聖火
――――空を飛ぶということは、一体誰の夢だったのか。
ルグドは遠くに想いを馳せながら、心の中で呟いた。
眼下には、竜峰の街並みが広がっている。
肌に吹き付ける風は冷たく、上層特有の空気の薄さが肺に染みた。
「ちょっと、ご機嫌斜めかな?」
魔導機関の出力は安定しているにも関わらず、高速域では風鳴りが発生した。
後から付け加えた部品のためだろう。
試運転をしなければ確認できなかった問題だった。
流石に、問題の残る天馬を譲渡するわけにはいかない。
改善個所を確認しつつ、隣を飛ぶ竜族に手を振った。
「まだ飛べる?」
「そりゃあ私様はいいんだけどよぉ……何だか嫌な風が吹いてる気がするぜ」
竜の姿をしたリイナが、目を細めて言う。
その表情は、普段の好戦的な態度とは裏腹なものだった。
彼とて、その予兆を無視することは出来ない。
「どんな感じ?」
「いや何つーか、ビビってると思われたら癪なんだが」
「ふぅん」
彼は口を曲げた。
その姿を見て馬鹿にされたと捉えたリイナが、口を開こうとした時だった。
「……待ってくれ。確かにおかしい」
ルグドにも、戦闘の経験はある。
竜族の鋭敏な感覚が無くとも、違和感に気付くことは出来た。
空から見下ろした竜峰の一端――――そこへ、ここに居るべきではない存在の気配を感じた。
背中へ氷柱を刺し込まれるような悪寒に、手先が痺れた。
「あいつ――――」
竜峰の中央に位置する広場に、鮮血が舞った。
軽鎧を着た旅人風の剣士が、いきなり凶刃を振るったのだ。
竜峰を警邏していた『竜族』の衛兵は、斜めにずれ墜ちて赤い血だまりを生む。
こうなれば、騒ぎどころの話ではない。
此処は竜峰で――――竜族の住まう場所だ。
怒りと憎しみに染まった竜族が、その顎を容赦なく『人間』へ向けるだろう。
それは凶行の原因だけにとどまらない。
すなわち、すべての人族が犠牲になるということだ。
「何やってるんだ!」
天馬を地面に向け、加速しながら広場へ飛ぶ。
その背後からリイナが飛びつき、天馬を抱え込んだ。
「それじゃ墜落しちまうってーの。まだ私様の方が早く着く」
「――――っ」
苛立ちを叫び出しそうな顔をした後で、ルグドはそれを堪えた。
流石の天馬でも、体感的に空を飛ぶ生き物より繊細な動きなど、不可能な芸当である。
そのことを考えられるくらいには冷静になった彼の様子に、リイナが安堵した。
「……ったくよぉ。もうちっとは頭を使えよな」
「すまない。けど、あいつを目の前に冷静でいられる自信が無いよ」
「ああん? 知り合いか――――おい、まさか」
彼女の口元が驚きに歪む。
竜族をいとも簡単に切り捨てる人間。
そんな者が大勢いるわけは無い。
人族の中でも英雄と呼ばれるに相応しい、希少な存在だった。
加えて『ルゴス』の知人であるというならば、その名前は絞り込まれる。
すなわち――――勇者『クラム・レオニルド』。
聖王国エストレアに所属する、単身にして最大最高戦力の男だった。
リイナにしても、今はまだ挑戦すべきではない相手に名を連ねる筆頭候補である。
「あれって、どうにかなるもんなのかよ……」
「どうにもならないよ。あいつなら、僕たちの存在も認識してるし、あそこから斬り落とすことも出来るからね。逆に『それ』をしないってことは、僕が向かうことも予定のうちだと思う」
「はあ? じゃあ何で逃げねーんだ!」
「僕が行くのはあいつを止めるためじゃなくて、何も知らずに戦おうとするエンテル公の方だよ。決闘なんかさせちゃ駄目だ」
竜峰で騒ぎがあれば、真っ先に駆け付けるのが武闘派のエンテル公だろう。
確かに、歴戦の竜族が本気を出して複数でクラムに挑めば、勝ち目は生まれるかもしれない。
ただ、単身の戦いであれば、それでもクラムに軍配が上がる。
「けど、どうして此処に?」
思わず、ルグドの呟きが漏れる。
竜峰の中心に突如として現れ、竜族を斬り捨てる人族の勇者。
そんなもの、竜族への敵対行為でしかない。
以前にエンテル公が宣言した通り、これは裏切りとなるだろう。
人族と竜族の全面戦争が起これば、勇者一人で守り切れるものではない。
彼の疑問が氷解を迎えることなく、リイナと共に広場へ降り立った。
「――――」
血に濡れた剣を持ち、殺意を孕んだ竜族の衛兵らに囲まれた男が、その視線をルグドに向ける。
「来たか。相変わらず呆けた顔をしている」
「クラム! 君は何をやったか分かっているのか!」
ルグドは叫んだ。
その剣幕を涼し気な表情で眺め、静かに頷く。
「お前に言われるまでも無い。我々は宣戦布告するために、わざわざお前の居る場所まで出向いてやったのだからな」
「は――――あ?」
彼の両目は驚愕に見開かれた。
この男は――――宣戦布告と言った。
聖王国エストレアが、竜王国ファルニドに対して、戦争を仕掛けるということだ。
邪竜を討伐するために手を組んだ――――組むしかなかった国同士が、殺し合う。
そうすれば、大勢の命が失われることになるだろう。
誰も望んでいなかったはずだ。
とりわけ、彼の心の中で微笑む竜は――――。
「じゃあ何のためにレグリアが犠牲になったか、わからないじゃないか!」
彼の言葉は、無残に散った。
共に戦った男が、一笑に付す。
「いや。あれは良くやってくれた。決して無駄ではない。だからこそ、俺がここに居るわけだ」
石畳を叩く音がする。
それが誰かの足音だと理解するまで、ほんの僅かな時間が必要だった。
頭から外套に身を包んでいた存在が前に出る。
歩くたびに、その外套がずれおち、真っ白な肌が露になった。
艶やかな銀糸の長髪が舞い、頭部から突き出た角が目を引く。
憂いを含む表情が、ルグドに向けられた。
「――――ごめんなさい」
その言葉は、彼の意志を砕くのには充分すぎるほどだった。




