだよなぁ。…………そのとき俺、ちょっと勃っちゃったよ」
「うわ、男子サイテー」
「でも、ほんとに綺麗だよね、望月さん。私らとおんなじ人間なの?」
「あたし、稽古終わったら髪触らせてもらおっと。あと、どんなシャンプー使ってるか訊いてみよっと」
口々に喋り合う部員達。
うんうん。わかる。螢さん綺麗だよね。良い匂いもするよね。あの綺麗な髪を手でもふもふしてみたいよね。わかるよ。
「てか秋津、お前ほんとにどうやって望月さんと知り合ったんだよ? いい加減はぐらかすのはやめて吐けよな」
先輩部員の一人が、僕を肘で小突きながら訊いてくる。
僕はこれまで通り、やはり誤魔化すように説明した。
「いや、色々あって、知り合うに至ったというか……黙秘権です」
「まさか恋人とか、許嫁とかじゃないよな?」
「違いますよ」
それだったらどんなに良いか。
そんな感じでおしゃべりしているうちに、また二分経った。
息切れ状態な部員と、変わらず汗も息切れも無い螢さんの姿。
「積極的に攻めるのはいいけど、無駄な動きが多い。一つ一つの動きに力任せな点が多々見られる。強引な力に頼るのは剣術の正しい動きに反する。型を一つ一つ丁寧に練って整った動きの法則を身に染み込ませ、なおかつ自棄を起こさないよう心がけて。——次」
「ま、待って、くださいっ…………も、もうすこし……手加減、して、いただけると……」
部員が息切れ気味にそのように訴えてくる。
螢さんは淡々と述べる。
「手加減はもう十分している。これ以上手加減すると稽古にならない」
「そ、そんな……」
「……でも、一度少し本気を見せてみるのも、手加減しているという発言に説得力を持たせる良い手段かもしれない。——コウ君、次、来て」
不意に呼ばれて、「あ、はい」と返事する僕。
直前までやり合っていた部員と入れ替わり、僕が螢さんと向かい合った。
互いに竹刀を中段真っ直ぐに構えた「正眼の構え」になる。
「じゃあ、始め」
言うなり、螢さんがスッと僕へ距離を詰めてきた。
速い。しかも瞬発力というものが感じられない。質量の無い幽霊が勢いよく迫るような不思議な速さ。
僕は右後方へ跳んで間合いから逃れようとするが、そのために足を踏ん張った瞬間に螢さんはさらに加速。
「でっ!?」
気がついた時には、僕の面の右側頭部に彼女の竹刀が当たっていた。僕が跳ぼうとした方向へ剣を先回りさせていたのだ。
怯みを一瞬で持ち直し、次に備えようと螢さんを見ようとして——今度は小手を打たれる。
「ちょ」
今度は面を突かれる。
「待っ」
小手を軽く打たれる。
「ほたっ」
胴に一突き。
僕が対応しようとするよりも速く、僕の構えの中に潜む隙を瞬時に見出して突いてくる。
それを何度も繰り返される。
僕は必死に抵抗しようとするが、螢さんの勢いは少しも衰えなかった。
結局、散々一方的に打たれまくっただけで、僕の二分間は終了した。
竹刀を彼女に当てるどころか、攻撃一つ出来なかった。
これが実際の斬り合いなら、僕の体はもう見るも無惨にズタズタにされているだろう。何回死んでるか数えるのも嫌になる。
「これが、ちょっと本気」
螢さんが周囲に告げると、おしゃべりは止まり、揃って息を呑む声。
「なんだ、今の」「あの秋津が、手も足も出なかったぞ……?」「すごい……」「ほんとに手加減されてたんだね、私達……」
驚嘆を口々に呟く部員達。
「………………あ、あんまりだ」
僕は一人、ほろりと涙を流していたのだった。
こんな感じで、螢さんによる、富武中学撃剣部への指導は行われてる。
天覧比剣に優勝するか、途中敗退するか……そのどちらかまでの期間限定で、毎週火曜、木曜、土曜に稽古をつけてくれることになった。
稽古の内容はいたってシンプル。
一人ずつ、代わりばんこで、螢さんを相手に打ち込み稽古を二分間。それをひたすら繰り返す。
螢さんの体のどこでもいい、少しでも竹刀で触れることができれば、その時点で勝ち。
しかし、それがみんな出来ない。
防具をつけていない身軽な状態というだけでは、それは不可能だ。螢さんの技巧がそれだけ異常なのである。
防具無しは流石に危ないのでは——僕は稽古の初日にそう尋ねたが、
「大丈夫。今のあなた達では、わたしにまともに当てる事は不可能だろうから。それに、防具を着ていない方が動きも早い。自分より素早い相手とやり合う方がより稽古になる」
そう告げられた。
螢さんの実力のほどを痛感している僕は納得できたものの、他の部員達はちょっとムッとしたようで、それが稽古のモチベーションに繋がった。
そして、本当に、誰一人として螢さんに竹刀を当てるどころか、触れることすら出来ていなかった。
部員達の螢さんへの姿勢は、すっかり畏敬のソレへと変わっていた。
土曜日は本来は休日であるため、稽古の参加は強制ではなく任意である。しかし、至剣流の本場である帝国でも稀有な免許皆伝者の指導を受けられるということもあり、誰一人として休まなかった。
……港区予選の映像で見た、ミーチャの『径剣流』を思い出す。
やはり何度見ても、あの動きは妖術のように異常だ。アレと対して、勝てる自信はいまだに無い。
それでも、螢さんという、強い協力者がついた。
部員達にも、すっかり活気が戻っていた。
たとえミーチャに勝てずとも、頑張ればそれ以外になら勝てるかもしれない。みんなそう思い始めているのだ。
——だけど。
僕は、ミーチャとの試合を「負け戦」と断じて諦めることに、もやもやしたものを感じていた。
確かに、彼が使う剣技は、改変されたものであるとはいえ、至剣だ。
今の僕では、勝てないどころか、勝負にすらならない。
『蜻蛉剣』でも使えればまだ良い勝負が出来るかもしれないが、アレにはまだ謎が多く、また自分でコントロール出来ないから、頼りにすることは出来ない。
今のところ、僕がミーチャに太刀打ちできる要素は、一つも無い。
……でも、思うのだ。
ミーチャは言った。「天覧比剣に、賭けている思いがある」と。
彼は彼なりの理由で、真剣に天覧比剣と向き合っているのだ。
そんな彼に、いい加減な気持ちで向き合っていいのだろうか。
僕はときどき、そう思ってしまうのだ。