天馬の嘶き3
二人分の足音が響く。
ルグドは背後に居る女性を気遣うことなく、カフェの中に入っていく。
草レースが始まる頃から比べれば、幾分か人の数が減っていた。
競争している選手の見物が目的だろう。
カフェに残っているのは、それなりに顔見知りの村人ばかりだった。
その村人たちが、ルグドを見て目を剥いた。
正確には、彼の背後に居る女性を見つめていた。
「お、おい、あいつが女を連れてきたぞ」
「へ? 何で?」
「知るかよ」
口々に交わされる言葉には、驚きの感情が隠されていない。
有体に言えば、村の珍事であろう。
普段から物静かな男が、祭りにかこつけて女性を口説いてきたのだと思われている。
ルグドは目を細め、カウンターの奥に向かって言った。
「……あの、店長にお客さんです」
彼がそう言うと、ああやっぱりな、という呟きと共に、村人たちが一斉に興味をなくした。
顔の良いダリルが指名されるのは、今に始まったことではない。
厨房の奥から威勢の良い声が返されたかと思うと、手を拭きながらエプロン姿の男が現れる。
袖をまくり上げ、引き締まった二の腕が眩しい。
「おーう、お客さん?」
ダリルの視線が、ルグドから背後の女性に移動した。
見るからに余所者で、初対面の相手なのだろう。
彼の表情に硬さが残っている。
「えっと、俺に何か用か?」
「――――すいません。人違いでした」
値踏みする視線の後で、小さく頭を下げるアリルだった。
あからさまに無礼な態度ではあるが、丁寧な物腰と客という立場にあって、ダリルも強気に出られないでいる。
「あ、いいや、いいんだ。折角だろ、珈琲の一杯でも飲んでいくか?」
「結構です。代わりに、この人を借りたいのですが」
そう言って、彼女がカウンターに貨幣を置く。
ダリルが腕を組み、片目を細める。
「物の価値を知らない、って訳でもなさそうだから、逆に手間なんだがな。この村で何か面倒事でも起こそうってことか?」
彼の目前にある貨幣は、ルグドに渡されたものと同じものだった。
村人を数人雇っても、まだお釣りが出る。
ならば、その貨幣からルグドの働き分を引いて残った分は――――迷惑料とも見て取れる。
これを受け取れば、荒事が起こったときにはダリルが仲介をしてやり、受け取った金額の中から弁償をしてやらなければならないだろう。
それだけの価値があるとも受け取れる貨幣であるが、相手は冒険者だ。
簡単に引き受けようとも思うわけがない。
溜息を吐いたダリルが、カウンターにある貨幣を拾い上げ、ルグドに投げ渡した。
「お前がご指名だ、お前が決めろ。店は休んでいいからな」
それだけ言って、彼が厨房に戻っていった。
カウンターの前に取り残されたルグドは、受け取った貨幣をつまみ上げる。
手を伸ばして、彼女に貨幣を差し出した。
「だ、そうだよ」
「そうですか」
アリルが頷き、貨幣を手に取った。
腰元から革袋を取り出し、その中へ貨幣を仕舞い込む。
革袋の中で、見慣れないものが鈍く光った。
「従者―――ルゴスの守り?」
思わず口に出してしまったルグドであった。
幾多の国を焼き、破壊した邪竜がいた。
その邪竜を打ち取った勇者の――――付き人が従者ルゴスだ。
無論、世間一般において、勇者のお守りなどと言って、似ても似つかぬ肖像の象られたものが出回るのは常識だ。
何処の村でも縁起物として、土産物にされる運命にある。
ただし、人気なのは勇者だけであって、その従者までもがお守りにされるにはマイナー過ぎる。
作っても売れ残るのが関の山で、時が経てば見向きもされなくなるのが道理だろう。
「悪かったですね」
若干、頬を赤くしたアリルだった。
素早く革袋の紐を閉め、腰元に仕舞い込む。
もう用はないとばかりに背を向ける彼女に、ルグドが言う。
「何で、そんなもの持ってるんだよ」
「価値観は人それぞれだと思います。そんなもの呼ばわりされる筋合いはありません」
「ああいや、そのお守り、良いと思うけど?」
「――――え?」
苦笑いで言うルグドの言葉は、カウンター気味に彼女の心根へクリーンヒットした。
今まで散々と馬鹿にされ続けてきた彼女の趣味に、一条の光が差された瞬間であった。
鼻息が荒くなったアリルが振り向く。
孤立無援の戦場で援軍を見つけた傷病兵の如く、喰い気味に身を乗り出した。
「分かりますか」
「う、うん? 分かるんじゃないかな。その、鈍く光る銀色とかね」
「ええ、そうでしょう。これは分かる者にしか分からないのです。まさに、いぶし銀といえるでしょう。渋いとも言いますが。この深みは、酸いも甘いも嚙み分けた者こそが知るのです。それというのも、まず、彼の方の出生が不明で、勇者の冒険の途中から急に現れるのが――――」
「えっと、うん、それはいいとして、他にすることあるんじゃないか?」
ルグドがそう言うと、彼女の動きが止まる。
ほんのり赤らんだ頬を戻すように、大きな咳払いをする。
「んん、そうですね。では」
踵を返して立ち去ろうとする彼女の背後に、ルグドがついていった。
カフェから出たところで、アリルが振り返る。
「……話の続きがしたいのですか?」
「いや、案内するけど」
「報酬は突き返されたと認識していますが」
「貰い過ぎ、って言ったと思うけどね。あと、出来るだけ手伝う、とも言ったよ。急に休みが出来たから、暇なんだ」
このくらいはいいだろう? と心の中でルグドは呟く。
彼の中で、呟かれた者の表情は、いいんじゃない? という顔をしていた。
それがとても滑稽で、懐かしくて、古傷が痛む思いだった。
時が止まったままの彼女が、美しいままで、そこにあり続けている。
対する己が無様すぎて、失笑すら浮かばない。
吐き出そうとする言葉に意味を見出せず、開きかけた口が見苦しい。
息継ぎを忘れた魚類が陸地で溺れてしまおうとする瞬間、声を掛けられた。
「――――ああ、これはナンパというやつですね」
「ぶふぅっ」
水中で深呼吸した人間ならばこうなるであろう見本を、盛大に見せつけるルグドであった。