天馬の嘶き4
「ここが……『工房』ですか」
アリルの茫然とした態度が、如実にその感想を現していた。
天馬を停めているものの、すぐに立ち去りたい欲求に駆られても不思議ではない。
今にも崩れそうな古びた柱で支えられた、廃墟と言って過言ではない家屋であったからだ。
「まあ、自由に使える工房はここだけかな」
ルグドは目を細めて断言した。
空を駆る天馬ではあるが、整備をしなければその能力を維持することは不可能だ。
動力源である魔導機関の燃料――――『魔鉱石』を補充しなければ、動くことさえ出来ない。
天馬の製造や整備、点検などを請け負うのが工房である。
それ故に、世界各地に大小の工房が存在していた。
ハーフェル村にも幾つか工房が存在するが、個人経営か小規模工房で、しかもレース大会で忙しく余所者の天馬など扱っている暇はない。
よって、誰も使わない工房しか選択肢は無かった。
「本気で整備したかったら、街まで行った方が良いよ。質は悪いけど、魔鉱石なら幾らかあるから」
一人で先に歩いていくルグドだった。
最早、引き戸というよりは立てかけてある板のような戸を開き、工房へ入る。
入口傍にテーブルと椅子があり、度数の高い酒を煽る老人が座っていた。
ルグドは慣れた所作で挨拶をする。
「こんにちは」
「…………」
一瞥だけした老人が、再び酒に視線を戻す。
追い付いてきたアリルの言葉が掛けられた。
「見事に無視されませんでしたか?」
「うん、いつもこうなんだ……けど、挨拶しないのも悪いと思ってね」
慣れてしまった苦笑いが、顔に張り付く。
それを隠すように工房の奥へ行き、魔鉱石の入った麻袋を台車で運ぶ。
老人の前まで移動し、麻袋の口を開いて適当なものを取り出した。
「これ、もらうよ」
「…………」
それでも老人が反応することは無かった。
ルグドはテーブルの上に、小銭を多めに置いておく。
台車を元通りに戻した後で、アリルの天馬に近づいた。
「僕が交換してもいい?」
「構いませんが、魔鉱石の代金は払いますよ」
「小銭無いだろ? それくらい、問題ない」
慣れた手つきで魔導機関の炉を開け、魔鉱石を定位置に据えた。
炉の蓋をしっかり占めると、手を払う。
「さ、出来た」
「手慣れていますね、元は工房士ですか」
「天馬繰士なら誰でも出来る……というか、基本だと思うけど」
「そうですか。私は乗る専門なので、どうでもいいです」
「もしかして、魔鉱石を入れたことが無い?」
「はあ。お金を払えば、大抵の工房では入れてくれますけど」
「ああ、そうだね……」
ルグドは力なく笑った。
確かに、苦も無く大金を差し出す彼女のやり方では、何処の工房でもお得意様扱いだろう。
魔鉱石を安く買い叩くために、純度が低いだの産地が悪いだの、言い合いをする必要も無い。
「もしかして、アリルはお嬢様だったりする?」
「は? 私がお嬢様ですか。面白い冗談ですね。むしろ対局にある存在――――と、詮索は止めてください。殴ります」
「いやいやうんうん! もう二度と言わないから、その拳は降ろしてください!」
勢いをつけて謝るルグドだった。
首から上が吹き飛んでしまっては、目も当てられない。
その様子に呆れてしまったのか、彼女が溜息を漏らした。
「次はありませんからね。では、次に宿を紹介してもらいたいのですが」
「え? 泊まるつもり? 魔鉱石をわざわざ満タンにしたのに?」
「……わざわざ、の部分が非常に気になりますが、とりあえず置いておきましょう。まず、はっきりさせておきたいのですが。私が宿泊するのが、いけませんか」
怒りのオーラが見え隠れするアリルである。
もう何を言っても拳が飛んできそうな気配だが、彼に選択の余地はない。
「いけないことは無いけど、天馬で街に出た方が快適だろ。確かにレース大会は今日が予選で、明日が決勝だけど、そんなに興味があるようには思えなかったんだよ」
「確かに興味ないですね」
「ちなみに、レース大会だから宿屋に空き何て無いよ? 最悪、一つのベッドに二人寝る羽目になると思うけど」
村程度の田舎に、宿屋がある方が珍しい。
大抵は村人と交渉の末に、天馬小屋の端か、金さえ払えば客間に寝かせて貰えることだろう。
ただし、今はレース大会の真っただ中だ。
何処も彼処も満員御礼といった状況で、宿などとれるはずがない。
それでもベッドで眠りたければ、誰とも知らぬ人間に頼み込むしかないだろう。
人の好い女性でもいれば幸運だが、宿屋に泊まるような冒険者は大抵が男だ。
屋外で寝るとしても、野犬や不埒者が出ないとも限らない。
「それは嫌ですね……」
振り上げた拳が、彼女の顎に添えられる。
そして、その手がルグドに向けられた。
「貴方の寝床を買います」
「一緒に寝る気か?」
「何故に同衾しなければならないのですか。買い上げると言ったのです。貴方は床ででも寝ればいいでしょう」
「そう言われても、僕だって居候だからなぁ。店長に頼むことになるけど?」
「それは――――困ります」
アリルが苦い顔をする。
人違いだったダリルと再び顔を合わせるのが嫌だというよりは、都合が悪そうな印象だった。
悩む彼女と、それを見守るルグドの傍に、椅子に座っていた老人が近寄ってきた。
そして、皴の刻まれた手が差し出される。
「酒代、出せ。……そしたら、明日まで此処を貸してやる」
「え、あ、はい」
普段は話すらまともに交わしたことの無い老人が、いきなり話しかけてきたことに驚いていた。
動揺が響いているのか、言われるがままに、酒瓶を買えるだけの貨幣を支払うルグドだった。
奪うように貨幣を握りしめた老人が、弱々しい足取りで工房から出て行く。
老人の背中を見送ったアリルが、周囲を見回してから言った。
「こんな隙間だらけのボロ家に泊められて、工房の見張りまで押し付けられて、お金まで取られて、貴方の世渡り下手は一級品ですね。お世辞抜きにそう思います」
「はあ、そう、なんですかね」
そう言われてみればそうだなぁ、と彼は頷く。
「真に受けないでください」
起こる気力すら無くした彼女が、腰に手を当てて、盛大な溜息を吐くのだった。