電話、そしてうっかり
その日の夜。
家のお風呂から出たばっかりの僕は、電話機の受話器を取り、番号を入力していた。
ちなみに我が家の電話機はいまだにダイヤル式の黒電話だ。「そろそろファックスに買い替えたいわねぇ」とお母さんは呟いていたが。
……昨今は電機メーカーから、片手で持てるくらい小型化された「携帯電話」なるモノが発売され、国内でその所持者が増えている。電話だけでなく、電子メールも使えるという優れモノ。あと、最近のは画質がイマイチながらカメラも付いているそう。その話をお母さんにすると「中学生にはまだ早い」と一蹴されたが。
閑話休題。
じーころ、じーころ、とダイヤルを回して入力している番号は……螢さんの家の番号だ。
今でこそこうやって気軽にダイヤルを回せているけど、最初は一回番号を打つだけでもドキドキしたものだ。
だってさ、仕方ないでしょ。電子化された音声とはいえ、螢さんのあの銀の鈴が鳴るみたいな声を、耳元で聴くんだよ? まともに話せるまでちょっとかかったよ。
いや、今でも多分、慣れない。電話ならもう大丈夫だが、甘い吐息とともにあの肉声を耳元で囁かれたら頭がぶっ飛びそう。いやぶっ飛ぶ。三半規管が狂って螢さんとコーヒーカップでぐるぐる回り続ける夢を見そう。
…………いやらしいこと考えてないで、電話に集中しよう。煩悩退散。
最後の番号を入力し、受話器を耳に当てる。
何コールかしてから、プツッと繋がる音。
『——はい。望月です。どちら様でしょうか』
螢さんの声だ。電子音でも耳に心地良い。
「あ、僕です。秋津光一郎です。夜分遅くに失礼します。今、ご都合はよろしいでしょうか?」
『コウ君? うん。大丈夫。どうしたの?』
いけない。螢さんの声を聞くことばっかり考えていて、伝えたい情報を事前にまとめておくのを忘れていた。
僕はしどろもどろになりつつも説明を開始した。
富武中学撃剣部は、来るべき都予選に備えて、戦力を強化したいと思っていること。
そのために、優秀な剣士を指南役として招きたいこと。
その指南役に、螢さんを選びたいこと。
かいつまんでそれらを説明した上で、
「それで……どうでしょうか。図々しいとは思いますけど、その……引き受けては、もらえませんか?」
そのようにおずおずと頼み込んだ。螢さんが目の前にいるわけでもないのに深く頭を下げて。……こういうビジネスマンの人を見たことがあるな、とふと思った。
して、螢さんから返ってきた答えは。
『——ごめんなさい』
とても残念なものであった。
「そう、ですか……」
僕は少し落胆するが、同時に、こうなることは何となく予想が出来ていた。
『わたしは、自分以外の人のために、剣を振ったことがないから』
螢さんはそう言ってから、少し言い方を違えたと言わんばかりに、次のように訂正してきた。
『ううん。ちがう。わたしは、自分のことだけで手一杯だから。
出来るなら、稽古を減らしたくはないから。
減らすと、弱くなってしまいそうだから。
私は——それが怖い』
普段は淡々とした彼女の声が、今、少し余裕無さげに張り詰めているのが、電話越しでも分かった。
……彼女が剣を学ぶ理由を知る身としては、今の言葉の意味を、強く理解できてしまう。
だからこそ、これ以上、食い下がることはできない。
「……分かりました。すみません、こんなことで電話しちゃって」
『大丈夫。でも、なんか新鮮だと思った。こんな時間に、コウ君と電話で話をするなんて』
「そ、そうですか。……その、指導員の話は、断られちゃいましたけど、僕は微塵もガッカリしてませんから。こうやって……螢さんの声をこんな時間に聞けただけでも、その、かなり幸せなので」
『……ありがとう。わたしは電話の声より、コウ君の肉声の方が好きだけど』
好 き だ け ど 。
す き だ け ど 。
ス キ ダ ケ ド 。
S U K I D A K E D O 。
(好き!? 今、「好き」とおっしゃいましたか!?)
いや、解ってるよ? 電話で話すより、直で話すほうが好きってことでしょ? 解ってるさ。解ってるけどさぁ、どういう形であれ、好きな女の子に自分のナニカを「好き」って言ってもらえるのって、昇天しそうなくらい嬉しくないですか? いや嬉しい。ていうか「肉声」っていう単語、なんかえっちじゃないですか? いや、えっちだ。そんなえっちな単語があの小さく可憐なお口から出てきたというのか。それってさらにえっちでは?
「あ、ありがとうございます……!!」
まさに感慨無量。こんな簡単なことで喜色満面になってしまう自分にオスの浅ましさを感じるが、そんなのどうでも良いくらい嬉しい。
気持ちが弾む。弾んで月まで飛んでいってウサギさんと餅つき大会を開きそうなくらいに。わっしょいわっしょい。
その気持ちと同じくらい弾んだ声で、次の言葉を発した。たとえ電話でも、せっかく螢さんと話すのだから、もう少しだけ会話を延ばしたい。
「うーん、螢さんが駄目となると、どうしましょうか。氷山部長のお師匠さんも頼れないみたいだからなぁ」
『部長さんの師匠?』
「あ、はい」
そういえば、この話は螢さんにはしてなかったな。
弾んだ気持ちのまま、軽やかな口調で話していった。
「部長のお師匠さん、凄い人なんですよ。何せ、十一年前の戦争でソ連軍相手にゲリラ戦を繰り広げていた人で、『玄堀の首斬り小天狗』なんて呼ばれている人なんですから」
——がちゃがちゃん!!
瞬間、受話器の向こうから、何かをぶつけるような凄い物音がした。
耳に響いて、僕は思わず受話器を耳元から遠ざける。
そのショックで、今になって実感する。
——『玄堀の首斬り小天狗』。
この単語を僕が口に出したのは、螢さんにとってはまさしく不意打ちだろう。
まして、その弟子が、この帝都にいるだなんてこと。
……ソ連軍によって無抵抗に故郷の村を焼かれたという辛い過去を持った螢さんにとって、抵抗の末に村を守り抜いた『玄堀村』は、羨望と憧れの対象である。
その玄堀村の英雄である『玄堀の首斬り小天狗』は、彼女にとっても英雄そのものだろう。
——何と迂闊なのだろうか、僕の口は。
「好き」と言われて舞い上がっていた数秒前の僕に「浮かれるな」と釘を刺せたら、どんなに良いか。
だけど、すでに口から出てしまった言葉は、吸い戻せない。
やがて、受話器の向こうから、螢さんの声が聞こえてきた。
『……どういう、こと? 田岡静馬氏の弟子? 部長さんが? 部長さんは心眼流? どこで習っているの? 北海道? それは遠すぎる。であれば、帝都? 帝都に『首斬り小天狗』が住んでいるの? でも、そんな話は聞いた事が無い——』
そのように連ねられる螢さんの言葉は、普段とは明らかに調子が違う。
まるで、三日三晩一滴も水を飲んでいない人が、水場へ向かって懸命に這いずっている時のような、強い渇望を感じる声色。
「お、落ち着いてください螢さん。いつもの螢さんらしくありませんよ」
……僕は、そんな螢さんを、一瞬だけど「怖い」と思ってしまった。
彼女の持つ心の闇の片鱗を、また一つ見たような気がした。
「自分は戦災孤児である」と告白してきた、去年のあの日みたいに。
螢さんはしばらく黙ってから、再び声を聞かせてくれた。だいぶいつも通りな感じの平坦な声を。
『……ごめんなさい。少し、取り乱した』
「いえ、いいんです。僕も軽はずみでした」
『ん。それで、コウ君の部長さん……氷山さんの先生が田岡静馬氏というのは、確かな情報なの?』
「は、はい。ちなみに今は結婚されているみたいで、「藤林」という名字に変わっているみたいです。藤林静馬さん」
『藤林…………明治期に玄堀村へ移住し、心眼流を村に広めた、仙台藩士の姓』
なんと。そんなことまで知っているのか。
螢さんはまたもしばらく押し黙ってから、
『コウ君』
「は、はい」
『コウ君の学校の撃剣部の指導、わたし、引き受けても良い』
「へぁっ!?」
突然の訴えに変な声で驚く僕。
『ただし、条件がある』
「条件、ですか?」
『ん。——田岡、ううん、藤林静馬氏に会わせて。そうできるよう、部長さんにお願いして欲しい』