愛と言葉
世界はまだ、悲しみを知らない時代。
平和というほどでもないが、穏やかな木漏れ日を感じられるときだった。
そんな中で、一際に騒がしい男がいた。
「うおおおぉぉぉぉぉぉっ!」
ルゴス・ウィルフェンは、絶叫を上げて疾駆していた。
疎らな木立を走り抜け、上半身裸で素振りをしているクラム・レオニルドと出会う。
丸太を巻き付けた鉄剣で素振りをするあたり、修行馬鹿と言って差し支えない。
傷だらけの肌に汗を垂らし、一点を見つめて轟音を響かせる。
彼の手前で止まったルゴスは、息も絶え絶えに訊ねた。
「な、なあ、レグリアは何処に行ったか知ってる?」
「知っている。近場の川だろう。手桶を持っていたので、水浴びでもするつもりではないのか――――」
「わかった!」
話の途中でさえ走り出そうとする彼の前に、太い丸太が差し出された。
冷たい視線のおまけつきだった。
「……何をするつもりだ」
「決まってるじゃないか! 覗くんだよ!」
「堂々と言うことではないだろうに……。騎士として、見過ごすわけにはいかん」
「なら一緒に見よう! それなら見過ごしたことにはならないだろ?」
「どうしてそんなことに加担しなければならん。あの竜の娘とて、乙女だ」
「待て待て。何を勘違いしているかしらないけど、あいつが言ったんだよ。『見れるものなら見てみなさい』って」
「…………」
クラムが呆れた顔をして、視線を逸らした。
相手をするのは時間の無駄とばかりに、素振りを再開する。
「お前の馬鹿は今に始まったことではないとして、俺を巻き込んでくれるな」
「呼び止めたのは君の方だろ」
「ああ、どうやら修行が足りん様だな。もう心配するな。止めはせん」
助けもせんがな、と小声で付け加えられる。
ルゴスは口元を緩めた。
「はっはっは! それじゃあ行ってくるよ!」
満面の笑みで走り出す。
彼の逃げ足は天下一品で、本気になったルゴスを捕まえられるのはクラムくらいなものだろう。
そして――――それに二人目が加わることになる。
木々を抜けたその先から、流れの緩やかな小川が見えた。
水の音が耳朶を打ち、水しぶきが跳ねる。
誰かが身体を洗っている音だった。
人の気配は無く、木々に視界を遮られ、行水には似合いの場所だ。
「さて」
ルゴスは本気を出した。
風読みとしての才能を全力で発揮したのだ。
音とは空気の振動で、空気の動きが風である。
そうであるならば、彼にとって音をさせずに忍び寄ることは天賦の才があると言えよう。
まるで獲物を前にした肉食獣が気配を殺すようにして、竜の娘に向かう。
水の音は近い。
木々に隠れ、岩陰を這い、慎重に近づいた。
勘のいいレグリアには、まだ視線を送っていない。
決定的な姿を見るまでは、失敗は許されないからだ。
「――――」
しかし、それももう終わりだった。
今、彼が背にしている岩から顔を出せば、行水中のレグリアが目に映る。
満を持して、そっと顔を覗かせた。
水の落ちる音がする。
濡れた艶やかな表面。
光を反射して、妖しく動く。
それは――――とても頑丈そうな鱗だった。
「…………」
口をすぼめて目が点になるルゴスだった。
身体を洗っていた竜種の目が、覗きをしていた不届き者を捕えた。
「あら、残念だったわね」
勝ち誇った声音だった。
彼女の思惑は、全て望み通りに進行していた。
ただ、彼女の思惑を上回る変態がこの世にいることを、初めて知ることになる。
「――――良い。凄く良い」
空を駆ける竜種に対する憧れが、ルゴスの口から洩れた。
美しさに対する感嘆だったろう。
本当に何気ない一言だった。
それでも、竜の娘には、いやらしく聞こえてしまった。
レグリアが前を隠す。
「あ、ああ、ああああああ、あなたねぇ! 種族の壁ってものがあるでしょう!」
「違うからこそ、美しいんじゃないか。僕には手が届かないものだ。奇麗だね」
「馬鹿――――――っ!」
そして、小川が木立ごと吹き飛んだ。
彼女の咆哮によるものだ。
遠慮も無しに放たれたのだから、被害は深刻さを増している。
更に付け加えるのであれば、抉られた大地のその先に、素振りをしていたクラムが居たことが判明したのだった。




