待ち合わせ、そして藤林家
——六月八日。土曜日。
「そろそろ来る頃かな……」
僕は、そう独り言のように呟く。
最寄りの地下鉄駅の階段の前で、僕ともう一人……氷山部長は立っていた。
休日であるため、僕ら二人とも制服ではない。僕はポロシャツにジーンズというシンプルでありつつも無難な装いだ。しかしベルトの左腰にはいつも通り木刀が差してある。
「もうすぐ十時だから、そろそろかもしれないな」
腕時計を見ながらそう答えた氷山部長は、青緑色の半袖ニットに、ベージュ色のパンツ。上下ともに体のラインが出るタイプの服装で、スタイルが良く高身長な部長が着るといっそう格好良く見える。凛々しい感じの美貌も相まって、男子より女子にきゃーきゃー言われそうだ。
部長は、やや意地の悪い笑みを交えて言った。
「……それにしても、驚いたよ。まさか君が、あの望月源悟郎閣下の門弟だったなんてね。どうりで強かったわけだ。何で今まで黙っていたんだい?」
僕は少し申し訳ない気持ちを込めて答えた。
「いや、あんまり騒がれるのは嫌だったというか……僕が迂闊なことをしたら、望月先生の名誉に関わるというか…………僕、ただでさえ学校であんまり評判良くないですし……」
「峰子までこの事を言ってこなかったところを見ると、あの子も君に口止めを喰らっていたっぽいな」
「……ご、ごめんなさい」
「まあ、気持ちは分かるよ。私も『玄堀の首斬り小天狗』を師に持つという事実を伏せてきたからな。私だって出来れば騒がれたくないし、先生にも余計な迷惑をかけたくないから。……まあ、それも君が望月螢さんにゲロってしまったがね」
「か、重ねてごめんなさい……」
自分の迂闊を再認識して、もう一度謝罪した。
「まあいいさ。おかげで私も、あの望月螢さんと知り合えるんだからね。先生も、彼女とお会いしても良いと言ってくれたし」
「そう言ってもらえると助かります。……あ、来た」
目の前の路肩へ、見覚えのある黒塗りの車が一台停まった。
後部座席のドアが開き、そこから出てきたのは、やはり螢さんだった。
「かわっ」
僕の口から「かわいい」と漏れ出かけて、また喉の奥へ引っ込んだ。
息を呑むほどの美しさだったからだ。
見に纏うのは、純白のワンピース。かぼちゃのように膨らんだ袖と、襟とスカートの裾を彩るフリルが清楚でありつつも愛らしい。さらには頭に大きめの麦わら帽子が被さっており、そこから下へ向かってあの綺麗極まる黒髪がさらりと垂れている。人形さんみたいな愛らしく整ったお顔で、その漆黒の瞳がくりくりと輝いていた。
え、なにあれ。可愛すぎるんですけど。ひまわり畑とかで佇んでそう。近くに立ったらめちゃくちゃ良い匂いしそう。いや、絶対する。彼女の隣に根を生やすひまわりの一本になりたい。
「……ほぉ」
隣の氷山部長も、そんな螢さんを見て目を丸くしていた。やはり女性から見ても美しいようだ。
ひまわり畑から来た美少女の螢さんはドアを閉めると、運転席にいる後藤さんにぺこりと一礼する。黒塗りの車が去っていった。
螢さんは僕らへ音も無く歩み寄ると、
「おはよう」
と、いつもの銀の鈴が鳴るような挨拶を告げた。
「お、おはようございます。今日もお綺麗ですね」
「ありがとう。わたしも今日は見苦しくならないよう、少し気合を入れた」
は? 少し? これで少しなの? 嘘でしょ? 本気でおめかししてきたら僕死んじゃうんじゃない?
「それで……その女が、氷山部長さん?」
螢さんの大きくて綺麗な目が、僕の隣の部長へ向く。
部長は一歩前へ出て、胸に手を当て自己紹介した。
「初めまして。氷山京です。富武中学校撃剣部の部長をしています。望月さんのお噂はかねがね伺っております」
「螢で大丈夫。望月さんだと、お義父さんとかぶるから」
「では、螢さん。確認といきましょうか。——もしも藤林先生と会わせたら、我々の稽古を指導してくださるのだな?」
……そう。この二人との間では、すでに話がついている。
月曜日、螢さんの電話を切ってすぐ、僕は部長へ電話をかけ、螢さんが提示した「条件」について説明した。
部長は「明日まで待って欲しい」と言ってその日は電話を切り、次の日に返事を伝えてきた。「藤林先生から了解を得た。こちらは構わない」と。
さらにその日の夜に、そのことを螢さんに知らせ、交渉は成立した。
それから今日この時間帯、この場所で待ち合わせることになり、現在に至るというわけだ。
……ちなみに今日を選んだのは、藤林氏が仕事から半日で帰れる日だかららしい。今年で二十七歳になる藤林氏は、やっぱり僕らよりも大人であるため忙しいみたいだ。
螢さんは氷山部長の確認に、軽く頷く。
「ん。藤林静馬氏に会わせてくれたなら、約束通り稽古をつける。起請文を書いても良い」
「いや、不要だ。あなたは「口約束だから」と後から反故にするような人間ではない。秋津君のそんな言葉を信じますよ」
螢さんは「ありがとう」と告げた。
それから僕ら三人は、地下鉄に乗って目的地へと向かった。
向かう先は文京区湯島。帝都大学のある本郷にほど近く、菅原道真公を祀る湯島天神があることで有名だ。
その湯島に、藤林家が暮らすマンションがあるそうだ。
初夏の熱をほのかに浴びながら、春日通りの長い坂道を登り、途中で脇道へ入る。そこから氷山部長を先頭にして奥へ進んでいく。
ほどなくして、件のマンションに到着した。
階段を登って、二階へ上がり、通路を進んで——「210」という番号札の貼られたドアの前で止まった。
ドアの横には「藤林」という表札。
氷山部長はインターホンを押した。
キン、コーン、という呼び鈴がドアの奥で響き、それからすぐに、
『いらっしゃい、京ちゃん』
いきなり女の人の声が聞こえてきて、僕はビクッとした。ドアまで近づいてきたことに気づかなかったからだ。物音一つしなかったのである。
京ちゃん……というのは氷山部長の名前か。訪問者が部長と分かったのは、ドアに付いた覗き穴のせいだろう。
氷山部長はうやうやしい口調で、
「おはようございます、奥様。先日お伝えした二人をお連れいたしました」
『ええ。今開けるわね』
落ち着いた感じの声だなぁ、と思っていると、鍵がカチャッと鳴り、ドアが僕らの手前へ開いた。
一歩引いてドアの全開を待つと、中から一人の若い女性が現れた。
聞いた声から連想した通りの、落ち着いた感じのするお姉さんだった。
穏やかそうな目元が特徴的な美人である。髪は肩を少し過ぎる程度の長さ。ゆったりめな七分袖とスカートが、内包するたおやかな曲線美をゆるく表している。
良妻賢母のような柔和な雰囲気と、静かな色気のようなものを感じさせる女性だった。
そのお姉さんは部長へ笑みを送ると、今度はその後方に控える僕と螢さんへ視線を移した。
「——藤林静馬氏の奥様ですね。お初にお目にかかります。望月螢です。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
螢さんがその視線に応じる形で模範的な自己紹介をするのを見て、僕も慌ててそれに倣った。
「あ、秋津光一郎ですっ。氷山部長の後輩で、螢さんの弟弟子をさせていただいております。お招きいただき、ありがとうございます」
「ふふ。よろしくね、望月さん、秋津くん。私は藤林千鶴よ。……さ、どうぞ上がって」
そう言って、お姉さん——千鶴さんは、僕らを家へと快く招き入れてくれた。
靴を脱いで中へ入り、廊下を進む。
その途中で、大小さまざまな植物が鉢植えされているのを見た。
あるモノは玄関の三和土の隅っこに小さく並んでいたり、あるモノは下駄箱の隣にどっしり鎮座していたり、あるモノは壁に紐で吊るされていたり……
種類も多い。さまざまな形の多肉植物や、中南米原産のエアプランツなど。
数歩進んだだけで、まるで小さな植物園のようなありさまであった。
……おそらく、これは静馬さんの趣味だろう。
彼は現在、この湯島近くにある帝都大学にて、植物の研究をしているという。自宅までこのありさまである時点で、よほど植物がお好きなのだろうと否が応でも分かる。
先頭を歩く千鶴さんが、人差し指を唇に当てて声を控えめに告げてきた。
「あ、木芽が今部屋でおねんね中だから、なるべくお静かにね。しーっ、よ?」
「このめ?」
「私達の娘。今年で一歳になるわ」
僕らは頷いた。
(なんだろう……綺麗で優しそうな人ではあるんだけど…………それだけじゃなくて、少し不思議な雰囲気のする女の人だ)
僕は千鶴さんを失礼にならない程度に見つめた。
見た感じ、三十歳にはまだ達していない。
だけど、その若さ以上の物腰というか……そういうのをそこはかとなく感じる。
(それに、この女——足音が全然しない。無駄な動作も無い)
僕が日々見ている達人たち……螢さんや望月先生と、同じような動き。
「あの、奥さんは……」
「千鶴でいいわよ。なに、秋津くん?」
「千鶴さんも……お強いんですか?」
千鶴さんは立ち止まってきょとんとすると、口元に手を当てて奥ゆかしく笑声をこぼした。
「ふふふ。確かに私もあの村で生まれ育ったから柳生心眼流の心得はあるけど、皆伝はしていないし、今はもうほとんどやっていないわ」
それからすぐに、僕らは広い空間に出た。
ベランダが奥一面に広がった横広の空間は、風通しも日当たりも良かった。そのためだろう。ベランダには食虫植物やマングローブなどといった、高温と日光を欲する植物がたくさんあった。
右奥がキッチン、左がテレビのある居間であった。
「あ、そこに座って待っていて。今、冷たい麦茶を持ってくるから」
そう言って右奥のキッチンへ向かう千鶴さんに「おかまいなくー」と決まり文句のように告げる僕と部長。
僕らは言われた通りに、左端の居間へ移動した。背の低いテーブルの周りに腰を下ろす。
部屋の左の奥の角にはテレビ。そのテレビの手前には戸棚。
「……ん?」
戸棚の上に、写真立てが一つあった。
ふと気になった僕は、その写真立てへと近づいた。
その中には、一枚の集合写真があった。
老若男女多くの人が、神社らしき建物の前で整列して映っていた。
……その中の一箇所に、一人の少女を見つける。
千鶴さんによく似ている。おそらく、彼女本人だろう。
彼女は、隣にいる一人の少年と手を繋いでいた。
繋いだその手を恥ずかしそうに横目に見ている、優しげな顔立ちをしたその少年。
写真の右下にには「’90 11 22」という数字。……これは写真が撮られた日付だ。つまり、一九九〇年十一月二十二日に撮られた写真。
——ソ連軍が帝国北方に侵攻してきたのは、一九九一年一月八日。
「——気になる?」
ふと、後ろから尋ねてきた千鶴さんの声に、僕はビクッとして我に返った。
「す、すみません。ジロジロ見ちゃって」
「いいのよ。その写真が気になる?」
「えっと、気になるというか……これ、戦争が始まるより前の写真だな、って」
千鶴さんは持ってきた麦茶とグラスをテーブルに置くと、僕の方へ戻ってきた。
「これは、玄堀村で行われた奉納演武の後に取った写真よ。——これが、私と静馬さん。十五歳の頃ね」
僕が先ほど着目していた少年と少女を指差して、そう告げる千鶴さん。……やっぱりそうだったか。
次に千鶴さんは、お二人の後ろに立っている男の人を指差した。三十代くらいの、いかにも体力自慢っぽい、気の良さそうな男の人だった。
「この人は、佐伯傳次郎さん。私達の兄弟子だった人よ。静馬さんも私も、この人のことを本当のお兄さんみたいに思っていたわ」
気がつくと、螢さんまで僕の隣へ来て、写真を見つめていた。近い。いいにおいする。
千鶴さんは、寂しそうに微笑んで、告げた。
「——この人ね、静馬さんを庇って、ソ連兵の擲弾を浴びて亡くなったの」
僕と、そして隣の螢さんは揃って息を呑んだ。
千鶴さんは一人、また一人と、写真の中の人物を指差していった。
全員ではなかったが、それなりに多くの人達が指差された。……半数近く。
「みんな、あの戦争で、亡くなったわ」
唐突に語られる戦争体験に、僕らは揃って手足を動かせなくなっていた。
「十一年前の戦争は、玄堀村からいろいろなモノを奪い、変えてしまったわ。——あの人の心さえも」