マルティンとメリーナ、そして魔界の動向
●第八章
メリーナは悪夢にうなされた翌日も、そのまた翌日も父の代理人としての仕事をこなし、アルフレートもメリーナの仕事ぶりを徐々に評価する様になった。あいにく交渉の場であれ単なる社交の場であれ、パーティーには参加をしなくなった。それは前にハンスの前で心を支配された状態つまり「闇のメリーナ」になってしまい誘惑した時の様な淫らな振る舞いをしてしまうのではないかという不安ゆえの判断だった。
かくして「いつ闇のメリーナになるか分からないのでなるべく男性の前には、少なくとも事情を知っているマルティンやトーマス以外の男性の前には出たくない」と恐れつつもどうにか仕事をこなしていたメリーナだったが、メリーナも二十歳の女性である。仕事も食事も終わった後には、一人きりになりたいときもあるのだった。
その日のメリーナは、自身の部屋に戻ると鍵をかけた。そしてベッドの上にハンカチを敷いた。これからおこなう行為によって床が濡れてしまうのを防ぐためだ。
「トーマス神父……いえ、私のトーマス(マイン・トーマス)…今日も私を愛してね!」
メリーナはトーマスを、まるで自分の恋人であるかの様に呼びなおした。最近どうしてもやめられない、とある行為をする前にはもう一つ気にしないとならないことがある。窓にカーテンをかけて外から室内を見られない様にしたメリーナは、上着を脱ぎスカートも脱ぎ、そして下着も脱いで全裸になった。
ふわっとした甘ったるい香りが室内に広がる。汗のみならず股間に息づく秘唇から少しだけ漂う淫猥な香り。その芳香を嗅ぐ者がいればヘテロセクシャルの男性でも同性愛女性でも、思わず芳醇な芳香の源である花弁にキスをしたくなるであろう。だが実際には今その部屋にはメリーナしかおらず、そしてメリーナの頭の中ではメリーナ自身の他にメリーナに優しくキスをするトーマスの二人がいるだけだった。
ベッドの上にあおむけになったメリーナは、形よく盛り上がっている胸の双丘を片手でやわやわと揉みしだきながら、利き手を大腿部のあわいにひっそりと煙る叢に這わせた。メリーナの股に生える恥叢は、鳩の胸毛の様に柔らかい和毛がうっすらと生えている清楚なたたずまいだ。メリーナのたおやかな指先は、そのふんわりとした恥毛の奥に息づく、ふっくりした肉裂を触り始めた。
「あん!…いけないわトーマス!こんなところで……」
妄想の中のメリーナは、教会の懺悔室でトーマスから愛撫を受けていた。それはメリーナが自慰をする際に特に好んで妄想する場面だった。妄想の中のトーマスはメリーナのお椀状の乳房を優しく愛撫しながら、太ももの間にある蘭の花の様な花弁に口を寄せ、ピチャピチャと音を立てて愛蜜をすすっている。さらにトーマスはメリーナに優しく語りかける。
「メリーナ…僕の子猫ちゃん(マイン・カッツヒェン)、君の花びらは蘭の花よりも妖艶で、そして薔薇の花よりも芳しい。…愛してるよ、メリーナ」
メリーナの女性器に対して最大限の賛辞を述べてその美しさと芳しさに感動しているトーマス。メリーナの女性器を舐めているのが教会の懺悔室だという事から背徳的な快楽を得て、メリーナは背中にゾクゾクする様な喜悦のさざ波を感じた。最愛の男性に献身的な愛撫を受けているという想像によってメリーナの陰裂はジュクジュクと花蜜を滴らせ、ベッドに敷かれたハンカチには水滴がポタポタと落ちる。
「あっ…ううン…ふウウッ…いい!いいわぁ……」
股間を舐められ、更には唇にもキスをされる事を妄想しながら、メリーナのたおやかな指先は蜜液をたたえる花弁を何度も上下し、弾き、こねくりまわす。自らの指による動きとはいえ最愛の人との背徳的な行為を夢見て多彩な愛撫を菫色の陰唇にあたえながら、他方の手ではパン生地の様に柔らかい胸の双房をグニグニこねまわす。さらに先端で屹立している乙女のシンボルを指先でつまむと、ジンジンと痺れる様な快美が胸から背中にまで突き抜け、メリーナは喜悦ゆえに甘い吐息を漏らした。
「ああ…トーマス!トーマス!」
想像の中のトーマスは既に思う存分クンニリングスを施し、メリーナの花弁から流れ出た神聖な花蜜で唇から顎まで飴細工の様にテラテラと光らせた。トーマスはさらに唇をメリーナの唇に寄せ、キスをしながら陰茎をメリーナの花弁に押し付けている。
処女のメリーナが実際にトーマスにそんな行為をされるとしたら、よほどゆっくり入れてもらわなければ体に裂ける様な激しい痛みを感じるだろう。だが、想像の世界でのメリーナは既に何度もトーマスと情を交した事になっている。それゆえ長年愛し合っている夫婦の様に自然な腰の動きでトーマスのペニスを受け入れた。
「ああ…いい…素敵よトーマス!」
フリル状の花弁をまさぐっていた指の律動を速め、メリーナは腰をグリグリとグラインドさせる。さらに指先で花弁の隙間にピンッと屹立している尖がり帽子を刺激すると、体の芯を甘美な雷撃が突き抜ける。女性の体の中で一番敏感な肉の芽。メリーナの愛の突起は珊瑚色の先端部をぴょこんと突き出している。まるで肉悦を得たくて自己主張している様だ。昂った性欲ゆえに勃起している花の芽だが、彼女の妄想の中のトーマスは
「僕の子猫ちゃん(マイン・カッツヒェン)、君のお花は健気に芽吹いているよ。とても愛くるしい花の芽だね」
などと、メリーナの陰核を指で愛撫しながら優しく語りかける。その甘美な言葉と優しい愛撫を想像しながら自らの蜜液を掬い取ってクリットに塗りたくる。淡いピンクの尖がり帽子がテラテラとガラス細工の様な光沢を放つ。粘性が増した花の芽をクリクリこねると、メリーナは切なさに甘い吐息を漏らしながら腰を切なげに震わせた。
「ああ…トーマス!…やっぱりあなたは最高よ!」
最愛の人を想って呼びかける睦言も、鼻にかかった様な甘い声音に変わっていく。想像の中のトーマスは既に陰茎をメリーナの肉壷に収め、何度も激しく腰を振っている。その想像の中の律動を再現するかの様にメリーナが可憐な陰核を前後左右に揺さぶると、股間からこんこんと湧き出る快美の泉が腰から全身に広がり、心臓がドキドキと高鳴った。快楽曲線がグングン急上昇し、メリーナは激しい肉悦に頭を左右に振るいながら叫んだ。
「ああ…ううッ!!も…もう、イキそう!!」
大きくはないが形の良い乳房を片手でグニグニかき乱し、もう片方の手では花の芽と陰裂の両方をビチビチと弾く様に刺激する。誰かが見たら指が痙攣するのではないかと思うほどの激しい指の律動を幾度も繰り返したメリーナは、ついに快楽の頂点に達した。
「あああッ!イクイク!イッちゃうううッ!」
陰部と乳房から湧き出た快楽の奔流は牛の様な大型の家畜さえも飲み込む様な大濁流となって、メリーナの脳髄まで飲み込んだ。メリーナの秘唇から清らかな愛蜜がトプットプッとあふれ出し、陰部で屹立している珊瑚色の宝石はもとより胸の双丘の先端に息づく乙女のシンボルもヒクヒクと痙攣する。
激しい愉悦に全身をガクガクと震わせ、新品のベッドでも軋むほどに全身を痙攣させるメリーナ。その眼前にはチカチカと星が瞬き、その星の光がパアッと一気に明るくなって全身を包んだかと思うと直後には目の前が真っ暗になり、メリーナは気を失った――
数分後、まるで温かい毛布に全身をくるまれたかの様な充実感に満たされながら目を覚ましたメリーナは、自身の股間の下に敷いておいたハンカチがしとどに濡れていることに気づき、さらに自身の陰部が絶頂に伴うほろずっぱい芳香を放っている事に気づくと、若干の気恥ずかしさを感じながら陰部をハンカチで拭った。そして絶頂後のふわふわした高揚感に包まれながら、服を着た。
●第九章
他方のトーマスは、メリーナの恋心に気づくこともなく教会で懺悔を聞くなど神父としての任務を果たしていた。
「入って良いですよ(ズィー・ケネン・エントレーテン)」
トーマスの呼びかけに、懺悔室の外から子どもの声が答えた。
「ありがとうございます(フィーレン・ダンク)」
懺悔室に入ってきたのは、十歳くらいの男の子だった。ヨハネスと名乗ったその男の子は、外見的には特に美少年でも不細工でもない、平均程度のルックスだ。ヨハネスという男の子は神妙な面持ちのままひざまずくと、トーマスに向かって懺悔を開始した。
「神父さま、僕は罪を犯しました」
「私たちは皆、イエス様の観点から見れば同じく罪人です。あなた(ズィー)の罪について、具体的にお話しくださいますか?」
「はい。実は僕はつまみ食いをしてしまいました。しかも、それを素直に認めず『つまみ食いをしていない』というウソをついてしまいました」
深々と頭を下げて申し訳なさそうにするヨハネスには真剣な反省の色が見えた。以前のトーマスならば、ヨハネスに謝罪するように促し、それで相手が「一人で謝罪するのは心細い」と言ったら一緒に謝罪に行くのが常だった。今回も、そういう提案自体をしなかったわけではない。そして実際に一緒に謝りに行って非常に反省していることをヨハネスの保護者である母親に伝えたのだ。だが、彼の母親が
「つまみ食いをしたことだけなら許すわ。でも、ウソまでついたことについては何か罰を与えないとね」
と言った際に、トーマスが思わずヨハネスの身を案じて
「罰ですか?それは具体的にどういうものでしょう?まだ十歳ぐらいのお子さんですし、あまり厳しい罰はお与えにならない方が良いと思いますが……」
などと言ってしまったことで、逆にトーマスが責任を負う事になってしまった。というのも、トーマスの言葉を受けた母親が
「だったら神父さまご自身が適切とお考えの罰を与えてくださいませんでしょうか?私ではついつい手加減せずに罰を与えてしまいそうですので」
と言ってしまったので、やむを得ず再度ヨハネスを教会に連れて行って何かの罰を与えねばならない立場になったからである。しかもその母親から
「具体的にどんな罰を与えなさるかは神父さまにお任せしますが、この子がウソをついたことを充分に反省するまで罰を続けてくださいね」
とまで釘を刺されたので、厳しさを演じなければならない立場に置かれたトーマスはますます困った。
ヨハネスと一緒に教会に戻ったトーマスは、母親から頼まれた以上は罰を与えねばならないと考え、何か雑用をさせようとした。だが掃除も皿洗いも既に修道女たちが終えていた。ならば買い出しや薪割りはと思ったが、そうした力仕事(?)の類はトーマス自身が昨日やっていたという事を思い出した。
(何か労働をさせれば罰になると思ったのだが、あいにくその労働そのものがここには無いな……)
具体的な罰の与え方に窮したトーマスは、ヨハネス自身に問いかけることにした。
「ヨハネス君、きみのお母さんはどんな罰を与えるんだい?」
「……」
家の中の人以外で、しかも人望のある神父さまからプライベートな事を尋ねられたヨハネスは答えにくくて黙ってしまった。何か言いたくない事情があるのだろうと察したトーマスは無理をさせないためになるべく優しい口調で告げた。
「い…いや、無理にとは言いませんよ。言いたくないなら仕方ありません……」
だが、ヨハネスは少しだけ躊躇した後、ハッキリと伝えた。
「神父さま、実は僕の家における家事以外の罰は、お尻を叩くことです」
「え?…」
トーマスはそのまましばし次の言葉を発することが出来なかった。先ほど見た限りでは、ヨハネスの母親は厳しそうな雰囲気ではなかった。ならば彼の父親が叩く役割で母親はそんな父親をいさめる立場なのだろうか?トーマスが自身の疑問をヨハネスに投げかけたところ、
「いえ、違いますよ神父さま。いつも父は母に『そこまで厳しくする必要は無い』と言ってくれるので父がいる時は叩かれずに済んでいますが、父が外出している時は僕がいくら謝っても母が僕を許さない場合はお尻を叩かれます」
「そ、そうなんですか……」
トーマスは、先ほど見たヨハネスの母親の柔和な表情とは似つかわしくない厳しい側面を知って少なからず驚いた。のみならず、普段は体罰を厳禁しているトーマスでありながら、お尻叩きという体罰がヨハネスの母親にとってのしつけの一環ならば、その過程の流儀に合わせてあげるのが良いことではないのかという不思議な感情が湧いてきた。
「わ…分かりました、ヨハネス君。私が椅子に座りますから、膝の上にお腹を載せてください」
「はい、神父さま」
何をされるのか察知したヨハネスは神妙な面持ちで、椅子に腰かけたトーマスの大腿部にお腹をのせると、お尻を少し突き出すような姿勢を取った。
パシッ!…ピシッ!…パアン!……
トーマスが平手でヨハネスのお尻を叩くたびに軽妙な音が響いた。
「ヨハネス君、君のお母さんは平均すると何回くらい叩くんですか?」
「へ…平均ですか?……」
ヨハネスは言い淀んだ。これまで何度も母親にお尻を叩かれたが、その回数の平均値など考えてもみなかった。それでも何も答えないのは申し訳ないと思ったヨハネスは記憶にある限りの正確な情報を伝えた。
「平均は分かりませんが、少ない時で十回、多い時には五十回におよびますね」
ヨハネスの答えを聞いたトーマスは考えを決めた。
「そうですか。ならば今回は私に対する初めての懺悔ですので、十回とさせていただこうと思いますが、よろしいですか?」
「はい。分かりました。…でも、それはそれとしてですね、神父さま」
「ん?」
トーマスの提案を受け入れたヨハネスだったが、家庭で母親から受けたお尻叩きを再現するなら、さらに付け加える事があると判断した。
「それと、神父さまの叩き方は母の叩き方に比べると非常に弱いです。遠慮なさらなくても良いですよ」
「そ…そうですか?では少し強めにしますね」
そもそも体罰自体を躾とは思っておらず、罰として与える労働がたまたま教会内に無かったから代わりに体罰を与えたに過ぎない。とはいえその罰を与えるべき児童の母親から罰を与えることを任されているのであれば、多少はその母親の与える罰に近いことをしなければなるまいという使命感も湧いてきたので、やや強めの打擲に切り替えた。
パシッ!…ピシッ!…ペシン!……
合計して十回のお尻叩きはズボンの上から叩いたものであったし後半から手の動きを強めたとはいえ母親の叩き方に比べれば手加減された打擲だった。だが、家族以外の人物しかも人望のある神父に叩かれたという事でヨハネスは肉体的のみならず精神的にも打ちのめされたのか、叩かれた後はしばらく放心状態で、立ち上がること自体に数分を要した。
トーマス自身は「体罰なんかで問題が解決するのだろうか」と疑問に思ったままだったが、後日ヨハネスの母親と会った際に
「神父さまのおかげで、あれ以降ヨハネスは前より素直になりました。私が罰を与えた時より効果がありましたよ」
と言われたので、「今回に限っては体罰も意味があった」と思う様になった。
ミュンツァー市はそれなりに大きな都市であるので、そこにおける人間関係は田舎の人間関係よりは希薄である。だが、人口が多くて人間関係が希薄な都会とはいえ母親同士のつながりはある様で、ヨハネスの母親は自身と同じく子育てに悩む近所の母親にトーマス神父から罰を受けて以来ヨハネスが素直になったという事実を伝えることになった。
その翌週の日曜日、トーマスの教会にヨハネスの母親と同じくらいの年齢の女性が、娘とおぼしき十歳くらいの少女を連れてやって来た。
「入って良いですよ」
「ありがとうございます」
母親らしき女性に連れてこられたのは若干むくれた様な表情をした、ルックス的には平均位の少女であった。その少女を連れてきた女性は、トーマスの顔を見ると開口一番言った。
「神父さま、どうか私の娘に罰を与えてくださいませ」
「え?…お、お待ちください。まずはご事情を説明なさってください」
具体的な事情を述べずに厳しい提案をする母親に、トーマスは戸惑いながら応じた。
「実は娘のルイーズは、夫の大切な陶器をウッカリ割ってしまったうえに、それをごまかそうとしてペットの犬のせいにしたんです」
「さ、左様ですか…まあ、それはもちろん良くないことですね……」
トーマスは母親の言葉を認める発言をすると、「ルイーズ」と呼ばれた少女の顔を見た。ルイーズは自分の行為を神父に伝えた母親を少しにらんだが、その直後にトーマスの方を見ると恥ずかしそうにうつむいてしまった。ルイーズの母親の言葉にウソはないと思ったトーマスだったが、念のために少女本人の話も聞くべきと思って話しかけた。
「ルイーズちゃん、君のお母さんが今言った話は本当なのかい?」
トーマスからの問いかけに答えることをしばし躊躇していたルイーズだったが、やがてコクンとうなずいた。
「そうですか。分かりました」
ルイーズが自身の罪を認めたことを確認したトーマスは、ルイーズの母親に向き合って言った。
「お母さん、ルイーズちゃんは今こうして自分の罪を認めました。どうしてもお母さんがご希望なら私から少しお説教しておきますが、厳しい罰は不要ではないでしょうか?」
体罰はもとより、厳しい罰は幼い子を傷つけるだけで更生に役立たないのではないかと思っているトーマスだったが、そのトーマスの言葉にルイーズの母親は納得しなかった。
「神父さま、それは甘すぎる考えです。この子は私が糾弾してもすぐには自分のあやまちを認めませんでした。今回こうして教会に来るのだって、激しく拒絶したんですよ。そんな子に対して『厳しい罰は不要』などと言って頂きたくありません」
「し…失礼しました!」
トーマスは深々と頭を下げた。
ルイーズが母親とともに教会を去った後、トーマスは悩んだ。
(はたしてこんな事を続けても良いのだろうか?)
トーマスの立場は、いわば板挟みの状態であった。自らは体罰に絶対反対する立場のトーマスだったが、その子どもの親権者である母親から頼まれた場合に、その頼まれた範囲内での体罰をすることは仕方ないのだろうか。出来ればそんなことはしたくないと思っているトーマスだったが、罪を犯した子どもの母親から「同じお尻叩きでも、私が叩くよりも神父さまに叩かれた方がこの子の更生に役立つんです」とまで言われたら「それでも私は体罰をしません」と言うための理屈をひねり出せないというのが偽らざる心境であった。
いっそ「理屈ぬきで私は体罰をしません」と言い切ればお尻叩きをする義務はなくなるだろう。だがそうした言い方は、普段から何事も道理を重んじて、ダメなことについては「その点は、これこれの理由にもとづきダメです」と説明をして説教をしてきたトーマス自身の生きざまに反するので、「理屈ぬきで」という言い方はしたくない。
そんな風に「どういう理由を付けて体罰の代行を断るべきか、そもそも断る理由を見つけられないんじゃないか」などと悩んでいたトーマスのもとに、娘を連れた別の母親がやって来た。
「入って良いですよ(ズィー・ケネン・エントレーテン)」
トーマスの言葉を受けて懺悔室に入ってきたのは、三十代前半くらいに見える、黒髪の美しい女性と、その娘とおぼしき十歳くらいの美少女であった。美しい母親と可憐な娘、その組み合わせだけでも人目を惹くところであるが、トーマスは少女の顔を見て何かを思い出そうとしていた。
(あれ?私はこの少女とどこかで会ったかな?他人の空似かもしれないが以前どこかで会った少女に似ている様な気がするのだが……)
子どもとはいえ、一度あった人を忘れては失礼にあたると思ったトーマスはどうにかしてその少女の名前を思い出そうとした。とはいえ、もしも他人の空似だったら無理に思い出しても単に別人の名を呼ぶ事になるのだが、トーマスは律義にも必死に思い出そうとして悩んでしまった。その時、少女本人ではなく母親とおぼしきご婦人が話しかけた。
「あのう。神父さま、お疲れのご様子ですが、お体は大丈夫でしょうか?」
「え?…」
トーマスは戸惑った後、その女性の指摘を必死に否定した。
「いえ、大丈夫ですよ。少し考え事をしていただけです!私は体を壊したわけではありません!」
必死にその少女の名前を思い出そうとした自らの表情が相当に切羽詰まっていて体調不良に見えたのだと気づいたので必死に弁解した。
その後、メラニーと名乗った黒髪の美女は、彼女が連れてきた十歳くらいの美少女は「ケーテ」という名の娘であり、「ヨハネスの母親から『息子はトーマス神父にお尻を叩かれて以来イタズラをしなくなった』と聞いたのでこの教会にやって来たのだ」という、自身の意図を伝えた。
そこまで聞いた時点でトーマスは
(またもや子どものお尻を叩かないとならないのか?)
と不安に感じたが、その三十歳前半位の美女が手に持っている物を見ると冷や汗が出た。なんと彼女は乗馬用の鞭を持っていたのだ。
(さ、さすがにまさか「この鞭で娘のお尻を叩いてほしい」だなんて言わないよな……)
だが、その女児の母親とおぼしきメラニーがトーマスに求めたことは、まさにトーマスの懸念そのものだった。
彼女によれば、連れてきたケーテという名の少女はメラニーの実の娘であり、他人様の高価な宝石を盗んでしまったことから糾弾されたところ、その宝石の持ち主に対する謝罪の意を込めてお金を払ってその件を誰にも言わないようにお願いする一方、娘のケーテ自身にはこうしてトーマスの教会に連れてきて矯正しようとしているとのことだ。彼女が手に持っている乗馬用の鞭も、娘の矯正のためトーマスに使ってほしいとの話である。
美少女ケーテの母親と称するその美女の話をひと通り聞いたトーマスは、ゆっくりと語り掛けた。
「あなたのお気持ちは重々承知しました。しかし、そもそも体罰というのは良くありません。それに、もしどうしても体罰が必要だと仮定しても、さすがに乗馬用の鞭は極端です。せめて木のへら……いえ、手のひらで叩くことを上限とするべきでしょう」
だが、その美女はトーマスの言い分に納得しなかった。
「神父さま。ヨハネス君もルイーズちゃんも、ご家庭の中の被害のみでそれだけの罰を受けました。私の娘のケーテは他人様の物を盗んだんですよ。しかも高価なものを。よそのお宅にそれだけの被害を与えたケーテがヨハネス君やルイーズちゃんと同じくらいの罰というのでは納得できません。是非ともケーテには、この乗馬用の鞭でお仕置きをしていただきたいんです!」
「……」
ヨハネスやルイーズを引き合いに出されたトーマスはしばし沈黙してしまった。
(あの子たちよりも問題のある行動をしてしまった、このケーテちゃんという女児を甘やかしたらダメなのかな)
という懸念が湧いてきたからである。とはいえ、さすがに乗馬用の鞭で幼い女児のお尻を叩くなんて残酷すぎるという懸念がある。それに(外見で人を差別するのは良くないと理屈ではわかっているのだが)前回お尻を叩いたルイーズちゃんよりも今回やって来たケーテちゃんの方が美少女である。もちろん美少女でなければお尻を叩いても良いというわけではないが、美少女のお尻を叩くというのはルイーズちゃんのとき以上に気が引けてしまうのも無理はない。
だがトーマスは、あえて平静を装って答えた。
「了解しました。メラニーさん、私にお任せくださいませ。ケーテちゃんのお尻をその鞭で叩いて、矯正してさしあげます。ただ、さすがにお尻を叩かれているところをお母さんに見られるのは恥ずかしいでしょうから、しばらく聖堂でお休みください」
この言葉を聞いて安心したメラニーはトーマスに無知を渡すと、あらためてお願いをするかのように頭を下げて懺悔室を去った。
懺悔室でトーマスと会話をしていた母親の発言を否定しなかったケーテは、いわば自身の容疑を認めた様なものだが、果たして彼女が本当に宝石を盗んだのか否か、ケーテ自身の言葉で確認したかったトーマスは、しゃがみこんでケーテと同じ目線の高さになると問いかけた。
「ケーテちゃん(フロイライン・ケーテ)、君のお母さんが言ったことは本当かい?君は本当に宝石を盗んだのかい?」
「…うん、盗んだよ」
「…そうかい。…だったらさ、もし嫌でなければなんだけど…その理由を教えてくれるかな?」
「理由?」
「つまり、どうしてその宝石を盗んだのかっていう事さ」
「……」
しばらくの逡巡の後ケーテが言った内容によると、彼女はたまたま近所のお店に行ったときに、店頭に飾り物として置いているアクセサリーを盗んでしまったとのことだ。見た目がキレイで目を引いたこと、そしてそれを身に付ければ何となく不思議な力を身に付けられる様な気がしたから、という事だった。
「事情は分かった。君の気持ちは理解できるけど、やはり他人の物を盗んでは駄目だよ。ケーテちゃん、今後はそんなことしないよね?」
トーマスの問いにケーテはうなずいた。トーマスはその表情を見ながらふと思った。
(それにしても「宝石を身に付ければ不思議な力を得られると考えたせいでそれを盗む」とは……やはり人間は霊力というか卓越した能力に魅せられるのだろう。メリーナさんもそうした願望を持たなければ悪魔を召喚することもなかっただろうし……)
ともあれケーテを信頼したトーマスは、ケーテを安心させるために、ケーテの顔を見ながら言った。
「君の気持はわかったよ。ならば君のお尻は叩かないでいてあげるね。安心して、君のお母さんには『叩いた』って言っておくから」
さすがに鞭で叩くのは危険だと判断したトーマスなりの提案であったが、その提案を聞いたケーテは首を横に振った。
「それは駄目ですよ神父さま。私の母は私のお尻が腫れているかどうかを見て『本当に鞭で叩かれたかどうか』を確認するはずです。もしも腫れていなければ、神父さまが想像できないほどに激しく鞭で私を叩くでしょう」
「そ…そうなのかい?君のお母さんはそんなに厳しい人なのかい?」
「そうです。だから私のお尻が鞭で叩かれたことが見て分かるくらいに強くたたいてくれないと、後で私が困るんです。それに神父さまに対しても母はたぶん『うそつき』という噂を広めると思います」
「……わ、わかったよ。そういう事情があるなら仕方ない。痛いと思うけどガマンしてくれるかい?」
「うん」
こうしてトーマスは、やむを得ず今回も子どものお尻を叩くことになってしまった。
ぱしっ!…ぺしっ!……
ケーテにスカートを下ろさせ白いパンツ一枚のみがお尻を覆っている状態になると、トーマスは鞭で二回ほど叩いた。乗馬用の鞭で叩くことの痛さを考え、ヨハネスやルイーズの時よりは勢いの弱い腕の動きで叩いたところ、ケーテは不満そうに言った。
「神父さま、おそらく神父さまは優しいお方だと思います。ですからそんなに弱く叩いたのでしょう。ですが、こんなに弱い叩き方では母が私のお尻を見た時に『叩いた跡が何も残っていない』とか『神父さま叩き方が不十分だったから私がさらに叩くわ』と言って私を叩きます。母のお尻叩きは怖いので、少し跡が残るくらい強く叩いてください!」
「わ…わかりました!ケーテちゃん、痛いと思いますけどガマンしてくださいね!」
「はい……」
ケーテは両こぶしをギュッと握りしめ、体をこわばらせた。
ピシイッ!――
「ああ、いやッ!痛いーッ!!」
トーマス自身は「先ほどの二倍の強さ」というつもりで鞭を振るったのだが、手加減をし損ねたのかあるいはケーテのお尻が痛みに耐えるには幼すぎたのか、ケーテは悲鳴をあげてしまった。
「ご、ゴメン!大丈夫かい?」
トーマスはあわてて白いパンツに覆われたお尻の近くに顔を寄せた。外出血までしているわけではないのでパンツに血が滲んでいるわけではない。だが、あまりに腫れが酷かったら、これ以上お尻を鞭で叩くのはさすがに辞退しようとトーマスが思ったところケーテが問いかけた。
「神父さま、私のお尻は大丈夫でしょうか?腫れているでしょうか?」
「え?…そ、それはそのう…パンツの上からでは分かりませんので何とも言えません」
「ではパンツを脱ぎますから、見ていただけますか?」
「え?」
言うが早いかケーテはスルスルッとパンツをずり下ろした。皮を剥いた白桃の様な女児のお尻。その可憐な肌の上には痛々しいミミズ腫れが浮かんでいるのが見て取れる。その腫れ具合を見たトーマスは胸を痛めながら言った。
「可哀想なケーテちゃん。君のお尻には鮮やかなミミズ腫れが浮かんでいるよ。こんなに腫れているんだから、さぞかし痛いでしょう。いま傷薬を持ってくるから待っててください」
「たしかに痛いです。でも傷薬を塗ってもらったら後でそのことを母に咎められるかもしれません」
「で、でもこんな腫れた状態のままにしておくのも申し訳ないです。何か私に出来る事はありませんか?」
「たぶん、すこし舐めてくだされば痛みが引くと思います。神父さま、ゆっくり優しく舐めてくださいますか?」
「わ…わかりました!」
ケーテの言葉を受けて、トーマスは「早くこの傷が治ってほしい」との気持ちを込めてクチュッピチャッと音を立てて舐めはじめた。
だが、その瞬間
ガチャッ!――
という音が響き、懺悔室の扉が開いた。
「え?…ト、トーマス神父!何をなさっているんですか?!」
トーマス神父が十歳くらいの幼女のお尻にキスをしている、世にも珍妙な光景を目にしたその女性は素っ頓狂な声をあげた。そしてその女性の顔を見たトーマスも思わず叫んだ。
「メ…メリーナさん!?」
そこには、あまりに意外な光景を見て目を丸くしているメリーナが茫然と立っていた――
●第十章
遠くにいる人の姿を見てその声を聞く「遠隔視聴能力」によって、トーマスとメリーナの恥ずかしい光景と会話を見聞きしている者たちがいた。グレモリーとアシュタルテ、そしてそのそばにいたもう一柱の魔王である。
「やりましたねアシュタルテさま!これでトーマスとメリーナは不仲になりますね!」
「そうだな。そして奴らが不仲になれば、トーマスを篭絡してメリーナの庇護を断念させられるぞ!」
心底うれしそうなグレモリーの笑顔に励まされたアシュタルテは、ニヤリと笑いながら答えた。さらにアシュタルテは、そばにいたもう一名の魔王に向かって話しかけた。
「しかし、まさかここまで見事なタイミングでメリーナが懺悔室に入るとはな。……お前のおかげだぞ、ヴィネ!」
「ヴィネ」と呼ばれたその魔王は、ライオンの頭を持つ魔王だった。そのヴィネは片手に持っていた水晶玉をテーブルに置くと静かに答えた。
「いえいえ。私の遠隔視聴能力をもってしても、これほどまでに見事なタイミングまでは用意できませんでした。メリーナの精神を上手に操り、彼女の歩く速度まで操作したアシュタルテさまの成果でございます」
恭しく頭を下げるヴィネに、アシュタルテは満足そうな笑顔を向けた。
遠隔視聴能力――つまり遠くを見通す千里眼および遠くの音を聞く能力をあわせ持つヴィネは、自らの視聴している映像や音声を水晶玉に投影することも出来る。多少は遠くの画像や音を視聴する能力を持っている悪魔は他にもいるが、ヴィネほど遠くの画像や音声を視聴できる者は居ないし、ましてや水晶玉を経由して周囲の人間に音や映像を視聴させることが出来るのは、ほとんどの悪魔が出来ないほどに特殊な能力である。
ヴィネはしばらく前から、アシュタルテに頼まれてトーマス神父の様子を時々観察していたのだ。アシュタルテは何かトーマスに脅せるネタになるような「やましい言動」がないものかと思ってヴィネにトーマスの観察を頼んだのだが、トーマスには何らやましい言動がなかったので脅すことを諦めかけていた。だが、トーマスがヨハネスの母親に頼まれてヨハネスのお尻を叩いたことをヴィネから知らされたアシュタルテは、「トーマスが子どものお尻を叩いている現場をメリーナに見せれば、メリーナはトーマスが児童虐待していると思うだろう」と判断して、トーマスが次に子どものお尻を叩く機会を待った。そしてトーマスがルイーズの母親に頼まれてルイーズのお尻を叩いたときにはルイーズの母親の話を聞いた瞬間にメリーナの精神を支配して教会に向かわせた。だがタイミングが一歩遅く、メリーナが教会に着いたのはお尻叩きを受け終えたルイーズが母親とともに教会を出た時だった。
その時の失敗から「ならば次回この種のチャンスが来たら、メリーナをもっと早く教会に来させれば良い」と判断したアシュタルテは、教会の近くの広い街道など、教会の周辺で人通りの多いところをヴィネに観察させた。
そしてついにケーテが母親に連れられてやって来たのだ。幸いケーテとその母親が教会からまだ遠い時点で「この母娘はトーマスの教会に向かっている」と気づいたアシュタルテは、即座にメリーナの精神支配を開始した。ケーテが十歳未満の子どもであることから足が遅く、そのおかげもあってケーテが懺悔室から出る前にメリーナを懺悔室に入れることが出来たというわけだ。
「それにしても最高のタイミングでしたね!やはりアシュタルテさまは、トーマスがケーテという女児のお尻にキスをするタイミングを狙ってメリーナをあの場に誘導なさったんですよね?」
このグレモリーの問いかけにアシュタルテは首を横に振った。
「いや、それは単なる偶然だ。あくまで結果的に最高のタイミングになっただけだ。私としてはトーマスが児童虐待をしているとメリーナに思い込ませるために懺悔室にまで誘導したんだが、これでメリーナはトーマスを小児性愛者だと思うだろう。いやそれどころか、あんな異常な行為をしている場面を見たのだから変質者だと思うだろうな」
「へ、変質者…ですか?…アシュタルテさま、それはさすがに飛躍しすぎた評価では?……」
驚いたように問いかけるグレモリーに対して、アシュタルテは冷静に応じた。
「何を言っている?たとえ意中の女性に対してであっても、そのお尻にキスをするのは変質者くらいであろう」
さらにアシュタルテは側にいたヴィネに尋ねた。
「ヴィネ、お前もそうは思わんか?」
「…は、はい。……私もアシュタルテさまと同意見です」
言い淀みながらもアシュタルテに賛同したヴィネの回答を聞いたグレモリーは落ち込んだ。とはいえ、その時のヴィネの真意は分からない。少し言い淀んでから賛意を表したのだから、ひょっとしたら単に揉め事を避けるためにアシュタルテに話を合わせただけかもしれない。だがそんな可能性を想定できなかったグレモリーは
(そう…ヴィネもアシュタルテさまと同意見なのね。やっぱり好きな女性のお尻でも、キスをしたくなる男性なんていないのかしら……)
と考えて、孤独を感じる様になった――
その夜アシュタルテは教会内の書斎にいるトーマスのもとを訪れ、メリーナに対する想いを断ち切る様に説得した。
「トーマス、あきらめろ!メリーナはお前を変質者だと思い込んでいる。そんなメリーナがお前と恋仲になることなど期待できん。それよりも私ならばメリーナの別の人格をお前の前で発現する様にしてやるぞ」
「それは一体どういう意味だ?」
ただでさえ落ち込んでいる上にアシュタルテの申し出に戸惑ったトーマスだが、かろうじて応じた。
「要するに、今までの様にメリーナの妖艶な姿が偶然発現するという状態ではなく、お前の望むときに発現する様にしてやる、という意味だ。どうせお前はメリーナが闇を帯びた状態、つまり闇のメリーナ(メリーナ・ミット・ドゥンケルイハイト)が好みなのだろう?しかも本来のメリーナはお前を小児性愛者あるいは変質者だと思い込んでいるからお前に惚れるはずはない。いっそお前は闇のメリーナしか見れない状態にした方が、お前にとっては得ではないのか?」
「……」
トーマスは返答に窮した。ただでさえ美少女のメリーナだが、闇のメリーナ(メリーナ・ミット・ドゥンケルハイト)の魅力は、単なる外見上の美しさにとどまらない、他のどんな美女でも到達できない深みがある。そんな蠱惑的な姿を独占できると言われて心が動かないはずがない。アシュタルテはそのトーマスの心の隙を突いたのだ。
だがトーマスは毅然と答えた。
「アシュタルテよ。汝魔界の女王よ。私は常にイエスさまの加護、そして何と言っても直接的に天使ガブリエルさまの霊的庇護のもとにある。私自身の霊力や私と直接面識のある下級天使たちの霊力では束になってもお前の霊力には遠く及ばない。だが如何なる天の配材なのか、イエスさまのみならずガブリエルさまからも助力を得ている以上、お前の霊力をもってしても破れない結界が身を守っている。あとはお前の誘惑を退けさえすればミュンツァー市はおろか近隣の州も平和になるであろう。それらの地域に住む人々のために、お前の誘惑に負けるわけにはいかないのだ」
トーマスの言葉に一時的にひるんだアシュタルテだったが、そう簡単に引き下がる魔王などいない。ましてや今の彼女は魔王の中の筆頭という地位を狙っているのだ。アシュタルテはトーマスの感情に訴える戦略を取った。
「トーマス。確かにお前はガブリエルに守られている。だが、お前の関心はどこを向いている?お前もマルティンという坊やと同じく、メリーナに…しかも新たな人格が目覚めた状態のメリーナに惹かれているのではないか?」
この問いかけにトーマスはしばし沈黙したが、やがて重い口を開いた。
「魔界の女王アシュタルテよ!今お前が言っていることは事実だ!」
「何!?」
このトーマスの発言にアシュタルテは驚いた。てっきりトーマスは「闇のメリーナに心を惹かれている」という指摘を否定すると思っていたからだ。トーマスはそんなアシュタルテの驚きを見抜いているのかいないのか、落ち着いた口調で続けた。
「アシュタルテよ。確かに貴公の言う通り、私は普段のメリーナさん(フラウ・メリーナ)よりも『闇のメリーナ』に心を惹かれている。だが、それはあくまでも私的な感情に過ぎない!そんな私的な感情のために『悪魔から人間を救う』という大局的な目標を忘れるわけにはいかないのだ!」
「……」
トーマスの毅然とした態度に言葉を失ったアシュタルテはその場を去った。せっかく遠隔視聴能力を持つヴィネの協力を得てトーマスのあら探しをしても何らやましいことは見つからず、淡い想いを寄せているメリーナに変質者呼ばわりされる覚悟を持って悪魔と対峙するというトーマスの気概に、もはやトーマスの言動を視聴することもトーマスに話しかけることも無駄だと感じたからだ。
その後、魔界に戻ったアシュタルテは何か別の方法でミュンツァー市とその近郊において悪魔の影響力を増すことが出来ないものかと思いを巡らす事にした――
アシュタルテが去った後の教会でトーマスは、とある女性を探していた。
(たぶん、今なら彼女はここにいるはず)
信徒たちが集まる、いわゆる「聖堂」と呼ばれる大広間にいるであろう、その女性を探したトーマスは、予想通りそこで聖書を一人静かに読んでいる修道女のクラーラを目にして安堵した。
「あら?トーマス神父!普段この時間は書斎で聖書をお読みになっているはず。それがここいらしたという事は、私と一緒に聖書を読みたいというご意図でしょうか?」
クラーラの問いかけにトーマスは首を横に振った。
「そうではありません。もちろん聖書を読むこと自体は有意義だと思いますが、クラーラさん、今はそれよりもあなたにお願いしたい事があります」
「私に?どういったご用件でしょう?」
「ここでも出来る用事ではありますが、出来ればあちらで私の話を聞いていただきたいのです」
思いつめた表情のトーマスに誘われるままに、クラーラは懺悔室にやって来た。そして神父は何をするつもりかと訝る彼女に、トーマスは言った。
「クラーラさん、私の懺悔を聞いていただきたいのです」
「えッ!?神父さまが私に向かって懺悔をなさるのですか?」
「左様です」
「……」
普段はトーマスが座るべき椅子に座ったクラーラは、トーマスの懺悔を聞くことになった。トーマスが話した内容は、その日アシュタルテから聞かされた提案に関するものだった。トーマスが言うにはその提案を聞いた際にアシュタルテの誘惑に負けそうになったという事である。そんなトーマスの懺悔を聞いたクラーラは、最終的にはアシュタルテの誘惑をはねのけたことが素晴らしいと考えたので、トーマスを弁護した。
「でも神父さま……いえ、トーマス・ミュラーさん。あなたは一時その誘惑に負けそうになったとはいえ、最終的にはメリーナさんが悪魔の手に落ちるのを防ごうとした。それによってメリーナさんだけではなくその周囲の人も救ったと言えるでしょう。それは素晴らしい成果ではありませんか?」
だが、その言葉に納得できなかったトーマスは言った。
「神父として…否、イエス様にお仕えする身として恥ずべきことだが、私はメリーナさんが悪事に加担するのが嫌で止めようとしたわけではないのです」
「え?」
「私は単に、メリーナさんが悪魔と契約してしまったことによって天国に行けないのではないかという懸念でメリーナさんを止めようとしただけなんです。イエス様にお仕えする身ならば、悪事そのものを憎むべきなのに、そうではなくてメリーナさんの将来を心配して止めようとしたんです。いわば私的な感情で彼女を心配しただけであって、メリーナさんが悪事に加担したら周囲の人がどれだけ悲しむかとか苦しむかとか、そうした公的な価値観でアシュタルテの誘惑をはねのけたわけではないのです……」
「……」
クラーラは考え込んでしまった。それはあくまでも高い目標を持っているからこそ感じる罪悪感ではないか?そこで彼女は思わず言ってのけた。
「トーマス・ミュラーさん。それはあくまでも高い目標に比べればご自身のお気持ちが私的な感情に思えるというだけの事でしょう。メリーナさんが『闇のメリーナ』になって周囲に与える被害には配慮できなかったと言っても、『闇のメリーナ』になったメリーナさんご自身の苦悩に対して、あなたは配慮なさったわけですよね?しかもそれがメリーナさんが天国に行けなくなることを恐れた上での配慮でしたら、あなたは充分に良いおこないをしたと言えます。どうぞお気になさらないでください」
「ありがとうございます。そのお言葉を聞いて、気持ちが非常に軽くなりました……」
クラーラの言葉を聞いたトーマスは、深々と頭を下げた。
●第十一章
メリーナの自室。話し相手をしてほしいとメリーナに言われて呼ばれたマルティンは、メリーナがふさぎ込んでいる姿を見て心を痛めた。
「お嬢さま、落ち込んでいらっしゃいますね?やはりグレモリーとお嬢さまの間の契約が原因ですか?」
「うん。そうなの。やはりこのままグレモリーとの契約が原因で、私の心の一部が操作され続けるって考えると、憂鬱で仕方ないの……」
悲しそうなメリーナの表情を見たマルティンは、自身も悲しさに押しつぶされそうになった。だが落ち込んでいてもらちがあかないとも思っているので、マルティンなりに言える最善の案を提示した。
「お嬢さま、トーマス神父に再度お会いしてはいかがでしょう?トーマス神父ならばグレモリーの契約を解除するための良い案を何か思いついたかもしれませんよ」
このマルティンの呼びかけに
「そ…そうね。トーマス神父なら何か良い案を思いついたかもしれないわね……」
と言って一度は教会に行くことに賛成したメリーナだったが、すぐに意見を翻した。
「いえ、やっぱりやめておくわマルティン!もうトーマス神父の話はしないでちょうだい!」
このメリーナの言葉を聞いたマルティンは不安をあらわにした。最近とにかく教会に行きたがらなくなったメリーナの心境をはかりかねていたマルティンは、思わず尋ねずにいられなかった。
「お嬢さま、どうなさったんですか?最近のお嬢さまはまるでトーマス神父を避けていらっしゃるように見受けますが……」
「え…ええと…ま、まあ確かにそういう面もあるわね……」
「……?」
マルティンはメリーナの曖昧な言い方が気になった。何かを隠しているのは明らかだ。だが、その隠していることを聞き出しても問題ないのだろうかという不安がマルティンの胸中にあるのも事実だ。
とはいえ、メリーナの悩みと言えばグレモリーに出会って以来、そのグレモリーとの契約で生まれた自身の別人格に関するものであり、要はトーマス神父やマルティンにしか詳細は打ち明けられない内容である。それゆえ「トーマス神父とメリーナお嬢さまの関係がギクシャクしては問題が解決しない」という不安に駆られたマルティンは、何としてもメリーナお嬢さまの現在の心境を聞き出さないとならない、という使命感をいだいた。
「お嬢さま、急いでお話しなさる必要はありません。お話しなさるのはいつでもかまいません。気が向いた時にお話しください。ですがグレモリーとの契約がもたらす問題は僕とトーマス神父、そして一部の修道女さんぐらいしか応じられない相談です。心強い味方であるトーマス神父とお嬢さまが疎遠にならないために、神父との間にどんな軋轢があったのかを、いつかは僕に話していただけないでしょうか?」
このマルティンの言葉にメリーナは感謝したが、あまりに話しづらい内容なので果たしてマルティンに話して良いものなのかと迷ってしまった。だが、しばしの沈黙の後、ついに言う事を決意した。
「分かったわマルティン。私を心配してくれてありがとうね。ちょっと驚くような内容だと思うけど、マルティンに聴いてもらうと何となく気が軽くなりそうなの。だから言うわ……」
そこまで言ったメリーナだったが、トーマスが十歳前後の美しい幼女のお尻にキスをしていたなどという事は恥ずかしくて言えずにいた。そしてしばらく逡巡した後にその話をした後は、恥ずかしさのあまりうつむいてしまった。
マルティンはメリーナの話を聞いて状況は分かったが、釈然としない気持ちだった。
(あのトーマス神父が幼女のお尻にキスをしていた?!しかもよりによって懺悔室で?!)
あの親切で聡明なトーマス神父がそんなことをするとはとても思えないマルティンは「何か事情があるはずだ」と感じた。
「そうですか。それはさぞや衝撃的だったことでしょうね。お察しします、お嬢さま。ですが……」
マルティンはその時「何か事情があるのかもしれません」と言おうとした。だが、マルティンの心にも闇が生じてしまった。それは悪魔と契約した結果生じたメリーナの闇とは違い、マルティン自身の欲望が生み出したものだった――
数日後、今度はマルティンが数日前のメリーナと同じかあるいはそれ以上に落ち込んだ表情をしていた。そんなマルティンをたまたま見かけたエルマは尋ねた。
「どうしたの?マルティン。何か悩み事?」
「あ…エルマさん……実は僕は、不誠実なことをしてしまったんだ」
「え?不誠実?」
「そう。なにしろ僕は……」
マルティンはエルマに、数日前のメリーナとの会話について説明した。その日メリーナは、トーマス神父が第二次性徴を迎えていない幼女のお尻にキスをしていたところを見てしまったことからトーマスは第二次性徴前の女児のみを性愛の対象としているのではないかと疑っていた。そんなメリーナの懸念を聞いたマルティンは「何か事情があるはずだ」と感じた。なので「何か事情があるのかもしれません」と言おうと思ったマルティンだったが、実際に言ったのは以下のような言葉だった。
「もはやトーマス神父は信用なさらない方が良いでしょう。霊能者としての能力や聖書に関する知見は高いかもしれませんが、今後トーマス神父がお嬢さまにどんな睦言を述べても、神父が性愛の対象に出来るのは第二次性徴前の女児だけとお考えなさるべきでしょう」
マルティンの告白を聞いたエルマは目を丸くした。
「なぜ?なぜマルティンはそんなことをメリーナお嬢さまに言ったの?本当はそんなことを思ってないんでしょ!?」
「思ってないよ。思ってないけど、つい嫉妬してしまったんだ」
「嫉妬?」
「そうさ。お嬢さまに好かれているトーマス神父に対して、僕は嫉妬していたんだ。それに、もしお嬢さまがトーマス神父と疎遠になれば僕の事を好きになってくれるかもしれない、僕とお嬢さまは恋人同士になれるかもしれない、っていう期待もあった。だから神父をおとしめたかったんだ」
「……」
マルティンの発言にしばらくかけるべき言葉が見つからなかったエルマだったが、やがて口を開いた。
「マルティン。確かにあなたがやったことは良くないわ。でも、まだやり直しができるわよ」
「え?でも、どうやって?」
「簡単よ。トーマス神父自身に事情を尋ねるのよ。アタシも神父が幼女のお尻にキスをしたというのには何か事情がありそうな気がするの。それで何らかの事情があると分かったら、それを正直にお嬢さまに伝えれば良いわ」
エルマの答えに何となく納得できたマルティンだったが、ひとつだけ気になることがあった。
「でもエルマさん、お嬢さまにどうやって言えば良いのかな?」
「え?」
「だってさ、僕はすでにお嬢さまに『神父が性愛の対象に出来るのは第二次性徴前の女児だけ』とまで言っちゃったんだよ。そんな僕が今さらどうやって事情を説明すればいいんだろう……」
「う…そ、それはまあ……ええとぉ……」
しばしの沈黙。だがエルマはキッパリと言った。
「それは正直に言うのが一番よ!マルティンは嫉妬していたっていうことをハッキリと言うべきだわ!」
「そ…そうかな?…うん、そうだよね!やっぱり嫉妬していたことを正直に言うのが一番良いよね!」
マルティンは笑みを浮かべながらエルマに応じた。
その後マルティンはトーマスに会い、トーマスが懺悔室で女児のお尻にキスをしていたのは叩かれたせいで痛めた箇所を心配しての行為であり、しかもお尻を叩く行為はその女児の母親が望んだことであり、さらには懺悔室での一件以来その女児は更生して真面目になったがトーマス自身は今後たとえ誰に頼まれても体罰はしたくないと思っていることを知り、その旨をメリーナに伝えた。
メリーナはその話を聞いて「なぜマルティンは当初『トーマス神父は信用なさらない方が良いでしょう』と言ったのか」という点を尋ねたが、トーマス神父に嫉妬していたことをマルティンが正直に話すとメリーナは別段マルティンを糾弾しなかった。ただ、トーマスに対する信頼を回復したメリーナの恋愛対象はトーマス一筋になったので、その点はマルティンにとって寂しい結果になってしまった。
マルティンはその経緯をエルマに伝えて、感謝の気持ちを示した。
「エルマさん、やはり君のアドバイスどおり正直に言って良かったよ。お嬢さまは再度神父一筋になったけど、それはつまりもとのお嬢さまに戻っただけのことだから、寂しいと感じる方がおかしいんだよね」
「ま、まあとにかくマルティンが良いことをした点は絶対に評価されるべきだよ。ただ、寂しいと感じるのは無理もないとは思うわ…その感情は別に変じゃないよ……」
「そう?…うん、そうだよね!」
マルティンはなるべく明るい口調で言ってのけたが、その口調が無理して明るく振る舞っているものであることにエルマは心を痛めた。
その後エルマはマルティンとの適切な距離を取るのが困難になってしまった。マルティンと親しくなりたいのはやまやまだが、メリーナとトーマスが仲良くなるのを見ているマルティンをなかなか励ませずにいたのだ。それゆえエルマの方からはマルティンに話しかけづらくなり、時には冷たい態度さえとる様になってしまった。
他方のマルティンは自身がエルマに対して何か失礼なことをしたのかと不安になり、かといって具体的に何が失礼だったのかを尋ねるのも傷口を広げる事になりかねないと判断し、あまりエルマと話をしなくなってしまった。
そんな日々が続く中、メリーナとトーマスが仲良くなって落ち込んでいるマルティンと親交を深めたいエルマは、ある案を思いついた。
(そうだわ!いっそマルティンの方から私に対する距離を縮めてくれる様にすればいいのよ!)
エルマ自身から話しかけるのではなくマルティンの方からエルマに話しかける様に仕向けるための方法を思いついたエルマはその後、自らとマルティンの非番の日が重なる日程を調べて計画を練った。とはいえエルマにとってもその計画は心の準備が必要なので、その計画を行動に移すのは、しばらく後のことであったが……
●第十二章
エルマがマルティンと親しくなるための方法に思いを巡らせていたころ、ハンス・シュルツは父親であるガリオン・シュルツの代わりに画商としての仕事を担っていた。そんなハンスのもとに、とある黒髪の美女がやって来た。
ズィマ・リメスと名乗ったその美女は見た目としては三十代半ばだろうか。実際の年齢は不明だが、大人びた美貌を持ちながらも同時に二十歳未満の少女のような肌のつやがあった。ハンスは「この人は永遠に老けないのではないか?」という奇妙な印象を受けた。
だが、リメスの美しさと若々しさ以上に、彼女の提案こそハンスに驚きを与えるものであった。
「そ…それではリメスさん(フラウ・リメス)、あなたはこれらの素晴らしい聖母マリアの絵画や彫刻を格安でお売りくださるとおっしゃるのですか?」
ハンス・シュルツは今までにない種類の申し出に対して何と答えるべきか迷わずにいられなかった。父のガリオン・シュルツに比べれば美術商としての経験は浅いが父の仕事の補佐をする過程で審美眼は磨かれてきたという自負がある。それに商売の素人であっても直感的に「格安」などという美味い話には何か裏があると思うのが注意深い判断というものだ。
メリスはハンスの意図を察して釘を刺した。
「シュルツさん(ヘア・シュルツ)、あなたがご心配なさるのは無理もありません。格安という事ですと何か裏があるんじゃないかと疑うのは当然のことです。なので包み隠さず私の意図を申し上げましょう」
「か、かしこまりました。どうぞおっしゃってくださいませ」
リメスを疑っていることがバレてしまってバツの悪そうな表情をしたハンスに、リメスは落ち着いた口調で説明をくわえた。
「私自身は、もう金銭面では十分に満ち足りた生活をしております。しかしそうしますと、人というのはえてして名声を得たくなるものですわ」
「名声…ですか?」
「そうです。自意識過剰と思われましても、最近の私は私自身の容貌を聖母マリアさまになぞらえたいという願望が抑えられないんですの。厳格な神父さまならこうしたお話を聞いて眉をひそめることかと存じますが、幸いハンスさんは美術商。要は美術品として価値があり商売になるなら彫刻でも絵画でも認めてくださる合理的なお方とお見受けいたします」
「はい。左様です。お見せいただいた絵画や彫刻はいずれも充分に価値があると認めます。それが格安ならば、たしかに私としては問題ないのですが…」
実のところ格安での提案という事から、ハンスはそれらの絵画や彫刻が盗品ではないかという疑いを持っていた。それに、少しだけとはいえ胸元をはだけている様子の女性が、いくら美女とはいえ『聖母マリア』と呼んで良いのか否かについても疑義をいだいていたというのが偽らざる心境であった。だがリメスはそんな疑義に答えるかの様にハンスに向き合って言った。
「シュルツさん、お疑いなさるのも無理はありません。しかし、この証拠を見ていただきたいんですの」
リメスは自らの襟に手を入れると、胸元をグイッと開き、胸の谷間を少しだけ見せた。
「――!?」
突然の性的アピールと思ったハンスは戸惑ったが、別に胸を押し付けてくることなど無いリメスを見て意外に感じた。胸を押し付けるわけでないなら何故その谷間をさらしたのかと怪訝な表情をしたハンスに、リメスは説明した。
「ほら、シュルツさん。この辺りをご覧になってくださいませ。ほくろがあるでしょう?」
「え、ええ。たしかにございますね……」
「そこもふくめてこその絵画なのです。私の胸元を良くご覧になった後で、絵をご覧になってくださいませ」
「――!?」
リメスの意図が分からず少しだけ困惑したハンスだったが、ようやく理解した。リメスが持ってきた絵画の中の聖母マリアにはリメス自身と同じく胸元にほくろがある。リメスと同じストレートの黒髪、そしてまさに同じ位置にほくろを描いた聖母マリア。それゆえにこそ格安でも良いから売って、自らとそっくりの聖母マリアの絵画を多くの人に崇拝させたいというのがリメスの意図なのだ。リメスは話を続けた。
「お気づき頂けたようでうれしいです。要するに私はほくろも含めてわたし自身とそっくりなこれらの絵画を聖母マリアとして多くの人に崇拝してほしいんですの。それが私の欲している名声ですわ」
言われてみれば、確かに提示された絵画の中の聖母マリアは黒髪のものばかりだ。そして彫刻では髪の色こそ不明だが、髪型については巻き毛の作品は無く、リメスと同様に良く整ったストレートな長髪のものばかりである。
「なるほど。そういうご事情だったんですね!」
リメスの説明に納得したハンスは深くうなずいた。他方のリメスも、ハンスの反応から彼が心底納得したということを感じて、うれしそうにうなずいた。
「そうなんですの。なので本当は無料で差し上げても良いんですのよ。私の姿に似せたマリアさまの像や絵画が多くの人にあがめられるなら、代金なんて必要ないんですの。ただ、最初から無料だなんて言うと、それこそ誰もが盗品とか何か特殊な難点がある作品だと思うでしょうから、あえて無料とは言わず安めのお値段を提示させていただきましたの。でも、こうして事情をお話しして信頼を得た今、あなたの言い値でも良いですよ……というか、何なら私は無料でもかまいません!」
リメスの言葉に、ハンスの商売人としての本能が昂った。だがハンスは、目先の利益に目がくらんで大局的な損得勘定を見失うほど愚かではない。
「リメスさん(フラウ・リメス)、お気持ちは嬉しいですが無料というのはさすがにあなたに対して失礼です」
ハンスはあくまでも冷徹な読みに基づき答えたに過ぎない。
(あまり欲をかいたら今後この女性が素晴らしい美術品を持ってきてくれないかもしれないので、ここは慎み深い態度を取ろう)
という判断がこのハンスの言葉の背後にあったのだ。とはいえリメスが
「では無料でという話はあなたもご遠慮なさるようなので、あなたにとって望ましい金額をご提示なさってくださいな」
とまで提案したので、ハンスは「ここが折り合いの付けどころ」と見抜いて言った。
「では、あなたの言い値の半額で買わせていただきます!」
「その金額でよろしいですわ。ハンスさん、是非とも私をモデルにした像や絵画をたくさん売ってくださいませ!」
リメスと名乗った女性はハンスの言った通りの金額を受け取ると自身とその従者が持ってきた絵画や像をその場に置いてハンスのもとを去った――
「アシュタルテさま!手ぶらでお帰りでいらっしゃいますか!ということはアシュタルテさまをモデルにした像や絵画はすべて売れたという事でございますか?」
魔界に帰ったズィマ・リメスこと魔界の女王アシュタルテは、グレモリーの嬉しそうな問いかけに、笑みを浮かべながらうなずいた。だが、いくらハンスが豪商とはいえ一人の画商に売るだけでは、まだまだ悪魔崇拝という風習を根付かせるには足りないと思っているアシュタルテは、一転して引き締まった顔になって言った。
「たしかにこれで一部の人間は聖母マリアを拝もうとして結果的に私を拝むことになる。だが、人間界に悪魔崇拝を普及させるためにはまだまだ努力が必要だ。グレモリー、お前にも手伝ってもらうぞ!」
このアシュタルテの呼びかけにグレモリーは、深くうなずきながら答えた。
「はい、アシュタルテさま!要するにアシュタルテさまを描いた他の絵も人間界に普及させる、というわけですね!」
だが、そう言いながら聖母マリアおよびその聖母マリアに受胎告知する女天使ガブリエルを描いた絵を見たグレモリーは、気になった点を述べてみた。
「それにしてもアシュタルテさまは度量が大きくていらっしゃいますね」
「ん?どういう意味だ?」
グレモリーの言葉に自尊心をくすぐられながらも、その発言の正確な意図を把握しかねたアシュタルテは尋ねた。
「だってそうではありませんか。この『受胎告知』では、さきの戦いでアシュタルテさまを苦しめたガブリエルが美女として描かれてますよね?まあ、実際のガブリエルもアシュタルテさまと同様に美女なのですが、ガブリエルは敵なのですから画家にもう少し醜く描いてもらっても良かったのではありませんか?」
「ふふん、まあ感情的には画家にそう描いてもらいたい気持ちもあったがな。だがいくらあの女天使が敵とはいえ、実際に美女なのだからそのまま美しく描くのが道理というものだ。敵を貶めようとして醜く描くなど、私の美学に反する!」
毅然と言い放ったアシュタルテを見たグレモリーは深くうなずいた。そこで何も付け足さなければアシュタルテの覚えめでたく好印象で過ごせたのだろうが、自制が必要な時ほど自制を忘れてしまう性格なのであろう、グレモリーは思わず余計な一言を付け足してしまった。
「とはいえ、少しだけ現実の外見との違いがありますね…」
「そうか?…具体的にはどの点だ?」
グレモリーの審美眼が何を捕らえたのか気になったアシュタルテは尋ねずにいられなかった。
「アシュタルテさまもガブリエルもウエストは細くていらっしゃいますが、バストのサイズはガブリエルの方がふくよかなのに、その点がこの絵画では逆になってますよね。いえ、別にアシュタルテさまが貧乳というわけではありませんが、平均的なバストサイズのアシュタルテさまに対して、世の男どもが好むほど見事な豊乳こそガブリエルの特徴だと思うのですが、何故にアシュタルテさまよりも胸を小ぶりに描いているのかと疑問に思いまして……」
そこまで言ったところでグレモリーがふと見上げると、これまで見たこともない様な剣幕のアシュタルテがグレモリーを見下ろしていた。
「え?…ア、アシュタルテさま?」
抑えようとしても抑えきれない怒りを含んだアシュタルテの表情に「ガブリエルの胸を小さく描いたのは画家の作画ミスではなくアシュタルテの指示だったに違いない」と確信したグレモリーだったが、その点に言及すれば絶対にアシュタルテが激怒するという点も確信したグレモリーは、保身のために心にもないことを言った。
「いや~、しかしそんなことは些細な事ですよね?それにあくまでもそれは画家が勝手にガブリエルは貧乳だと判断して描いたのでしょうね……」
だがアシュタルテは容赦ない。
「ほほう、そうするとお前は、ガブリエルの胸を実際より小さめに描いたのは画家がガブリエルのバストサイズを知らなかったのが原因で、私が画家に小さく描く様に指示したとは思っていないわけだな」
「も…もちろんアタシは……」
そこまで言ったグレモリーは、続けて「そんなこと思っていません」と言おうとしたが、急に躊躇した。もしかしたらアシュタルテは以前の様に「ウソをついたら体の自由が利かなくなる呪法を今回もほどこしているのではないか?」という疑問が湧いてきたからだ。そこでグレモリーは自身が答える前に、しおらしい口調で尋ねる事にした。
「と、ところでアシュタルテさま?」
「何だ?」
「ひょ、ひょっとして今回もあの呪法を施しているのでしょうか?アタシがウソをついたら急に手足どころか腰も自由に動かせなくなるなんてことは……ないですよね?」
グレモリーはなるべく平身低頭した姿勢で尋ねたつもりだったが、アシュタルテは冷たい口調で言った。
「そう思うのなら試してみたらどうだ?わざとウソを言ってみたら結果がわかるだろう」
グレモリーは思わず「いや、もしもそんな呪法を施されていたらまたくすぐられるかお尻を叩かれるかのどちらかしか選択肢が無いでしょうが!」と叫びたくなったが、その発言自体も罰の対象になるということは判断できるので敢えて何も言わないという選択をした。
だがアシュタルテは、グレモリーが「ウソを言った場合に発動する魔法ならば何も言わなければ発動しない」と判断して沈黙を選んだことを見抜いていた。
「安心しろ。今回は別にウソをついても私はお前を罰したりはしない。もちろん逆に本当のことを言ったとしても私は罰しないぞ」
このアシュタルテの言葉に励まされたグレモリーは、満面の笑みを浮かべながら大声で言った。
「ありがとうございます!アシュタルテさま!…ち、ちなみにですが、もちろんアタシは画家がガブリエルの胸を実際より小さめに描いたのはアシュタルテさまの指示に従ったうえでの行動だと思っています!…え?…あれ?……」
自身が言おうとしたのと正反対の発言をしてしまったことに違和感をいだいたグレモリーは咄嗟に口を押さえたが、アシュタルテはその言葉を聞き逃さなかった。
「ほほう、やはりそう思っているのだな?では具体的にどういう理由でそう判断したのだ?」
「そそそ、それはですねえ……」
自身の口を突いて出た発言に戸惑ったグレモリーだったが、何かウソをついて誤魔化そうと口を開いた次の瞬間には
「それは要するに、顔は美しいアシュタルテさまは、顔に関してこそガブリエルと互角なので画家にガブリエルをわざと醜く描かせる気は起きなかったのでしょうが、バストサイズはガブリエルに負けているという自覚があったのでそこだけは逆にガブリエルを貧乳に描かせて留飲を下げたというのが真相でしょう!」
という、果てしなくヤバい本音を思わずぶちまけてしまった。
「ふんふん。そうか、いやあお前がそう思っていたとは知らなかったぞ。正直に言ってくれて感謝する」
ちっとも感謝していないことが露骨なまでに明らかな口調で述べて、冷ややかな笑みを浮かべながらグレモリーを見下すアシュタルテ。グレモリーは自分の言った言葉が信じられないかの様に戸惑っていたが、どうしても気になることがあるので尋ねる事にした。
「あ…あのう、アシュタルテさま?」
「どうした?」
「ウソをついても正直に言ってもアシュタルテさまはアタシを罰しないと先ほどおっしゃいましたが…ひょっとしてすでに何か魔法をお使いになりましたか?」
「ああ、使ったとも。『どれだけウソをつきたくても絶対にウソをつけなくなる』という魔法をな!」
「ええ?そ、そ、それはあんまりではありませんか?そんな魔法はさすがに残酷すぎると思いませんか?」
「そうか?私は別に残酷とは思わんが、だが仮に残酷だとしてもお前の望みに応じてその魔法を解いてやるつもりはないな。これでお前もキマリス以外にも本音で語れる友達が出来ることだろうから、このままの状態の方が良いのではないか?」
キマリスとはグレモリーと同じく魔王の一柱である。魔力ではグレモリーに比べると劣るとはいえ異常な怪力を誇っているキマリスは、魔王たちの中でも力比べでは最強を誇る巨漢だ。しかも友達をかばうためのウソはともかく保身のためのウソは決してつかない好漢で、階級では同格のグレモリーを年の離れた妹の様に気遣っている。そんなキマリスはグレモリーにとって最も信頼できる同僚であるし、お互いに本音を言い合える大の親友でもある。
アシュタルテは今回の魔法で、グレモリーに他の魔王に対してもキマリスと同様お互い本音を言い合える様に仕向けたとも言えるが、権謀術数が渦巻く魔界ではグレモリーの様に強力な魔力を持つ魔王であっても保身のためのウソを使わずに生きるのは至難の業である。それゆえグレモリーは魔法を解いてもらうために必死になった。
「し、しかしですねアシュタルテさま。確かにキマリスは友達をかばう場合以外には絶対にウソをつかない高潔な性格の持ち主ですが、彼は魔力こそ私に劣るとはいえ異常な剛力で様々な難題を解決できます。陰謀と我欲があふれるこの魔界でウソをつけないという状態は保身の面では相当危険で、アタシの様に非力な魔王は地位が脅かされる危険性が非常に高くなると思うんですが……」
「安心しろ。私は何も『絶対にこの魔法を解いてやらない』とまでは言ってないだろう」
「そ、それでは一定の期間が経過したらアシュタルテさまはこの魔法を解いてくださるおつもりで?」
「いや、そうは言っていない」
「え?そ、それではどういう意味でございますか?」
「私の気が向いたら魔法を解いてやる、という意味だ」
「そ…そんなあ……」
アシュタルテの発言を聞いたグレモリーは悲しさのあまり大声を出して泣いたが、アシュタルテはグレモリーの泣き顔に一切の同情を示さずその場を去った。
その後グレモリーは一時間以上も泣いていたが、主であるグレモリーの泣き声を聞きつけた三名の側近がやって来た。グレモリーはその部下たちの顔を見ると少し安心した。その悪魔たちが、グレモリーが特に信頼を置いている、口が堅い三名の側近だったからだ。
グレモリーがその三名に事情を話すと同じくグレモリー麾下の悪魔たちの中で特に口が堅い者たち二名を呼んで来たので最終的にはグレモリーを含む六名の悪魔がアシュタルテの魔法の解除を試みた。だがアシュタルテの霊力は強力であり、グレモリー自身およびその配下の五名つまり計六名の悪魔が霊力を合わせても解除できなかった。そこで最後にやって来た悪魔が進言した。
「もっと多数の仲間と協力すれば解決できるでしょう。如何にアシュタルテさまの魔法といえども十名あるいは二十名の悪魔が結託すれば破れるはずです」
だがグレモリーはその案を即座に却下した。
「駄目よ!お前たちはともかく、他の部下は口が堅いとは言い難いわ!アタシがこんな情けない理由で重罰を受けたことがアタシと敵対する派閥の誰かに知られたらイヤだもん!だから絶対に他の部下を呼んでは駄目!」
グレモリーの剣幕にその場にいた五名の悪魔は承諾せざるを得なかった。だがそうは言ってもどうすれば良いのか?解決策が見つからず途方に暮れていたグレモリー達だったが、その後グレモリーの様子を見るに見かねた一名の部下がキマリスに事情を説明するとキマリスから頭を撫でられ、「アシュタルテさまに魔法を解いてもらうよう誠心誠意お願いしてみる」と言ったキマリスがアシュタルテに何時間もお願いをしたおかげで、結局は魔法を解いてもらえたので、グレモリーキマリスに感謝する事になった。
「ふう、おかげで助かったわ。でもこれでキマリスに借りがまた一つ出来ちゃったわね」
グレモリーは申し訳なさそうにキマリスに告げたが、キマリスは気さくに言ってのけた。
「気にするな。今回のアシュタルテさまの処遇は厳しすぎる。それに君は幼い女児だ。そんな君が残酷な罰を受けていたら罰を解いてもらうように頼むのは当然のことだ」
グレモリーはどんな人間よりも年長ではあるが魔王の中では最年少であり、下級悪魔の中にもグレモリーよりも年長な者は少なくない。そんなグレモリーをかばうのは年長であるのみならず筋肉質な巨漢のキマリスにとっては当然のことだと思っていたが、グレモリーはキマリスに助けられるたびに感謝の言葉を決して忘れない。
「ありがとう!キマリスっていつも優しいよね!」
グレモリーは年の離れた兄どころか母親に甘える幼児の様にキマリスに抱き着いた。筋肉質な胸に顔をうずめたいところだが身長に差があるため引き締まった脚に顔をうずめる羽目になった。とはいえキマリスに頭を撫でられると「胸でなくてお腹でも脚でも、キマリスに抱き着けるならどこでも安心できる」と思い、無防備に甘えるグレモリーを見たキマリスは、グレモリーのためならいつでも一肌脱いでやるという気持ちを強めた。
その後、アシュタルテの魔法を解除しようとしたグレモリーの配下たちはグレモリーがアシュタルテに魔法をかけられるに至った経緯を誰にも言わなかった。しかし他ならぬグレモリー自身が今回の魔法で苦労した件で近所の酒場で酒を飲みながら愚痴を言ってしまい、しかもグレモリーの失敗に付け込んでグレモリーを利用しようとしている「とある魔王」がグレモリーの酒場に部下を間者として派遣していたので、彼女が今回アシュタルテから罰を受けた背景はその魔王に知られることになってしまった――
●第十三章
魔界でキマリスとグレモリーが親交を深めた数日後、フォルツァー家では最近エルマと話をしづらくなったマルティンが自身の部屋の前であるものを見つけて立ち止まった。
「あれ?このハンカチは……」
マルティンは戸惑った。彼の部屋のドアの前に落ちていたのは明らかにエルマのハンカチだったのだ。
(きっとエルマさんがうっかり落としたんだろうな。でも僕が彼女の部屋に届けていいのかな?)
マルティンはそのハンカチを拾い上げたまま立ち尽くした。
本来なら、誰が落としたのかが分かっている落し物はその持ち主に返すのが道理だろう。もちろんマルティンもそんな道理は充分承知している。ただ、マルティンの胸中には若干の不安があった。
(最近はエルマさんとの関係が微妙だし、エルマさんにこれを渡す前に誰かに見られたら、「どうしてお前がエルマさんのハンカチを持っているんだ?」なんてからかわれそうだな……)
マルティンは別にエルマの事が嫌いになったわけではない。むしろ最近のマルティンはエルマの事が何となく気になっているのだ。ただ、今までの経緯から「僕はエルマさんと付き合う資格が無い様な気がする」と自信喪失しているマルティンにとってはエルマの部屋に行くのは何となく気が引けるし、ましてやその場を誰かに見られたら部屋に入った意図を曲解されそうな気もする。かと言って落とし物を届けないのも間違っているし、どうしたものかと考えていたところで、女性の無邪気な声が聞こえた。
「どうしたの?マルティン!」
「あ!お嬢さま!」
それはたまたまその場を通りがかったメリーナだった。何らかの布切れを持ちながら呆然と立ち尽くしているマルティンの様子は相当に奇異に見えたらしく、メリーナは心配そうに話しかけたのだ。
「い、いえ、あのう…実はエルマさんの落とし物を拾ったんですが…」
「ふ~ん。だったらエルマの部屋に届けてあげたら?」
さも当たり前の事の様に言うメリーナに対してマルティンは伏し目がちのまま黙り込んだ。
「どうしたの?エルマとケンカでもしたの?」
「いえ、そういうわけではありません。ただ、何となくエルマさんの部屋には入りづらいんです」
メリーナには詳細なことは分からなかったが何となくマルティンがエルマと距離を置きたいという事だけは理解した。
「いいわよ、マルティン。だったら私が代わりにそれをエルマに届けてあげる」
「そ、そうですか?ありがとうございます」
マルティンは肩の荷がおりたようにほっとしながら、メリーナに向かって頭を下げた。
(マルティンはエルマとケンカでもしたのかもしれないけど、落とし物を届けるくらい、別にたいしたことじゃないと思うんだけどなぁ……)
なぜマルティンがエルマの部屋に入りたがらないのか、その意図をはかりかねたメリーナがそんなことを思いながらエルマの部屋の近くにまで来ると、室内からエルマの声と荒い息遣いが聞こえてきた。
「マルティン!…ああ、マルティン!…あなたってとても素敵だわ……」
「――!?」
メリーナは当惑した。
マルティン本人は先ほどメリーナと会ったので、エルマの部屋の中にマルティンがいるはずはない。では何故エルマはその場にいるはずのないマルティンの名を呼んでいるのか?
(ま、まさかエルマは今……)
自室にこもったエルマがマルティンの名を繰り返し呼びながら息を荒げていることからエルマの現在の状態を察し、メリーナはドアをノックした。だが、そのドアは既に少しだけ開いていたので、ノックをした結果、ゆっくりとではあるが開いてしまったのだ。
「――!?」
メリーナは言葉を失った。ベッドの上に寝た状態のエルマは両脚を大きく広げ、その合間に咲いている蘭の花のごとき淫花を指で慰めていたのだ。
「え?…お、お嬢さま!?」
自らを慰める姿をメリーナに見られたと気づいて咄嗟に両足を閉じるエルマ。彼女はさらに、太もものあわいに息づく可憐な花弁をさらしていたことをなかったことにしようと思っているかの様に、大急ぎでスカートをたくし上げ、下腹部を毛布で覆った。
「ご、ごめんなさいエルマ!でも鍵がかかっていなかったし、マルティンの名前を繰り返し読んでいるので何事かと気になってしまって……」
「まあ、鍵は敢えてかけずにおいたんですが、何故お嬢さまが?…」
「え?」
「あ!…い、いえ!何でもありません!いま私が言ったことはお忘れくださいませ!」
エルマの意外な発言にメリーナは少なからず驚いた。エルマは自身の真意を知られまいとして話題を変えた。
「と、ところでお嬢さま。何故お嬢さまが私の部屋の近くにいらしてたんでしょう?お嬢さまが私の部屋の近くにいらっしゃらなければ私の声が聞こえることはなかったはずですよね?」
「そ…それは確かにそうだわ。あのねエルマ。実はあなたの落とし物を見つけたのはマルティンなんだけど、代わりに私が届けに来たわけなのよ」
「そ…そうだったんですか。でも何故マルティン自身が届けてくれなかったんでしょう?マルティンは私の事を避けているんでしょうか?」
「そ、それはまあ、マルティンとしてはなるべく女性の部屋には入りたくなかったみたいね。別にエルマの事を避けているわけではないと思うわよ」
エルマがマルティンに恋心をいだいていることを知っているメリーナはエルマを安心させるために「エルマさんの部屋に行くのは気が引ける」ではなく「女性の部屋全般に関して行くのは気が引ける」という意味を込めてそう伝えたのだが、エルマの先ほどのセリフがどうしても気になって尋ねる事にした。
「ねえ、エルマ。さっきあなたは『敢えて鍵をかけなかった』って言ったわよね」
メリーナの指摘にエルマはビクッと肩を震わせた。
「い、いえ…決してその様なことは申しておりません。お嬢さまの気のせいでしょう」
だがメリーナは、何か意図があってのことだと思って尋ねざるを得ない気持ちになっていた。
「エルマ、安心してちょうだい。たとえどんな意図であってもエルマがわざと鍵をかけないでああいう行為をしていたっていうのは誰にも言わないから。だから安心して事情を話してほしいの。ゆっくりでいいわ。今日が無理なら後日でも。ただ、何か深い理由があるかもしれないし、あなたの役に立ちたいのよ!」
「……」
メリーナは真剣にエルマの事を心配してくれている。それはエルマにも分かるのだが、かと言ってエルマには自身の真意をメリーナに伝えるのがはばかられる気分だった。だが、メリーナが
「分かったわ。無理に話してほしいとまでは言わない。ただ私があなたの事を心配しているっていうことだけは覚えておいて。それじゃあ、忘れ物はベッドの上に置いておくから、事情は話したくなったらその時に話してちょうだい」
と言って部屋を出ようとしたとき
「お、お待ちくださいお嬢さま!お話いたします!」
エルマは思わず断言してしまった。
メリーナはエルマが急に説明しようとしたのに驚いた様子だ。なぜ急に話す気になったのかメリーナにはわからなかったが、ほかならぬエルマ自身にとっても何故なのかは分からない。ただ、真剣に心配してくれているメリーナに対しては、鍵をかけずに自慰におよんだ理由をどうしても今のうちに話さねばならない様な気がしてしまったのだ。とはいえエルマは、しばらく黙っていた。何か話しにくい内容なのだろう。しかしメリーナがしばらく待つと、やがてゆっくりと話し始めた。
「私が、わざと落としたんです。マルティンに見つけてもらえる様に、マルティンの部屋の前に……」
「え?…そ、それは何故?」
エルマの発言があまりに意外だったメリーナが尋ねると、ふたたびエルマは沈黙した。だが、やがてすべてを話さねばならない強い意志を持った様に、重い口を開いた。
「実は私……マルティンに、見てもらいたかったんです……あのう、つまり…ああいう事をしているところ……」
「え?!……そ、それってつまり、マ…マ…マスターベーションのこと!?」
エルマの意図が分からず驚いた様に尋ねるメリーナ。恥ずかしそうに頬を染めたエルマは言葉をつなげることが出来なかったが、しかしコクンとうなずいた。
メリーナは困惑した。性交渉以上にプライベートな、マスターベーションという行為を、よりによって異性であるマルティンに見てもらいたいだなんて、エルマは一体何を考えているのだろう?エルマはそんなメリーナの戸惑いに気づき、説明を加えた。
「実は私、以前マルティンに尋ねたんです。マルティンが落ち込んでいたのでどういう理由なのかと。そうしたらマルティンは、彼がお嬢さまの名を呼びながら自慰をしていたのがバレてしまって、それで落ち込んでいたと言ったのです……」
「ま、まあ確かにそんなことがあったわね……」
メリーナにとっては別にマルティンの行為が恥ずべきこととは思っていなかったのであまり気にも留めていなかった。なのでそんなことを根拠に何故わざと自慰をマルティンに見せようとしたのかについては理解が出来ない。とはいえここは聴き手に徹するべきと思って次の言葉を待つとエルマは話をつづけた。
「それで、マルティンがそういう事をしていたのが意中のお嬢さまにバレたので落ち込んではいたけど、それ以後お嬢さまとマルティンの関係が親密になって言った様に感じて……ならば私も同じ様にすれば、マルティンと親密になれるんじゃないかって思ったんです」
「……そ、それはちょっと飛躍しすぎた発想だわ、エルマ。そんなことをして事故にでもなったらどうするの?」
「え?…事故……ですか!?」
「そうよ。もしもマルティンが単にあなたに好意を持つだけじゃなくて、あなたを襲ったらどうするの?」
「えッ!?」
「エルマがマルティンに恋をしているのは分かったわ。でも鍵をかけずにマルティンの名を呼びながらマスターベーションするなんて軽率よ。その姿をマルティンに見られたらどうなったと思う?マルティンは『僕の事がそんなに好きなら、今から僕がエルマを抱いてあげるよ』とか言ってあなたを襲ったかもしれない。そうしたらエルマ、あなたは妊娠しちゃうかもしれないわよ。あなたもマルティンもまだ十八歳。子どもを持つには早すぎるわ」
「う…で、でもマルティンは避妊について考えない人じゃないし、そもそも、いくら私がマルティンを想いながら自慰していると知っても襲ったりする様な人じゃありません!それにマルティンとならいつかは結婚したいし、結婚したらマルティンの子を産みたいわ!」
「確かにマルティンは信用できる男性かも知れないわね。避妊についても真面目に考えているかもしれない。でもたとえそうだとしても、あなたには女性として相手の男性の判断を待たず自分で避妊を考えて行為に及んでほしいわ。あなたもマルティンもフォルツァー家にとって大切な存在。いつかは結婚して子どもを持ってもかまわないけど、十八歳の時点で妊娠して出産だの育児だのという事になったら我が家の仕事に支障をきたすもの」
「わ…分かりましたお嬢さま。確かに私は軽率でした。申し訳ありません……」
エルマは頭を下げながら言った。エルマの発言としおらしい態度を見たメリーナは、無計画に早期の妊娠や出産をするリスクについて理解してくれた様なので安心した。だが、あと一つ伝えておきたい事があった。それは避妊云々はしばし置くとしても、そもそも意中の男性を想って自慰をしている事をわざとバラす事が、その男性と親密になる最善の方法ではないのではないかという懸念である。
「それにそもそも、私がマルティンと頻繁に話をするようになったのは、別にマルティンが頻繁に私を想いながら自慰していたことがバレたからじゃないわ!」
「そ、そうなんですか?!」
「そうよ!あの時の私はマルティン以外の人にはとても信じてもらえない特殊な悩みがあったの。だから私はマルティンにその悩みを相談したのよ!たしかにその相談の過程でマルティンが頻繁に私を想いながらマスターベーションしていたことを知るに至ったけど、私がマルティンに特別親密と思えるほど頻繁に相談したのは事実だけど、その事とマルティンの自慰は無関係よ!」
「そ、そうですか…そうだったんですね……」
エルマは自身の不明を恥じる様に、ガックリとうなだれながら言った。メリーナはエルマがアドバイスを聞いてくれた事はうれしかったが、極端に落ち込んでほしくないとも思ったのでフォローに回った。
「まあ、でも私としては、エルマがマルティンを想いながら自慰した場面を見たおかげで安心したわ」
「え?『安心』…ですか?」
「そう、安心よ。仮にエルマが自身の気持をマルティンに伝えられないとしても、マルティンがエルマの気持を察することが出来ないとしても、私がアシストできるから安心なの。エルマがウソをつくとは思わないけど、言葉以上に明らかな行動でマルティンに対する想いを示したんだから、たとえマルティンが『エルマさんって本当は僕の事が好きじゃないのかな?』だなんて不安になっても『絶対大丈夫』って言ってマルティンの背中を押してあげることが出来るわ!」
「ちょ…ちょっと待ってくださいお嬢さま!」
「ん?」
「まさかお嬢さまは、私がマルティンを想いながらマスターベーションしていたことをマルティンにお話しなさるおつもりではないですよね?」
「べ、別にそんなことを伝えようとは思ってないわよ!」
実際にエルマの自慰についてマルティンに言うつもりはないので断言したメリーナだが、そう言い切った直後に奇妙な疑問が湧いてきた。
「でもエルマ!今のあなたの言い方はおかしくない?」
「え?」
「確かに私はエルマがマルティンを想いながらマスターベーションしていたことはマルティンをふくめ誰にも言わないつもりよ。だけどエルマ、あなた自身はさっき自らの自慰をマルティンに見て欲しいとまで思っていたんじゃないの?それなのに私がマルティンにそのことを伝えるのはダメだって言うの?あなたはマスターベーションを直接マルティンに見られることより、私がそのことをマルティンに伝えることの方が恥ずかしいって言うの?」
「う…そ、それはぁ…そのう……」
エルマは口ごもってしまった。自分でも自分の気持ちが理解できない。なのでそんな矛盾した気持ちを伝えるのは大変そうだ。しかしエルマは思ったことを正直に言うしかないと判断して、最終的には気持ちを打ち明けた。
「た、確かに言われてみれば矛盾していますね。でも私は、先ほどマルティンになら自らのマスターベーションを見られたいと思ったのも事実で、それなのにマルティンを想いながら自慰したことを言葉でマルティンに伝えられるのは恥ずかしいんです……矛盾してますけど、それが私の心境なんです……」
エルマは顔を真っ赤に染めて、恥じらいながら言わざるを得なかった。メリーナにはそんなエルマの気持は矛盾している様にしか思えなかった。だが、エルマの恥じらう様子は彼女のつつましやかさを示している様に感じられ、メリーナは
(私がマルティンなら、この振る舞いだけで絶対にエルマ一筋になるわ!)
と確信するほどの好印象をいだいた。
「大丈夫よエルマ。エルマの自慰行為は誰にもバラさないわ!もちろん、マルティンにはエルマの気持を伝えるけど、その際にもあなたのマスターベーションについては絶対に言わないから安心して!」
「あ、ありがとうございます!」
エルマは深い感謝を示すかの様に、メリーナに向けて何度も頭を下げた。
●第十四章
「グレモリー。ちょうど今なら面白い会話を聞けるぞ」
魔王の中でもキマリスの次にグレモリーと親しいその魔王は、ライオンの頭を持つ半獣半人の魔王ヴィネであった。
「面白い会話って何?」
「以前お前が尋ねた、どうして酒に酔って奇襲経路をウッカリ漏らしたことをアシュタルテさまが知るに至ったかという点に関する会話だ。問題なのはこいつさ。こいつは今お前の失敗をアシュタルテさまに報告したとキマリスに向かって言ってたんだ」
「そ、それは是非とも続きを聞きたい会話だわ!」
ヴィネの話に興味を持ったグレモリーは思わず身を乗り出した。
「分かった。私の遠隔視聴能力を使って水晶玉に映写する」
ヴィネが持ち出した水晶玉。そこにはキマリスともう一柱の魔王の画像が映った。もう一柱は鳥の頭を持つ魔王だ。水晶玉に移されたその二柱の魔王たちが話し合っている声も水晶玉から聞こえてきた。
「なあキマリスよ。何故にお前はそこまでグレモリーをかばう?」
「どういう意味だ?グレモリーは魔力こそ私より上だが身体能力は幼い少女と変わらぬ女性だ。そんなグレモリーを守るのは当然の倫理だろう」
「たしかに今回の様にアシュタルテが『気が向くまでは魔法を解かない』とまで言っているなら、たしかにグレモリーは永遠に続く罰を受けた様なものだ。しかもその罰の理由が単に胸の大きさを云々しただけだというのだから、罰としては厳しすぎる。だがグレモリーが奇襲経路を酒に酔ってウッカリ言ってしまった際には、アシュタルテ直属の眷属が何柱も天使どもに捕らえられ、しかもその後そいつらは下級天使に転生した。そんなグレモリーの失敗に関してもお前が罪をかぶる事は、さすがに倫理では説明がつかんぞ」
「……」
この言い分に対して、キマリスは黙ってしまった。
そこまで話を聞いていたグレモリーは、水晶玉の映像では背後しか見せておらず顔が見えない。だが頭部が鳥の形をしている事と声によって正体は分かる。人間界に不和をもたらすことを得意としている、魔王アンドラスだ。
(アイツ、また悪魔同士の間にまで不和の種を撒いているのか?!)
腹立たしい気持ちでアンドラスをにらみつけたグレモリーだったが、何より気になったのはアンドラスの発言だ。それに対してキマリスは何と言い返すのだろうかと、グレモリーはキマリスの次の言葉を待った。
「しょ、証拠はあるのか?私がその件に関してもグレモリーをかばったという証拠が!」
「あるさ!それもこの上なく明白な証拠、つまりお前自身の体に刻まれた証拠がな!」
「……」
「やはりな、お前ほどいつも堂々としている豪傑がこの点については何も言えないとは、お前がグレモリーの罪をかぶったのは間違いないな」
「…なぜ……」
「ん?」
「なぜ知っている?私の背中の傷の事を……」
「何だ、そんな事か!なあに、お前の引き締まった巨体は誰にとっても目に付く存在だ。それにお前は自覚してないだろうが、その巨体のおかげで女悪魔はもとより同性愛者の男悪魔からもお前は好かれている。なので、お前の体は公衆浴場でも注目されているのだ。そしてお前の背中を見た悪魔の一部が『あれは霊力による傷ではないか』と言っていたのだ。それでお前の背中の傷はグレモリーの身代わりになったお前がアシュタルテから受けた罰の結果じゃないかと推理したわけだ」
「……そうか」
「ああ、そうさ!」
「わかった。そこまで言うのなら私はもはやその件について言い訳をしない。アンドラスよ、貴殿の言う通り私は奇襲経路がガブリエルを含む天使たちにバレてしまった点に関してもグレモリーの失敗をかばった。背中の傷はその際にアシュタルテさまから罰を受けた時の名残だ。だが、このことは誰にも言わないでほしいのだ」
「ほう?それは何故だ?」
「グレモリーが苦しむからだ。彼女は既にアシュタルテさまから十分に罰を受けている。それだけでも可哀想だが、そのうえ私がグレモリーの失敗をかばって傷を負ったことを知ったらグレモリーは私に気兼ねするだろう。グレモリーにそんなことはしてほしくないのだ」
「ふん。お前はずいぶんとグレモリーの肩を持つんだな。……まあいい。それならお前はグレモリーの失敗をかばったことを秘密にする俺に対して謝礼をするのか?」
「ああ、するさ。貴殿はこの件に関して何枚の金貨が欲しいのだ?」
このキマリスの問いに対してアンドラスは首を左右に振りながら答えた。
「いや、俺は単にグレモリーに得意な魔法を使ってもらって、一名で良いから女悪魔をしばし自由にしたいだけだ」
「何?だが貴殿やグレモリーの得意とする『精神支配に関する魔法』は上官による許可が無い限り使用禁止ではないか!」
「そんなことは知ってるさ。だがバレなければどうという事は無い」
悪魔の長たる魔王たちでも各々に得意分野がある。霊波による雷撃の様に程度の差はあれ誰もが使える単純な攻撃魔法はともかく、少し複雑な魔法になると得意な者と不得意な者が個々の魔王の中にいるのである。そんな中でも不和をもたらすアンドラスの能力や女性を性的に奔放にするグレモリーの能力つまり「精神支配に関する魔法」は基本的には人間や天使に対してのみ使うべきとされ、悪魔に対する使用は禁止されている。もちろん、バレなければ懲罰を受けることはないし最高位の四柱など特に高位の魔王が許可した場合は使っても良いのだが、悪魔同士の関係を回復困難にしかねない「精神支配に関する魔法」はヴィネの特技である遠隔視聴能力やSeirの特技である瞬間移動および念動力などとは異なり、魔界で使用するのは特別な場合に限られているのだ。そんなグレモリーの能力をあえて使わせようとするアンドラスは、一体何をさせるつもりなのか?
「たしかに私が黙っていれば、そのことは誰にもバレないであろう。だが貴殿は何のためにグレモリーの能力を利用するのだ?」
「単純な事さ。グレモリーやアシュタルテの様な『人間の顔をした女』を抱いてみたくなっただけだ」
「何?」
「俺も同じ種族の女悪魔は幾度か抱いたが、人間と同じ顔をした女悪魔は抱いたことが無くてな。それでたまにはそういう経験をしてみたいと思ったわけだ」
「……」
キマリスは考え込んだ。「アンドラスは何故そんなことをしてみたいのだろう?」という疑問が湧いたからだ。キマリスやグレモリーそしてアシュタルテの様に人間そっくりの外見を持つ悪魔もいれば鳥の頭部やライオンの頭部など様々な頭部を持つ種族がいるのが悪魔という生き物の特徴だ。悪魔同士ならばその程度の外見上の差は人間で言うところの肌や髪の色の違い程度でしかないと感じるので、アンドラスの様に鳥の頭部を持つ種族の悪魔が人間の頭部を持つ女悪魔を抱きたいというのは、人間で言うなら「あえて自分と違う髪や肌の色の女性を抱きたい」という願望の様なものだろう。
そして「あえて自分と違う肌の色の人と体の関係を持ちたい」という人間もいるだろうから、悪魔であるアンドラスが似た様な願望を持っても不思議ではないかもしれない。キマリスがそんな風に考えたところでアンドラスは尋ねた。
「どうした?俺の提示した条件に不服があるのか?」
「いや、不服はない。決して倫理的とは思わないが、グレモリーの失敗を言いふらされないために貴殿の条件を飲むのは仕方ないのかもしれない。だが……」
「だが?…なんだ?」
「だが、貴殿にそういう願望があるなら良い案がある。人間界には『売春宿』という場所があるのでそこに行ったらどうだ?そこに行くためのカネぐらい私が払っても良いし、そもそも貴殿もカネが無いわけではなかろう」
「あのなあキマリス、俺の外見を考えてみろよ。この魔界ならば別に色んな種族の悪魔がいるのが当たり前だが、人間界にこんな頭部の奴がいるか?俺が素顔で売春宿に行っても客として認めてもらえないぞ」
「変身能力を使えばいいじゃないか」
グレモリーが一時的に自己の顔や身体を成人女性そっくりに変身できるのと同様にアンドラスも一時的になら人間そっくりの顔に変身できる。だがアンドラスは首を横に振って言った。
「それは無理だ。俺は変身があまり得意じゃない。変身した状態を長時間保てる自信が無いんだ。まあ、グレモリーも同じらしいがな。アイツが大人の女になった姿を見たことはあるが、一分か二分で元の姿に戻ってしまったよ」
「…わかった。ならば仕方がない。貴殿の望みをかなえるための代案が無い以上、貴殿の言う条件を飲む」
無関係な女悪魔の貞操をアンドラスに捧げさせることに心が痛んだキマリスは苦渋の選択をした。その女悪魔には申し訳ないが、グレモリーの失敗を言いふらされることは、やはりキマリスにとって避けたい事だったのだ――
水晶玉を通して一連の会話を聴いていたヴィネは、グレモリーの顔を見た。グレモリーはしばらく何かを考えている様だったが、あることを思いついたらしくヴィネに話しかけた。
「ヴィネ、教えて欲しいことがあるの」
「何だ?」
「ヴィネは今までもその千里眼でいろんな場面を見てきたと思うけど、悪魔同士の性行為の場面も見たことはあるかな?」
「……」
ヴィネは自らの千里眼をのぞき見のために使ってきたことを認めたくなくてしばらく沈黙したが、
「お願い。頼みたい事があるから正直に言ってほしいの!報酬はきちんと払うから!」
グレモリーが金銭の話を出したので、ヴィネは正直に答えて儲けた方が得だと判断した。
「あるさ、私の最も得意な魔法はこんな便利な能力なのだから『私的な用途に使うな』という方が無理な話だ」
「だったら、あなたにもう一つ教えて欲しいことがあるの。こういう性癖の女悪魔を知らないかしら?あのね……」
その後グレモリーの言う「性癖」に驚かされたヴィネだったが、数多くの悪魔たちの性行為を千里眼で見てきただけあって、結局は
「たしかにそういう女悪魔もいるさ。もちろん数は少ないけどな」
と答えてしまった。ヴィネの言葉を聞いたグレモリーはニヤリと微笑むと、ヴィネの要求した枚数の金貨を支払った――
数日後、グレモリーと会ったキマリスは敢えてグレモリーに冷たい態度を取った。グレモリーはそれがアンドラスによる指示通りだと知っていたが、わざと悲しそうな口ぶりで配下の悪魔たちに愚痴をこぼした。
「最近のキマリスはアタシに冷たいのよ。キマリスはアタシの事が嫌いになったのかな?」
「おそらくそんなことはないと思いますよグレモリーさま。今までもキマリスさまはグレモリーさまのためにいろいろと協力してくださったではありませんか」
配下の悪魔は「キマリスがグレモリーに冷たい態度を取るはずはない」と思っているのでフォローした。だが、グレモリーはさらに言った。
「でも本当に冷たい態度なのよ。だいたいアタシが話しかけてもあまり応じてくれなくなったの。つい先日会ったときなんて、アタシが色々な話題を出したのに『はい(ヤー)』と『いいえ(ナイン)』しか言わなかったわ!何か他の魔王やその配下なら事情を知ってるかもしれないから、誰かに相談してみてくれる?」
そこまで言われては誰かに相談しないとならないと思い、結局グレモリーの相談を受けた部下たちは「最近のキマリスさまはグレモリーさまに対して冷たい」という噂を広める結果となった。
その噂を聞いたアンドラスは、見るからに失意の表情をしているグレモリーに話しかけた。
「よう、グレモリー。偶然聞いた噂なんだが、最近のキマリスはお前に冷たいらしいな」
「そう。そうなのよ!アタシが何かキマリスに悪いことをしたのなら謝りたいけど『アタシは何か悪いことをしたかしら?』と尋ねても『いや(ナイン)』と答えるだけで、それ以外の話題を出しても不愉快そうな顔をするのよ。最近のキマリスとはほとんど会話が出来ないわ」
「そうか。事情はまったく分からないが…俺がなんとか仲を取り持ってやるさ」
「アタシのために協力してくれるの?うれしいわアンドラス!」
アンドラスの言葉を聞いたグレモリーは笑顔を浮かべながら言った。
「ああ、俺は最近キマリスと話をする機会が多いからな。グレモリーとの仲を取り持つ役目は俺が最適さ!」
「うれしい!ありがとうアンドラス!恩に着るわ!」
その後グレモリーと別れてキマリスに会ったアンドラスは、うれしそうに言った。
「よう!名演技だったようだな!お前にとってはグレモリーに冷たく接するなんてたとえ演技でも出来ないんじゃないかと不安だったが、グレモリーはすっかりお前に嫌われたと思っていたぞ」
「私もグレモリーに冷たく当たるのはたとえ演技でも嫌だが、その条件を飲まなければグレモリーの失敗をバラされるのだから仕方ない」
「まあ、そんな演技ももう終わりさ。俺が仲を取り持ってやったとグレモリーにこれから告げるから、お前は今まで以上にアイツに優しく接してやればいい」
「ああ、しばらくの間とはいえ冷たく接してしまったことの埋め合わせはさせてもらうよ。ともあれ、これでグレモリーの失敗をバラさないでいてくれるんだよな?」
「もちろんさ。俺は約束は守る。俺も俺の知り合いもグレモリーの失敗をバラしたりしないさ」
「分かった。恩に着るぞアンドラス」
「この程度のことはどうってことないさ!気にするなよ!」
かくして数日後、グレモリーとキマリスの仲を取り持ったという名目でアンドラスはグレモリーから感謝された。
「ありがとうアンドラス!これ、少しだけどお礼をしたいから、あなたにあげるわ」
グレモリーがアンドラスに手渡そうとした小さな袋。その袋の中には十枚の金貨が入っていた。だが、アンドラスはその中身を見ることもなく言った。
「なあに。別にカネのためにやったわけじゃない!困っている者を見ると放っておけないのが俺の性分だからな!」
「そうなの?でも、お金以外で何かお礼が出来る事があったら言ってほしいわ。あなたに何もお礼をしないのは申し訳ないのよ」
如何にもしおらしい態度で言ったグレモリーに「待ってました」とばかりにアンドラスは言った。もちろん、口調としては内心の喜びを押さえて冷静さを装ったものであったが。
「そうか?まあ、お前がそこまで言うなら、カネ以外の方法でお礼をしてもらうのも、悪くはないかな」
「分かった。アタシも何かお礼をしないと申し訳ないし、具体的に言ってほしいの」
「そうか。それじゃあ言うけどお前の得意分野の魔法を使ってさあ……」
その後アンドラスが「人間そっくりの顔をした女悪魔を抱くために、その女悪魔をメリーナと同じ状態にしてくれ」と頼むと、グレモリーは即座に応じた。
「分かったわアンドラス。さすがに相手の女悪魔が今誰かと付き合っている場合はそのお相手と出くわした場合修羅場になるけど、いま誰とも付き合っていない女悪魔の中に人間そっくりの顔の者もいるから、そのうちの誰かに魔法をかけてみるわ」
「すまない。いやあ、これも別に無理にとは言わないぜ。ただ、あくまでもお前がどうしてもキマリスとの件で俺に礼をしたいと言うからな」
「そうね。アタシもお礼をしないままでは申し訳ないから、そういう要望はハッキリ言ってくれた方がありがたいわ」
その後グレモリーは階級的には中堅に当たるとある女悪魔を、メリーナと同じ状態どころか、滅多なことでは淫らな状態から脱却できないくらい強めの魔力を持って精神支配した。しかもその女にアンドラスの似顔絵を見せながら暗示をかけて「アンドラスを見たら淫らになる様に」という念のいった魔法の使い方をしたのだ。
そのうえでグレモリーは、その女悪魔の住所を示す地図をアンドラスに渡し、
「明日が良いと思うわ。彼女は明日出かけるけれど日暮れ前の少し前に帰宅するから、そのぐらいの時間帯になったら彼女の寝室に行ってね」
と提案した。
アンドラスが飛行能力を使ってその女悪魔の家の窓から寝室に入るとおおむね日暮れの時間に着いた。しかし着くのが早すぎた様で、その女悪魔は自宅の寝室に戻っていなかった。拍子抜けしたアンドラスは、寝室にあるテーブルにある酒瓶と盃があることに気づいた。そしてそのそばにあるメモに
「リラックスしながら性行為を楽しむために、行為の前に飲んでね。アタシからのプレゼントよ。――グレモリーより」
という手紙が添えてあったので、アンドラスは
(グレモリー、なかなか気が利くじゃないか。まだ女は帰ってこない様だし、さっそくいただくとするか)
と考えて、グレモリーが親切心でプレゼントしてくれたとおぼしき酒を飲み始めた。
その後どういうわけか日暮れ前どころか日が暮れてしばらくしたのにイライラしたアンドラスだったが
(まあ、何事でも予定が少しくらい遅れる事はある。気にすることじゃないさ)
と考えて気長に待っていると、やがて足音が聞こえた。
ガチャッ!――
寝室のドアを開けたその女悪魔は、アンドラスがいることにそれほど驚いていない様だった。驚いていないどころかウットリとした表情をしている。他方のアンドラスも、その女悪魔がアシュタルテに比べれば劣るとはいえそれなりのルックスであるし、胸の大きさはアシュタルテを凌ぐサイズであることは着衣の状態でもわかるほどだったので、期待のあまり徐々に勃起していった。その女悪魔は言った。
「あら?凛々しい男性ね。……おまけにすでに素敵な部分が大きくなっている様ね。アタシを見て大事なところが元気になったの?うれしいわ」
娼婦の様に妖艶な笑みを浮かべたその女悪魔は、ベッドでくつろぐアンドラスに近づくと、ブラウスのみならずスカートも脱いだ。
ブラウスの下はカーキ色のシャツ一枚。そして下着はシンプルな白いパンツだ。アンドラスは昂る気持ちを抑えながら、くちばしのごとき自身の唇を女悪魔の唇に寄せる。女悪魔はアンドラスとのキスを嫌がるどころか積極的にその唇を押し付け、舌をアンドラスの口中に押し込んだ。
(グレモリーの奴。この女の精神をキッチリと支配してくれた様だな。これはひょっとして一晩かけて思う存分楽しめるかもしれないぞ!)
一晩で何回この女の膣内に射精できるかと欲望まみれの思考がアンドラスの心を満たす。やがて相手の女はシャツもパンツも脱いで、その豊満な美乳をアンドラスの胸部に押し付けて来た。アンドラスは女悪魔に応じて自らも全裸になったが、「さてどんな体位でこの女を抱いてやろうか」と思った瞬間に、自分が相手から押し倒されたことに戸惑った。
(ん?この女は、男にまたがるのが好きなのか?)
女悪魔のあまりの積極性に驚いたアンドラスだが、自身があおむけにベッドに寝かされながら女に組み敷かれるのもたまには良いかと考え直し、そのまま身をゆだねた。
相手の女はそんなアンドラスの態度をむしろ好ましく思ったようで、笑みを浮かべながらアンドラスの頬や額そして胸にもキスの雨を降らせた。やがて興が乗った女は、豊満で形も良い胸の双房をゆらめかせながらアンドラスの上にまたがり、白い太腿の谷間に息づく自らの花弁を指で広げながら、隆々と屹立したアンドラスの陰茎を自らの淫らな洞穴に迎え入れた。
(ふふっ…いいぞ!…なかなかの具合の良さだ!)
男根を中心に広がる甘美なさざ波を味わいながら、さらなる快楽を得ようとして腰を振りはじめたアンドラス。だがその直後彼の顔は驚愕ゆえに凍り付いた。
(うっ!…な、なんだ?何が起こっているんだ?)
思わず女の顔を見上げるアンドラス。その女は先ほどと同じく喜悦に浸りながら妖艶な笑みを浮かべている。だが彼女の両手は、アンドラスの首を力いっぱい締め上げていた。
(お…おい!どういうことだ?!一体お前は何を考えているんだ?!)
声をあげようとしたアンドラスだったが、激しく首を絞められていて声が出せなかった。だが相手の女の表情およびその言葉から、その女悪魔がアンドラスを憎んでいるわけでない事だけは確かである。
「ああ~!いいわ、その表情!最高に素敵よ!その素敵な表情をもっともっと見せてちょうだい!」
どうやらその女は闇のメリーナと同じ状態――つまり性的に興奮した状態――にある様だ。ただ、その女が「窒息死しそうな男の表情を楽しむ」という特殊な性癖を持っているという点が、メリーナを含む世の中のほとんどの人と異なる点なのだ。ようやくその事に気づいたアンドラスは、グレモリーが女悪魔に施した洗脳を解くために魔法の解除をしようと思ったが、充分な呼吸が出来ないので呪文を唱えられない。そこでアンドラスは
(ならば力づくでこの女の腕を振り払ってやる!どうせ女の細腕だ!男の俺が引きはがせないはずがない!)
と思ったが、腕にまったく力が入らない。腕どころかまるで全身が麻痺している様だ。一体どういうことかと思った直後にアンドラスは理解した。
(さっき飲んだ酒だ!あれに痺れ薬が入っていたんだ!)
魔法の解除のための呪文を唱えられず、痺れ薬のせいで腕力においても今や女悪魔におよばないほど弱体化したアンドラスは、遠のく意識の中で今までの自己の一生が走馬灯の様にグルグルめぐるのを目の当たりにした。そして
(魔王であるこの俺が、格下の女悪魔の手にかかって、しかもこんなみっともない殺され方をして一生を終えるのか?!)
アンドラスは「もしも俺が女悪魔の膣に男根を挿入したままその女悪魔に絞殺されたとしたら、そんな死に方をした後に部下や他の派閥の魔王、いや下級悪魔はおろか悪魔の研究をしているだけの単なる人間からもどれだけ笑われるだろうか」という恥ずかしすぎる死後の評価を、半分霊魂が離脱したかの様に自身の体を見下ろす視点で見ながら考えた。だが、
(ま…まだだぜ!…まだ使える方法がある!!)
その直後アンドラスは何ら技巧をくわえず純粋な自然体で霊波を放った。その瞬間、さっきまで激しく愛情のゆえにこそアンドラスの首を絞めていた女の握力が緩み、さらに彼女は急にキョロキョロとあたりを見回した。
「あれ?私どうしてここにいるの?いつの間に帰宅したのかしら?」
女悪魔はまるで夫の浮気現場を見て急に愛情が冷めた妻の様な、気の抜けた表情で言った。
「た、助かったぜ!あぶないところだった!……」
肩をあげて激しい呼吸をしながら自身が窒息死寸前で助かったことを実感するアンドラス。
「呪文は使えなくても、一番得意な魔法くらいは使えるんだな……」
自身の得意分野が他人に不和をもたらす能力でなかったら今ごろ絞殺されていただろうと確信したアンドラスは冷や汗をかきながら言った。
アンドラスは死にそうになりながらも、自身が最も得意とする「不和をもたらす能力」がグレモリーの最も得意とする(女性からという制限付きとはいえ)「愛情を獲得する能力」のちょうど対極にあることを思い出し、自らの最も得意な能力を発動させたのだ。最も得意な能力だけに呪文を唱える必要も無ければ技巧をくわえる必要も無い。雷撃とは異なり相手を正確に射抜かないと敵ではなくて周囲の物を誤射してしまうという心配も無い。窒息死寸前で意識が朦朧とした状態であっても単に「霊力を放つ」という思念だけで相手の女性とアンドラス自身の間に不和をもたらし、その女悪魔のアンドラスに対する愛情を除去したのだ。
だが、ホッとしたのも束の間。一命をとりとめたアンドラスの横っ面に女悪魔の拳が飛んできた。
「ぐほっ!…な、何しやがる!」
頬に走る激痛に耐えながらアンドラスが叫ぶと
「『何しやがる』ですって?それはこっちのセリフよ!あんたこそなんでアタシのベッドにいるのよ!…し、しかも全裸じゃない!?おまけにペニスをそんなに大きくして!この強姦魔!」
アンドラスは
(いや、さっきまでお前の方こそ俺を押し倒して性行為を楽しんでたじゃないか!!)
と言おうと思ったが、その女性が記憶を失っている事を思い出して「何を言っても無駄だ」ということに気づいた。
「い、いや!待て!確かにお前は覚えていないかもしれん!だが俺がお前を押し倒したんじゃない!お前が俺を押し倒したんだ!もっとも、この部屋に先に来てたのは俺だけどな……」
「何をわけわかんないこと言ってるのよ!?召使たちを呼ぶから動くんじゃないわよ!お前を裁きの場に引きずり出してやる!」
女悪魔がさっきまでのことを全く覚えていないことを理解したアンドラスは、大急ぎでズボンとパンツそしてシャツとジャケットを抱えると、痺れ薬のせいでふらついてほとんど歩けないことに愕然としながらも、飛行能力を駆使して窓から逃げた。
さすがに魔王の一柱だけあって、飛行能力においてアンドラスはその女悪魔もその召使も凌ぐ速度を発揮し、その場の誰もアンドラスに追いつくことは出来なかった。
だがアンドラスは自身の顔を見られたことから「魔王アンドラスともあろう者が夜這いを仕掛けた挙句、女に殴られて逃げた」という噂をたてられることを恐れて、翌日その女悪魔の家に部下を派遣した。身なりの良いアンドラス麾下のその悪魔は、アンドラスと同じ種族なので鳥の様な頭部をしていたものの「雰囲気も違えば体格も違う、それにそもそも性別も女であるので絶対に昨日の強姦魔ではない」と判断され、玄関に入れてもらうことが出来た。
「昨日は、私たちの派閥の一柱がご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。少ないですが金を差し上げますので、このことはどうかご内密にお願いします」
というその鳥の頭部を持つ悪魔の言に従い、その女悪魔は自宅の寝室に入り込んだ悪魔について誰にも言わなかった。とはいえその直後にグレモリーが派遣した配下の悪魔がやって来て
「すみません。昨日私の主君であるグレモリーさまのお酒がここに置き忘れているとのことでしたので、引き取らせていただきたいのですが…」
と言いながら引き取り、お騒がせしたお詫びと称して五枚の金貨を手渡したので、
(では昨日来たのはグレモリーさまと対立している魔王だったのかしら?)
と推理したその女悪魔は「魔王アンドラスが愛人宅と間違えて別の女の家に来てしまった」と思い込むようになった。
さらにその翌日、ようやく落ち着いたアンドラスはグレモリーの居城を訪問した。
「あら?アンドラスさま!少々お待ちください。グレモリーさまは今すぐいらっしゃいますよ!」
グレモリーの配下としてメイドをしている女悪魔がそう言って屋敷の奥に行くと、一~二分後には嬉しそうな表情のグレモリーがやって来た。
「アンドラス!どう?一昨日は楽しめたでしょ?」
グレモリーの明るい笑いに対してアンドラスはカンカンに怒った。
「『楽しめた』だと?冗談じゃない!俺は危うく殺されるところだったぞ!何なんだよあの女の変な性癖は!?」
「ああ、その件ね。でもアタシはその女悪魔と以前付き合っていた男悪魔に運よく会うことが出来たの。そのおかげで間に合ったわよ。寝室にはお酒が置いてあったでしょ?」
嫌なことを思い出させたグレモリーに対してアンドラスはさらに激昂した。
「ああ!置いてあったよ!おかげでそれを飲んだ俺は危うく死ぬところだったぜ!」
「え?!あのお酒をあなたが飲んだの?!」
アンドラスの言葉を聞いて目を丸くするグレモリー。その表情を見たアンドラスはさらに語気を荒げた。
「当たり前だろう!あれはどう考えても俺に対するプレゼントじゃないか!ご丁寧にお前の名前まで書いてあったし、他にどう解釈しろと言うんだ!?」
「ちがうわよ!あれは相手の女性悪魔に飲んでもらうための物だったの!」
「何?!」
「実はアタシも、その女悪魔と前に付き合っていた男悪魔に会ったのよ、あの日の昼頃にね!」
「ああ、さっきもそんなことを言ってたな。それがどうした?」
若干の冷静さを取り戻したアンドラスは、それでも納得できないと言わんばかりの表情をしながら憮然と言った。だがグレモリーは冷静に答えた。
「それで、その男悪魔が彼女と別れた理由を知ってアタシは驚いたのよ。何しろ好きな異性に対する愛情表現として、相手の首を力いっぱい絞めるっていう特殊な性癖があるって聞いたからね」
「そうだ!その性癖のせいで俺は殺されそうになったんだ!」
「だから相手の女悪魔が帰宅する前に、アタシの名義でプレゼントとして痺れ薬の入ったお酒を部下に届けさせたのよ。アタシ自身は飛行能力があまり優れてないから、長時間の飛行は出来ないの。それで部下の中で一番飛行能力に優れた悪魔に届けさせたの」
「…ってことは?…ひょっとして、お前がプレゼントした酒は、あの女悪魔を痺れさせるための物だったのか?」
「そうよ。いくら特殊な性癖を持っていても、体が痺れていたら思うように動けないでしょ?だから彼女が痺れ薬のせいで動けなくなっている状態であなたに彼女を抱かせようと思ったの…」
「だ…だけど紛らわしいぜ!お前は俺にあの場に行くように地図まで示して勧めたわけだし、それにあの女の寝室に先に着いた俺が飲むのは無理もないってもんだろう」
「でも、そもそも『勧めた』と言えば、アタシはキマリスとアタシの仲を取り持ってくれたお礼としては女性との体の関係ではなくて金貨十枚をあなたに勧めたわよ。それをあなたはアタシが渡そうとした袋の中身も見ないで、代案として女性との体の関係を挙げたでしょ?アタシの責任じゃないわよ。しかも本来なら相手の女性が先に着く予定だった部屋に置いてあったお酒なんだから、その女性に飲ませるためのプレゼントだと考えた方が筋が通るじゃない」
「……」
グレモリーの言い分があまりに的を射ているので、ついにアンドラスは黙ってしまった。
「何はともあれ、せっかくのお礼が台無しになっちゃって残念だわ。今更だけど、代わりに金貨を受け取ってくれる?」
「ああ、分かった。受け取るよ」
アンドラスは、「いくら俺の勘違いが原因とはいえこの結果は納得できない」という心境でぶっきらぼうに言い放った。グレモリーはパタパタと屋敷の奥に小走りで去って行ったが、約五分後に戻ってきた。
「はい。それじゃあこれがお礼の金貨五枚よ」
そう言いながら金貨の入った袋を渡そうとした。だがアンドラスは不満そうに言った。
「五枚?最初は十枚くれるつもりだったんじゃないのか?」
「それが、部下が『急な用事で金貨五枚を使わざるを得なくなった』と言って使ってしまったの。それにそもそもアタシが相手の女性を痺れさせるためのお酒を勝手に飲んだのはあなたなんだから、失敗の原因はあなたにあるんじゃない?」
「ま、まあ…たしかにそうだけどよ……ところで、その部下の話なんだが……」
グレモリーの言い分は正しいのだが、それでも釈然としない気持ちをぬぐいきれないアンドラスにグレモリーは尋ねた。
「え?アタシの部下がどうしたって?」
「その部下が言ってた金貨五枚を使わないとならない用事って何なんだろうって思ってな。主君であるお前のカネを無断で持ち出したに等しい行為なんだから、相当に緊急な用事なのかな?」
「ああ、それはさっきその部下に尋ねたよ。何でも一昨日アタシがプレゼントしたお酒を誰かが飲んでしまわないかと不安だったので、その酒瓶と盃を引き取るために使ったって言ってたわ」
「何?だったらお前の部下はあの女悪魔の家に『グレモリーの部下です』と言って入ってカネを払ったのか!?」
「そういうことになるわね」
「それはヤバイぞ!それじゃあまるであの夜あの女の家に行ったのは俺だとバラしたようなもんじゃないか!?」
「どうして?」
「だって俺はあの家に部下を派遣して『今回の事は誰にも言わないでください』とお願いさせて金を渡させたんだ。しかも俺と同じ様に鳥の頭部を持つ部下を派遣してしまった。それでその同じ日にグレモリーの部下を名乗る者が現れたのなら、絶対にグレモリーと対立する派閥の者が住居に侵入した者の正体だと気づくじゃないか」
「まあ、そうかもね。…でもアタシと対立する派閥じゃなくてアタシと同じ派閥、つまりアシュタルテさまの直属の誰かが侵入したと考えるかもしれないじゃない?」
「いや、その線は薄いな。何しろ俺は最も信頼している配下の女悪魔を派遣したが、さっきも言った通りそいつは俺と同じく鳥の頭部を持つ悪魔なんだ。その外見的特徴とお前の部下がきちんと『グレモリーの部下』と名乗ったことを総合的に判断すると、俺の派閥だと気づくのが普通だ。そもそもアシュタルテ直属の魔王に鳥の頭部を持つ奴なんていないだろ?」
「……う~ん。まあ、たしかにそうだね。でもその女性には口止め料としてそれなりの量の金を渡したんでしょ?だったら言いふらすことはないんじゃない?」
「言いふらすことはないだろうけど、その女自身は俺に対する悪印象を持つんじゃないかな?」
「…まあ、たしかにそれはそうかもね。でもそんな危険な性癖の持ち主からは、むしろ敬遠された方が安全だよ。気にすることないわ」
「まあ…たしかに、そんな女からは敬遠された方が安全だというのは間違いないな……」
そんな煮え切らない会話の後、グレモリーから金貨五枚を受け取ったアンドラスはすごすごと立ち去った。
その日の夕方。グレモリーはヴィネの居城を訪ねた。そしてメイドに呼ばれたヴィネに会ったグレモリーは
「はい、これ。お礼にもう十枚あげるよ!」
と言いながら、金貨が十枚入った袋をヴィネに渡した。
「こんなにたくさんもらっていいのか?こないだもお前は私の言い値を金貨で払ってくれた。しかもアンドラスの殺害には失敗した。それでもお礼を更にする気持ちが理解できんよ」
ヴィネは申し訳なさそうに言いながらも金貨十枚を受け取った。
「いいのよ。たしかにアンドラスを殺せなかったのは残念だけど、今回の件を誰にもバラさないでいてくれるなら前に渡した金貨も今回渡す金貨も必要な出費だと言えるわよ。さすがにしばらくは節制しないとならないけどね……」
「わかったよ……それにしても名演技だったじゃないか!てっきりお前が下手な演技をして本当はアンドラスを殺すつもりだった事がバレるんじゃないかとヒヤヒヤしたぞ」
「そのくらいの演技はアタシにも出来るよ……っていうかヴィネ、あなたはアタシとアンドラスの会話する様子を見てたの!?」
「ああ、遠隔視聴能力を使って見てたよ。アンドラスはお前が本当にあの酒を女悪魔に飲ませるつもりだったと思って帰って行ったな。もし私がアンドラスの立場でもお前の演技に騙されただろうな」
「でも、アタシがうまく誤魔化せたのはヴィネのおかげだよ。何しろあの女悪魔がアンドラスを殺し損ねた場面をヴィネが見て、そのことをアタシに教えてくれたおかげで、落ち着いて演技が出来たんだからさ!」
「そうか。そんな風に教えてやったことに対するお礼の意味を込めて金貨を十枚も追加してくれたんだな」
「そうよ」
「……」
グレモリーの言葉を聞いて暫く黙っていたヴィネだったが、今さらながらに「あること」が気になったので尋ねることにした。
「なあ、グレモリー。それにしてもお前はちょっとやりすぎじゃないか?」
「え?どこが?」
「もともとの原因を考えてみろよ。そもそもお前がアシュタルテさまから一時間もくすぐられるという罰を受けたのはお前の失敗が原因だろう。いくらそれをアシュタルテさまに報告したのがアンドラスだからといって、そのアンドラスを殺そうとするのは理不尽じゃないか?」
「え?!ヴィネはアタシがそんな原因でアンドラスを殺そうとしたと思ったの!?」
「違うのか?」
「違うわよ!そんなことで殺そうとまで思うわけないじゃない!」
「じゃあ、どういう理由でアンドラスを殺そうとしたんだよ!?」
「アンドラスがアタシの得意な魔法を悪用しようとしたからよ!アタシやアンドラスの得意な魔法は本来悪魔に対して使うことは禁止されているでしょ?しかもあいつはそれを使って女性を好き放題にしようとしたんだよ!それが許せなかったの!」
「ああ、そういうことか……だが、今回の計画はそもそもあの女悪魔が酒を飲んだら完全にアンドラスの思惑通りになってしまったよな。その可能性は考えなかったのか?」
「その点は大丈夫よ。あの女悪魔にはメリーナ以上に強力に精神支配をくわえておいたの。おまけにアンドラスの似顔絵を見せて『この顔を見たらすぐに性的に奔放になる様に』という暗示もかけておいたわ。そんな彼女がアンドラスとの性行為よりお酒を優先するはずがないわよ」
キマリスとアンドラスの会話を聞いたとき、グレモリーはヴィネに「性行為の際に相手の首を絞めるというサディスティックな欲望を持ち、しかも人間と同じ頭部を持つ女悪魔は居ないだろうか?」と相談した。そこでごくわずかながらそんな女悪魔がいる事をヴィネから教えてもらったグレモリーは、そういう女悪魔の中でなるべく美しくて胸が大きい悪魔を選んで、その日常を観察しておいたのだ。そのうえでその悪魔が近頃は所用で日没後に帰宅する日々が続いていると気づいた。計画を実行した一昨日には、さらに念入りに屈強な部下を呼んで「彼女が日没前に自宅に付き添うなら引き留めて、最悪の場合は強引に誘拐してでも日没前に自宅につかせない様に」と命令しておいたのだ。それゆえアンドラスの到着より先にその女悪魔が帰宅するはずはないし、先に到着したアンドラスはあの酒を自らに対するプレゼントだと思い込むに違いないという読みもグレモリーの中にはあった。
グレモリーの説明に納得したヴィネだったが、グレモリーは付け足した。
「でも、それだけじゃない!」
「何?」
「アタシがアンドラスを殺したいと思った本当の理由は、アンドラスが『女性を好き放題にしたい』という欲望のためにキマリスを利用しようとしたことだよ!あいつがそんなことをしなければ、アタシも流石に殺すのは可哀想だと思ったわよ!」
「ふ~ん。お前らしいな」
「え?」
「いや、いつもキマリスの事を想っているお前らしいな、と言ったんだ。でもまあ、キマリスがお前の気持に気づかなければ、せっかくの苦労が水の泡かもな」
「苦労?」
「だってそうだろう?今回の様にキマリスを悪事に加担させてキマリスに良心の呵責をもたらしたアンドラスを殺そうとしても失敗したわけだし……まあ、たしかにその失敗くらいは既にアンドラスがさんざんな目に遭って懲りた姿を見たら気にならないかもしれないが、キマリスを苦しめる相手には殺害までも考えるお前の恋心がキマリスに伝わらなければ、お前はどうするつもりだ?」
「う…そ、それはまあ……どうするつもりって言われても……」
グレモリーは返答に窮した。たしかにキマリスはグレモリーには何かと気を遣ってくれる。だがそれはまるで年の離れた妹あるいは娘に対するいたわりの様にグレモリーには感じられるのだ。そんなキマリスが果たしてグレモリーを恋愛対象として見てくれるのだろうか?「キマリスにはアタシを単に保護するべき女児じゃなくて、将来の伴侶にふさわしい女性と思ってほしい」という強い願望をいだいたグレモリーは、ある人物にお願い、いや命令をしようと考えた。