希望
――――大切なものを、いくつ失えばいいのだろう。
ルグドは心の中で、何度となく唱えた言葉を繰り返した。
耳障りな金属音が響く。
不可視の斬撃が、彼の右腕を捉えた音だった。
切り裂かれた衣服の下からは、黒い手甲が露わになっている。
それは、アリルの持ち物であった魔導兵装だ。
返そうと思って取って置いたものだが、万が一に備えて装備していたのだった。
しかし、英雄の繰り出す斬撃に耐えられるものではなかった。
剣を振り下げた姿のクラムが、嘆息する。
「衰えたな。お前の『蜘蛛の糸』で防いでいれば良かったものを――――」
一瞬の間をおいて、ルグドの肘から先がずるりと落ちた。
手甲ごと斬り落とされた傷口は、今更に斬られたことを思い出し、鼓動に合わせて血を噴出した。
ルグドは口端を引きしぼりながら、極細の糸で傷口を結紮して止血する。
その際、彼の口元は歪んでいた。
「そうだねぇ……」
「ああ、この程度であれば支障は無い」
クラムの右耳と毛髪が削げ落ち、血があふれ出ている。
本来であれば糸がクラムの首に巻きつき、跳ね飛ばしていただろう攻撃だった。
それでも、避けられた。
互いの力量は、既に結果を示している。
二人で模擬戦をして、ルグドは一度も勝ったことがない。
本気を出しても、命を差し出して挑んでも、英雄の高みには届かない。
才能も努力も何もかも、比べて勝てるものが一つもない。
――――ならば、勝ちはくれてやる。
それが、ルグドの結末であった。
彼の得意なことは、『風を読む』ことだ。
極細の糸を自在に操ることも、竜に騎乗することも、その一つに集約される。
クラムに届かないのは知っていた。
その上で繰り出したのだから、他に狙いがあったのだと考えていい。
ルグドが狙っていたのは、その先、クラムの背後に立っているアルガゲヘナだった。
「――――」
ただ、彼女は笑って立っていた。
何事もなかったかのように。
クラムが呟く。
「お前が風を読むように、俺にも得意なことがある」
それは――――風を断つこと。
剣を振ることで真空を生み出し、断裂を飛ばす。
質量の軽い糸などは、吹き飛ばされるか斬り落とされてしまう。
死角から飛ばした糸でさえ、その空間ごと断ち切る。
相性の悪さで言えばこれ以上ない相手だった。
すなわち、戦うこと自体が悪手である。
望みなど無い。
呆れを通り越せば失笑しか出てこないな、とルグドが薄笑う。
「戦わなければ良かったと、戦う前から思ってるよ。でも、仕方ないだろ?」
「救われ、救って、挙句の果てに命を落とす羽目になっても、その態度か。つくづく呆れる」
クラムの瞳は厳しいものだった。
だが、少しも憐憫が混じってないと見るのは穿ち過ぎだろう。
命のやり取りの最中に、心根が僅かに漏れ出して、誰が咎められようか。
「何故、我を通さんのだ。望みがあるなら貫き通せ。その姿こそ光だろう!」
「とても有難いし、美しいことだと思うけどさ。光ってのは、もっと尊いものだと思うよ」
「ぬかせ!」
クラムの剣が振るわれる。
真空が生み出され、周囲の大気が揺れる。
風読みのルグドでさえ知覚できない不可視の刃。
それを――――躱した。
周囲に張り巡らされた濡れ糸が、大気の揺れに震わされて、霧を吐く。
不可視の刃は霧の塊となって、正体を現す。
読めさえすれば、ルグドにとっては盤上の駒も同然だった。
先読みしての、最初で最後の希望。
此処を逃せば後は無く、ただ受け入れるのみの結末が待っている。
クラムの目が細められた。
糸が舞う。
英雄が慌てもせず、二撃目を繰り出す。
剣の突き刺さる音が響いた。
それは、同時だった。
ルグドの腹部に刺さる『それ』と、アルガゲヘナに肩口に突き刺さる『竜殺し』と――――。
糸の先に『竜殺し』を括りつけ、分銅鎖の如く飛ばしたそれは、避けられることは無かった。
「どうして、外したのですか」
アルガゲヘナが、笑みを崩さずに言う。
全てを受け入れるつもりであったと、言外に問うている。
彼は苦笑いを浮かべた。
「約束さ、破ってもいいよ。もう一回約束すればいいんだ。何度してもいいんだよ」
ルグドが崩れ落ちて、水しぶきを上げた。
誰も彼に駆け寄ることが出来なかった。
彼が、震える手を空に指さす。
既に白み始めた夜空が、騒がしく嘶いていた。
――――竜の咆哮。
彼を呼ぶ声が木霊する。
その声は、哀しくも愛しくも聞こえるのだった。




