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竜の呼声  作者: 比呂
風の止む場所
25/44

希望



 ――――大切なものを、いくつ失えばいいのだろう。


 ルグドは心の中で、何度となく唱えた言葉を繰り返した。


 耳障りな金属音が響く。

 不可視の斬撃が、彼の右腕を捉えた音だった。


 切り裂かれた衣服の下からは、黒い手甲が露わになっている。

 それは、アリルの持ち物であった魔導兵装だ。


 返そうと思って取って置いたものだが、万が一に備えて装備していたのだった。


 しかし、英雄の繰り出す斬撃に耐えられるものではなかった。

 剣を振り下げた姿のクラムが、嘆息する。


「衰えたな。お前の『蜘蛛の糸』で防いでいれば良かったものを――――」


 一瞬の間をおいて、ルグドの肘から先がずるりと落ちた。

 手甲ごと斬り落とされた傷口は、今更に斬られたことを思い出し、鼓動に合わせて血を噴出した。


 ルグドは口端を引きしぼりながら、極細の糸で傷口を結紮して止血する。

 その際、彼の口元は歪んでいた。


「そうだねぇ……」

「ああ、この程度であれば支障は無い」


 クラムの右耳と毛髪が削げ落ち、血があふれ出ている。

 本来であれば糸がクラムの首に巻きつき、跳ね飛ばしていただろう攻撃だった。


 それでも、避けられた。

 互いの力量は、既に結果を示している。


 二人で模擬戦をして、ルグドは一度も勝ったことがない。

 本気を出しても、命を差し出して挑んでも、英雄の高みには届かない。


 才能も努力も何もかも、比べて勝てるものが一つもない。


 ――――ならば、勝ちはくれてやる。


 それが、ルグドの結末であった。

 彼の得意なことは、『風を読む』ことだ。


 極細の糸を自在に操ることも、竜に騎乗することも、その一つに集約される。

 クラムに届かないのは知っていた。


 その上で繰り出したのだから、他に狙いがあったのだと考えていい。

 ルグドが狙っていたのは、その先、クラムの背後に立っているアルガゲヘナだった。


「――――」


 ただ、彼女は笑って立っていた。

 何事もなかったかのように。


 クラムが呟く。


「お前が風を読むように、俺にも得意なことがある」


 それは――――風を断つこと。

 剣を振ることで真空を生み出し、断裂を飛ばす。


 質量の軽い糸などは、吹き飛ばされるか斬り落とされてしまう。

 死角から飛ばした糸でさえ、その空間ごと断ち切る。


 相性の悪さで言えばこれ以上ない相手だった。


 すなわち、戦うこと自体が悪手である。

 望みなど無い。


 呆れを通り越せば失笑しか出てこないな、とルグドが薄笑う。


「戦わなければ良かったと、戦う前から思ってるよ。でも、仕方ないだろ?」

「救われ、救って、挙句の果てに命を落とす羽目になっても、その態度か。つくづく呆れる」


 クラムの瞳は厳しいものだった。

 だが、少しも憐憫が混じってないと見るのは穿ち過ぎだろう。


 命のやり取りの最中に、心根が僅かに漏れ出して、誰が咎められようか。


「何故、我を通さんのだ。望みがあるなら貫き通せ。その姿こそ光だろう!」

「とても有難いし、美しいことだと思うけどさ。光ってのは、もっと尊いものだと思うよ」

「ぬかせ!」


 クラムの剣が振るわれる。

 真空が生み出され、周囲の大気が揺れる。


 風読みのルグドでさえ知覚できない不可視の刃。


 それを――――躱した。


 周囲に張り巡らされた濡れ糸が、大気の揺れに震わされて、霧を吐く。

 不可視の刃は霧の塊となって、正体を現す。


 読めさえすれば、ルグドにとっては盤上の駒も同然だった。


 先読みしての、最初で最後の希望。

 此処を逃せば後は無く、ただ受け入れるのみの結末が待っている。


 クラムの目が細められた。

 糸が舞う。


 英雄が慌てもせず、二撃目を繰り出す。

 剣の突き刺さる音が響いた。


 それは、同時だった。


 ルグドの腹部に刺さる『それ』と、アルガゲヘナに肩口に突き刺さる『竜殺し』と――――。

 糸の先に『竜殺し』を括りつけ、分銅鎖の如く飛ばしたそれは、避けられることは無かった。


「どうして、外したのですか」


 アルガゲヘナが、笑みを崩さずに言う。

 全てを受け入れるつもりであったと、言外に問うている。


 彼は苦笑いを浮かべた。


「約束さ、破ってもいいよ。もう一回約束すればいいんだ。何度してもいいんだよ」


 ルグドが崩れ落ちて、水しぶきを上げた。

 誰も彼に駆け寄ることが出来なかった。


 彼が、震える手を空に指さす。


 既に白み始めた夜空が、騒がしく嘶いていた。


 ――――竜の咆哮。


 彼を呼ぶ声が木霊する。

 その声は、哀しくも愛しくも聞こえるのだった。






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