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闇のメリーナ  作者: 池野清吉
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――Meriena mit Dunkelheit――

舞台は中世のドイツ。ミュンツァー市に住む貿易商ベンヤミン・フォルツァーの一人娘であるメリーナがグレモリーという女性魔王を召喚したために生じた、悲劇(?)の物語が本作品です。

本当に悲劇だったのはメリーナお嬢さま本人以上に周囲の人間(特にマルティン)ですが、そのマルティンもメリーナおよび他の人のフォローもあって立ち直り、メリーナとともに悪魔に立ち向かいます。しかしマルティンは魔王グレモリーどころか下級悪魔にさえ勝てそうにないほど弱っちいのでメリーナお嬢さまも心配です。

最終的にはマルティンやメリーナだけではなく他の仲間も協力したうえで悪魔との戦いになるのですが、その詳しい顛末は『闇のメリーナ』本編にてご堪能くださいませ。

●第一章

「お嬢さま!なんとしてもこの程度の事は覚えていただかなければなりませぬぞ!」

中世のヨーロッパ、その中のとあるラントにある豪邸の一室で、身なりの良い白髪の男性の叱咤しったの声が響いた。

「うう…そ、そんなことを言われても……」

お嬢さまと呼ばれたその少女はまだ二十歳。かなりの美少女だが悲しみゆえに眉間にしわを寄せ、今にも泣きだしそうな表情をしている。第三者から見れば美少女の泣きそうな顔も魅力的だろうが、当の本人にとっては自身の美貌を自慢する気になれないほど深刻な状況だ。

「とにかく、旦那さまが病床にせっていらっしゃる以上、お嬢さまには代理人としてのお仕事をしていただかなければなりませんので、きっちりと教育させていただきますぞ!」

「わかったわよじいや……後でキッチリ復習しておくから、とりあえず今日の勉強はここまでにしてちょうだい」

「かしこまりました。ですが本当に復習なさいますんでしょうね?前回は全然復習なさらず同じことを教える羽目になりました。そんな調子ではフォルツァー家全体の損失につながります。ミュンツァー市で最大の財力を誇る名家の家督を継がれるお立場上、ご自覚を持っていただきたいものですな!」

「わ…分かったってば!とにかく今日の勉強はこれで終わり!それでいいでしょ?」

「かしこまりました……」

「爺や」と呼ばれた白髪の男性はうやうやしく頭を下げて部屋を出た。

残された美少女は渋い顔をしたまま机の上に突っ伏した。

「ふうっ……船舶の保険制度なんて、私にはとても覚えられないわよ……」

すっかり落ち込んでしまった彼女は自室を出ると、父親であるベンヤミン・フォルツァーの書斎に向かった。そして父親の書棚を見ると何十冊もの本が分野ごとに整然と並べられていることに気づき、美少女は自身の父が相当な読書家であることをあらためて思い知らされた。書棚の本はほとんどが彼女たちの自国語つまりドイツ語で書かれた文献であるが、中には『ラテン語の初歩』(Die Grundlagen des Lateinischen)という外国語の入門書もあり、外国語にまったく興味のない少女はその本を見た瞬間に顔をしかめた。

(船舶の保険に関する分かりやすい入門書があるんじゃないかと思ったけど、あるのは入門書じゃなくて専門書ばかりね…)

次回の爺やの講義で「お嬢さま、また復習してないではありませんか!」などと叱責されたくないので、どうにかして講義の理解に役立つ本を見つけて復習しておこうと思ったのだ。しかし、あいにく分かりやすい入門書がなかなか見当たらないことに美少女は苛立った。だがその直後、『聖書教理の要約』(der Katechismus)という本の隣に『魔術書』(das Zauberbuch)という奇妙な題名の本があるのに彼女は気づいた。

「えッ!『魔術書』ですって?!どんな内容なのかしら?…」

彼女は好奇心に駆られるままに本を開く。様々な高位悪魔の肖像画が描かれていたが、その悪魔の中の一柱ひとはしらに彼女は眼を止めた。

「グレモリー?」

物語の本で読んだ中東の人々のような服装に身を包んだその高位悪魔は、ソロモン七十二柱ななじゅうふたはしらの一員とは思えないほどに幼い顔立ちの、十歳前後に見える幼女の様な姿をしていた。

高位の悪魔とはいえ自分よりも幼い容貌をしているグレモリーに親近感を覚えた美少女は、その挿絵の下にあるグレモリーの召喚方法を丹念に読み込んでいった。そしてグレモリーの召喚方法が意外に簡単な呪文を唱えるだけで済むと知った彼女は

「ま、まあ流石さすがに本物の悪魔が出て来るなんてことは無いわよね……」

などと楽天的に判断して、思わずその魔術書にある召喚の呪文を唱えてしまった。その直後、

バシッ!――

という、御者が馬の尻を鞭でたたいた様な音が響き、目の前で紫色の雷光が走った。何事が起ったかと怪訝そうな顔をしている少女の眼前で、漆黒の球体の様な円形の「何か」が現れ、最初は握りこぶし程度だったその「何か」はグングンと大きくなり、十秒も経過したころには成人の男性が通れるほどの直系を持つ円にまで膨れ上がった。

目の前で起きている現象が何なのか全く理解できずキョトンとしている少女の前に、九歳あるいは十歳くらいの幼女が現れた。

「ハロー!お待たせしたかしら……あれ?おかしいわね?この風景って前に見たような風景ね……」

まだ第二次性徴を迎えていないことが明らかな甲高い声で言ったその声の主は、先ほど挿絵で見た悪魔の一柱そっくりであった。ぱっちりとした目と小さな鼻、そして可憐な唇は、今はまだ美女とは言えない幼女であるが将来は相当な美女になるのではないかと期待を抱かせるほどチャーミングな容貌だ。その服装は中東の女性が着る民族衣装の様であり、肩からはハンドバッグの様なバッグをぶら下げている。

幼女は目の前にいる美少女を見ると無邪気そうな口ぶりで尋ねた。

「アタシを呼んだのはあなたかしら?」

「え?…ま、まあそういうことになるわね……」

目の前に現れた幼女がまだ現実のものとは思えず、あたかも夢の世界にいる様な気持ちになりながら、ついつい相手の指摘を認めてしまった。

「アタシはグレモリー。あなたに呼ばれたので来たんだけど、あなたは何ていう名前?」

「私?…私はメリーナ・フォルツァーよ!」

「メリーナ……フォルツァー?…ひょっとして、ミュンツァー市で最大の財力を誇るフォルツァー家のご令嬢?」

その女児が先ほど「前に見たような風景」と言っていたこともあいまって、「この子はミュンツァー市には時々視察に来ているのかもしれない」と思ったメリーナだったが、それでも自身の家庭についてきちんと説明すべきと思ったので正確に答えることにした。

「そ…そうね。私のお父さまはミュンツァー市で最大の財力を持っているわ…まあ、そのおかげで生活に困ってないというところなんだけど、お父さまのお仕事を代わりにやらなければならないとなると相当に困難なので、良いことばかりでもないのよね……」

「お仕事を代わりにやらなければならない?…一体どういう事情なの?」

目の前にいる、突如室内に現れた謎の存在がどう見ても九歳あるいは十歳くらいの幼女の様な姿をしているからなのか、それともその幼女の姿をした悪魔の霊力がもたらす催眠効果なのか、「お嬢さま」ことメリーナ・フォルツァーは自身の置かれた状況を包み隠さず話したい心境になってしまった。

メリーナの置かれた状況、それは複数の船舶で貿易をしている富豪である父親に代わって貿易の仕事、そしてその他の采配をまだ二十歳の自分が急に担う羽目になった、という状況であった。メリーナの生まれる数百年前、十二世紀に確立した船舶の保険制度はメリーナの父親をふくむ貿易商にとっては必須の知識であったが、これまで父の仕事の手伝いなどしたことが無いメリーナには契約書の読み方をふくめなかなか覚えられない、複雑な制度の様に感じられた。

そうしたメリーナの苦労を知っている教育係の爺やは仕事に必要な知識を色々教えてくれるが、文書にサインをしたり他の財界人との会合に参加したりという最終的な決定に係る場面ではベンヤミンの親族であるメリーナ自身の行動が必要なので、爺やがそうした最終決定を代行してくれるわけではないのである。

一通り話を聞いたグレモリーは、大きくうなずいた。

「わかったわ。要するにあなたの記憶力を高めれば解決する問題ね!それなら話は簡単よ!」

「え?…それってどういう意味?」

戸惑っているメリーナに、グレモリーは余裕の笑みを浮かべながら答えた。

「簡単よ!私の霊力でその程度のことは出来るわ!まあ、判断力とか作曲の能力とか、別の能力を高めることまでは私には出来ないけど、記憶力ぐらいなら私の能力でも可能よ!」

「ええッ?!…ほ、本当にそんなことが出来るの?!」

「お安いご用よ!……た・だ・し!」

「え?」

余裕たっぷりの表情で話していた幼女悪魔グレモリーが思わせぶりな表情をした直後、彼女はバッグから紙切れを取り出した。何を要求するのだろうと気になっているメリーナに向かってグレモリーは話をつづけた。

「ただし、この契約書にあなたの名前を書くこと!そうすればあなたの記憶力を高めてあげるわよ!」

グレモリーがメリーナに突き出した書類。それは契約書だった。悪魔が人間の望みをかなえる時には契約書を交わすのが慣例であり、グレモリーもその慣例に従ったわけだ。メリーナはそんな慣例など知らない。しかし「何としても父であるベンヤミン・フォルツァーの代理人を務めなければならない、そしてそのためには悪魔との契約内容が何であれ記憶力を高めて爺やの期待に応えないとならない」という切羽詰まった心境が、彼女を契約書にサインするという行動に駆り立てた。

メリーナのフルネーム、すなわちMeriena Folzerという署名を契約書の該当箇所に書き終えると、グレモリーはイタズラ好きな幼児の様なニヤッとした笑みを浮かべた。これで契約成立。誰も文句を言えない堂々たる成果だ。

「こうして契約を交わした以上、アタシはさっそくあなたに債務を負うわよ。そしてアタシがあなたに負った債務を果したら、今度はあなたが私に債務を負う事になるのよ。まあ、契約書を交わした以上、そんなことは言うまでもないけどね」

グレモリーの言い分に底知れぬ恐ろしさ、すなわち自分が何かとんでもない契約をしてしまったのではないかという不安感をいだいたメリーナであったが、今さら契約を解除することは出来ないだろうと考えた。それに加えて、そもそもどうしても記憶力を良くしたいという切実な願望をかき消すことが出来ず、契約書を取り上げる様な暴挙は思いつきもしなかった。

メリーナの気持ちを知ってか知らずか余裕のある笑みを浮かべたグレモリーは、自身に比べて頭二個分くらい身長の高いメリーナの額に向けて指をさすと、メリーナには聞き取れない何らかの呪文を唱えた。ドイツ語ではないのは明らかだ。メリーナが「ひょっとしてラテン語だろうか、それとも他の古代言語だろうか」などと思った直後、グレモリーの指先から先ほど見た様な紫の雷光が走り、一瞬だけ額にチクッとした軽い痛みが走った。

Autschアウチ!」

思わず「痛い」と言ってしまったが、痛みはほんの一瞬で、その後は特に何も変化らしい変化が無かった。こんなことで果たして自分の能力に何か変化があったと言えるのだろうか?

「ええと…お嬢ちゃん(フロイライン)、これで本当に私の体に何か変化があったの?私の体は何も変わっていない様な気がするんだけど……」

「大丈夫よ!それとね、アタシはグレモリーっていう立派な名前があるの!お嬢ちゃん(フロイライン)じゃないわよ!」

「ご…ごめんなさい。これからはちゃんと名前で呼ぶわ。……ともあれ、私には何も変化が起きて無い様な気がするんだけど……」

不安そうにグレモリーを見るメリーナ。しかしグレモリーは余裕の笑みを浮かべつつ、書棚にあった本を一冊取り出した。

「それじゃあ、あなたがどれくらい記憶力が良くなったか、一例としてこの本で試してみたら?」

グレモリーがメリーナに手渡した本、それはよりによって『ラテン語の初歩』(Die Grundlagen des Lateinischen)という外国語の入門書だった。本の題名を見たメリーナは

Neinナイン!」

思わず「イヤだ」と言ったが、その本を強く押し付けるグレモリーの自信に満ちた表情を見ると「ひょっとして自分は出来るのかも?」と思い直して本を受け取り、試しに開いてみた。

たしかに最初読み始めた時点では、内容が簡単と感じられるわけではない。だが、以前ならばラテン語の入門書なんて少し読んだら前のページに書いていることを忘れて前のページに戻らねばならず、しかもそれを何度も繰り返して結局はいつまでたっても先に進めない、という経験があった。だが今回は、どうやらそうした必要は無い様である。

自分の能力に若干の自身を得たメリーナに向かってグレモリーは

「どう?あいにく理解力を上げたわけじゃないから、内容的に理解しにくい難しさの本は難しいままだと思うよ。ただ、一度理解できたことに関しては、前のページに戻らなくても忘れなくなったんじゃないかな?」

図星を突かれたメリーナは驚いたが、直後には納得してコクンと首を縦に振った。だが、ついつい欲を出して尋ねてしまった。

「だったらさ、さらに文章の理解力とか計算力とか、別の能力も高められないの?」

この問いに対してグレモリーは少し戸惑った様な表情をした。

「そんな能力まで必要なの?もしも今よりも多くの能力を望んだら、その分あなたが負う債務も大きくなるのよ。それでもいいの?」

「さ…債務?」

メリーナは今さらながらに思い出した。そう。これは決してボランティアではないのだ。いったい自分は記憶力を高めてもらった代わりにどんな債務を負ったのだろう?

「と…ところでグレモリー、私はあなたにどんな債務を負ったの?私は何をすれば良いの?」

この問いを聞いたグレモリーは再びニヤッと、イタズラ好きな幼児の様な笑みを浮かべた。

「え?『あなたが何をすれば良いか』ですって?いいえ、あなたは何もしなくて良いわ。だってあなた自身が何をしなくてもあなたの体が勝手に動く時が来るから、その時には私の望みどおりになっていくわよ」

「え?」

グレモリーの発言の意味が分からないメリーナはキョトンとした顔をして立ち尽くした。だがグレモリーはそれ以上の説明は不要とばかりに、

「まあ、そのうち分かるわよ。あなた自身が分からなくても周囲の人間があなたの変化から何かを察する。そうしたらあなたが悪魔と契約をしたこともバレるってわけ。それじゃあお元気で!」

そう言い放ったグレモリーは、先ほど部屋の中に突然現れた黒い球体の様なものに入ると、その直後に球体ごと姿を消した。


●第二章

「お嬢さま、素晴らしい!素晴らしいですぞ!今までのお嬢さまとは全く異なりますな…いや、失礼!とにかく見違えるほど見事に記憶なさっていますな!」

フォルツァー家に長年仕えている「爺や」ことAlfredアルフレートは、自身がこれまで教育してきたメリーナの成長ぶりに驚嘆した。

「そ…そうかしら?褒めてもらえて光栄だわ……」

メリーナはアルフレートの礼賛を喜びながらも、心のどこかで不安を抱えていた。先日グレモリーと出会って以来、船舶の保険制度はもとより他にもアルフレートから教わったことを復習してみた。そうすると、たしかに難しいことは難しいのだが、理解できた事柄については覚えられない事はなくなった。それまでは本を読んでも講義ノートを読み返しても、少し前のページに書いてあったことが思い出せずに何度も同じページを読み返してばかりだったのだが、今やそうした復習は必要なくなっていたのだ。

だが、こうして今回あらためて自らの能力の向上を感じると、グレモリーが言っていた「債務」という言葉の意味が気になってしまう。

(あの時グレモリーは「私自身は何もしなくていい」なんて言ってたけど、何もしなくても周囲の人が気付くっていうのはどういう意味かしら?私に何か変化が生じているのかしら?)

不安に駆られたメリーナは、よほど思いつめた顔をしていたのだろう。アルフレートは問いかけた。

「お嬢さま、どうなさいました?」

「え?…べ、別に何も問題ないわよ……私そんなに変な表情をしてた?」

「ええ…まあ、変な表情と言いますか、何か深く考え込んでいらっしゃるような、そんな表情でした。…せっかくこうしてしっかり復習なさっているのに浮かない表情をなさってましたが、何か御悩み事がございますのでしょうか?……」

アルフレートの問いにメリーナは何とか答えようとしたが、まさかグレモリーという悪魔と契約したなどという突飛な話をしても信じてもらえるはずがないと思ったので、真相を話す気にはなれなかった。そこで彼女は、グレモリーの言ったことが本当なのかどうかを遠回しに確認する事にした。

「ねえ、爺や。私は何か変わったかしら?…いえ、今回の様にこれまで学んできたことを覚えているという意味で変わったんじゃなくて、何か普段の私がしない様なことをしてしまってないかしら?」

「は?…ええと……いえ、別に私が気付く範囲では何も変化はございません。お嬢さまはいつも通りのお嬢さまでいらっしゃって、ただこうして今までの講義内容を充分に復習なさっている点は素晴らしい変化だと思います。私が気付いた変化と言えばそれだけです」

何か真意を隠しているらしいメリーナの言い分が気になったアルフレートだったが、間者の様に探りを入れるつもりはないので、思ったことを素直に述べた。メリーナもアルフレートが別に隠し事をしているとは思えないので、おそらく自分はアルフレートの目の前では普段と違う振る舞いをしていないのだろうと素直に解釈した。

その後、メリーナはアルフレートから普段の様に講義を受けて、その内容をノートに取った。

(でもまあ、今の私ならノートなんてほとんど見直さなくても済むわね……)

自室に戻って講義ノートを読み返したメリーナは思った。一度だけ習った講義の内容でもほとんど覚えることが出来たが、意味を理解できなかったところは後で復習して理解しないとならない様だ。あくまでもグレモリーは「記憶力」を高めたのであって「理解力」を高めたわけではない、という契約内容をメリーナはあらためて思い起こした。その時、

トントン!――

というノックが聞こえた。

「入っていいわよ(ドゥー・カンスト・エントレーテン)」

メリーナが告げると、メイドのエルマが衣類を持って入ってきた。

「お嬢さま。お召し物でございます。近々パーティーにお出になられますので、こちらをお召しになる様にと、アルフレートさんからの伝言です」

「あ…ありがとう。助かるわ……」

メリーナは通り一遍の挨拶をして、エルマからドレスを受け取った。

エルマはメリーナの二歳年下である。メリーナに比べてあか抜けた雰囲気は無いがメリーナに似た顔立ちの美少女だ。だからというわけでもないのだろうが、メリーナは何となくエルマには他のメイド以上に親近感を覚えている。

(そうだ!あの事をエルマに尋ねてみよう!)

思い立ったメリーナは、エルマに話しかけた。

「ねえ、エルマ。あなたに尋ねたい事があるの」

「何ですか?お嬢さま」

「私は、何か最近変わったことをしたかしら?」

「?」

エルマはメリーナの言った意味が分からず戸惑った。そこで言い方を変えないとならないと感じたメリーナは、

「単刀直入に言うわ。私は最近、以前の私とは違う振る舞いをしていたりしないかしら?」

という風に言い方を変えてみた。するとエルマはメリーナの意図そのものは理解した様だ。だが返ってきた答えは

「いいえ、お嬢さまには別段変わったことなどございません」

というものだった。エルマの答えに拍子抜けしたメリーナだったが、エルマは言葉を続けた。

「あ、でも…」

「ん?どうしたの?エルマ」

「でも、もしかしたらマルティンならば違う意見かもしれません。…マルティンを呼んでまいりましょうか?」

マルティンとはエルマと同じく十八歳の召使で、エルマと同じく可愛らしい顔立ちをしている。フォルツァー家の専属シェフの弟子であり、調理の補助と食材の買い物そして皿洗いが主な仕事だ。この時間帯ならマルティンには急ぎの仕事が無いはずと判断したメリーナはさっそくエルマに頼んだ。

「そうね。お願いするわエルマ。マルティンを呼んでちょうだい」

「かしこまりました」

ペコリと頭を下げるエルマ。そして彼女が出て行って数分後、

トントン――

再びドアをノックする人物にメリーナは先ほどと同じ言葉を投げかけた。

「入っていいわよ(ドゥー・カンスト・エントレーテン)」

ガチャリと音がして入ってきたのはマルティンだった。

「お嬢さま、何のご用でしょうか?」

普段と変わらぬ服装。そしていつも通りの童顔の可愛らしい顔立ち。しかし少しだけ違うのは、明らかに何かを期待した様な上気した表情という点だ。まるで今からエサをもらえるという期待をしている子犬の様な表情を見せるマルティンを見て、メリーナは少し戸惑った。

「え…ええと、マルティン……ちょっとお話があるんだけど……」

「は…はい!何でございますか?お嬢さま」

普段の冷静なマルティンとは様子が違うので話しづらいと感じたメリーナだったが、エルマに尋ねたのと同じ問いを投げかけてみた。

「単刀直入に言うわ。私は最近、以前の私とは違う振る舞いをしていたりしないかしら?」

この問いに対してマルティンは即座に答えた。

「はい!昨夜のお嬢さまはとても素敵でいらっしゃいました!…あ、もちろんお嬢さまは普段から素敵でいらっしゃいますが…ただ、昨夜のお嬢さまはそれに輪をかけて素敵でいらっしゃいました!」

「昨夜?……昨夜私は何かしたの?」

マルティンの言葉の意味が分からないメリーナは思わず尋ねた。だが、今度はマルティンがその問いに戸惑った。

「な…何をおっしゃっているんですか?…まさかお嬢さまは昨夜のことを覚えていらっしゃらないのですか?」

「昨夜のこと……って何のこと?」

いまだにマルティンの意図が分からず問いかけざるを得なかったメリーナだが、そのメリーナの発言と「私は本当に何も覚えていない」という気持ちが明らかに表れた様子を見たマルティンは、先ほどまでの上気した顔がウソだったかの様に意気消沈した。

「そ…そうですか。そうですよね。やはり昨夜のお嬢さまはお酒をお召しになってあのような行為をなさったのですね。あれはあくまで一時の気の迷いだったということですね……」

「な…何を言ってるの?……マルティン、説明してもらえる?……」

メリーナは真剣に自分が昨夜何をしたのか知りたくて尋ねた。だがマルティンはメリーナの行動を口にするのがはばかられる事だとでも思ったのか、いやそれ以上にメリーナの行動が単なる一時の気の迷いであったなら彼自身こそがその行動を忘れたいとでも思ったのか、なかなか口を開かなかった。しかし、それでもメリーナがすがるような表情で「どうしても昨夜の自分の行動について教えて欲しい」とお願いすると、ようやく重い口を開いた。

マルティンが言うには、昨夜のメリーナはマルティンが一人きりの時に話しかけ、周囲に誰もいない屋敷の片隅に連れて行くと、マルティンにキスをしたというのだ。しかも、美しい令嬢のキスに戸惑いながらも歓喜に震えるマルティンに向けてメリーナは

「今日は時間が無いからキスだけだけど、今度はその続きをしようね……愛してるわ、マルティン」

などと情熱的に語ったとのことである。そしてその時の雰囲気は、単に顔立ちが美しいというだけではなくとても妖艶で、マルティンはメリーナの瞳に吸い込まれそうなほどに心惹かれたとのことであった。

マルティンの話を聞いたメリーナは沈痛な面持ちをしてしまった。その表情からメリーナが昨夜のキスも自身の発言も全く覚えていないと確信したマルティンは、すべてをあきらめたような表情で寂しそうに言った。

「気になさらないでくださいお嬢さま。お酒を飲むと人は変わります。昨日のお嬢さまはお酒をお召しになって、それで一時の気の迷いであの様な振る舞いをなさったのでしょう」

しかし実際には昨夜酒など飲んでいなかったメリーナは必死に否定した。

「ち、ちがうのよマルティン!それは一時の気の迷いじゃないの!」

「え?…で、ではお嬢さまは本気で僕の事を……」

メリーナの発言に、一気にパアッと明るい表情を見せるマルティン。やはり自分はメリーナお嬢さまから本気で惚れられている!そう確信したマルティンに向けて、メリーナは言葉を続けた。

「それは一時の気の迷いじゃなくて、最初からまったくその気はないの!」

「――?!」

急転直下。まさに天国から地獄に突き落とされたマルティンは、全身が石になったかのようにその場で硬直した。

その後のメリーナは大変な苦労してマルティンに事情を説明した。グレモリーという悪魔を召喚する方法を実践したらそのグレモリーという悪魔が実際に現れたという突拍子もない話を信じてもらい相談に乗ってもらいたかったのだが、まずは「せっかく憧れのお嬢さまと恋仲になれたと思ったのに、お嬢さまにはその気が最初からまったくなかった」という泣きたくなるほど悲しい現実をマルティンが受け入れてくれないと、あまりに落ち込んだマルティンが話を聞ける状態にならなかった。

しばらく説得に時間がかかったものの、最終的にはマルティンもメリーナの意図を理解して、残念ながら憧れのお嬢さまと恋仲になれたわけではないという悲しい現実を受け入れてくれた。とはいえ「グレモリーという悪魔が実際に現れた」というくだりになるとマルティンは納得できなかった。

「お嬢さま、お嬢さまがご自分の意志で昨夜の行為をなさったわけではないのは理解いたしました。しかしグレモリーとかいう悪魔が現れたという話は、さすがに信用できかねます」

マルティンは冷静に言ったが、釈然としないメリーナは反論した。

「でもね、マルティン。私が昨夜あなたにキスをしたことは覚えていないのよ。もともとまったくそうした意図は無かったわ。それにグレモリーという悪魔は私に『あなた自身が何をしなくてもあなたの体が勝手に動く時が来る』とか『周囲の人間があなたの変化から何かを察する』と言ったのよ。まさに昨夜の私の行動ってグレモリーが言った通りじゃない?」

だがマルティンはあくまでも冷静だ。

「しかしですね、お嬢さまはアルフレートさんの講義を理解して暗記するのに相当ご苦労なさってましたよね?つまり精神的に追い詰められていた、というわけです」

「そ…それがどうしたの?」

なぜ突然アルフレートとの関係を持ちだすのだろう?マルティンの意図が分からずメリーナは尋ねた。だがマルティンは冷静に答えた。

「追い詰められた心境の人は、えてして暗示にかかりやすくなったり幻覚を見たりするものです。お嬢さまがそのグレモリーという悪魔に関する記事を旦那さまの書斎の本の中に見つけたのは事実でしょう。そしてその召喚のための呪文を唱えたという点も僕は疑っていません。しかし、実際に悪魔が現れたというのは『記憶力を高めたい』というお嬢さまの願望が生み出した幻覚に違いありません。夢の中で自分の願望をかなえていながら目が覚めると何も変わっていない現実に愕然とするという経験は僕もしています。おそらくお嬢さまもそれと同じ状態でしょう」

「で、でもねマルティン。私は実際に記憶力が良くなったのよ。あなたの言う様な『目が覚めると何も変わっていない現実』というのは今回の事例には当てはまらないんじゃない?」

「お嬢さま、冷静にお考え下さいませ。記憶力なんて暗示でも向上するものですよ。今回お嬢さまが得た能力は別に何か人間が絶対に持ちえない能力……たとえば火を自在に操るとか空を飛ぶとか、そういう能力じゃないですよね?暗示で変われる範囲の変化で『本当に悪魔が来た』なんてお考えになるのは道理がありません」

「で、でも私の記憶力の向上は非常に大きな変化だわ。とても暗示のせいだとは思えない…そ、それに暗示というだけでは昨夜私があなたにキスした事についても説明がつかないし、しかもそのことを私が覚えてないのも暗示とは関係ないんじゃないかしら?」

「……」

メリーナの言葉に、マルティンもさすがに「それも暗示の効果です」と断言する自信が無くなった。とはいえ実際に悪魔が現れたなどという話が突飛すぎるのも事実だ。そこでマルティンは方針を変えた。

「たしかに仰せの通り、昨夜のお嬢さまの行為を暗示のせいだと言い切るのは早急すぎるでしょう。ですが、まだ僕には実際に悪魔が現れたなどという話は信用できません。とはいえお嬢さまがウソをついているとも思いませんので、実際にその悪魔に会わせていただけませんでしょうか?さすがにこの目で見れば僕も悪魔がこの屋敷にやって来たという事を認めます」

「え?……」

メリーナは一瞬だけ戸惑った。だが、次の瞬間には自信ありげな表情に変わり堂々と言った。

「いいわよ!だったら見せてあげる!実際に悪魔を見ればマルティンは納得するんでしょう?」

そしてあまりに堂々としたメリーナの態度に気圧けおされたマルティンの手を取ると、メリーナはマルティンとともにベンヤミン・フォルツァーの書斎に向かった。

(この前と同じ状況を作れば、きっとグレモリーは来てくれる!)

そう考えたメリーナは、前回グレモリーを呼び出した時と同じ場所に立ち、前回と同じ呪文を唱えた。するとふたたびバシッという音が響き、目の前に現れた黒い円形の「何か」がグングンと大きくなっていった。

その黒い円形の「何か」をはじめてみるマルティンは目を丸くしたが、すでにそれを見たことがあるメリーナは理解した。要するにそれは穴なのだ。人間界と魔界をつなぐ洞窟の様な穴が呪文によって作られた、というわけだ。

だが、今回グレモリーはすぐには現れなかった。そして二~三分くらい経過したころようやく

「あら?また呼び出された様ね。でも今はお話し中なので、少しだけ待ってね」

という声だけが聞こえてきた。そしてさらに二~三分後になってようやく

「ふ~、まさかこんなに頻繁に呼び出されるとは思わなかったわ……」

という声とともに、先日と同じく中東の民族衣装らしき服に身を包んだ可愛らしい幼女が、先ほど生み出された穴から出てきた。メリーナはマルティンに向かって「してやったり」と言わんばかりの表情をしながら言った。

「どう?私の言ったことは本当だったでしょ?彼女が悪魔のグレモリーよ!」

目の前の空間に穴が開くという奇妙な現象をようやく現実のものとして受け入れたマルティンはどうにか口を聞ける状態になったが、そのマルティンはメリーナの言葉をまだ信じることが出来なかった。

「お嬢さま、たしかに目の前に何か黒いものが現れて、そこから誰かが出てきたことは認めます。ですがこの九歳か十歳くらいの可愛らしい幼女は、どう見ても悪魔には見えません。お嬢さまが何らかの方法で誰かを呼び出したのは間違いありませんが、悪魔ではなく人間を呼び出しただけではないでしょうか?」

マルティンの言葉にどうにか反論したいが何と言って良いか分からないメリーナに代わって、悪魔と見なしてもらえなかった事に不満を感じたグレモリーは、ややふくれっ面をしながら答えた。

「わかったわ。ならば証拠を見せてあげる」

「証拠?」

戸惑うマルティン。

「そう、アタシが悪魔だという証拠よ!」

ニヤッとした笑いを浮かべたグレモリーはマルティンの胸部を指さした。次の瞬間――

バシッ!

という音が響き、マルティンは

「痛いっ(アウチ)!」

と叫んで胸を襲った苦痛に思わず顔をしかめた。グレモリーがさらにマルティンの頭部や胸部や腹部を指さし、何度も紫の雷光らしき光を放つと、マルティンは痛みに耐えかねてしゃがみこんでしまった。

その様子を見たメリーナは昨日自分が受けた雷光による軽い痛みとは違うレベルの痛みに苦しんでいるらしいマルティンを心配そうにのぞき込み

「グレモリー、マルティンに何をしたの?」

グレモリーに向かって少し糾弾する様に話しかけた。

「別に!軽いお仕置きをしただけよ!アタシの言う事を信じない悪い子には良い薬だわ!」

「え?」

「こないだあなたに放った霊力は、あくまでもあなたの記憶力を高めるためのものだったわ。でも今回は攻撃用の霊力を少しだけお見舞いしてやったのよ。本気を出したらこのマルティンとかいう坊やを殺すことなんて簡単に出来るけど、そんなことをしたらあなたが悪魔と契約したことを証言してくれる証人が減っちゃうから、手加減して少し痛めつけるだけにしたの。このマルティンとかいう坊やは使い道があるから殺さないわよ、安心して」

そう言った直後にグレモリーは霊力の連続攻撃を止めたが、マルティンはまだ痛みの残る胸部を押さえながらうずくまっている。

メリーナはグレモリーという悪魔の霊力に恐れをいだいた。見た目は九歳か十歳くらいに見える可愛らしい顔立ちの幼女。しかしその霊力は人を簡単に殺せるほど危険なものだというのか。

メリーナの表情に恐怖を見て取ったグレモリーは余裕の笑みを浮かべながら言った。

「見た目が小柄だからってアタシを甘く見ないでほしいわね。アタシだって高位の悪魔…つまり魔王の一翼を担う存在なのよ。霊力で人間を殺すくらい簡単にできるわ。…まあ、それでもアタシの霊力なんて最高位の魔王たちには遠く及ばないけどね」

「最高位の魔王たち?」

グレモリーの言葉が気になったメリーナに向かってグレモリーは答えた。

「最高位と言えば、あの四柱よんはしらに決まってるわ。第一位のルシファーさま、そのルシファーさまとほぼ同格のバアルハダドさま、そしてバアルゼブルさま、それからアタシの属する派閥を統括なさっているアシュタルテさまよ!」

「へ~え…そ、そうなんだ。その四柱が最高位なのね?」

「そうよ!そしてアタシ程度の魔王でもアンタたち人間を殺すことくらい簡単にできるけど、人間は殺すよりも利用する様にというアシュタルテさまのご意向で殺さないことにしているの。もちろん人間がアタシを襲おうとしたら話は別だけどね!」

グレモリーの話をまだ実感できないメリーナに代わって、ようやく痛みが引いて話が出来る状態になったマルティンが話しかけた。

「僕はグレモリーという名前は知らなかったよ。でもいまドゥーが言った四柱の名前は聞いたことがある。ドゥーはその一角を担うアシュタルテの部下なのか?」

「そう!その通りよ!ところで、マルティンとかいう坊や!見た目はどうであれ、アタシはあなたよりも格段に年上で、しかも魔王の一柱ひとはしらなんだから、アタシのことは『ドゥー』じゃなくて『あなた(ズィー)』と呼んでほしいわね!」

グレモリーのこの発言を受けて、マルティンはグレモリーを子どもあつかいしてはならないと感じた。

「う…わ…分かったよ。でもグレモリー、あなた(ズィー)がお嬢さまと交わした契約の内容はどういうものだったの?」

「ふふっ!気になるのねマルティン。そんなにこのメリーナっていう女性が心配?」

「も、もちろん心配だよ!メリーナお嬢さまはベンヤミン・フォルツァーさまの大切な一人娘だからね!」

「何言ってるのよ!あなたはメリーナに恋心をいだいているから心配してるんでしょ?」

マルティンの心配そうな表情が単に主人であるベンヤミン・フォルツァーの一人娘だからというだけではなく恋心ゆえのものだと察したグレモリーはマルティンの気持をもてあそんでやろうと言わんばかりの口ぶりで言った。

「そ…そんなこと今は関係ないだろ!悪魔と契約したという事は相当に大きな問題じゃないか!誰だって心配するよ!」

図星を指されたマルティンは顔を赤らめながら言った。

「まあいいわ。教えてあげる。アタシは契約でメリーナの心の一部をもらったという事。それがメリーナの記憶力を高めたことに対してアタシが得た報酬よ」

「心の…一部?」

不安に駆られて尋ねたメリーナに、グレモリーは答えた。

「そうよ、心の一部。つまりあなたは時々心にもない振る舞いをしてしまう、という事。昨夜のあなたがマルティンを誘惑したのは心にもないことの一例なのよ。そのことはあなた自身も分かっているはず」

グレモリーに言われたメリーナは思わずうなずき、その様子を見たグレモリーはニヤニヤ笑いながらマルティンに話しかけた。

「残念だったわねマルティン!あなたに昨夜キスをしたのはメリーナ自身の意志ではなかったのよ!」

先ほどメリーナ本人に言われて落ち込んだマルティンは傷口に塩を塗られた様になり再度落ち込んだ。だがどうにか気を取り直すと

「と、とにかく僕はメリーナお嬢さまとあなたとの間の契約を解除してほしい。出来ないかな?」

メリーナの事が心配なので何とかメリーナには悪魔と縁を切ってほしいと思って尋ねてみた。

「今さら?悪魔との契約は解除不能よ!それにそもそもマルティン、あなた自身は本当に私とメリーナの契約を解除してほしいと思っているのかしら?」

「え?…そ、それはどういう意味?」

グレモリーの意図が分からず戸惑ったマルティンにグレモリーは再度問いかけた。

「あなた自身の気持の問題よ。あなた自身も本当は昨夜の様に妖艶なメリーナの姿をふたたび見てみたいと思ってるんじゃないの?」

「……」

一瞬だけ言い淀んだマルティンだったが、ここで言い負けてはならないと感じて反論した。

「そ、そんな事ないよ!僕は純粋にメリーナお嬢さまを心配してるんだ!別に妖艶な姿になってくれなくてもいいから、メリーナお嬢さまを元に戻してほしい!」

だがグレモリーも負けてない。

「本当にそうかしら?だったらメリーナからキスをされた後のあなたが何をしたか、この場で言っても良いわよね?それでも本当に自分はやましくないと言える?」

「え?」

ギクッとしたマルティンはそのまま言葉を失った。グレモリーの発言の意味が気になったメリーナは

「どういう意味?マルティンは昨夜何をしたの?」

「あのねえ、マルティンは昨夜というか今までも……」

「わーッ!い、言うな!それは言うな!!」

グレモリーの言葉を遮ろうとしたマルティンに、グレモリーは再度雷光を食らわせ、痛みにうずくまったマルティンを尻目に言葉を続けた。

「あのねメリーナ、実はね、今までもマルティンはあなたのことを想ってマスターベーションを何度も何度も繰り返してたのよ!それでも一昨日までのマルティンならば、そういう行為をした後あなたの部屋に向かって『メリーナお嬢さま、またもお嬢さまをけがしてしまいました。申し訳ありません』と言って謝る健気けなげな面があったわ。それが昨夜のマルティンときたら、あなたにキスされたことですっかり恋人気分になってしまって、Frauフラウという尊称を付けずに『メリーナ』だなんて呼び捨てにして、しかもあなたのことを想いながら自慰をしたのにあなたの部屋に向かって謝ることもしなかった。もうすっかり自分は恋人に選ばれたのだと思い込んで、まるで夫婦気取りだったわよ!」

「……ほ、本当なの?マルティン」

先ほどよりは軽い痛みだったので話をすることは出来る状態なのだが、内容が内容だけに事実をメリーナの前で認めるのは流石さすがにはばかられた。

だがグレモリーが

「マルティン、正直に言いなさい!もしもウソを言ったら今の二倍の霊力を食らわせるわよ!」

とまで言ったので、しぶしぶ

「はい、本当ですお嬢さま。申し訳ありません」

と言いながら頭を深々と下げた。この言葉を聞いてもメリーナは別にマルティンを責める気はなかったし軽蔑したわけでもない。そういう事は男の子なら充分ありえる事だろう。しかも自分よりも二歳若い十八歳の少年なのだ。意中の人物を想って自慰で射精するというのが特に変な行為だとは思っていないメリーナの胸中に、マルティンを責める意図は無かった。だが他方のマルティンは自分がメリーナに軽蔑された様に感じた。そこでグレモリーは畳みかけるように言った。

「マルティン、ご自身の変態行為がバレて良かったわね。正直に告白して罪悪感が薄れたでしょ?ついでにこれから自分がどうしたいのかについても正直に告白すれば今後も罪悪感をいだかなくて済むわよ。その方があなた自身にとっても良いと思わない?」

さながら性欲とカネを持て余した有閑階級が娼館で娼婦を品定めする様に、優越感に浸った笑みを浮かべたグレモリー。その表情を見たマルティンは、グレモリーという悪魔が幼女の様な外観とは全く似つかわしくない恐ろしい面を持っているという事を思い知った。それでも何とか気を取り直して断言した。

「正直に告白すればも何も、とにかく僕はお嬢さまの事が心配だよ!たとえ妖艶な姿が見れなくなってもかまわないから、お嬢さまをもとに戻してほしい!」

だがその直後、マルティンはガクッとひざまずいて四つん這いになった。とはいえそれは痛みのためではない。なぜか体が麻痺まひしたかの様に手足の自由が利かなくなったのだ。

「どうしたの?マルティン!」

メリーナが心配そうに言ったが、マルティンは

「わ、分かりませんお嬢さま!体が勝手にひざまずいてしまいました!」

などと不安そうに言うだけだった。そんなマルティンの様子を見たグレモリーは冷たく言い放った。

「自業自得だわ!ウソをついたあなたが悪いのよ!ウソをついたらしばらく体の自由が利かなくなる魔法を既にかけておいたの!悪い子にはお仕置きよ!」

マルティンは腰まで勝手に動きはじめ、まるでお尻を突き出すような情けない格好になるのを止められなかった。マルティンの突き出されたお尻のそばに歩み寄ったグレモリーは自らの手に紫色の光をまとわせると

パシッ!…ピシッ!……ペシッ!――

と、激しい音を響かせてマルティンのお尻を平手打ちした。

「う…くッ…ううッ!」

マルティンは可愛らしい顔を苦痛にゆがめた。ぶたれたと言ってもズボンの上からであるし、そもそも九歳か十歳程度の女児の様な体格のグレモリーの平手打ちがそんなに強力とは思えないが、あまりに苦しそうなマルティンの表情を見たメリーナは、彼女の手のひらを覆っている紫の光が先ほどの雷光と同じく痛みをもたらすものだと気づき、必死に懇願した。

「待ってグレモリー!マルティンを許してあげて!」

「ふ~ん。あなたは別に恋愛感情もない相手にもそんな気遣いが出来るの?変なの!」

釈然としない表情で冷たく言い放ったグレモリーだったが、メリーナが再度マルティンを許してほしいと懇願すると、グレモリーはマルティンにかけた魔法を解いた。

おかげで立ち上がれる様になったマルティンだが、メリーナの心の一部が悪魔に支配された事よりもメリーナの妖艶な姿の方が気になっている事がメリーナ本人にバレてしまい、バツの悪そうな表情をしている。グレモリーは

「とにかく、こんなマルティンなんて信用できないわよ!マルティンはあなたが悪魔と契約した事よりもあなたの妖艶な姿をまた見せてもらえるかどうかの方が気になっている!そのことはマルティンがウソをついていた事から明らかでしょ?」

「……」

メリーナは言い淀んでしまった。おまけにマルティンも自分の気持ちをグレモリーに見透かされてしまい何も反論できなくなってしまった。

「それじゃあ、私はアシュタルテさまの指示を待たなければならないので、そろそろ帰るわ!今後もあなたの心の一部はアタシのものだから、どんどん淫らになって今後もマルティンを誘惑すると思うわ!マルティンも本当はその方が嬉しいんでしょ?どうぞお元気で!」

グレモリーがそう言い放って黒い円形の穴に身を投じると、その穴は見る見るうちに小さくなり、数秒後には跡形もなく消えてしまった。


●第三章

その後のメリーナは落ち込んだマルティンをなだめるのに精いっぱいで、自身の悩み事を他人に相談するどころではなくなってしまった。今まで何度もメリーナを想いながら自慰をして射精していたという過去もバラされ、さらにはキスをされて有頂天になってすっかり夫婦になった気になっていたことまでバラされ、いくら魔王とはいえ見た目はまるで幼女の様な女悪魔にお尻を叩かれてメリーナの目の前で苦悶の表情を浮かべたものだから、マルティンは「今後どうやってメリーナお嬢さまに接すれば良いのか?いっそフォルツァー家からお暇を出されて他の地域で料理人を目指した方が良いのではないか?」とまで思いつめるに至った。そしてそんなマルティンをなだめるのに精いっぱいのメリーナは疲れ果ててしまったのだ。

それにくわえて彼女自身にも心配事がある。グレモリーとの契約を解除する方法は不明だが、仮に解除できた場合、今まで覚えたことまで忘れてしまうのではないか?たとえそうではなくても今後は今ほどの記憶力を維持することは出来ないだろう。そうなればアルフレート爺やから何度も説教をされてしまう日々に戻ってしまう。

(お父さまの病気が早く治ればいいけど……)

単に自身の実父を心配するという以上に、より深刻な気持ちでメリーナはベンヤミンの快癒を祈念した。ベンヤミンが家長として仕事に復帰しさえすれば今ほど多くの事を勉強したり多くの人と会って難しい交渉をさせられたりすることはないはずだ。とはいえ、病気に関する知識がほとんどないメリーナには具体的にどうすれば良いかは分からず、勉強の方は記憶力の向上でほとんど復習をしないですむ様になったものの気持のもやもやは解けず、思い悩む日々が続いた。

他方、最近のマルティンは師匠である料理長のルドルフから叱られることが多くなった。普段だったら手早くできるはずの仕事が遅くなり、仕事中に上の空になることもあったからだ。

そんなマルティンの様子を見かねたエルマはマルティンに何があったのかを尋ねた。問われたマルティンは平静を装って答えた。

「べ…別に何も問題ないよ。心配してくれてありがたいけど、大丈夫さ!」

しかし、マルティンの表情に何か普段の彼らしからぬ雰囲気を感じ取ったエルマは心配そうな表情をしたまま更に尋ねた。

「ねえお願い。本当のことを言ってよマルティン。私はあなたの事が心配なの!」

あまりに真剣なエルマの眼差しに折れたマルティンは、やむを得ず自分が落ち込んでいる理由を話した。とはいえメリーナが淫らな雰囲気を醸し出しながらキスをしてきたといった話をすることはメリーナを傷つけることになると思ったし、グレモリーという悪魔が出て来たと言っても信じてもらえないと判断したので、単に「今までメリーナお嬢さまを想いながら自慰をしたのがメリーナお嬢さまご自身にバレてしまった」というだけの内容にとどめた。それでも、「どうしてそんなプライベートなことがバレてしまったの?」という問いに対しては一時返答に困り「普段は鍵をかけることを忘れずないで自慰におよぶのに、その日はウッカリ鍵をかけ忘れていたので、お嬢さまの名を呼びながら自慰しているところを見られた」という言い訳をせざるを得なくなってしまった。

マルティンの発言を聞いたエルマは同情してくれた様子だったが、マルティンがもう少し他人の表情を読み取ることが出来れば、あるいは普段のエルマの自分に対する接し方をよく考えてみれば、エルマの表情に嫉妬の感情がにじみ出ていたことに気づいたであろう。だが実際はマルティンが自力でそんなことに気づくことはなかった。

ともあれマルティンの事をエルマが心配しているのは事実である。エルマは自身の休日がマルティンの休日と同じ日になったら、近くの丘にピクニックに行こうと誘い、マルティンもそれに応じた。どうにかしてマルティンに元気を出して欲しいというエルマの気持ちは伝わったが、マルティンはエルマの行為を単なる同僚に対する気遣いだと解釈した。


数日後、メリーナは緊張した面持ちでパーティーの場に出かけた。それはパーティーとは言いながらも半分は商談の様な会合であった。上流階級のたしなみとしてボールルームダンス、つまり現代の呼び方で言うところの社交ダンスを多少は身に付けていたメリーナは、その場に集まった他の名家の代表者に比べて特別見劣りする様な振る舞いをしたわけではない。だが父であるベンヤミン・フォルツァーが示した商売に対する知見を期待されるとさすがに応じられず、付き添いのアルフレートからアドバイスをもらってどうにかその場を凌ぐことになった。

(我が家も金持ちだけど、同じラントのいくつもの名家が集う場だけあって緊張するわ……何か難しい話題を振られなければ良いけれど……)

当たりさわりのない世間話なら老若男女誰とでも気軽に話せる性分のメリーナだが、仕事については今までアルフレート爺やから習ったことしか分からない。自分の知識を超える話をされたくないという気持ちから、メリーナは身構えるような心境でパーティーに列席していた。

だが、そんなメリーナに話しかけてきた男性がいた。年齢はおそらくメリーナより四~五歳上と思われる。かなりの美青年だ。その青年はメリーナがアルフレートに付き添われている事からメリーナの素性を察した様である。

「失礼します。もしかしてベンヤミン・フォルツァーさまのご息女でいらっしゃいますか?」

「え?…は、はい。そうですけど……」

美青年に話しかけられて悪い気はしないメリーナだったが、しかし相手がこちらの素性を知っている状態で話をするのは危険だとも感じた。このパーティーは単なるパーティーではない。商談がいくつかまとまることもある交渉の場でもあるのだ。下手に話に応じるとフォルツァー家にとって不利な商談を成立させられてしまうかもしれない。

だが、相手の青年の意図は今のところ分からない。まるで純粋にパーティーを楽しんでいる様子である。その好青年は話を続けた。

「やはりそうだったのですね。私はそちらのアルフレートさんに一度お会いした事がありますので、アルフレートさんに付き添われている以上、フォルツァー家の後継者だろうとは思いましたよ。ところで、ベンヤミン・フォルツァーさまは如何いかがなさいましたか?」

「父ですか?父は残念ながら現在は病気で療養しています」

「御病気ですか!それは知らぬこととはいえ失礼な質問をしてしまいました!とはいえ、私も同じ立場です。お互いに大変ですよね!」

「同じ…立場ですか?」

「はい。私も前回のパーティーではあくまでも父の付添人として父の商談を見させてもらう立場でした。しかし今回は父が病床に臥せっていますので父の代理人としてシュルツ家を代表して参加しました」

メリーナのそばにいたアルフレートは、そこでようやく思い出した。

「ああ!シュルツ家の坊ちゃんですか!貴殿のお父上のガリオン・シュルツさまとは何度かお会いしましたが、ええと坊ちゃんのお名前は……」

シュルツ家の当主とは何度も会って名前も顔も覚えているアルフレートだが、その息子の名前までは覚えておらず言い淀んでいた。そこでその青年は答えた。

「ハンス・シュルツです。アルフレートさん、どうぞお見知りおきを!」

「ああ、そうでした!ハンス坊ちゃんですね!思い出しました!お父さまに劣らず絵画に造詣が深くていらっしゃるのですよね?」

「ハハッ!まあそういう言い方も出来ますね。ですが父も私も仕事で画商をしているから詳しいだけです。逆に他の事は全く知りませんし、恥ずかしながら先ほどのメリーナさんの様な見事なダンスは私にはとても踊れません」

この言葉にアルフレートは

「いえいえご謙遜を!貴殿のお父上と前回お会いした際にはお父上がパーティーの素養として最近はダンスも教えているとおっしゃっていましたよ。良かったらお嬢さまと一曲踊ってみては如何いかがでしょうか?」

「爺や、そんな急に言われても、こちらの男性…シュルツさんも困るんじゃないかしら?」

「いえいえ、おそらくハンス坊ちゃんはお嬢さまと同じくらいのダンスの技量だと思いますぞ。この爺やの読みは良く当たります。どうぞ私の言葉を信じてくだされ」

アルフレート爺やのやや強引な誘いもあり、メリーナはハンスと一曲踊ることになってしまった。

楽曲はスローテンポなワルツであり、お互いに難しい所作を要求することもなかったので穏やかな雰囲気で踊り終えた。メリーナはハンスの先ほどの言葉が謙遜であり、実際にはメリーナと互角あるいはメリーナよりも少し上のダンスの技量があることを感じとれた。

「ふうッ!シュルツさん、踊りがお上手ですね。先ほどのお言葉は謙遜でしたのね」

「いえいえ、今の私の踊りはあなたがリードしてくださったから出来た動きです。私の実力ではありませんよ」

爽やかな笑みを浮かべるハンスに、メリーナは少しだけ胸を高鳴らせた。このパーティーは和やかなだけのものではなく商売の場であるという事を忘れたわけではないが、このハンスという青年に少しだけ心を許してもダメではなかろうという気持ちがメリーナの中に沸き上がったのだ。

ハンスも同じ心境だった。フォルツァー家とシュルツ家は商売の関係で父親同士が持ちつ持たれつの関係であり、船舶での貿易を長年になっているフォルツァー家にとって画商のシュルツ家は仕事上のお得意様であり、シュルツ家もフォルツァー家の有する船舶で手際よく商売ができて助かっている。そうした長年のビジネスパートナー同士であることから、メリーナが何か無理難題を吹っ掛けることはなかろうと安心して、しかも美しいメリーナに幾分か心惹かれながら、他のパーティー客とは異質の、まるで旧友の様な気持ちでメリーナに接していた。

なんとか共通の話題を見つけて話を弾ませようと考えたハンスは自身の家が画商として扱ってきた絵画やその他の有名な名画についてメリーナに話しかけてみた。だが、メリーナは

「すみません、ハンスさん。私は絵画についてはほとんど何も知らないんです。なるべく父と同じ様な仕事を出来る様にと努力はしてますが、あくまでも船舶とか、あるいは陸路での商品の運搬の事しか分かりません。お話のお相手になれず申し訳ありません」

非情に申し訳なさそうに言って、絵画の話題で距離を詰めるのは難しいのかなという不安をハンスに惹起した。だがせっかく切り出した話題なので、どうにかメリーナの気を引けないかと考えたハンスは知識を披歴するより逆に問い返すことにした。

「かしこまりましたメリーナさん。とはいえ、あなたのお父さまは私の父から絵画の話を聞いた際には非常に興味深い表情をなさっていましたよ。あなたも絵画の内容によっては、その物語性に興味を持つこともあるのではありませんか?」

「物語性…ですか?」

「はい。たしかに貴族の肖像画など単にその人物の記録のための絵画というのも存在します。しかし聖書やギリシャ神話、あるいはローマ帝国の歴史を描いた作品も絵画の中にはあります。何かご興味を持てる様な聖書の題材など、ございませんでしょうか?」

「聖書…ですか?例えばどの様な?」

「そうですね。もちろんイエス様を描いた作品はたくさんありますから、その中でも有名なのはラファエロの『聖母子』でしょうかね」

「ああ、それは確かに有名ですね。実際に見たことはありませんが、ラファエロと言えばレオナルド・ダ・ビンチやボッティチェリに匹敵する巨匠ですよね」

聖母マリアに抱かれるイエス・キリストを題材にした非常に有名な絵を例に挙げてみたところ、多少はメリーナの好反応を得た様だ。気を良くしたハンスは更にメリーナの気を引こうと試みた。

「それでメリーナさん、あなたご自身としてはどんな絵画ならご興味を持っていただけますか?」

「そう…ですね。たとえば悪魔が気に入る様な絵画っていうと、どんな作品でしょうね?」

「え?!…悪魔ですか?!」

メリーナは最近の心配事ゆえに思わず突飛なことを言ってしまった。意外な答えに戸惑ったハンスは何と答えて良いのかわからないという表情をしている。ハンスの表情を見たメリーナは

「す、すみません!突拍子もないことを言って失礼しました!ああ、こんな変な事をお得意様のシュルツ家の御曹司に言ったなんてことが爺やにバレたら、後で叱られるわ!お願いハンスさん!私が悪魔の話をしたことは誰にも言わないでくださるかしら?」

「分かりましたよメリーナさん。今の会話は僕とメリーナさんだけの秘密です」

「ありがとう!とても助かるわ!」

メリーナはペコリと頭を下げ、そして先ほどから「ハンス坊ちゃんとメリーナお嬢さまが仲良くなる様に距離を置こう」と思って離れていたアルフレートの方を見た。それなりの距離があるため二人の会話が聞き取れなかったアルフレートに話の内容は分からないが、ハンスとメリーナが親しげに話しをしている様子を見て満足したようだった。

「と、ところでハンスさん!ここは人が密集していて少し暑いですよね?少しだけ外気に当たりませんか?」

変な話題を出して奇異に思われたと懸念したメリーナは顔を少し赤らめていた。それでハンスも同意した。

「そうですね。少し外に出ましょうか」

ともに外出する事をハンスに願い出た時、メリーナの胸中には単に外気に当たって火照った顔を冷ましたいという気持ちしかなかった。そしてハンスもメリーナの意図はそれだけだろうと思っていた。

だから二人が外気に当たるべくパーティー会場を出た後のメリーナの言動に、ハンスは驚きを隠せなかった。

「ねえ、ハンス!」

「どうしたんですか?メリーナさん」

メリーナに向かって問いかけるハンスの口は急にしっとりとした熱いものに覆われた。

「――!?」

突然の衝撃。メリーナはハンスの唇にキスをしたのだ。唐突過ぎる展開にハンスは思わず唇を離した。

「あ、あのう…メリーナさん?…こ、こ、これは、どういうご意図で?……」

メリーナの様な美少女と付き合えたらどんなに幸せだろうと思っていたハンスだが、何の前触れもない突然のキスには喜びよりも驚きの気持が勝ってしまう。だがメリーナはそんなハンスの気持を察したかの様に言った。

「ふふっ!驚いてるのね?でもハンス!あなただって本当は私とこういう事をしたいと思っていたんじゃないの?」

「ま…まあ、たしかにそうですが、ここまで突然だと何というか夢の中にいるみたいで…まるで現実の出来事と思えないんです……」

「現実の出来事とは思えない、ですって?だったらもっと私を感じてほしいわ!体で感じればこれが現実の出来事だという事が分かるわよ!」

練達の娼婦の様な表情を見せたメリーナは、再度ハンスの唇を奪うと、次はハンスの手を取って自らの胸に押し付けた。

「――!?」

つい先ほど知り合ったばかりの女性、しかもシュルツ家に劣らぬ名家のフォルツァー家の一人娘ともあろう者が、こんなに大胆に愛撫を求めて来るとは信じられない心境だった。思わず再度唇を離してしまったハンスにメリーナは言った。

「確かに、この場所だとパーティーに来ている誰かと出くわしてしまうかもしれないわね。続きは私の家が良いかしら?私としては爺やもメイドもいない日を狙ってあなたを呼びたいんだけど……それともあなたの家で続きをするのが良いかしら?」

ハンスはメリーナの美しさに心を惹かれた。しかも先ほどまでは単に外見が美しいというだけであるが、今のメリーナは顔もバストサイズも同じままだが、あたかも妖婦のごとき不思議なオーラを身にまとっている。服を脱がなくても、手を触れられなくても思わず勃起してしまい、ハンスは咄嗟にそれを隠すために軽く前かがみになった。だがメリーナは

「ふふっ!いいのよ隠さなくても!男性なんだから仕方ないわ。むしろあなたの素敵なところがそんなに元気になってくれるなんて光栄よ。愛してるわ、ハンス!」

メリーナの視線に心臓を射抜かれた様に立ち尽くしたハンスは、まるで自分がこの不思議な魅力をまとった美少女の瞳に吸い込まれる様な錯覚を味わった。いやそれは錯覚ではなく、すでに心は吸い込まれていて、後は体をその妖艶な美貌の持ち主に生贄いけにえのごとく捧げれば天国にも行ける様な、そんな心境であった。

だがその時、

「お嬢様!どうかなさいましたか?しばらくお姿が見えませんが……」

メリーナの身を案じたアルフレートの声が聞こえた途端、メリーナはビクッと体を震わせ、その直後にキョトンとした表情を見せた。

「あら?ハンスさん!…どうしたの?そんな真っ赤な顔をなさって……」

「え?……」

「それに…急に涼しくなったわね。さっき外に出たばかりなのにまるでしばらく前から外にいたみたいに感じるわ……」

「??……」

メリーナの変貌ぶりに、しばし考え込んだハンスだったが

「ひょっとしてメリーナさん、先ほどまでの事を覚えていらっしゃらないんですか?」

「先ほどまでと言うと…パーティー会場で少し顔がほてったから外に出た、という事?」

「いえ、その後の事ですよ。メリーナさんは先ほど私にキスをなったでしょう?」

「え?…わ、私ったら…そんなことをしたんですか?」

「はい。とても情熱的なキスでした。そして私の事を愛しているとおっしゃいましたが…ひょっとして本心ではなかったのですか?」

「う……そ、それは……ご、ごめんなさいハンスさん。私はお酒を飲み過ぎてしまった様です。失礼なことをしてしまい申し訳ありません……」

今回のメリーナは自らの意識が飛んでしまったことも、その間にハンスにキスをしたことも即座に理解した。そしてそれが悪魔グレモリーとの契約の結果であることも今の彼女にはすぐに理解できた。だが幾度となく会っているマルティンでさえも悪魔を実際に召喚してもなかなか信じてくれなかったのだ。なので「まさかハンスにグレモリーの話など持ちだしても信じてもらえないだろう」と判断して、すべてをお酒のせいにしたのである。そのメリーナの説明を聞いたハンスは

「いえ、別に失礼ではないんですが……そうですか。あれはメリーナさんの本心ではなかったんですね……」

と言って、マルティンと同じくいかにも落ち込んだ様な表情を見せた。ハンスからの問いかけにメリーナは「お得意先の跡取り息子の好青年を傷つけてはならない」という配慮をしたが、表情は硬いままで何も言葉を発せずに立ち尽くしてしまった。

その後、アルフレートの再度の呼びかけに

「私はここよ!大丈夫、別にケガなんかしてないわ!」

と答えたメリーナはアルフレートとともにパーティー会場に戻り、決してフォルツァー家の不利になる商談には応じない様にと細心の注意を払いながら、綱渡りのような心境でパーティーを乗り切った。

せっかく期待をしたハンスはなかなか現実を受け入れたくない様だったが、最終的には「お酒を飲んだ結果の一事の気の迷い」と納得して、せっかくの美少女からの積極的な誘いを「一時いっときだけ良い夢を見せてもらった」という風に前向きに解釈する様に努めた。とはいえなかなかそんな風に気持ちを簡単に切り替えられるものではなく、「一時いっときだけ良い夢を見せてもらった」と自分に繰り返し言い聞かせても本当に気持ちが落ち着いたのは十日ほど経ってからの事だったが。


●第四章

その後もメリーナは記憶力に関してはかつての劣等感がウソであったかの様にアルフレートの講義をしっかり覚え、しかも父ベンヤミンの代理人としての実務においても一度聞いたことは忘れないという状態を保っていた。

とはいえグレモリーによって高められたのは記憶力だけであるから判断力やその他の能力が高められたわけではない。それゆえベンヤミン・フォルツァーと同レベルの仕事をこなしたわけではないのだが、周囲の者たちも二十歳のメリーナがベンヤミンとまったく同じ技量を身に付けるのは十年先あるいは何十年も先の事だろうと考えて、特に問題にはしなかった。

他方のマルティンは、以前の落ち込んだ状態を少しずつ克服しつつあった。それは何といってもエルマが彼とピクニックに行ったり、その後も仕事の合間にエルマが語り掛けてくれたりしたおかげであり、要するにエルマのおかげで徐々に元気になっていったわけである。

だが、メリーナとマルティンには共通の心配事があった。それはもちろんグレモリーとの契約の事である。

ある時メリーナはマルティンを再度呼び出した。仕事の合間を狙うのではなく、料理長に「私にはマルティンにしか話せない相談事があるの。だから私がマルティンを呼び出した時は、彼の仕事は他の誰かに担わせてちょうだい」と事前に言っておいたので、メリーナはマルティンをいつでも呼び出せる様になっていた。

「お嬢さま、お呼びでしょうか?」

ペコリと頭を下げてメリーナの部屋に入ったマルティンだが、やはり「今まで何度もメリーナを想いながら自慰をした」という過去を知られた事が恥ずかしく、メリーナの顔を正面から見るとそんな恥ずかしいことを思い出すのもしばしばだった。一方のメリーナはもともとマルティンをそんなことで責める気はなかったので

「あのねマルティン、この前のグレモリーとの契約なんだけど、その契約について誰かに相談しようと思うのよ」

と、マルティンに対するわだかまりなど一切ない口調で話し始めた。

「お嬢さま、そうしますとグレモリーを実際に呼び出さないとならないわけですよね?もちろん、実際に見れば信じてはくれるでしょうが、必ずしも来てくれるとは限らないですよね?」

「そ…それは確かにそうね…たまたま誰かを呼んだタイミングで来てくれなかったら私は単にウソを言っている…あるいは幻覚を見たと思われてしまうかもしれないわね……」

メリーナが不安そうに言うのも無理はない。実はあの後、メリーナとマルティンがそろってグレモリーを呼び出そうとしてベンヤミンの書斎で同じ本を開きながら同じ呪文を唱えたことがある。だが、グレモリーは必ずしも毎回来てくれるというわけではなかった。黒い穴がぽっかり空いたところまでは最初の二回の召喚と同じだったが「今は忙しいから、また今度呼んでね」という声が聞こえただけの時もあったし、そもそも魔界と人間界をつなぐ黒い穴自体が出現しない時さえもあった。

「お嬢さまの御懸念は残念ながら充分考えられますね。僕がお嬢さまの言葉を信じたのも、悪魔グレモリーを実際に見るのみならずその能力を体験したからですよ。次回呼んだ時にたまたま来てくれなかったら、誰もお嬢さまの言葉を信じなくなるでしょうね……」

イソップ童話の『オオカミ少年』さながらの状況になることを恐れて、誰かれかまわず「悪魔と契約した」という告白をする気にはなれないメリーナとマルティンであった。多くの人に相談したいのだが相談を信じてもらえない危険性がある以上、よほど信用できる人に対してでないと相談できまい、ならば誰に相談すれば良いのか?二人にとってはそんな疑問に頭を悩ませる毎日が続いた――


その頃グレモリーは、彼女の主君である魔界の女王アシュタルテの配下の一柱として、部下や友達の魔王と結託して他の人間も篭絡しようと画策していた。アシュタルテとは、魔王ので第四に叙せられる魔界の女王である。その容姿は妖艶で、腰まで伸びたつややかな黒髪もまた魅力的であった。その配下のグレモリーは、なるべく人間界を混乱させるべく多数の契約を成立させて神や天使の望まない様な人間界にしようという悪魔全般の望みのために、人間にとっては迷惑でしかない類の努力を繰り返していたのだ。

そんなある日、アシュタルテに呼ばれたグレモリーは、あることを尋ねられた。

「なあ、グレモリー。以前お前がとった契約の中で、何か自慢したいものがあったのではなかったか?」

「はい。ございます。先日そのお話をした時はお忙しいという事で具体的には申しませんでしたが、今は申し上げてよろしいでしょうか?」

「かまわんよ。言ってくれ」

「では申し上げます。ミュンツァー市のフォルツァー家の一人娘でございます」

「何?まことか?!それは大物だな!」

「はい!お褒めくださいますか?」

「ああ、褒めてやろう!フォルツァー家ほどの名家を篭絡できれば、その家の属する教区全体を悪魔崇拝者にすることも可能だからな!…それで、その後の一人娘の状況はどうなのだ?」

「一人娘のメリーナは、マルティンとかいう年下の召使いに悪魔と契約した事を明かしました。それで本当に悪魔と契約したことを示すためにアタシを呼び出したのですが、アタシの事を悪魔だと認めなかったのでお仕置きをしてやりました」

「お仕置き…とは?」

「せっかくアタシがメリーナの心の一部を別人格にして艶やかな振る舞いでマルティンを誘惑させたのに、マルティンとかいう坊やが『たとえ妖艶な姿が見れなくなってもかまわないから、お嬢さまをもとに戻してほしい』だなんてウソを言うから『ウソをついたら体の自由が利かなくなる呪法』によって身動きとれなくしてやりました。そしてメリーナの目の前で少しだけ強い霊力でお尻を叩いてやったら、すぐに泣きごとを言い出したんです。いや~、アシュタルテさまにもあの情けない姿を見せてあげたかったですよ。今思い出しても…クククッ…笑いがこみ上げてきます……」

「悪趣味だな……」

「アシュタルテさまは、人間に対するこうした仕打ちはお嫌いで?」

アシュタルテの口調が少し糾弾する様な調子だと感じたのでグレモリーは戸惑った。だがアシュタルテは

「いや、大好きだよ!悪趣味であることこそ我ら悪魔の本懐だからな!」

満足そうに言った。

左様さようですか!お喜びいただけて何よりです!」

アシュタルテとグレモリーは顔を突き合わせてニヤッと笑った。だが、アシュタルテにはまだ懸念があった。

「しかしだなあ、ミュンツァー市…というか、あのラントは、よりによってアイツが部下の天使を派遣しているからな。油断は出来ないぞ」

「ん?『アイツ』とおっしゃいますと?」

熾天使してんしのガブリエルだ!あの女、かつて我が軍を撃退したことで自信を得たのか、他の熾天使の力を借りずに自身の配下だけで我が軍を再度撃退するつもりであろう。ガブリエルとその配下は今のところ士気が上がっているので油断は出来ない連中だ」

「か…かしこまりました!それは確かにそうですね!…とはいえ、前回は残念でしたね。伏兵がバレなければ我らの方が勝っていたかもしれませんのに……」

「それで思い出したんだが…」

「え?」

「我が軍の伏兵がバレた理由について、とある悪魔から報告があったのだが……」

「な…何でしょうか?アシュタルテさま」

急に目つきが険しくなったアシュタルテに、グレモリーは不安そうに尋ねた。アシュタルテはさらに詰問するような厳しい口調で言った。

「お前が原因だろう!」

アシュタルテの指摘にギクッとしたグレモリーだったが、咄嗟とっさにとぼけた。

「な…何のことでしょうか?アタシには全然わかりません!」

「ほほう、そうかな?ではハッキリ言うぞ!前回の戦闘で私の直属の眷属けんぞくたちの奇襲がガブリエルの軍勢にバレたのは、お前が酒に酔ってウッカリ奇襲経路を漏らしてしまったからだという密告があった。だが、この密告をお前は間違ってると言うのだな?」

「も、もちろんです!あの時のアタシはアシュタルテさまのご命令に従ってアタシ自身の直属の配下をぬかりなく配備していました。そのアタシがこともあろうにお酒に酔って奇襲経路をウッカリ言ってしまうなどということは、絶対にありえません!……ん?…え?……あらっ?」

自身の潔白を断言したグレモリーだったが、何故かその直後、彼女の四肢はまるで痺れたかの様に自由が利かなくなり、手や膝を地面について四つん這いの姿勢になってしまった。

「あ…あのう、アシュタルテさま、これは一体どういう事でしょう?アタシの手足が自由にならないんですが……」

自身の体に何が起こったのか理解できずに戸惑うグレモリー。両手足がまるで鉛の様に重くなってしまい、どうにも動かせずに苦悶している彼女に向かってアシュタルテは冷たく言った。

「それはそうだろう。ウソをついた者の体の自由を奪う呪法をついさっきお前にほどこしたからな。自業自得だ!」

「え?そ、それはズルくないですか?何の警告も無しに魔法を使うなど……」

「お前はバカか?お前の失敗のせいで戦に負けて、何柱もの悪魔が天使に捕まりその配下になってしまったのだ。今ではそいつらは最下級の天使に転生して天界の雑用係をやっている。それもこれも全部お前の失態のせいだ。そんな大失態をやらかしたお前にいちいち親切に警告する義理などあるわけないだろう?」

アシュタルテが言い放つと、グレモリーは腰も自由に動かせなくなり、腰が勝手に動きはじめ、ついにはお尻を突き出した姿勢になってしまった。グレモリーの顔色は恐怖のあまり見るも無残に青ざめていく。

「こ、この姿勢は……もしかしてアタシのお尻を叩くおつもりですか?イ…イヤです!アシュタルテさま、それだけは許してください!どうしても叩くなら、せめて背中にしてください!お尻叩きだけは絶対にイヤです!」

泣きそうな顔で哀願するグレモリー。アシュタルテはその表情を見てニヤニヤ笑いながら言った。

「安心しろ。そんなことはしない。お前も女だ。いくら同性の私が叩くとはいえ、お尻を叩かれるのは恥ずかしいであろう」

「はい、恥ずかしいです。ですからお尻を叩くのだけは勘弁してください!」

「大丈夫だ。そんなことはしない。と言うかそんなことで済ませるつもりはない」

「え?」

アシュタルテがグレモリーの小さな足を指さすと、グレモリーの靴がふわっと宙を舞った。そして四肢の自由が利かないグレモリーの足もとに近づいたアシュタルテは自らの長い髪の毛を、素足になったグレモリーの足の裏に近づける。

「え?…ア、アシュタルテさま!?……イ…イヒヒヒヒヒッ!ぎゃハハハハハッ!や、やめてくだ…ククククッ!アハハハハハッ!……」

急に大声で笑いはじめるグレモリー。手足はおろか腰さえも自由が利かなくなった状態のグレモリーの足の裏をアシュタルテは自らの髪でくすぐったのだ。

「どうした?やめて欲しいと言ってる割には楽しそうに笑ってるじゃないか?そんなに楽しいなら、もっとやってやろう!」

「ギャハハハハハッ!…い、いやです、これならお尻を叩かれた方がまだしも…クククッ!…イヒヒヒヒヒヒヒッ!!」

叩かれる痛みよりもお尻を丸出しにされる恥ずかしさよりもくすぐったさの方が苦痛を与えることを知っていたアシュタルテは、その後一時間以上にわたってグレモリーにくすぐり責めの罰をほどこし、罰を受け終えたグレモリーは笑い過ぎて痛くなった腹筋を何時間もマッサージしてからようやく普通に歩けるようになった。

「はああッ!ようやく解放されたわ……それにしてもアタシの失態をチクった奴は誰なのよ!絶対に探し出してアタシと同じ目に遭わせてやらなきゃ気が済まないわ!」

ふらつく足取りで自身の居城に戻ったグレモリーは、怒りに震えながら毒づいた。その表情には反省の色が全く見られず、もしも彼女の態度をアシュタルテが見たら「反省の色が無い」と言ってして再度くすぐり責めを食らわせたであろうが、運よくグレモリーの不満そうな表情は誰にも見られずに済んだ。


●第五章

「あのう、料理長…ちょっとお願いがあるんですが……」

フォルツァー家の厨房で、皿洗いを終えたマルティンが頭を下げながら話を切り出した。

「ん?どうしたマルティン。何だか思いつめた表情をしてるが……」

「実を言いますと、僕はお嬢さまにどうしてもお話ししたい事がありまして…それでこのあと少し仕事を休ませていただきたいんですが…」

「う~ん。お嬢さまご自身からその様なご希望があるんなら応じても良いがな、今の発言はお嬢さまからのご要望ではなくお前の思いつきだろう?」

「は、はい。確かにそうです。ですが以前お嬢さまがおっしゃっていた相談事に関する話ですので、決して僕の都合で言っているわけではありません」

「う~ん。まあ、そういう事なら先に俺がお嬢さまに尋ねて許可を得たら望みどおりにしてやる。ちょっと待ってろ」

「で、ではお嬢さまにお伝えください。『以前お話しなさっていた相談事に関して良い案を思いつきました。私と一緒に市内のとある場所に行けば解決するかもしれません』とお話しくだされば、おそらくお嬢さまは許可を下さるでしょう」

「わかった。その様に伝えてやるよ」

マルティンと約束をした料理長が厨房から出て行くと、その数分後にはパタパタと足音を響かせ、小走りで戻ってきた。

「マルティン!すぐにお嬢さまのお部屋に行ってくれ!お前の伝言を伝えたら『すぐにマルティンに会いたいから今すぐ呼んでちょうだい』っておっしゃったんだよ!」

「わかりました!すぐに行きます!」

マルティンはいさんでメリーナの部屋に向かった。ドアは一応ノックして「お嬢さま、マルティンでございます」と言ったものの、「入っていいわよ(ドゥー・カンスト・エントレーテン)」などという返事が来ることもなく、すぐにガチャッと音がして、ドアはメリーナ自身の手で開けられた。

マルティンの目の前に立ったメリーナは、いかにも焦った様な表情で尋ねた。

「教えてマルティン!どこ?どこに行けばグレモリーとの契約を解除できるの?」

期待に胸を膨らませ、やや息を荒げながら問いかけるメリーナ。マルティンはそんなメリーナの姿にグレモリーとの契約によって生み出された妖艶な姿とは別の魅力を感じて胸を高鳴らせたが、その魅力に流されそうになる気持ちをどうにか抑えると平静を装って言った。

「教会です!トーマス神父に会えば解決するんじゃないでしょうか?」

「教会?」

「そうです。この教区を統括なさっているトーマス神父なら何か良い案を示してくれると思います。少なくともメリーナさまや僕がウソをついていると決めつけることはないでしょう」

メリーナたちの教区を統括するトーマス・ミュラーは若干二十五歳だ。その若さで一つの教区を統括する立場にあるのは人望も知見も、そして強い霊力も兼ね備えた稀有な人材だからである。これらの特長のうち霊力に関してはミュンツァー市の住民でもほとんどの人が知らないが、人望も知見も教区の人々が皆そろって認めることである。メリーナはマルティンの案に全面的に賛成した。

「そ、それもそうね!良い案だわ!でも神父さまは御多忙でしょうから、日曜日でなければお会いできないでしょうかね?」

「た、たぶんそうだと思います!ですがとりあえず本日にでも行って、神父さまに会えなくても修道女のどなたかにお会い出来れば神父さまのご予定も分かるでしょう」

「そうね。ところでマルティン、一応あの本も持って行った方が良いかな?」

「そうですね。もしも今日お会いできるなら今日にでもお見せして、グレモリーとの契約を解除する方法について相談しましょう」

その後ベンヤミンの書斎に行って『魔術書』を手に取ったマルティンだったが、たまたまそこを通りかかったエルマが話しかけた。

「マルティン、あなた最近お嬢さまとお話しなさることが多いんじゃない?以前はどんな悩みでもアルフレートさんに相談なさっていたお嬢さまが、最近どうしてあなたばかりに相談するの?」

「え、ええと…それはぁ……」

マルティンは返答に窮した。まさか「悪魔と契約したことに関する相談だから他の誰にも相談できない。だって相談したって誰も信じてくれないでしょ?」などと言うわけにはいかない。そんなことを言ったらウソをついて真相をごまかしていると思われるのは明らかだからだ。そこでマルティンはなるべく無難な説明をした。

「今は理由を言えないよ。でもとにかく今回のお嬢さまの相談事は僕でないと相談相手になれない、特殊な悩みなんだ。だから仕方ないんだよ。エルマさんもお嬢さまを心配してるんだろうけど、今回の悩みについては僕に任せてくれないか?」

だが、エルマはそんな話を聞いて少し顔をしかめた。エルマの表情は「話の輪に入れてもらえなかった人、いわば仲間外れにされた人の感じる疎外感」によるものだと判断したマルティンは、それ以上何も言わずメリーナとともに教会に向かった。

あいにくその日のトーマス神父は他の地域の相談事を受けており、相談を受けられるのは次の日曜日だということを修道女の一人から聞いた。それでメリーナとマルティンは日曜日になると再び教会に行くことになったが、マルティンから日曜日に教会に行くことを聞いていたエルマはその日にお休みをもらう事をアルフレートから許可され、是非とも二人について行きたいとメリーナに相談した。相談を受けたメリーナは、当初エルマの発言がメリーナを心配してのことだと思って説得を試みた。

「エルマ、あなたもマルティンと同じく私を心配してくれているのね?でも今回の悩みは事情を話してもたぶん信じてもらえない特殊な悩みだから、あなたに来てもらっても神父さまとの相談の場にまでは参加しないでほしいの。私の悩み事を聞いたらあなたは私を嘘つきだと思うでしょうからね」

だが、その説明に納得できなかったエルマは言い返した。

「しかしお嬢さま!マルティンには何度もその『特殊な悩み』とやらを相談なさってますよね?マルティンには話すことが出来て私には話せないというのは、どうしても納得できないのですが……」

「そ、それはまあ確かに納得できない気持ちも分かるんだけど……」

そこまで言ったメリーナだったが、ようやくエルマの真意を察した。

「わかったわ!エルマ、あなたの気持ちが分かったわよ!」

「え?」

「要するにマルティンでしょ?あなたが気にしているのは私じゃない!マルティンと私の間に何か特殊な関係があるんじゃないかっていう点を気にしてるんでしょ?」

「そ、そ…そんなことはありません!私はあくまでもお嬢さまを心配しているだけでして……」

エルマは必死になってメリーナの指摘を否定したが、頬を赤らめてどぎまぎした態度をとってしまったことからメリーナは確信を得た。

「気にしなくていいのよ。誰だって人を好きになることはあるわ!別に恥ずかしいことじゃないよ!私だっていつかはそういう気持ちになるかもしれないから、そういう意味では私にとってもあなたの気持は他人事じゃないわ!」

「え?…『いつかは』ですか?」

「そう、いつかはそんな日が私にも訪れるかもしれないって思うの。でも安心してエルマ、私自身はマルティンには恋心をいだいてないから。それよりもあなたがそんな風にマルティンを想っているなら、むしろあなたの恋を応援してあげるわ!」

「あ…ありがとうございます!」

自分がメリーナとマルティンの仲を疑っていたことを見透かされたエルマは顔を一層赤らめてバツが悪そうな顔つきになった。一方のメリーナはエルマがまだ疑惑を払拭してないのではないかと思って提案した。

「わかったわエルマ。あなたも一緒に教会に行きましょう。そうして神父さまに相談する内容を一緒に聴けば、あまりに特殊だからマルティン以外に相談できなかったという理由もわかるわよ」

「か…かしこまりましたお嬢さま!」

こうしてメリーナはマルティンとエルマを連れて、事前に修道女の一人から教えてもらったトーマス神父と会える時間帯を狙って教会に向かうことにした。だが、マルティンはメリーナに言った。

「お嬢さま。まさかエルマさんもグレモリーと会わせるおつもりですか?」

「そうよ。何か問題でもあるの?」

マルティンは心配そうな口調で言った。

「お嬢さま、先日のグレモリーの霊力による攻撃を食らった者として進言します。グレモリーは下級の悪魔ではありません。本気になれば人を殺せる霊力を持っています。今回の契約の当事者であるお嬢さまやグレモリーを見た僕は当時の状況を証言するために二人そろって神父さまに相談すべきでしょうが、グレモリーという危険な魔王が来る場所にエルマさんを入れるべきではありません」

「だったら、教会まではエルマも私たちと一緒に行って、エルマだけは聖堂で待っててもらえばいいのよ」

「分かりました。それならおそらくエルマさんに危険はおよばないでしょう」

メリーナはマルティンの案を受け入れ、エルマは何となく仲間外れにされたような感覚を味わったが「神父さまに相談する場に私を連れて行かないのには何か特殊な事情があるのだろう」と判断して、不満を述べることはなかった。

メリーナとマルティンはエルマが聖堂の椅子に座ったのを見届けると、トーマス神父のいる部屋に向かった。そのドアの前でメリーナは言った。

「入ってよろしいでしょうか(ドゥルフェン・ヴィア・ラインコメン)?」

「はい(ヤー)」

メリーナの問いかけを聞いて室内のトーマスは即答した。

ガチャリとドアを開けて入ってきた二人の男女を見たトーマスは当初、相談内容について恋愛か何か人間関係の事かなと思った。その場にいた修道女のクラーラも「この二人は恋人同士かしら?」と思った。だがマルティンが手に持っていた『魔術書』を差し出しながら、

「神父さま、今回のご相談は、この本に関するものなのですが……」

と神妙な口調で話し始めると、ついさっき思い描いた予想を上回る大きな問題に出くわしたと直感した。

「どうやら、何か信仰、と言うか悪魔そのものに関する問題の様だね。より具体的に話してみてくれるかな?」

ミュンツァー市を包含する教区を統括する神父のトーマスであるが、年齢はたかだか二十五歳だ。その若さで教区を統括する事を法王庁からも近隣のラントの神父たちからも認められたのは、トーマスの知見や人望のみならず、その異能のおかげでもあった。

トーマスはハンス・シュルツに比べれば美青年と言うほどではないが、ハンスと同じく理知的な面持ちであり、全体からにじみ出る風格はハンス以上であった。

そのトーマス神父に向き合ったメリーナは、自身が記憶力を高めるためにグレモリーという悪魔と契約をしたが、その契約を解除したいという相談を持ちかけた。トーマスは真剣な面持ちでメリーナの言葉を聞いたが、即答は控えた。魔王の一員であるグレモリーに対抗するなど自分一人で背負うには荷が重すぎると感じたからだ。とはいえ、もちろん何もしないで良いと思っているわけではない。魔王であるグレモリーには遠く及ばないが人間にしては高度な霊力を持つトーマスは、かつてから面識のある天使たちに協力を求めることを考えるかたわら、配下の修道女たちをこの危険な魔王との争いに巻き込んで良いのかどうかという点に思いを巡らせていた。

メリーナから契約の効果として記憶力が高まったことを聞いたトーマスは尋ねた。

「メリーナさん、あなたがグレモリーとの契約を解除したいこと、そしてグレモリーとの契約の結果として記憶力が高まったことは理解しました。それでグレモリーはあなたに如何いかなる債務を課しましたか?」

「え?…そ、それは…そのう……」

先ほどまで饒舌にグレモリーについて語っていたメリーナは急に言葉を濁した。まさか心を支配されて男を次々と誘惑ずる様になったなんて言えるわけがない。

「あ、あのう…それはまあ、今回のご相談については触れなくても良くありませんか?」

具体的な債務の内容はメリーナにとって何か言いづらい事情があるのかと察したトーマスは、強引に聞き出そうとはしなかった。だが、交流のある天使たちに相談をするのにも、ある程度は悩みを確定してから相談したい。不十分な情報しか伝えないで協力を依頼しても、天使たちも対応に苦慮するだろうと判断したからである。

そこでマルティンは、メリーナがグレモリーとの契約内容についてこの場で言いたくないのだろうと判断して付け足した。

「神父さま、お嬢さまのおっしゃる通りです。ここは契約内容を云々しないで、まずはその悪魔を呼び出しましょう」

マルティンの言葉を聞いたトーマスとクラーラは

(たとえ契約内容を言いたくないのだとしても、出来れば悪魔を召喚するのは天使さまが少なくとも一名ここにいらっしゃってからにして欲しいな)

と思ったが、マルティンが先日のメリーナをまねてグレモリーを召喚する呪文を唱えると、目の前に黒い穴が出現してグングンと大きくなったので、

(ここからどんな凶悪な悪魔が出ても、落ち着いて臨戦態勢をとらねばなるまい!)

という緊迫した心境になった。

ところが、その場にやって来たのはグレモリーではなかった。

ヤギの様な頭部を持つマルティンと同じく小柄の男性悪魔と、そしてトーマスとほぼ同じ身長で狼の頭部を持つ男性悪魔であった。

「あら?グレモリーは今いそがしいの?出来れば彼女自身に来てほしいんだけど……」

残念そうな表情をするメリーナに対して小柄な方の悪魔が答えた。

「あいにくグレモリーさまは、アシュタルテさまから受けた罰の痛みがまだおさまっておらず……」

バシッ!――

そこまで話した男悪魔の頭を、やや長身な方の男悪魔が平手で叩いた。

「何するんだよ!?」

長身な男悪魔の顔を覗き込んで不満を述べた小柄な悪魔。それに対して長身な悪魔は言った。

「あのなあ、『その話は誰にもバラすな』って、グレモリーさまに言われただろ?お前がバラしたら俺も後でグレモリーさまに怒られるからやめてくれ!」

「すまん。忘れてたわ……」

その会話を聞いたメリーナは

「私たちはそんな話を言いふらしたりしないから安心して。でもグレモリーと直接話をしたいの。トーマス神父さまにも直接グレモリーに会ってほしいのよ」

「嫌だと言ったらどうする?」

長身な方の悪魔が挑発した。その言葉を聞いた小柄な悪魔は両こぶしを握り締め、さながら古代ローマの拳闘士の様なポーズを取った。その様子を落ち着いてみていたトーマスは言った。

「その場合は、力ずくでもグレモリーをこの場に引き出します!」

「力ずくだと?面白い!だったらまずこの俺を倒してみろよ!」

小柄な悪魔がその言葉を聞くと笑いながら言い放ち、威嚇いかくする様に拳を振りあげた。だがその直後にガクッと膝をついた。

メリーナとマルティンは何が起こったのか分からなかったが、修道女のクラーラおよび長身の悪魔は何が起こったのかを理解した。

「霊力だな!霊力の波動…つまり『霊波』を俺の仲間の腹に食らわせやがったな!」

苦々しげに言う長身の悪魔にトーマスは冷静に言った。

「今そちらの御仁ごじんは私を殴ろうとした。それゆえやむを得ず霊波を腹部にはなったのだ。手加減をしたから死ぬことはない。今すぐ魔界に帰って主君のグレモリーを呼んできてもらおう」

トーマスの霊力に勝てないと悟った小柄な悪魔は黒い穴を通って立ち去った。だが長身の悪魔は言い返した。

「面白い。だったら俺が拳を振り上げた場合も、俺がお前を殴る前に倒せるのか?俺の脚力を舐めるなよ!」

しかしその直後に、長身の悪魔までもあっさりと膝を屈した。

「え?…ク、クラーラさん?……助太刀は無用ですのに…なぜ?」

トーマスは驚きながら言った。クラーラが放った霊波はその悪魔の顎を横から直撃し、脳震盪を起こした様だ。助けてもらったとはいえ「このくらいの下級悪魔なら私一人で倒せるはず」と思ったトーマスは「なぜ私を助けたの?」と言わんばかりのキョトンとした表情をした。だがクラーラは落ち着いた様子で言った。

「神父さま。神父さまにはこの後グレモリーと対峙していただく必要があります。小物を相手に霊力を消耗することは出来るだけ避けていただきたいのです」

「了解です。ありがとうございますクラーラさん!」

トーマスがクラーラに礼を言った直後、穴の中から甲高い声が響いた。

「まったく、アタシはまだ腹筋が少し痛いんだから休ませてほしいのに……え?どうして?アタシの部下が二名とも人間ごときに倒されたの!?」

穴から出てきたグレモリーは、漸く意識を回復したがまだ立つことが出来ない長身の悪魔を見て驚いた。

グレモリーを見たメリーナとマルティンは「いよいよ神父さまとグレモリーの交渉、あるいは霊波のぶつけ合いになるのか?」と考えて不安と期待が入り混じった顔をした。だがトーマスとクラーラは、まさかこんな可愛らしい女児がグレモリーだとは思わなかったようだ。クラーラはグレモリーに話しかけた。

「お嬢ちゃん(フロイライン)、私たちは女のメートヒェンではなくてグレモリーという魔王にご用があるの。お嬢ちゃんは帰っていいわよ」

グレモリーはこの発言を聞くと不満そうな顔をしながら答えた。

「修道女とおぼしきそこのお嬢ちゃん(フロイライン)!アンタ(ドゥー)はアタシよりも年下なんだから、アタシを『お嬢ちゃん(フロイライン)』だの『女のメートヒェン』だの呼ばないでちょうだい!アタシが魔王のグレモリーよ!」

その発言を聞いたクラーラとトーマスは目を丸くしたが、マルティンが咄嗟に説明した。

「彼女のいう事は本当です!この女性フラウが魔王のグレモリーなんです!」

マルティンの説明にメリーナもうなずき、その二人を見たクラーラとトーマスもようやく目の前の十歳くらいの美少女が魔王グレモリーだと理解した。

「ではグレモリー。私からお話があります。私はあなたとメリーナさんの間の契約を解除なさることを提案します」

「なぜ解除してほしいの?どうせあなた(ズィー)もマルティンと同じくヘテロセクシャルの男性でしょう?アタシとメリーナとの契約を解除しない方があなたにとってもお得でしょう?」

「え?お得?」

グレモリーの言葉にトーマスとクラーラが困惑した直後、突如としてメリーナが嬌態きょうたいを見せた。

「あら?こちらの男性。とても知的そうなお顔をなさっていますね……」

「え?……メ、メリーナさん!?何をなさるんですか!?」

トーマスが驚いたのも無理はない。メリーナは急に胸をはだけ、媚びる様な笑みを浮かべながらトーマスの体をまさぐり始めたのだ。メリーナの身に何が起こっているのか理解できないトーマスに向かってマルティンは思わず叫んだ。

「神父さま!気を付けてください!今のお嬢さまはグレモリーに操られているんです!お嬢さまの記憶力を増強する代わりにお嬢さまの『心の一部』を差し出すこと、それがお嬢さまとグレモリーの契約内容なのです!」

「――!!」

一瞬だけ驚いたトーマスだったが、すぐに事情を理解した。マルティンは先ほどのメリーナの口ぶりから「お嬢さまはトーマス神父に契約内容を知られたくないのだろう」とは思っていたが、メリーナが妖艶に男を誘惑する痴態をさらした以上それが悪魔との契約によるものだと明かさないとかえってメリーナの名誉が傷つくと判断したのだ。トーマスは

(ならばその契約の債権者であるグレモリーを攻撃するのが最善)

と判断して、グレモリーに向けて霊波を放った。トーマスから放たれた黄色みを帯びた白い光を胸に受けたグレモリーは思わず

「痛いっ!」

と叫び、その直後にメリーナはビクッと体を震わせた。その直後にメリーナが「あれ?私はさっきまで何をしていたんだっけ?」と言わんばかりの怪訝な表情をしたのでマルティンもトーマスもメリーナが元に戻ったと感じたが、多少ではあれ体に痛みを感じたグレモリーは目をつり上げて怒った。

「まさか霊力を持っている人間がここにいるとは思わなかったわ。……でも、アンタ(ドゥー)は人間の中では高度な霊能力者なんだろうけど、アタシの霊力に勝てると思ったら大間違いよ!霊波で攻撃された以上、アタシがアンタを殺してもアシュタルテさまはアタシをとがめないわよ!」

物騒なことを言ったグレモリーがトーマスを指さすと、かつてマルティンを撃った霊波の雷撃の五倍以上もある紫色の雷光がトーマスを襲った。だがその霊波はトーマスの体の直前で消えた。

「え!?…ど、どうして!?」

グレモリーは目を丸くした。トーマスは安堵した表情になり十字を切ると、魔王の一柱であるグレモリーをも撃退した女天使の加護に対して感謝をする様に言った。

「さすがは非常に高位な天使さまのご加護だ!思った通り、彼女は君より強いな(ズィー・イスト・シュテルカー・アルス・ドゥー)!」

その直後、トーマスはグレモリーが悪魔としては年少の女児であると考えて少し手加減して霊波を放ったが、それではグレモリーにはかすりきず程度の痛みしか与えられなかった。ならば「小柄な悪魔が昏倒するレベルの霊波を食らわせねばなるまい」と判断したトーマスは先ほどの数倍のエネルギーを持つ霊波を放ったが、それでもグレモリーは多少の痛みを感じたに過ぎなかった。

他方のグレモリーはトーマスを殺すつもりで本気の霊波を放ったが先ほどと結果は同じくグレモリーが撃った紫の雷光はトーマスの体の直前で目に見えない障壁に食い止められた。ならばクラーラやマルティンを撃てば良いと判断したグレモリーに、マルティンは言った。

「待ってくれグレモリー!アシュタルテはあなたに『人間は殺さないで利用する様に』と言ってたんじゃないのか!?」

この言葉を聞いたグレモリーは一瞬ひるんだが、

「だったら死なない程度の強さの霊波をくらわせてやるわよ!」

と言ってクラーラを攻撃。とはいえ手加減した霊波だけあってクラーラが自身の霊力で防御するとグレモリーの放った雷撃は半減した様で、クラーラは多少の痛みに顔をゆがめただけで膝をつくこともなかった。マルティンは以前グレモリーの霊波を食らって思わずしゃがみこんだことを思い出し、いくら殺さない様に手加減した霊波だとはいえその威力をおそらく半分以下に減じたであろうクラーラの霊力に驚いた。

そしてその直後、トーマスは叫んだ。

「皆さん、私の背後に来てください。私ならばグレモリーの霊力を完全に防げます!」

トーマスの言葉を受けたメリーナとマルティンはトーマスの背後に回った。だが、クラーラは

「それよりも天使さまを呼んできます!おそらく今の時間はこの教会の近辺を天使さまが巡回なさっているはずです!」

と叫びながらドアに向かった。グレモリーはそのクラーラに雷撃を食らわせたがクラーラは再度それを自らの霊波の盾で防御。ドアの外に出て、天使を探すために教会を走って出た。

「まずい!援軍が来るかもしれない!一緒に逃げるのよ!」

その場にいたグレモリー麾下きかの長身の悪魔は先ほどクラーラの霊波を食らって足元がふらついていたが、よろめきながらも黒い穴を通って魔界に帰り、部下が逃げたことを確認したグレモリーも穴に向かった。だがグレモリーは帰り際に言い放った。

「一時的にメリーナを正気に戻すことが出来たからって、アタシとメリーナの契約が解除されたわけじゃないんだから安心しない方が身のためよ!またいつかメリーナは『闇のメリーナ』に変化して、男を誘惑するんだからね!」

その場にいた三人、すなわちメリーナとトーマスとマルティンは、一時撤退させただけではメリーナを元の状態に戻すことにはならないという現実を突きつけられて愕然とした。

その後メリーナとマルティンは、トーマスから

「メリーナさんの状況は分かりましたが、メリーナさんとグレモリーの契約を解除するのは難しそうですし、かと言って契約の解除以外にメリーナさんを元に戻す方法も今は思いつきません。ただ、何か良い方法があるかもしれないので私なりに調べておきます」

と言われて、少し安心して帰路に就いた。帰りの道中でエルマはそんな二人を見ながら不満を感じた。

(教会の中でお嬢さまとマルティンに何があったのか分からないけど、二人は何となく親しくなったような気がする)

とはいえメリーナはマルティンとの共闘で連帯を感じたものの、トーマスに対してこそ強い信頼をいだいていた。だが、そんなメリーナの心境にはエルマは気づいていなかった。


●第六章

魔界に戻ったグレモリーはおよびその配下の悪魔たちは、霊的な傷に効き目のある膏薬を塗り、痛み止めを飲み、ようやく落ち着きを取り戻した。二名の部下を自身の居城の召使い用ベッドに寝かせたグレモリーは、今回の敗北を上官であるアシュタルテに報告するためにアシュタルテの居城に向かった。

「グレモリー!どうしたのだ!?いかに相手が霊能者とはいえ、人間ごときにお前の霊力が負けたとでも言うのか?」

報告に来たグレモリーを見たアシュタルテは、まさか人間界に魔王を退けられる者などいるはずがないと考えているので怪訝そうに尋ねた。

「じ、実はですねアシュタルテさま…たしかにトーマス・ミュラーは霊能者ではありますが私に勝てるほどの霊力などありません。それが人間の限界でしょう。しかしトーマスには強力な天使の加護がある様です…」

グレモリーの言葉がウソではないと感じたアシュタルテは、如何に霊能力のある神父といえども魔王であるグレモリーを退けた以上は何か事情があると察した。

「ほほう、そうするとその強力な天使にお前は負けた、という事か?」

「そ、その通りでございます」

グレモリーの報告にアシュタルテは驚かずにいられなかった。

(いかにドジで非力とはいえ霊能力ではキマリスをしのぐのがグレモリーだ。そのグレモリーからトーマスを守るとは、相当に高位な天使の所作であろう)

それほど高位でなおかつこのラントに赴任したことがある天使などいるのだろうかと疑問に思ったアシュタルテだったが、とある天使の名前を思い出した。

「ま、まさかの女が!?」

やや焦った様なアシュタルテの表情を見たグレモリーは尋ねた。

「え?アシュタルテさまはトーマスを庇護した天使について、心当たりがおありでいらっしゃるのですか?」

「い、いや。そんなはずはあるまい。…気にするなグレモリー。いくら霊能力のある有能な神父といえども、真に高位な天使が直接庇護するはずはない。天界も何かと忙しいのだ。トーマスのためであれ誰のためであれ、下級あるいは中級の天使を若干名派遣するくらいしか余裕がないはずだ」

グレモリーの問いかけに、高位の女天使の名を挙げようとしたアシュタルテだったが、即座に自らの考えを否定する様なことを言った。他方のグレモリーは

(そうするとアタシは下級あるいは中級の天使たちが何名か束になって加護していたトーマスに負けたという事なの?もしそうだとしたら、このアタシの霊波からトーマスを守った以上、相当に多数の天使の加護があるっていうことかな?)

そんな疑問をいだいたグレモリーだったが、トーマスの言葉の中の「とある部分」を思い出した。

(でもトーマスはあのとき「彼女は(ズィー・イスト)」と言ったのであって「彼女たちは(ズィー・ズィント)」とは言っていなかった。やはりトーマスを守護しているのは複数の天使でなくて一名の非常に高位な天使じゃないかしら?)

とはいえ、あまり物事を深く考えない上に探求心も薄いグレモリーだけあって、トーマスを複数の天使が守っているのか否かについて、すぐに気にしなくなってしまった。

他方、アシュタルテは側近のうちで人間と同じ頭部を持つ者たち数名を派遣してトーマスが頻繁に会う者たちを調べさせた。その結果、ミュンツァー市内には常時五名以上の下級天使が、さながら警邏けいらをする巡査たちの如く巡回しており、さらにトーマスもしくはその配下の修道女に対して巡回している天使の中の一名もしくは二名が毎週「特に異常はありませんでした」と報告に来ているとのことであった。たとえ異常が無くても毎週一~二名の天使が報告に来るのがトーマスの所属する教会の通常の状態ならば、もし悪魔がミュンツァー市に現れたら、相当な大騒ぎになりかねない。今回はトーマス自身が教会内に悪魔を呼び出した状態なので外部から巡回している天使に目撃されることはなかったが、仮にグレモリーが市内を牛や狼の頭部を持つ配下とともに歩いたら通行人に驚かれるという程度では済まず、すぐに天使たちが駆け付けて応戦するかもしれない。

その状況から察するに、天使たちはミュンツァー市、あるいはトーマス神父を特に庇護しておきたい様だ。その事にも驚いたアシュタルテだったが、さらに部下を長期間派遣して調査させたところ、トーマスを守護している天使は、熾天使してんしの一翼を担うガブリエルという女性天使だという事がトーマスと天使の会話で判明した。部下からその報告を聞いたアシュタルテは焦燥感をいだいた。

(まずいな!あの女と戦うことは何とか避けたいものだ……)

たとえガブリエルの加護といえどもアシュタルテが全霊力を集中すれば打ち破れるかもしれない。また、今ならまだアシュタルテはおろかグレモリーの動向さえ天使たちに気づかれていないだろう。ならば天使たちが動き出す前に大軍をひきいてトーマス一人を狙い撃ちにすれば、いかにガブリエルの霊力が守護しているトーマスといえども殺すことは可能だ。だがトーマスが殺されたらガブリエルは側近から兵卒まで、彼女の麾下きかの天使全員でアシュタルテの軍勢を攻撃するはずだ。そうなれば天界および魔界の各々約一割が戦闘状態になるだろう。そんな危険を犯せばアシュタルテ自身も無事では済まないかもしれない。

そこまで考えたアシュタルテは、騒ぎを大きくする方針を取るべきではないと判断した。

(なあに、強行突破ばかりが戦いではない。からめ手を使って最終的にはメリーナの魂も永遠に魔界に閉じ込めてやる)

トーマスに如何なるアプローチをしてやろうかと考えながら微笑んだ。


●第七章

ある夜、メリーナは自分の体が宙に浮いているような感覚を覚えた。そして不安に駆られながら言った。

「あれ?ここはどこかしら?」

周囲を見回したメリーナは、自分が先ほどまでどこにいたのか、そして今いる場所がどこなのか、そんな簡単な事さえも分からなくなっていた。

「どうしたの?あなたは迷子になったの?」

聞き覚えのある声が響いた。子どもの声だった。とはいえ誰だったか分からない。近所の子どもだろうか?

安に駆られたメリーナが声の聞こえた方向に向かって呼びかけた。

「あなたは誰?どこから私を呼んだの?」

すると、年端もいかない美少女が微笑んでいる姿が目に入った。確かにその女児はミュンツァー市や近隣の市町村に住む庶民の娘が着る様な服を着ている。しかし、顔見知りの少女たちとは何となく雰囲気が違うので、近所に住んでいる子どもの一人だとは思えなかった。

「『あなたは誰』ですって?『どこから呼んだの』ですって?何を言ってるのよ!あなたはもうアタシとその部下から逃げられないんだから、今さらそんなことを尋ねるなんて可笑おかしいわよ!」

「え?」

目の前にいるのは幼いけれど、単に可愛らしいだけの少女ではない。何か得体の知れない存在の様だ。そう感じた瞬間にその少女の服が見る見るうちに変わっていった。そしてその服が中東の女性が着る様な服であることに気づいたメリーナは思わず叫んだ。

「グ…グレモリー!?あなただったの!?でも、ここはどこ?私は自分がどこにいるのかさっぱり見当がつかないんだけど……」

「クスクス…ふふっ……アハハハハッ!」

メリーナの問いがよほどおかしかったのかグレモリーは笑い始めた。だがメリーナにはなぜ自分が笑われているのかが分からない。そんなキョトンとした表情のメリーナに対してグレモリーは言った。

「まだ分からないの?ここは魔界よ!周囲をよく見て見なさい!アタシの部下たちばかりでしょ?誰だってこの光景を見たら人間界だと思わないわよ!」

言われてみて見ると、先ほどは居なかった、もしくは居たのに目に入らなかった幾名もの奇妙な生物が視野の中にいるのに気付いた。体の形は人間の男女と同じだが、頭部が狼だったり牛だったりで、直立二足歩行しているにもかかわらずとても人間とは思えない、異形の生物ばかりだった。

思わず恐怖に声をあげようとするメリーナの胸部にグレモリーが紫色の雷光を当てると、胸に痛みを感じたメリーナは言葉を発することが出来なくなってしまった。そんなメリーナを満足そうに眺めながら、話を続けた。

「何を驚いているの?あなたは既に悪魔であるアタシと契約しているのよ。今後は魔界で暮らすしかないのよ…永遠にね!」

強い語気で言い放ったグレモリーの言葉を聞いた直後、メリーナの体は凍り付いた様に動かなくなった。

必死に体を動かそうとしてもがくメリーナの周囲に、牛やオオカミ、あるいはヤギの頭部を持つ悪魔が近づいてきた。その中の一名が話しかける。

「まさか今さら逃げられると思っていないだろうな?悪魔と契約した以上、お前はわれわれ悪魔の一員とともに、永遠に魔界で暮らすことになるんだよ!」

「そうよ。今後のあなたは私たちとともに人間どもを堕落させる役割を担うのよ。人間の苦痛のため、魔界の栄華のために、どんどんお仲間を増やしましょうね」

人間の女性の体を持ちながらもヤギの頭部を持つ悪魔も、うなずきながら付け足した。メリーナは

(そんなことに加担したくない!私は人間界に帰りたい!)

必死に叫ぼうとしたが、何故か声が出ない。先ほどグレモリーが放った雷光のせいだろうか。永遠に魔界に暮らして人間たちを堕落させる手助けをしなければならないという自身の未来を規定されたメリーナは、恐怖のあまり見る見るうちに青ざめていった。もともと黒い霧がかかった様にぼんやりしていた周囲の風景も、徐々に魔界らしいおどろおどろしい光景に変わっていく。

だが、その直後メリーナの後方から光が差した。まるで夜明けの様に明るい光が差す後方を振り向くと、以前グレモリーが出てきた様な黒い円形の穴とは正反対の白い円形が光を放っている。その円形の光から懐かしい声が響いてきた。

「お嬢さま!ご安心ください!」

その声の主はマルティンだった。マルティンは血相を変えて駆けつける。悪魔と契約した者でなくても魔界に来る方法があるのだろうか?そんな風に思ったメリーナだったが、マルティンの背後にいるもう一人の人影がトーマスだと気づくと安心した。おそらくトーマスが天使に協力を得るとか何か特殊な方法を使って魔界に来てくれたのだろう。

メリーナの周囲にいた悪魔たちはマルティンとトーマスに立ち向かった。マルティンは小柄な悪魔をボクサーの様なストレートとアッパーで昏倒させたが、その背後の大柄な悪魔には勝てないのか、逆にマルティンの方が大柄な悪魔からパンチを何発か食らった。かろうじて両腕で頭部をガードしたマルティンは昏倒こそしなかったが、何発か殴られた痛みのためかじりじりと後退していった。しかしトーマスがその悪魔に手をかざすとやや黄色みがかった白い光がトーマスの手のひらから放たれ、大柄な悪魔も昏倒した。近くにいた悪魔の男女コンビがトーマスを指さしてその指先から紫色の光を放ったがその光はトーマスの体に達する直前で消え、即座に攻勢に転じたトーマスが両方の掌を悪魔たちにかざすとまたもや黄色みがかった白い光が二名の悪魔の胸部を撃ち、二名ともその場にうずくまった。

目の前で四名の部下を戦闘不能に追い込まれたグレモリーが怒りをあらわにした。両手の人差し指と親指で三角形を形成すると、その直後に炎のごとき紫色の光がメリーナの周囲をかこむ。大きな輪を描いてメリーナの身体を囲んだその紫の炎らしきものは先ほど二名の悪魔が放った霊力よりも強力なのだろうか、トーマスが先ほどと同じく少し黄色と白の中間のような色の光を手のひらから放って中和させようとしている様だがなかなか中和できない。トーマスとは違って霊力のないマルティンはグレモリー本体を押さえつければ紫の光も消えるだろうと判断したのかグレモリーに向かって駆け寄った。だがマルティンはグレモリーの額から放たれた紫の雷光に撃たれ、苦痛に顔をゆがめながら座り込んでしまった。

メリーナも自力で何かできることはないかと思って体を動かそうとしたがどうにも体が動かせない。その直後、マルティンやトーマスが出てきた円形の光から女性の声が響いた。

「マイ・ダーリン(マイン・シャッツ)!」

その直後、トーマスの顔が希望に満ちたものになった。誰が来たのかといぶかるメリーナの眼が、白い光の中から現れた人物を捕らえた。それは修道女のクラーラだった。トーマスの表情はクラーラの顔を見るとパアッと輝く。

「僕の子猫ちゃん(マイン・カッツヒェン)!」

クラーラの登場によって百万人もの味方を得たかの様に勇気づけられたトーマスの頬にクラーラはキスをした。その瞬間あたかもトーマスの霊力が一気に増したかの様に、トーマスの手から放たれる光が格段に明るさを増し、それに押し負ける様にグレモリーが放った紫の炎のリングが消失した。

「メリーナさん(フラウ・メリーナ)、今です。急いでこっちに来てください!」

クラーラが叫ぶと自分の体が動く様になっていることに気づいたメリーナはクラーラの方に数歩だけ駆け寄ったが、よろよろと足取りがおぼつかないマルティンのことも気になった。だがトーマスが叫んだ。

「大丈夫です!マルティン君は私が必ずお連れします!」

トーマスは、よろめいているマルティンに肩を貸し、マルティンともどもクラーラの近くに到達した。霊力による束縛を断ち切られたグレモリーは

「そうはいかないわよ!」

と叫んで紫の雷光をトーマスに放った。だが、その雷光はトーマスの服を少し焦がしただけでトーマス自身は無事だった。さらにトーマスとクラーラが手をつなぐと、二人の手から放たれた拳くらいのサイズの光の玉がグレモリーの胸部を強打し、グレモリーは可愛らしい顔をゆがめながら膝をついた。

魔王であるグレモリーおよびそばにいた四名の悪魔全員が戦闘不能になったおかげで円形の光の中にメリーナたち四人は入ることが出来た。

その直後、メリーナは自分がフォルツァー家の裏庭に居るのに気付いた。あの円形の光はこの場所と魔界をつなぐトンネルだったのか!その事に気づいて全員が無事人間界に戻ってきたことにホッとしたメリーナだったが、トーマスとクラーラが恋人同士であるという事実を見せつけられたことを思い出して落ち込んでしまった――

「いやよ!そんなこと認めたくない!トーマス!他の女性なんて見ないで!私だけを見てよ!」

メリーナは泣きそうな声で叫んだ。その直後に

「お嬢さま!どうなさいました?大丈夫ですか?」

エルマの声が聞こえてきた。

(なぜエルマ?先ほどまでエルマの姿なんてなかったのにどうして?)

驚いたメリーナが周囲を見回すと、心配したような表情のエルマ、そして見慣れた天井や壁が目に入った。メリーナは自分が今いるのが裏庭ではなく寝室のベッドの中であるという現実を受け入れるのに数分を要した。

「どうなさったんですか?あまりに苦しそうな声が聞こえたのでご病気かと思いましたが……」

「そ…そうか。今のは夢だったのね……」

エルマの問いかけにメリーナが放った言葉でエルマも大まかな事情を察した。よほど怖い夢を見ていたのだろうとメリーナの胸中を察したエルマは、メリーナの額を撫でてあげながら告げた。

「大丈夫ですよお嬢さま。ここはお嬢さまの寝室です。何も怖いことはございませんよ」

「ありがとう、エルマ……」

エルマの手の平の温かさと柔らかさに安堵をおぼえたメリーナはそのまま目を閉じ、徐々に落ち着いた気持になっていった。

(それにしても先ほどまで見ていた夢は、本当に夢なのかしら?)

そばにエルマがいてくれることは心強く感じながらもメリーナは不安になっていた。

永遠に魔界に暮らしながら人間たちを堕落させることの手伝いをする、そんなおぞましい役目から解放された夢の中の自分の姿を見て、それが未来を予知した夢なら知人たちの助力で助かるという良い面も予知したことになる。だがメリーナが解放されたのがその夢の通りクラーラの愛情で霊力を強化されたトーマスのおかげだとするなら、恋しいトーマスはクラーラに取られてしまうという事も意味している。とても素直に喜べる予知夢ではない。

そんな夢を見てうなされたのはその日の事だけだったので、仮にそれが単なる夢であるなら気にしないで済んだところであろう。しかしその夢が未来を予知したものかもしれないという疑念をぬぐい去れないメリーナにとって、その夢はずっと気になり続けるものだった。



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