天馬の嘶き7
冷たい夜気を孕んだ突風が、肌を叩き続けている。
正面にあるのは、暗闇に紛れた地面のみだ。
背後から、乱杭歯を剥き出しにした竜族が追いかけてきていた。
「――――ここまでですか」
天馬の後部にしがみついていたアリルが、覚悟を決めた。
黙ったまま地面に激突するよりは、手を放して身を投げ出す方が、僅かでも生き残る可能性を見出せるだろう。
天馬から投げ出された途端、竜に喰われるかもしれない。
そうでなくても、落下の衝撃で身体が潰されるかもしれない。
だが、何もせず地面に激突するよりは良い。
彼女の手が、天馬から離れた瞬間――――その手が掴まれた。
「浮いたら助けられないから、じっとして。今は向きを変えたくないんだ」
「どちらにせよ、助からないでしょう。それより、ハンドルから手が離れてます!」
「大丈夫、足がある」
ルグドの頼りない表情で微笑まれても、説得力はない。
落下中の曲芸乗りで、しかも片手はアリルを握っている。
片方の足でハンドルを操り、加速度的に地面が迫っていた。
積極的な落下を続ける天馬に対し、竜形態のリイナが忌々し気な呟きを漏らす。
「ぬ、ルゴスめ……」
追いかけていた彼女が、急に翼を大きく開いて離脱した。
追跡を止めたのは、空を統べる者としての常識からだ。
故に此処が、帰還不能点である。
どう足掻いても逃れられない墜落の証明だった。
天高く消える竜を見つめ、アリルが力を無くした。
「まさか、こんなところで役目も果たせず人生を終えるとは、思いもしませんでした」
「いいから掴まってよ。まあ、何とかなるさ」
ルグドの視線は、地面の木々に向けられていた。
彼の瞳の奥底に、まだ燻っている灯火が見える。
それはとても小さな火で、吹けば消える弱さかもしれない。
しかし――――その火こそが、過去の彼を支え続けたものだ。
成れの果ての種火にまで落ちぶれたが、かつては世界すら救って見せた劫火の一つである。
そんなことなど露も知らないアリルが、信用できないのは必然だった。
「そうですか。では、期待しないで任せます」
「――――え?」
ルグドはここ一番の、間抜けな表情を見せた。
この危機的状況で、全てを忘れてしまっていた。
――――懐かしい言葉を聞いたから。
ただ、それだけで。
燻っていた種火に風が吹く。
その炎は勢いを増した。
彼は強引にアリルを引き寄せ、後部シートに座らせる。
迫る地面を見据え、乾いた唇に小さく舌を這わせた。
「わかってるよ、『レグリア』」
今更のように天馬を半回転させ、機首を空へ向けた。
魔導機関が全開で唸りを上げ、上昇するための推力を絞り出す。
それでも、落下速度を相殺するほどではない。
地表がすぐそこまで迫っている。
「しっかり掴まってろ!」
ルグドの叫び。
暗闇の中に木々の輪郭が浮かび、木の枝に次々と天馬が衝突していく。
彼は木の幹を蹴り込み、ハンドルを切った。
勢いが横へ流れ、地面に天馬の腹を擦りながら飛ぶ。
「――――っ!」
ルグドの狙い通りに斜面を滑り降り、河川へ出た。
川向うにあるのは、鬱蒼と茂る森林地帯だった。
そこへ逃げ込めば、いかに空の支配者とて追っては来られない。
そんなことは、リイナとて百も承知だ。
「私様にぃ、そんな小手先が通用するかぁ!」
上空で方向転換した彼女が、ルグドの行動を予測して先回りしていた。
森林地帯を背にした竜が、川の上から二人を睨みつけて意地悪く笑う。
「けっけっけ、腕が落ちたよなー、ルゴスちゃん。現役時代ならいざ知らず、そこの人間を投げ出してたら、普通に逃げられたんでしょーに」
「……そしたら喰うじゃないか」
河原の上で天馬に乗ったまま、彼は竜を見つめる。
リイナが鼻で笑った。
「はんっ、それがどうしたって? 私様は好んで人間狩りをするほど暇じゃねーけど、邪魔な奴にうろちょろされるのも嫌いなんだよ。……いや待てよ。わかった! そこの人間は見逃してやる! だから――――ん?」
ルグドが夜空を見上げて、雨粒でも待つように手を広げていた。
その掌に、大きな音を立てて物が落ちる。
「痛てててっ」
「何だ、何をしたルゴス?」
リイナが長い竜首を前に傾ける。
彼は、手の中に落ちてきた物を見せつけた。
「お金だよ、見ればわかるだろ」
それは、アリルから貰った高額貨幣だった。
比較的大きめの貨幣で、光沢があり光を反射する。
竜の眼が、それを見逃すはずもない。
「あ、ん?」
顔を歪めて空を見上げるリイナであった。
静かな夜に耳をすませば、遠方から竜の咆哮が響いている。
竜を知る者なら、これが警告であることは充分に理解していた。
領地を侵犯した愚かな人間に制裁を加えるため、竜が即座にやってくる。
「ここの領主か? いや、ルゴスは竜通空帯は通ってねーし? そんなことしてたら追いつけるだろうし――――あ!」
彼女が再び、ルグドの持つ金貨を凝視した。
竜の眼は、暗闇でも良く見通す。
はるか遠くの輝きでさえ見逃さない。
貨幣が空中に打ち上げられ、星の光を反射して目立てば、竜通空帯を警戒している竜族に見つけられることは不可能ではない。
「いや、だって!」
「自分の領地内で、あれだけでかい声で竜族に叫ばれてたら、警戒するのは当然だよ。それに加えて人間の領地侵犯だからね。貨幣一枚だろうと、竜が動く理由にはなるさ」
「あー! ぐがー! 面倒くせーっ!」
リイナが頭を掻きむしる。
その様子を見たアリルが、首を傾げた。
「この竜族は、エンテル公を気にしていないように言っていたのではありませんか?」
「そこは竜族の政治ってやつでね。領地侵犯には領主軍が動かせるんだ。ただの喧嘩ならリイナが勝つだろうけど、流石に単独で一軍を引きつれた相手に喧嘩を売ることは……無いと思いたい」
「絶対ではないんですか」
「あの子、たまに馬鹿だから……」
「それはそれとして、竜族に詳しいんですね?」
彼女の視線には、何かを探るものが混ぜられていた。
ルグドは口元を緩ませる。
「少し、付き合いがあるからね」
「ああ、そうですか。それは貴方が『ルゴス』と呼ばれていることに関係しますか」
「僕はルグドだよ」
頼りない笑みを見せる。
それはあまりにも自然で、嘘など無かった。
次第に竜の雄叫びの数が増え、近づいてくる。
夜空に複数の黒い影が現れ、旋回してこちらを見張っていた。
その中で、一際大きな巨躯を軽やかに飛ばしながら、竜族が降下してくるのであった。