わたし、トイレの花子さん。今いかついオッサン除霊師から隠れているの。
こんばんわ! わたし、トイレの花子さん。
何と今いかついオッサン除霊師と絶賛かくれんぼ中なの。
(ああぁぁもう早くどっか行ってよ何なのよわたし何も悪い事してないじゃないのよぉおおお!!)
三階の女子トイレの奥から二番目に隠れながら花子は頭を抱える。
静かな校舎にコツン、コツン……と誰かが歩く足音が響き渡り、それが彼女を追う者の音であった。
その音は徐々に大きくなってきており、それはすなわち花子が隠れている場所に近づいていると言うこと。
実体のない彼女の体は"音"を出すことは無い。しかしそれでも息を殺し身をかがめ嵐が去るのを待つその姿は彼女が抱く恐怖がどれほどのものかを如実に表していると言えよう。
キィ……
「――――!!」
呼吸をしてはいないのに花子は思わず息を止める。
今の音は間違いなく女子トイレの入り口のドアが開いた音。そして先ほどの足音がより一層大きく聞こえる事からあの男が来たことは明白であった。
(大丈夫。アイツは私を花子さんと呼んだ。それはつまり私が現れるのは一番奥のトイレしかないと認識している証拠……!)
だからこそ彼女はその手前のトイレに逃げ込んだ。
トイレの花子さんが最奥以外にいる? 残念ながらこの子は花子さんであって花子さんではないのだ。
当人もそれを知っており、花子さんの伝聞を聞き及んでいるからこその発想。
その結果は果たして――――
コツン……コツン……
男がすぐそばを歩く音がする。距離にして数メートル。この薄壁隔てたその先に。
コツン……コツン……
三つ並んだトイレの手前から近づいている。今ドアを開ければその瞬間に男と対面する位置だろう。
コツン……コツン。
ほんの少しだけ足音が遠のき、そして止まる。
長年トイレの主として君臨している花子には分かる。現在男は一番奥のトイレの前に立っている。
(そう、そのままドアを開けるのよ。そしてもぬけの殻のトイレを見て諦めなさい……!)
トイレの花子さんが神仏に祈るのは如何なものかと思うが、しかし願いは聞き届けられた。
ギィ、と蝶番が軋む音はトイレのドアが開かれた音。
無いはずの心臓が軋みそうなぐらい花子の胸が締め付けられる。もし生きている人間であれば心音でばれてしまうんでは無いかと思ってしまう程に。
「……チ」
小さな舌打ちと共に隣のトイレのドアが閉められ、そして男は女子トイレから出て行った。
永遠とも思える時間を過ごした花子はその場にへたりと座り込んでしまう。
何とかなった、やり過ごせた……。そう安堵し大きく息を吐き天井を見上げたその時だった。
「見ぃ~~つけたぁ~~♪」
トイレの仕切り壁の上から花子を覗き込むのはやり過ごしたはずの除霊師の男。
如何なる力か、左手に淡く光る符を持ち、その光に照らされた男の顔はお前の方が悪霊だろうと言わんばかりの醜悪な笑みを浮かべていた。
「ぴゃあああああああああああああ??!!」
耳をつんざくばかりの大絶叫が響き渡り、反射的に花子は入り口側のトイレの壁に向かい突撃する。
だがそれよりも男の行動の方が早かった。
「逃すかっ!!」
男が光る符を花子に投げつけると、それはまるで意思を持ったかのように彼女の側頭部へと貼りつく。
直後、ゴツンと言う音とともに花子がトイレの壁に大激突した。
「ふぎゅ?! な、なんで通り抜けれないの!!」
「クハハ……その符は貴様の能力を封じ実体化させる『現世の符』。もはや逃げられんぞおほぅ?!」
高らかな笑い声と共に説明する男だが、そんなことを無視した花子がトイレのドアを体当たりで押し開ける。
壁にぶら下がる形だった男は踏ん張る事も出来ず突き飛ばされ情けなくトイレの床へと落下。その隙を突き花子は辛うじてトイレからの脱出に成功した。
「もう何よ何よ何なのよおおぉぉーーーー!!」
涙目になりながら花子は廊下を全力で駆けた。
今まで殆ど宙を浮いていたため慣れぬ移動方法であったが、追いかけてくる男への恐怖を原動力にとにかく逃げた。まさに脱兎の如くと言わんばかりの逃げっぷりだ。
(朝になったら教職員がやってくるはず。それまでに逃げるか隠れることが出来れば……!)
しかし男も黙って逃がす人間では無かった。
蹴破ったのではないかと思う程の勢いで女子トイレから飛び出すと、逃げる花子の背を全力で追いかける。
「待てやコラァ!!」
「待つわけないでしょぉおおお!!」
実体化した花子の歩幅は子どもと一緒。対する相手は大柄な男だ。徐々にその差は詰められるものの、しかしそこは人と人外の差が出てくる。
確かに大人と子供では身体能力こそ差はある。だが人外であるが故の無尽蔵のスタミナと小柄な体を使った隠遁術は花子を男の魔の手から何とか逃していた。
「出てこい、この悪霊め!!」
(出ていくわけないでしょーが!! と言うより私は悪霊じゃなーーーーい!!)
飛び込んだ教室の教壇の裏に隠れながら花子は心の中で悪態をつく。
そもそも何故こんなことになってしまったのか。
この学校に棲むトイレの花子さんである彼女は自分が何者であるか知っている。
学校の七不思議の中でもとりわけ有名な怪談であるトイレの花子さん、それが彼女の正体だ。
ただし正確に言えば本家や大元の花子さんではない。
この令和の時代、トイレの花子さんの話を正確に知っている人間が果たして何人いるだろうか。
トイレの花子さん自体は有名であり今もなお語り継がれてはいるが、あくまで有名なのは七不思議の中の一つであると言うこと。
その為ふわっとした感覚で知られた結果『夜の学校の女子トイレに出る女の子』だけが残る形になった。
そして長年この学校の多数の先生と生徒にそれが知られ続けた結果、そう言う女の子がいると言う人の想いが生み出したのが現在男から逃げ隠れているこの学校のトイレの花子さんである。
なので本家の花子さんならまだしも、男が追う彼女は決して悪霊ではない。あえて分類をするならば妖怪や精霊の類である。
生命力があふれている昼間は誰に気付かれる事も無く校内の散策。そして本領を発揮する夜ですら、精々遊びに来た悪い子をちょっと脅かして帰らせる程度。呪ったり殺したりする力は彼女は持ち得ていないのだ。
しかし人外であることに変わりはなく、そしてよりによってたまたま近くを通りかかった除霊師の男に見つかった。
その夜も何となく校内をふらついていたのだが、校門付近から学校を……と言うより花子に視線を送る男がその存在に気付いてしまった。
まるで熊が人間の皮をかぶったかのような男は花子を見るや否や追いかけてきたのが事の顛末である。
「ここかぁ……?」
開いた教室のドアから男が入ってくる。
他にも多数の教室があるにもかかわらずピンポイントで花子の隠れるこの部屋へとやってきた。つまり男は花子の居場所を特定する何かがあると言うこと。
(……これよね)
頭に張り付いて剝がれない『現世の符』と呼ばれているもの。
現在発光現象が収まっているのは不幸中の幸いだろう。そうでなければこの暗い教室では逆に目立ってしまい即座に居場所が特定されてしまう。
(大丈夫、いける、やれる。私が何十年この学校にいると思っているの)
この世に出て自我が生まれ早数十年。
ふわっとした想いの集合体であるが故か、行動範囲は女子トイレに留まらず学校の敷地すべてが彼女の庭である。
そしてこの学校において彼女以上に詳しい者はいない。男が如何に花子を容易く屠れる除霊師であろうと、彼我の身体能力の差ががあろうとここは花子のホームグラウンドなのだ。
(逃げ切って見せる、隠れ切ってみせる……!)
今日逃げても明日また来られたら終わりなのでは?なんて考えは今の花子にはない。
今日逃げ切らなければ明日すら無いのだから。
「ッ!」
男が教壇から目を離したタイミングでそっと抜け出し廊下へと出る。そしてそのまま再び廊下を駆け階段へとたどり着いた。
暗い校内、明かりも何も無いが花子の目には校舎がはっきりと映っている。人外であるが故のことだが、仮に視界を奪われていたとしてもその動きは変わらなかっただろう。
長い年月を経た彼女ならば目を瞑ってでもどこに何があるかは把握できているのだ。
そしてもう一つ、長年培った『経験』が彼女の中に息づいている。
(秘技、階段手すり滑りっ!!)
下り階段目掛けダッシュし、勢いそのままに階段内側の手すりの上に座る形で滑り降りる。もしこの光景を学校の生徒が見れば間違いなくブームになっていたであろう完璧な滑り降りだ。
しかし花子はここで終わらない。
普通であれば踊り場に着地するところを、器用に手を捻り空中で華麗なエアターンを決める。それはまるでスノーボードのハーフパイプ競技もかくやと言う程の練度であった。
教師に怒られることもなく数十年の時を過ごした花子ならではこそのテクニックである。
(こっち!)
二階に着き、体を切り返して花子は再び廊下を駆けだす。
彼女の頭の中には学校の地図が立体で描かれており、更にはどの教室が現在施錠されているかまで把握している。
いつもなら壁や扉など物ともせずすり抜けられるが、現在の状態ではそれも出来ないのはとても歯がゆく思えた。
そして花子は二階の教室を転々としながら男を何とかやりすごしつつ、更に一階へと降りてゆく。
この階層は教室が少なく施錠されている特別な部屋が多い。職員室や図書室、保健室が最たる例だろう。
それでもここに来た理由はたった一つ。それは表に出る場所が多いからだ。
外は外で隠れられる場所はまだまだたくさんある。逃げ始めてからそれなりに時間が立っており、何より先ほど男から隠れやり過ごした際に息を切らしているのを確かに聞いた。
(外に出れば引き離せられる……!)
そして花子は正面玄関までやってきた。
一気にここに来なかった理由は最短経路で来た場合追いつかれる可能性があったからだ。そのためにわざわざ遠回りをし、男を二階の端の教室まで誘導した。
すぐに男も室内に花子がいない事を気付くだろうが、まだ足音は一階までは聞こえてきていない。
事が思った通りに進んでいることに花子は口端を少し上げる。そして正面玄関のドアに手を掛け――視界が反転した。
「……あれ?」
バチンと弾ける音と共に何かが光った。そしてその直後花子はドアから弾かれ、背中から床へと倒れこむ。
実体化状態とは言え体が無い花子には痛覚が無い。その為何をされたか分からず、体が動かなくなったという結果だけがその場に残った。
「結界と言うやつだ。獲物を逃がさないようにするのは基本だろう?」
そして靴箱の影からようやく追いついた男が息を切らしながら現れる。
そのまま男は花子に近づくと完全に逃がさないとばかりに横たわる彼女の体の上に圧し掛かった。
「手間かけさせてくれたなぁ。だがそれもここまでだ」
文字通り尻に敷かれた花子だが苦しみや痛みは無い。
しかし男の手には懐から取り出した符……それもまるで血で書いたような赤い文字の札があり、それが何なのかを理解した花子の瞳からは大粒の涙が零れ落ちる。
「やだ……助け……」
「は、悪霊が今更命乞いか? いや、命は元から無いんだったな。このまま天国に……いや、地獄に逝くんだな」
必死にもがくも体は動かず、男を殴ろうと手を振り回すも力及ばずあしらわれるだけ。
下卑た男の笑みが眼前にかざされた符で覆い隠され、痛覚が無いはずの花子の顔にチリチリとした痛みが徐々に強くなっていく。
もうダメ、と強く目を瞑ったまさにその時だった。
「あー、コホン。君は何をしているのだね?」
パチリと言う音と共に花子の頭上から別の男の声が静かに響き渡る。
彼女が恐る恐る目を開くと先ほどまで真っ暗だった正面玄関は明かりに照らされていた。
「あ……」
その声に驚いたのは花子だけでは無い。目の前の男にとっても予想外の事だったらしい。
彼女の眼前まで迫ってた符が戻され視界が良好になると改めて声の主を見る。
年のころは三十かそこらの男性だった。青い制服と帽子に身を包んだその姿は花子でも誰なのか知っている。
いわゆる"警察官"がいた。それも二人も。
「通報がありましてね。夜の校舎で女子児童を追いかけまわしている不審な男がいると」
通報? 誰が? と男が辺りを見渡すが警官以外は誰もいない。
しかし花子は即座に理解した。
この正面玄関の電灯のスイッチは校舎側の廊下に設置されている。彼女の位置からは見えないものの、恐らくその物陰には宿直の先生がいるはずだと。
施錠されているはずの校舎に警察官がいるのも、その先生が手引きしたのだろう。
本来であれば花子の姿は一般人には見えるものではない。夜の女子トイレと言う条件が重なった時だけ姿が見える。
しかし男が貼り付けた符によって実体化したことで宿直の先生が見つけてしまった。男にとって誤算だったのは花子の声すらも現界化出来てしまったのだろう。
それと単純に宿直の存在を知らなかったが故の凡ミスだった。
「あー、いや、これは悪霊退治でして……」
しどろもどろに警察に答える男であったが、彼の命運はすでに尽きていた。
夜の誰もいない学校の校舎で女子児童に見える花子を追い回し、現在進行形で彼女の体に跨るおっさんの構図。
誰がどう見ても犯罪以外何物でもなかった。
完全にアウトだった。
「とにかく話は署で聞かせて貰おう」
「違っ! こいつは本当に悪霊で……!」
「いいから来るんだ!!」
警察官二人に左右から腕を掴まれた男が花子から引きはがされる。
それはあっという間の出来事で、男は何度も悪霊だの除霊師だの叫びながら外に引きずられていった。
(助かった……の?)
夜闇に消える男と警察官を見送り、自身が助かったことに安堵する花子。
「大丈夫か? でもこんな時間に学校は感心しないな」
そして現れたのは宿直の先生。彼は知らないだろうが、花子はこの先生の事を知っている。
今でこそ中年である男性教師だが昔は結構イケメンであった。花子はこの先生の若かりし頃も知っているし、イケメンであるが故に発生した修羅場を数回ほど覗いている。
その時に倉庫の隅に隠れた彼と(勝手に)過ごしたのはいい思い出だった。
「……クス。ごめんなさい」
「……? まぁ大丈夫そうか。何か変な事されなかったか?」
「いえ。あ、でも変なの着けられて……」
そう言って花子は彼に頭に貼られた符を剝がしてもらうよう頼みこむ。
花子が頑張っても全く剝がれなかった符が目の前の先生の手によりあっさりと取り外された。
「……何だ、これ。お札か? なぁ、こいつは……あれ?」
先生が符に注目している間に花子はそっと姿を消し物陰へと隠れる。
その後しばらく花子を探す教師と警察官であったが、結局見つからなかったため犯人確保だけに留まるのだった。
◇
明けて翌日。
『本日未明、都内の小学校に男が押し入り女子児童を襲う事件がありました。警察は現行犯で男を逮捕し事件は……』
「はー、うちの学校でこんなの止めて欲しいよなぁ」
「ぶつくさ言ってないで電話取りなさい、電話!」
職員室では現在電話がひっきりなしに鳴っており、さながら鉄火場の様な状態であった。
そして部屋の隅にはいたたまれないのか見えないにも関わらず物陰に隠れ、申し訳なさそうに『ごめんなさい』と両手で謝る花子の姿あった。
しかし彼女は知らない。
数年後、出所明けの男が再びやってくることを。
再び花子の恐怖のかくれんぼが開催されるのだが、それはまた別のお話――。