二)護る者
崩れる日常。たたみかける謎と衝撃。
少し遅めの新聞配達が慌ただしく走る低排気量バイクの音に、ガラガラと大きめのエンジンノイズが重なり、それが目覚まし代わりになった。後から音に厚みを持たせたのはゴミ収集車だろう。誰かが眠っている間にも他の誰かは目覚め働き、世の中は進み続けている。そんなことを書いた詩人が昔いたっけと思いながらベッドから起き上がる。
身支度を整えリビングに顔を出した奏汰はぼそぼそとした声で「おはよう」と言いながらテレビをつける。
朝のワイドショー番組だ。有名教授と若手議員のハイテンションなトークバトルが繰り広げられ、進行役のタレントがそれをニヤニヤと見守りながら割り込む隙をうかがっている。
――……この図が示す通り、温暖化は近年強烈な勢いで進んでおり!……――
――……そういうのはもうここ100年ずっと言われてきて!もっとねえ具体的な……――
――……いやあ!白熱してますが一旦このへんで、次は中東の大規模紛争が……――
「朝からうるさい連中だなあ」ソファから不機嫌な声が聞こえた。
テレビの音で目を覚ました奏汰の父は今まで寝ていたシートに座り直し頭を掻く。さっきの車の音でも起きなかったくせにな、と奏汰は内心思う。
「ちゃんとベッドで寝ろよ」
「どうもはかどらなくてねえ、色々考えている間に寝ちゃったみたいだよ。そうそう奏汰くん、なにか面白いことないの?咲良ちゃんとか」
「ないから」
父・結城道明は自称三流を名乗っているが、そちらの界隈ではそれなりに名の知られた作家である。その作品は若い女性向けの恋愛小説が多い。中性的なペンネームとメディアへの露出が一切ないことから、性別年齢一切不詳のミステリアスなキャラクターで知られていて、本人もそれを楽しんでいるふしがある。やや生真面目な息子と違い、噺家を上っ面だけ真似たような口調で話す。
「そりゃ困るよ。ちいさい頃から咲良ちゃんとはあれだけいっしょに過ごさせてきたのに、すっかり無駄になっちゃうなあ。親の心子知らずとはこういう――」
「じゃ、行ってきます」話をさえぎり立ち上がる奏汰。朝の習慣とも言える。
「あら奏汰、朝ご飯は?」キッチンから女性の声が聞こえた。
「時間ないからいいや。行ってきます」その声にあらためてあいさつを返す。
「残念、せっかくのベーコンエッグなのに」
見送るために出てきたのは自律型の自走モジュールである。顔があるべき場所には円形のモニターがあり、女性の顔が映し出されている。
「母さん、ごめん!」奏汰は慌ただしく家を出ていく。
自律モジュールは扉が閉まるのを確認すると、キッチンへ戻っていった。
「道明さん。目玉焼き、余っちゃったから食べちゃってね」
「母親泣かせな息子だねえ、まったく。ねえ花蓮さん」
モニタの中の花蓮と呼ばれた女性の顔は、ぎこちなく、微笑んだ。
簡易的な人格と外見を組み込んだ、汎用型の人工知能マシンだ。現実の花蓮はここ数年研究者としてほとんどに時間を過ごし、年に数回ほどしか家に戻らない。母の関わるプロジェクトは極秘事項であり、そのために外国にいると聞かされている。
奏汰は昨晩咲良と別れた角まで向かう。入学当初にもたまたま一緒になることはあったが、それとなくお互いに合わせていき、今ではこの角で待ち合わせるのが定着している。同じようなタイミングで彼女もこちらへ歩いてきたのが見えた。
それは変わらぬ朝のはずだった――がなにかおかしい。
いつも笑顔の咲良が今朝はこわばっている。視線も奏汰を捉えておらず、別のなにかを見ていた。やがて近づく咲良に声をかける。
「おはよう。どうした?咲良」
「奏汰、あれ……」
咲良は挨拶をすることもなくそう切り出し、ある方向を指さす。奏汰はその先を反射的に見た。男がいる。
その男はこちらを見ていた。
出勤時間にはしてはラフな身なりの一般的な成人男性にも見えなくはない。咲良と奏汰以外のまばらな歩行者は、実際誰も彼を気に留めることもなく通り過ぎていく。その隙のない鋭く異質な眼差しには気づかないまま。
その目はまるで、人間の眼窩に埋め込まれた獣の目だ。ふたりだけが気づいた、気づいてしまっていた。
男は住宅地の狭い生活道路の向かいに立ち、じっとこちらを見据え続けている。3人だけがストップモーションとなったビデオクリップの一シーンのようだ。男が放つ視線を受けて奏汰もまた獣の目を持つ男を見返すのだが、実のところは囚われたまま視線を外すことができないというのが正しかった。
「ねえ、なんか、やだ、ヘビにかまれたカエルだよ」
普段は朝から元気な咲良も、異様な雰囲気にのまれて表情が硬い。男の視線は主に奏汰だが、時折彼女へも向けられる。眼力に気圧されたふたりは怖れた。面倒な輩に絡まれた時のものではない。もっと本能の奥底から発せられる警報のような恐怖だ。
その時、ふわっと男の上半身が振れ、豹を思わせる足取りでこちらへ近づいてきた。その目はこちらを捉えたまま、あきらかになんらかの接触を意図して歩いてくる。僕達は獲物だ……!奏汰はくじけそうな気持ちぐっとこらえ、囚われた視線を振り切る。
「……離れないで!」
奏汰は咲良へ小さく耳打ちして彼女の手首をつかむ。同時に自宅の方向を見るが運悪く誰もおらず、安全に戻るのは無理と思えた。奏汰はすぐさま気持ちを切り替え、駅へと向かう方向へ早足で歩きだす。人通りがまばらに続いていてこちらのほうが多少は安全に見えた。
男はすべるように滑らかに近づいてくる。ヘビとは咲良もうまく例えたものだ。
奏汰は恐怖と焦りで足がもつれていつものように動かない。逃げても逃げても一歩も進まない悪夢のような気持ちだった。咲良も奏汰に手首を掴まれて引きずられながら進むが、奏汰以上によろよろと足取りがおぼつかない。
振り返ることもなく他の人々をすり抜け先を急ぐ二人の背中には、男の存在あるいは視線が、痛みのような感触を伝えている。殺気というやつだ。
生きた心地がしないってこういうことかよ、今や早足から小走りになった奏汰は思う。なにか策をと思うが考えがまとまらない。とにかく本能的に習慣的に、駅へ電車にさえ乗ってしまえば逃げ切れるかも、それだけだ。咲良はじっと黙ってついてきている。
ようやく駅構内に駆け込んで密度の増した人波に紛れても全く気持ちが落ち着かなかった。速度をゆるめることなく定期も出さずにそのまま改札に飛び込む。愚直に動く自動改札がブザーを鳴らしゲートを閉じるが奏汰はそれを無理やりに通り抜けた。奏汰に引かれる咲良もそれに続く。ゲートを蹴とばす音が数回響いて周囲の客がなにごとかと注目するが、常識的な無関心さをもってすぐに落ち着きを取り戻した。
その間もホームの混雑を必死に押しのけ、発車しかける電車に間一髪で飛び込んだ。すぐさま振り返り様子をうかがう。少なくとも近くに気配は感じない。
人のあふれるホーム越しに一瞬見えた改札口にあの視線を感じた。ドアは完全に閉じ、無言で立ちすくむふたりを乗せて電車は動き出す。
「なんだよあれ!」
電車が速度を上げはじめてようやく奏汰の口から言葉が漏れた。咲良もその声で緊張が解かれる。
「奏汰、腕……痛いよ」
「あ……ごめん」
言われて咲良の手首を自由にしつつ、思っていたより力強く握りしめていた感触に驚く。咲良の左手首はすっかり赤くなっている。咲良はまくれた袖を戻し手首を隠す。ふたりともしばらく息を整える。
隣駅に停車しドアが開く。咲良はびくっと身をこわばらせホームをうかがう。続けて奏汰がドアから半身を出して念入りに探る。あの目の男がいないことが分かりほっとため息を吐く。ドアは閉まり発車する。景色が流れ出す。
「俺たちなにか悪いことしたっけ」
「ないない。もしあっても、そんなんであそこまで追い詰めることないよねー」
「俺だって覚えがないよ。なんか警察とか事件とかやばい秘密見ちゃったとか」
「やだやだ!こわいこわい!!私は見てないし!」
かすかな揺れを感じ電車の扉が開いた。会話に没頭していた二人は慌ててホームに降りる。
改札に向かう間にそれぞれの友人も合流し、自然と男女別々へと分かれてしまったので、咲良との会話もそこまでとなった。乗車時にはなかった安心があった。
校門をくぐり、グラウンドをまたぎ、校舎へと入る。
隣り合う互いの教室に入る手前で咲良が「あとでね」と唇を動かしたので、奏汰は軽くうなずいた。
どれだけ日常にほころびが出ても、教室には学生としてのリアルな時が流れる。そのルーチン化された時間を過ごすうち、すべては思い込みだったのではと一瞬恐怖が薄らいでいく。しかしその思いもすぐ気持ちの底でリバウンドし、これは現実だぞと首筋にひんやりとした危機感のシグナルが送られるのだった。
その不安とはうらはらに何事もない半日が終わり放課後が訪れた。
奏汰が下駄箱のあたりで待っていると、しばらくして「おまたせ」と帰り支度を整えた咲良が小走りでやってきた。
昨日よりも2時間ほど早い下校時間。普段なら部活があるのだが今日はサボりだ。空もまだ夕焼けに染まりはじめたばかりで淡いグラデーションがきれいだ。
「帰るか」なにげない言葉に緊張感がはらんでいる。
「うん」
こくりと一言うなずく咲良も真剣なまなざしだ。
人気の少ない放課後独特の雰囲気を持つ校舎内を抜け、正門のあるグラウンドへと出る。ここまで命がけで下校するということが生涯一度でもあるだろうか。試合開始を告げる合図のように冬の風がほほをなでる。
グランドの砂を踏むじゃりじゃりした音が心地よい。
「朝、怖かった」
「俺もだ。目線で人って殺せるのかもな」人差し指で目からビームのしぐさをする。
「逃げながらね、思ってたんだけど」咲良はその動作を無視する。
おどけたつもりで空回りする奏汰に構わず咲良は続けた。
「私、ちいさい頃にあの人と会ったような気がするんだよね。変かな」
奏汰の体がびくっとこわばり瞳孔がきゅっと絞られる。咲良の言葉を聞いた瞬間、奏汰は脳裏に電気が走るのを感じた。
瞬間、夢で見た風景を思い出した。
そうだ、なんで忘れてた。あの夢には、あの目が、いた……!!
「なんだ、これ……」
しかも知っていたのは景色だけじゃない!なんでオレも、あの男を、知ってる?
咲良はぶつぶつと考え込む奏汰に不安を感じた。
「奏汰?やっぱり変だと思ってる?」
「……いやその逆。オレも今、なんか思い出した」
奏汰は自分の肩を指す。
「こないだ怪我したとき、激突直前に変な幻を見たんだわ」
咲良は奏汰が怪我をした時のシーンを思い出しながらうなずく。
「たださ、白昼夢見てそれで気が逸れて、って全然説得力ないし、なんなら咲良みたいに精密検査受けろなんてなったら面倒だし、それで黙ってたんだけど……」
そこで不意をつかれ会話が途切れる。
「父さん!?」「おじさん?」
校門に見知った人影があった。奏汰の父、道明だ。
「咲良ちゃん久しぶりだねえ、会えてうれしいよぉ。最近は前みたく全然遊びに来ないから道明はそりゃもう退屈で退屈で――」
そこから先は全く耳に入らなかった。なぜなら道明のすぐ後ろ、校門の陰からあの目がすっと現れたからである。
「なっ!」
身をこわばらせ警戒する奏汰。その横で呆然となる咲良。ふたりの変化に道明は気が付く。
「ああ。この人はね、僕の大事な友だち。そんなびっくりしちゃってどうしたの?あ、こちらリュウさん」
道明は男に目配せをした。リュウと呼ばれた男は鋭い目のままわずかにうなずく。
「父さんちょっと!」奏汰は父の袖を乱暴につかんで引き寄せる。
「やばいんだって!」小声で話そうとするが押し殺したしゃがれ声にしかならないうえに、うまく説明もできない。
そんな息子の狼狽を意に介さず、相変わらずの口調で続ける。通り過ぎる別の生徒がなんだろうと奇妙な一団を横目でちらりと見ては、所在なさげに小走りに通り抜けていく。
「ああー!もしかしてびっくりさせちゃったかい?ちょっと困った話を聞いちゃってね、ふたりのことが心配だったんだよお。わかってほしいなあ、この親心」
そして男に振り返り続ける。
「こちら漢字でドラゴンにヤジキタのヤで龍弥さん。普段はリュウさんて呼んでるけどね。でかいでしょ」
「わたしたち今朝ずっと駅まで追われて!」泣きそうな咲良。
露骨に眉をひそめる道明。
「リュウさーん。だから身を隠してこっそりお願いって言ったのに。息子はともかく咲良ちゃんまでこんなに怯えさせちゃって」
「うむ、それはすまなかった。少年、そして少女」威圧感がある。
「私は龍弥」一言をしっかりと区切る。なにか決定的なことを言うぞ、という間を感じた。
奏汰は内心覚悟を決めて言葉を待つ。
そして言葉は放たれた。
「君たちを、護る者だ」