天馬の嘶き9
闇夜の森は、視界が悪かった。
月明りと木陰の明暗が続き、いつまで経っても目が慣れることは無い。
自然のままに伸びた木々が、行く手を阻むように突き出ている。
その森を、枝葉に突っ込みながら疾走する二人乗りの天馬があった。
「ちょ、危ないから動かずに座っててくれないかなぁ」
「馬鹿ですか? 貴方は馬鹿ですね? こんな速度で木に突っ込んだら天馬ごと砕け散るんですよ?」
ルグドは肩を激しく揺さぶられている。
後ろに乗るアリルが、彼の肩を力任せに振っていたからだ。
「あぁ、もう! これは私の天馬なんです!」
「そこについては謝るしかないんだけど――――あ、頭下げて」
彼は後ろを向いて謝りながら、アリルの頭を押さえた。
二人の頭上を、猛烈な勢いで枝が通り過ぎる。
頭を下げていなければ、首から上を捥ぎ取られているところだった。
しかし、彼女からすれば頭を押さえつけられただけに思えた。
「何をするんですか!」
「まあまあ、この天馬の弁償については、後で話し合おうよ。まずは、命が助かってからだね。後ろを見てみなよ」
アリルが振り向いた先には、木々の間を飛ぶリイナの姿があった。
怒り心頭といった表情で、牙を剥きだして叫ぶ。
「んなろーが! 待ちやがれ――――うぷっ」
集中を乱した竜が、木の枝に顔を叩かれていた。
その所為で、更に怒りが溜まっている様子だった。
アリルが目を細める。
「ですが、逃げ切れるとでも思っているのですか。竜が本気になれば、こんな森など私たちごと吹き飛ばせますよ?」
「そうだね」
彼は当然の如く頷きながら、天馬を傾けた。
急旋回した加速度に耐えつつ、空が焼ける光に目を奪われる。
――――竜撃光。
光の柱が森を貫いた。
遅れてくる衝撃と爆風が木々を揺らす。
直撃すれば、跡形も無く蒸発するだろう光だった。
「あれが、公爵の放つ竜撃光ですか……」
彼女の歯噛みする音が、背中越しに伝わってくる。
人族と竜族を隔てる圧倒的な戦力差は、何も翼だけでは無い。
超長距離から城さえ薙ぎ払う光の奔流。
人が挑むには、余りにも果てしなく遠かった。
「あっぶねーな、コラ! 枝にぶつかって無けりゃ喰らってたじゃねーか!」
森の中に空いた大きな穴から、リイナが叫んでいた。
流石に同族同士でも、直撃すれば傷を負う。
「……ふぅ」
横目で背後を確認しながら、ルグドは息を吐いた。
それがあまりにも自然過ぎて、アリルに疑念が生まれる。
彼女が静かに、英雄の――――付き人の名を口にした。
「ルゴス、と呼ばれていましたね?」
「呼び間違えたんだろ」
「それにしては、随分と親しくに見えましたが」
「竜族って変な奴ばかりだからさ。気にしない方がいいよ」
「そうですか? ですが、私にとっては重大なことなのです」
アリルが微笑みを漏らす。
彼女の両腕が、軋みを鳴らした。
横を向いて、彼女の脳裏に移る情景が語られた。
「とある村が、邪竜に襲われました。人も竜も入り混じって、戦いになりました。村の外れで暮らしていた姉妹も、その戦いに巻き込まれます。そして、その妹が味方のはずの竜族の竜撃光を帯びそうになりました。それを助け出したのが――――ルゴス様でした」
「よくある話だね」
それは良かった、とルグドが興味無く頷く。
戦火の中で誰かに助けられたなど、何処にでもある普遍的な英雄譚だろう。
それがたまたま、『ルゴス』という人物であっただけの話だ。
彼女も頷く。
「ええ、そうです。助けた側はそうでしょう。でも、私は違う。妹の命を救うためには、私の命一つでも足りなかった。何を投げ出しても、届かなかった。だから――――私は支払うことに決めたのです」
「へ?」
天馬の後部が、急に軽くなった。
彼が後ろを振り向くと、黒い両腕を地面に突き刺して着地するアリルの姿が見えた。
「何やってんだよ、もう!」
機首を傾け、急旋回を始める天馬だった。
夜空には、エンテル公の気配がする。
僅かな殺意が、アリルの着地点に注がれていた。
「あぁ、クソ! 助けられたからって、君が命を差し出したら意味ないだろ! 僕のことは放っておいてくれ!」
「――――そうもいかないんだよなぁ」
突然現れたリイナが、隣を並走しながら、嫌らしい顔で笑う。
視線は同じところを向いていた。
「さあ、どうする? あの人間の雌を助けたい? 見殺しにする? 私様はどっちでもいいぜぇ。くけけけっ」
「――――」
ルグドは唇を噛んだ。
どうしてこうも、思い通りにいかないことが多い。
美しいものばかりが、我先にと失われていく。
あの健気な娘には、救いの手が差し伸べられたのだろう。
「けど、僕にはそんなもの無かったな」
やる気のない苦笑いが浮かぶ。
彼は天馬に立ち乗りし、両手を広げた。
その手で掴めなかったものの大切さを、確かめようとしていた。
天馬から投げ出され、空中を漂う。
森の切れ間から、星空が見えた。
憎らしい程、奇麗だった。
「おい、何処見てんだっつーの。しっかりと私様に掴まれよ」
長い竜首が、彼の下から持ち上がる。
背の硬い鱗の上に、ルグドが乗せられていた。
リイナの口元から、僅かな光が漏れる。
「いいな、ルゴス。これは私様との契約だぞー。わかってるよな?」
「……ああ、うん。それはいいけど、いい加減、僕の新しい名前を憶えてくれよ」
「はっ、面倒な奴だなー。けど、まあいい。許す。今の私様は、機嫌が良いからな。やっぱなー、勝てる喧嘩だと俄然、やる気が湧いてくるわ」
竜の顎が開かれる。
天から落ちる光の柱が、地面にぶつかる瞬間。
横合いから吐き出された光が衝突する。
対消滅を起こした光の瀑布が溢れ出し、地上に一つの太陽が生まれたようだった。
衝撃が消え去り、光の残滓が闇に飲まれる。
その夜空に、大きな影が残っていた。
腕組みをしたエンテル公が、威容を以って地表を睥睨しているのだった。