33逃げろと言ったはずだ
私の声は廊下に響き渡った。異変を聞きつけて向井さんや母親が来てもおかしくなかった。それなのに、数十秒経っても返事がなく、暗い廊下はしんと静まり返ったままだった。
もしかしたら、大音量でテレビを見ているか、ラジオを聞いているのかもしれない。念のため、もう一度大声で叫ぼうしたが。
『蒼紗、何があった?』
しかし、今度は声になることはなかった。口を開いたところで、脳内に直接、声が響き渡る。私の声は九尾には届いたようだ。何とか心を落ち着かせ、冷静に現状を報告しようと口を開く。
「荒川結女が突然、私の目の前で倒れて、救急車を呼んで住所がわからなくて、そうしたら、彼女が家から逃げてと言って」
『今すぐそちらに向かうから、そのまま待っていろ』
九尾の声がいったん、頭から聞こえなくなる。改めて荒川結女の様子を確認するが、やはり、青白い顔で息苦しそうに胸を上下させている。そして、手を左胸にあて、心臓辺りを抑えていた。
「聞こえていますか?住所はわかりましたか?」
「す、すいません」
気が動転していて、向井さんたちに異変を知らせようと大声を出していたら、スマホの存在をすっかり忘れていた。スマホは119番通報したまま、机に放置されていた。スマホはいまだに消防署につながっていて、女性の焦った声がスマホ越しに聞こえる。私が謝罪の言葉をして、次の言葉を考えている間に、スマホが何者かの手に奪われる。
「中央公園の近くだ。そこにある瓦屋根の古い家だ」
「狼貴君!それに翼君も」
「中央公園ですね。わかりました。症状はどうですか?」
狼貴君の声を拾った女性が、今度は荒川結女の症状を聞いてくる。それに簡潔に答える。
「今から救急車をそちらに向かわせます」
ようやくスマホの通話が終わった。狼貴君が私にスマホを手渡してくるので、素直に受け取った。部屋の中に翼君と狼貴君がやってきて、緊張していた身体から力が抜けてしまい、畳の床にぐったりと倒れこむ。
「……」
スマホを受け取ったが、その後の会話が続かない。しばらくの間、その場に沈黙が訪れる。
「どうして、九尾たち以外に誰もこの部屋に来ないのですか?私の声が届かないなんてことありえないですよね」
救急車が来るとわかって一安心した私は、ふと疑問に思ったことを彼らに尋ねる。基本的に私の声は遠くまで届きやすい、他人に響く声だと思っている。そんな私が発した大声が家に居て聞こえないわけがない。そこまで防音機能があるとは思えないこの家で、向井さんたち家族が部屋にやってこないのはおかしなことだ。
「彼女たちは今」
「にげろ、といった、はず、だが」
翼君の言葉を遮ったのは荒川結女だった。苦しそうな顔で話す彼女に思わず強い口調で反論してしまう。
「命の危険が迫っている人間を放っておくわけにはいきません。119番通報しましたから、もうすぐ救急車が来るはずです」
「私は、もう、だめ、だ」
「どうやら、組合の人間はこの家を特定してしまったようだ。蒼紗の知り合いだということがばれたらしい」
話していると、九尾が部屋にやってきた。隣には顔色が悪いジャスミンも一緒にいたが、向井さんの姿はない。
「この女の言う通り、我たちはさっさとこの家から出た方がいい。どうやら、組合はなりふり構っている余裕がないようだ」
「それって、いったい」
「蒼紗、話は後。さっさと家を出るわよ。このままだと、向井さんたちの身にも危険が及ぶかもしれない」
九尾の言葉に疑問の声を上げるが、ジャスミンに遮られ、腕をひかれる。この家に危険が迫っているのはわかるが、だとしたら余計に、この場に彼女を残しては置けない。
「たぶん、彼女も自分のことはわかっているわ。蒼紗、落ち着いて聞いて欲しいんだけど、もう、彼女は」
「行くぞ」
最後までジャスミンの言葉を聞くことはできなかった。九尾が突然、私の腕を掴んで引き上げた。私たちはそのまま、客間の扉を向けて外に出た。
外は土砂降りの雨が降っていた。